先生

 声は水の笑いさざめく音に染みて、声の余韻がそこに消えていったとしても、そんなことは関係なく、ただ、ただただ俺はこの場に声を響かせたのだと、呆然とするくらいにいま、俺は、実感できる。そして、確信できる。



「……いい笑顔をしますね」

「そうですか?」

「……いや。あなたにとってはいいことなのでしょう」



 いいことだったらいいじゃないか、『……いや』っていうのはなんなんだ。

 ……うーん。この妙な反感めいた気持ちも……覚えがあるような気がするんだよな。どうしてよりにもよって裁判のときにそう思うのか……考えてもこれといってぴんとは来ない。



 さらさらさらと、ベールの向こうでなにかが動いているような気配がする。



「あなたの判決は後日言い渡します。けれどもあなたにひとつお伝えしようと思います」

「……え?」

「悦矢。じつは、あなたの感情兵器の適用範囲は負の感情だけではないのですよ」



 機会音声はやたらと早口になって。

 ……あ。

 俺は、目を見開いた。




 まさか、まさか、――まさか?




「あなたはあなたの感情兵器の適用範囲は負の感情のみと教育されましたね。そのはずです。だからあなたは負の感情のみに特化してしまった。だからこそ【あの事件】も起こったのです。……すべては矢野研究所所長、矢野深海の不徳のいたすところ」



 俺はぐっと身を乗り出すようにして、――耳を澄ませている。

 俺の耳にはもはや機会音声ではなくちゃんと肉声で聴こえてくる。女性にしてはハスキーで、早口なのにぼそぼそと喋る、まるで生涯はしゃいだことなどありませんとでもいうかのような、あの声。それほどにそれほどまでに、なんどもなんども耳のなかだけで繰り返したそんな声、……簡単に再生できるに決まっているんだ。



「もちろんのこと責任は矢野深海にあります。けれども、それでも、あなたはあの【事件】のきっかけです。あなたに多くの情報を渡すわけにはいかないのです。自分の頭で考えなさい、……私はそうとしか言えない。だから断片的情報だけをいま、事実として述べておきましょう」



 ……うん。うん。わかってる。

 わかってるよ、先生、世界でも俺は俺だけは、先生がすごく不器用で、すごく優しいってこと、わかってるさ。



 その声はまるでまるでなにも思ってなどいないかのようにただただそっけないばかりで。



「【感情兵器は負の情報のみに対応しているわけではない。感情兵器は人類滅亡も成し遂げうるが、同時にまた、人類の幸福も願いうるものである】……矢野深海所長の、ごく初期のメモからの抜粋です。どうです。感情兵器のプロトタイプナンバーワン、矢野悦矢くん、……驚くでしょう?」



 突き上げてくる衝動はもちろんのことあったが、俺はあえて沈黙という反応を選んだ。

 つんとするような驚きがあって、つんとする感じは収まっても、そのままじわじわと胸のうちに広がっていく。とても新鮮で柔らかい感じだ。

 なぜかって。先生のメモの内容を知ったからではなく、俺たちの推論が、――昴の憶測があるいはほんとうに正しかったのだと、俺は思い知ったのだ。



「……感情兵器が人類の幸福に、理論的意味ではなく現実的方法として、……かりにも寄与すると矢野深海が思っていたならば、なぜ彼女は【兵器】などという名のラベルをみずからの家族に貼りつけたのでしょうね。思考回路からして彼女は矛盾しているのです」



 ――家族。

 たしかに、そう言った。いま。

 やっぱり、相変わらずの話しかたなんだ。どうやら言葉のうちにぴりりと毒を効かせたいらしいのに、皮肉というには足りなさすぎる単なる愚痴になってしまい、面白くなさそうにぽつりと置いていく。そうだ。むかしからそうだ、先生あなたは。

 俺はあなたの口から家族という言葉などをはじめて聴いたというのにあなたはやっぱりぶっきらぼうなままなんだ。

 ――先生、

 その呼びかけはこころのなかだけに留めておいて。

 呼ばない代わりに、胸に手を当て、――起動させる。

【感情兵器】にもなりうる俺の【エモーショナルプログラム】を。

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