泣きついてくる幼馴染

 俺は急ぎ足で廊下を歩いていた。特別棟から教室棟に入ると、とたんに人が増える。ざわつきのなかを俺は、すいすいと泳ぐようにして歩く。



 テレポーテーションでもできるサイキックならともかく、そんな能力もない俺はこのままではふつうに四限に遅刻だ。

 五分前のチャイムはさきほどすでに鳴った。次は理科室に移動しなければいけないというのに、まったくあの生徒会長はふざけている。……てかさ、俺は内申書なんざどーっでもいいけど、あいつこそ授業に遅刻なんかして内申書に響いたりなんかしたら、大変なんじゃないか。


 変なちびっ子生徒会長のことなんかきれいさっぱり忘れたい、俺はいま、日直が教室の電気を消して鍵をかけてしまわないかどうかだけを考えたいんだ、教室から理科室に行って日直に事情を話すってだけでもかーなり気が重いのに、そのうえそこからまた教室に舞い戻れば化学の授業に遅刻は免れない。あの眼鏡のオタク化学教師、ぼそぼそねちねち怒るだろなあ。


 まあべつに、内申書のためでもないしセンコーに怒られたくないからでもないが。……目立ちたくないってのは若干あるかもしれんが、それ以上に。




 遅刻はいけない。俺は俺の育ての親である先生からそう教わった。……それだけのことだ。




 階段を上っているときだった。きゃらきゃらと、女子特融の笑い声が上から聴こえてくる。……この笑い声。

 素知らぬ顔をしてそのまま階段を上ってしまおうと思ったが。

「――悦矢!」

 俺を呼ぶ声、

 ……あー、やっぱり。



 踊り場で声をかけてきたのは、わかってはいたが、――泉水羽多だった。



 羽多ももともとは移動教室だったのか、音楽の教科書を抱えている。羽多のほかにも、何人かの三年女子がいる。羽多とよくいっしょにいる女子たちだ。


「悪ぃな羽多、いま急いでんだ。じゃな」


 俺は片手を上げ、スムーズにその場を通り抜け、ようとしたが、まあ無理だった。


「待ってよっ。あたし、悦也を探してたんだから! ねえ、悦也、――朝の生徒会長の話ってほんとうだったの? ねえ、このままだと、弓道部が大変なのよっ。私たちの弓道部がっ」


 羽多は空手もうまいが、ここに来てからはずっと弓道部をやってる。

 ……多彩なやつだ。おもに、強さという側面で。


「生徒会長は相変わらずちみっ子ロリでした。以上、それでは」


 肩をがちっと掴まれ、がくがくと揺らされる。

 ……やっぱり、こいつ、情緒不安定かよ。


「待ってってほかでもないあたしが言ってんのよ? そんで意見も訊いてるじゃない。そもそもあんた挨拶もしないでさ。幼なじみにあいさつってのはじょーしきっ、なのよ?」

「どこの世界の常識だよ」

「ここの世界の常識ですっ」

「うーたっ、私ら先行ってるね?」


 くすくすくすっ、と飛び散るような笑い声を残して、羽多の友人たちは去っていった。

 ぱたぱたぱた、と。やけにわざとらしい足音を立てて――。


 羽多はまだ口を真一文字に結んで俺をかたくなにじっと見つめている。

 俺はため息をついて、羽多の両手をさりげなく外した。すこし、距離も取る。


 こういうのはあまり得意ではない。くしゃっと髪を掻いた。

「……なあ、おまえあんま俺にかまうなよ」

「なんで?」

「なんでって……俺はさ、だって」


 俺の正体を知っているというのに、――こいつは。


「……留年やらかす劣等生なわけだ。成績優秀で弓道部部長で内申書ばっちり、卒業後も薔薇色の未来が開けているおまえとは違うわけだよ」

「そうよその話っ!」


 わずかな間をがっがっがっと詰められ、またしても両肩を揺さぶられる。


「部活! なくなっちゃうの! どうしよう!」

「ほらほらおまえ力強いんだしあんま揺らすなって揺れる揺れる」

「どうでもいいでしょそんなことっ!」


 羽多は泣きそうな目で俺を見上げている。


「だって、そういうことでしょ? あたし、生徒会長ほど頭よくないから、よくわかんないけど、だって、そういうことなんでしょ?」

「……さあな。生徒会長の考えることは、俺にはさっぱり」

「悦矢どうしよう」


 うるっ、と。


「あたしそのことばかり考えてて」


 じわっ、と。


「――だって弓道に賭けてる子だっているのに! 将来、すべてを!」


 ぽつっ――と。

 そして、うつむいて。



 うん。そうだ。いつものことだ。

 まあこいつが泣き虫だってことはとっくのむかしに知っているし。

 めんどくさい。とてもめんどくさいやつだ。



 だって目の前にさ。かりにも幼なじみである相手がいたら、しかもそれが女の子だったりしたら、こっちだってなんも思わないわけにはいかないわけじゃん。理解、できてるかどうかはわからないし、助けたい、だなんて言うほど俺は勘違いしちゃいないし、けれどもさ、こう、なんだろうか、こっちもちょっと思うことはあるわけじゃん。



 そうすると俺は、――なんかこう義務感ではない義務感めいたなにかを感じてしまうわけじゃん。



 まあ、ここまでは、通常の人間の範疇だと思う。

 問題はそこからだ――この学園のすべての生徒がそうであるように俺も、通常の人間、ではないのだから。

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