俺を変えたのは、

「矢野悦矢!」


 ヒステリックな声にだってかき消されない。

 俺は春風を吹かせるかのように、ふんわりと笑った。

 そしてその風を胸に抱いたまま、ゆっくりと丁寧に、腰を折る。



「……あなた、」



 驚きに満ちたような向こうの声ももう関係ない。

 俺は俺の【まもるべきもの】のためだけに、頭を下げる。

 それだけのこと。

 頭を下げた。想像していたより、あっけないことだった。


 ……感情が、もっと、首をもたげてくると思ってた。感情兵器という宿命をもつ俺はもしももしもそうなっても、耐えようと、【かたちから】入ることだけをただただそれだけを考えて、かたち以外のすべては拒否し拒絶し破棄しようと、ひたすらにそう思っていた、というよりはそう決めていた、――俺はなにを感じようとなにを思おうと【かたち】だけは実践しようと。

 意識は感情に勝つのだと。

 だから俺のなかでどんなにあの苦しい感情のかたまりが起こったとしても俺のやるべきことはただ頭を下げるだけだと――。



 そう覚悟していたのに。……なんてことだろう、俺の気持ちはいま、明け方の凪のようだ。

 ひとに対して生まれてはじめて頭を下げたこの瞬間、

 きっと、

 感情兵器の俺の内面は、生まれてはじめて、――平穏だった。






「……なんのつもりですか」



 声はいっそうヒステリックになる。



「――ごめんなさい、と」



 言った俺の声は、自分でも思った以上に切実だ。……先生以外の相手に、こんな声を向けることがあろうとは思わなかった。



「……謝罪してます。俺、不器用なんで、うまくできてるかわかりませんが。謝ります。……俺のせいで被害を受けたひとにも、いま裁判をしてくれてる鬼ヶ原の先生たちにも、……羽多にも。……泉水羽多、にも。俺のせいで迷惑をかけたひとに対して……ごめんなさいって」



 返事はない。もう、水の音も聞こえない。



「俺は……悪いと思ってる。申しわけないって思ってるんだ。信じてくんないかもしんねえけどほんとうなんだよ。俺は自分の感情兵器をどうしていいかわかんないんです。……俺の感情兵器のせいでだれかが、」



 たとえば、昴が、



「……傷つくくらいなら廃棄してもらってもかまわないってそのくらいは覚悟してるんですよ!」

「……いいから、」



 声がした。機械で合成したような、老若男女の区別のつかない平坦な声だ。



「いいから。頭を上げなさい」



 俺は頭を上げた。



「……はい。よろしいです。あなたの気持ちはよくわかりました。あなたがこの場で謝罪するとは、われわれは思っていませんでしたので、正直驚いています。……あなたの感情兵器の暴走は予想されていたので、その対処をしようと来たわけですが」



 あれ。……あれ?



 ひとむかし前のロボットみたいな機会音声なのに、俺はなにかを感じ取っている。……なんだ。この感覚はなんだろう。……はるかむかし、俺のためにあてがわれたあのすこし広い部屋が幼いための子どものためのおもちゃで満たされていたころ、あのころの陽だまりの感覚だ。



「判決にもかかわるので正直に誠実に答えてください。……あなたを変えたものはなんですか」



 ……それ、判決に関係あるのか?

 そう思いつつも俺は正直で誠実な、かたち、をもってして応える。



「……生徒会長が。いるじゃないですか。鬼ヶ原の小さくて巨大な生徒会長が」



 俺は口ごもる。けれども照れることを恥ずかしがることも、ないだろう、――あいつはいまここにいないんだし、あいつも、――俺とおなじように裁判を受けるのだから。



「すごい変なやつですし、強引なやつで、……理想も高すぎるんですけど、遠くはないのかなって俺に教えてくれたですよね。……ええと、つまり」



 俺は足もとを一瞬だけ見つめて、でもすぐに視線を上げた。俺にはそんなタレントはないが、視線だけでも射貫いてやるくらいに、直線的にまっすぐと。



「高柱昴」



 俺はむしろ奇妙な矜持すら感じている。



「俺を変えたのは、高柱昴です、よくも悪くも鬼ヶ原学園の有名人、――あの変人ショートカットキー女子です!」



 堂々と。あの生徒会長が全校生徒の前で口上書を言うよりもきっともっと、朗々と。

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