第75話  信長包囲網

 上方の情勢は、混沌の度を増していった。

 本多弥八郎正信の主君、松永久秀は、足利公方義昭とその後援者織田信長より、大和の国の支配を認められている。

 それで大和国衆、筒井順慶と戦っていたのだが、義昭と信長が、順慶にも大和を任せると言ったのだ。

 話が違うと、久秀は訴えない。

「そう言うものだ」

 と呟くだけだ。

 久秀に言っていることは、正信にも分かる。

 義昭も信長も、大和ことなど如何でも良い。

 久秀が支配しようと、順慶が統治しようと好きにすれば良いのだ。

 その大和の支配者が、自分たちに主従を誓う、それでだけである。

 だから久秀と順慶、どちらにも手を貸さないし、どちらの訴えも聞かないと言うわけだ。


 その義昭と信長の対立が、激しくなっている。

 正しく言えば信長が義昭から離れ朝廷、特に前関白の近衛前久に近づいたのだ。

 もっと正しく言えば、義昭に京から追われた前久が、今度は義昭を追おとして、信長に近付いたのだろう。

 二人の利害は一致し、信長は義昭に、朝廷を敬え等の事を書いた、弾劾書を送っている。

 黙っている義昭ではない。

 甲斐の武田信玄に密使を送り、信濃から信長の本拠地岐阜を叩くように密かに命じたらしい。

 しかし遣り手の信玄、義昭の思うようには当然、動かない。

 義昭の命に従い、信長を討って上洛すると宣言しておきながら、信濃から岐阜には攻めず、三河の徳川家康を攻めている。


 義昭は怒ったが、代わりに妹婿の本願寺の門主である顕如を動かし、門徒を蜂起させた。

 信玄はこの手を、越後の上杉謙信に相手によく使っていたらしい。


 喰らった方は堪らないだろう。

 正信は三河で、門徒の蜂起を指揮した。

 はっきり言って、門徒の蜂起は恐ろしい。

 普通、武士は手柄のために戦う。相手を討ち、その首を取り、それで恩賞をもらったり領地を安堵してもらったりするのだ。

 しかし門徒はそうではない。

 彼らは相手が仏敵だから戦うのだ。

 殺せば極楽に行けると信じているから、敵を殺していくのだ。

 首を取るわけでもなんでもないし、死も恐れない。

 なぜなら死んでも、極楽に行けると思っているからだ。

 織田の自慢の鉄砲足軽も、門徒には歯が立たない。

 その上、上方の門徒には雑賀衆がいる。

 この紀伊の地侍衆は、織田を超える、鉄砲上手たちの集団だ。

 この門徒の勢いに、義昭は正式に信長追討令を出す。


 久秀の元にも届き、久秀はそれに応じる。

「博打は打たぬのですか?」

 皮肉を正信は言う。

「博打に勝つにはなぁ・・・・」

 顔を歪めて久秀が応える。

「博打を打たぬ事だ」


 久秀の読み通りだ。

 門徒の蜂起、特に織田の本拠地尾張に近い、北伊勢の長島願証寺が一揆を起こしたのは、信長には手痛い。

 堪らず和睦に走る。

 そしてそれを義昭は受け入れる。

 阿呆だなぁ、と正信は思う。

 勿論、義昭の事だ。

 信長を討てる千載一遇の好機だ。

 おそらく二度とないだろう。


 義昭方は烏合の衆だ。

 浅井浅倉、六角の諸侯のうち、当主がましなのは、浅井備前守長政だけだ。

 しかし織田との戦いの最前線に立ち続けた浅井家に、将も兵も殆どいない。

 領地も荒廃しているし、これ以上の戦さは無理だ。

 戦地から離れている越前の浅倉は、将兵に余裕がある。

 しかし当主の義景が、無能という言葉ではすまないくらい、何もしない男だ。

 和睦の時信長は、

「天下のことは浅倉どのにお任せします」

 と言ったのに、義景は上洛しない。

 織田との戦さには何度かは出るが、どれも直ぐに後退する。

 正信からすれば、何がしたいのか全く分からない御仁だ。

 六角は実質滅んでいる。

 動いているのは六角義賢、義治親子の要請を受けている甲賀衆だ。

 この甲賀衆も、まともにに戦っているのは六角家と縁の深い山中家だけだ、他は戦さに惓んでいるらしい。

 

 そして門徒である。

 なるほど雑賀衆を始め門徒は強力だが、門主の顕如自体がそれほど乗り気でない。

 一時期、大阪の石山御坊にいた正信は、その人となりを周囲の者から聴いた。

 顕如は賢い男だ。

 賢いというのは、損得勘定に長けているということである。

 その顕如からすれば、戦さなど、抑も銭と信者の無駄。

 まして精強な織田と事を構えるなど、特に無駄な事である。

 だから信長とは、事を構えたくない。

 義理の兄弟である信玄は、強力な国主である上に、気前の良い檀家だ。

 坊主は、布施を沢山出す檀家には弱い。

 それに信長は、勝手に座を開いている。

 大きな戦さはしたくないが、抗議の小競り合いはするしかない。

 

 こんなバラバラの集団である。

 偶然上手く噛み合い、勢いだけだ信長を追い詰めた。

 一度和睦し、この勢いがなくなれば、二度と信長を追い詰めることは出来ないだろう。


 それなのに義昭は和睦をした。

 阿呆である。

 それなら初めから、信長と事を構えなければ良かったのに。


 くそっ、と久秀も怒っている。

 しかし久秀の怒りは、正信の思っていたものとは違う。

 久秀は義昭が、和睦を受けると読んでいたようだ。

「そういう御仁だよ、あの僧上がりの公方さまは」

 久秀のとって誤算だったのは、その和睦の仲介を、久秀自身がするつもりだったのに、他の者にやられた事だ。

 和睦を仲介して久秀は、信長に恩を売りたかったのだ。

 それなのに他の者が、和睦を仲介している。

 誰が・・・?

 正信はそれを調べて、突き止めた。


 久秀は博打を打たなかったが、打った者もいる。

 一人は摂津池田家の家老、荒木村重という男だ。

 主人の池田勝正は義昭方に付いたにも関わらず、村重は勝正の元を離れ、信長に与した。

 もう一人の人物が、明智十兵衛光秀である。

 義昭の取次衆であったこの男、同じく幕臣の細川藤孝という人物と共に、義昭を離れ、信長に付いたのだ。

 そしてこの光秀が、和睦の仲介をしたらしい。


「あの金柑頭め」

 久秀は吐き捨てる。

「ご知り合いで?」

 正信が問うと、顔をしかめて久秀が応える。

「貸しがある」

 久秀が敵意を剥き出しにした。珍しいと正信は思った。


 この明智十兵衛光秀という男、とんでも無いのかもしれない。

 曽呂利仁左衛門の話では、光秀は、正信や久秀と同じように、玉薬の道に注目してる男らしい。


 そしてどうやら、久秀が信長に対して望んていた立場を、奪おうとしているようだ。

 

 くくくくっ、と主人、松永久秀の窮地を、正信は笑う。

 面白くなって来た。

 



 

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