第74話 野田開城 

「よう、来られた」

 城主の菅沼定盈が、笑顔で迎えてくれた。

「・・・・・少し痩せられたか?」

 岡部正綱が尋ねると、ハハハハハッと笑い、

「半月も城に籠もっておりますからなぁ」

 と陽気に定盈は答える。


 昨年の暮れに、武田軍は三方ヶ原で徳川勢を粉砕した。

 その後、武田軍は浜名湖の北の形部という地で年を越し、三河に侵攻。

 半月前から、東三河の野田城を包囲している。

 妙な動きだ。

 そのまま浜松に攻め込めば、徳川家康を討ち取ることが出来たのに、それを無視して三河に進む。

 それならそれで、三河の徳川の拠点である岡崎を目指せば良いのに、小城である野田を囲んでいる。

 更に妙なのは、その小城の野田を囲んで兵糧攻めにしていることだ。

 野田の城兵は四百、対する武田軍は二万を超える。

 力攻めすれば、一日と保たないだろう。

 それを囲んで締め上げている。

 妙な事だと、近隣では噂になっている。


「・・・・・・・」

 正綱は定盈のやつれた顔を見つめる。

 攻撃は掛けていないが、武田は甲斐で金山を掘っている金堀衆を呼んで、城の水の手を断っている。

 それに二万の軍勢の圧力もある。やつれて当然だ。


「・・・・皆、退がってくれ」

 定盈が家臣たちに命じると、皆一度、主人と正綱を交互に見た後、頭を下げて部屋を出ていく。

「・・・・・・・」

 二人きりになり、しばし無言で見つめ合う。

「・・・・・もう、十二年になりますか・・・・」

 定盈の言葉に、ああっ、とだけ正綱が答える。

 十二年前、あの桶狭間の戦さの前まで、正綱と定盈は、同じ今川の赤鳥(今川の家紋)の旗の下にいた。

 あの頃は、すべてがあった。

 信じられる友、偉大なる主君、そして進むべき道。

 すべてが確かに、そこにはあった。

 しかし桶狭間の戦さで、すべてを失った。

「・・・・・・・・」

 昔話はしない。出来ない。

 再びしばし黙っている。

「・・・・・・城を開けられよ」

 ここに来た用件を、正綱は告げる。

「信玄入道は、城を開ければ、お主も城兵もすべて助けるそうだ」

 十分過ぎる条件だ。

 そもそも放っておいてもよい城。二万の大軍で踏み潰せばよい城である。

「それは、困るなぁ」

 定盈が目を閉じて、告げる。

「わしはここで死ぬつもりだ」

「新八郎どの」

「これは報いだ」

 正綱の呼びかけを無視して、定盈が強い口調で言う。

「わしは・・・・・・」

 ゆっくりっと定盈は目を開ける。

「今川のお家を滅ぼした」

「・・・・・・」

 しばし定盈は黙るが、ゆっくり喋り始める。

「幼き日、わしは次郎右衛門どのや次郎三郎どのと友だった」

 ああっ、と小さな声で正綱は呟く。

「幼き頃は、それで良かった」

 目を合わせず、定盈は続ける。

「しかし大人になれば違う」

 下を向き、定盈は手を握り締める。

「次郎右衛門どのは譜代の家、次郎三郎どのは治部大輔(今川義元)さまの娘婿・・・・・」

 はぁ、吐息を一つ吐き、顔を上げる。

「ただの地侍のわしとは違う、いずれ親しく口も利いてもらえなくなる」

「そんな事はない」

 いや、と定盈が首を振る。

「お二人がどう思おうと、そうしなければならないのだ」

 それが・・・・と定盈は続ける。

「それが武家だ、それが人の世だ」

「・・・・・・・」

 正綱は黙った。

 確かにその通りだからだ。

 人の世とは、そして武家とは、格と筋目だ。

 どういう出自か、どういう立場かで、全てが決まる。

「桶狭間の戦さで、治部大輔さまが討たれたと聞いた時、はじめは驚いたが、わしは好機だと思った」

 遠くを見ながら定盈は言う。

「彦五郎(今川氏真)さまは気に入らなかったが、それでも主君、盛り立てて今川を守っていかなければならなかった」

 それを・・・・・と呟き、定盈は下を向く。

「わしは卑劣にも謀叛を起こした」

 義元が死んだ時、遠江、三河の国衆地侍に動揺は生まれたが、定盈以外謀叛に走らなかった。

 普通、こう言う場合、勝った織田が攻め込み、それに靡くのだが、織田が攻め込まなかった為でもあるが、義元が善政を敷き、今川の統治が行き届いていたからだ。

「次郎三郎どのの後ろ盾で、一族の方々に声をかけて、今川を滅ぼした」

 ふん、と定盈は鼻で息をする。

「徳川の領地が、三河と遠江になった時、わしは調子に乗っておった」

 ハハッと渇いた声で定盈が笑う。

「徳川の領地の、半分はわしが作ったものじゃと」

 あながち出鱈目ではない。

 定盈の菅沼の一族は、三河と遠江に分散している。

 その一族をまとめ上げ、更に周囲の地侍衆を切り崩していったのも、定盈の手腕だ。

「それが・・・・・・」

 天井を定盈は見つめる。

「武田が攻めて来て、みんなのうなった」

 その通りだ。

 奥三河の菅沼家も、遠江の国衆たちも、武田に寝返っている。

 彼らが今川を離れたのは、氏真が頼りないと思ったからだ。

 氏真より家康の方が、マシだと思ったからだ。

 しかし武田が来れば、当然、家康より信玄の方が格上である。

 武田に着くのは当たり前のことだ。

「今川をわしは滅ぼした」

 上を向いたまま、定盈は呟く。

「それもつまらぬ、己の小心の為だ」

 顔を正綱の方に、定盈は向ける。

「次郎右衛門どのや、次郎三郎どのと、肩を並べたい」

「・・・・・・」

「ずっと友で、本当の友でいたい」

 黙って正綱は、定盈の言葉を聞く。

「そんな下らぬ事の為に、わしは恩ある今川を滅ぼした」

 正綱の頭に、最後に会った氏真の言葉が過ぎる。

「悪くない、わしは悪くない」

 そう氏真は言っていた。

「だからわしは、罰を受けねばならぬ」

 淡々と定盈は告げる。

「わしは此処で、死なねばならぬ」

 ハッキリと定盈は宣言する。

「・・・・・・・・数日前に」

 静かに正綱口を開く。

「次郎三郎どのから、密かに書状が届いたのであろう?」

 正綱は甲斐にいた。

 三日前、武田の家臣である、武藤喜兵衛という異相の男が訪ねて来た。

 事情を説明され、定盈を説き伏せろと言った。

 武藤喜兵衛は信玄の奥近習で、秘蔵っ子の側近と言われている。

 否は言えないし、言う気もない。

 直ぐに野田に向かった。

「次郎三郎どのは、何と言われておる?」

「・・・・・・・見ておらぬ」

 正綱の問いに、無表情で定盈が答える。

「なぜだ?」

「見なくても分かるからだ」

 正綱にも分かる。

 家康は定盈に武田に降れと言っているのだ。もし命が助かるなら、武田に従えと言っているのだ。

「新八郎どの・・・・・」

 正綱は遠くを見つめる。

「わしらはかつて、誓いを立てた」

 一度、ゆっくり目を閉じ、その頃の事を思い出し、再び目を開ける。

「わしは信義を、重んじると誓った」

 口に出して辛くなった。

 それでも続けた。

「次郎三郎どのは、律儀に生きると誓い、助五郎さまは勇敢に生きると仰った」

「・・・・・・・」

 正綱は定盈の方に顔を向ける。

「お手前は何と言った?」

「わしは・・・・・」

 定盈は顔を伏せた。

「卑怯な事わせぬ」

 グッと呻き、定盈は呟く。

「わしは誓いを破った」

 定盈は顔を上げる。

「卑怯な事をした」

 震える声を、定盈は上げる。

「だから・・・」

「そうかもしれぬ」

 定盈の言葉を遮る。

「かつて卑怯な事をしたかもしれぬ」

 ジッと正綱は定盈を見つめる。

「だがまた、卑怯な事をするのか?」

 定盈は、うっ、と唸り、目を閉じる。

「主君から、友から来た書状を見ぬのは、卑怯ではないのか?」

 うううううっ、と呻き、涙を流しながら、定盈は顔を伏せる。

「卑怯な事をしたから、また今、卑怯な事をするのか?」

 正綱は立ち上がり、定盈に近寄る。

「城を開けて、武田に降れ」

 顔を伏せ泣いている定盈の肩に、正綱は手をやる。

「それが卑怯でない事だ」

 

 

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