槍弾正

 父上、と内藤昌月は父の正俊を呼ぶ。

 ううん、と正俊が振り返る。

 その赤い顔を見て、昌月は顔を顰める。

「呑んでおられるのか?」

「寒いだろう、それで少しな」

 指で少しという仕草を、正俊はする。

 確かに温暖な三河にしては珍しく、雪が降った。

 しかし・・・・。

「少し・・・・ですか?」

 昌月は父の顔に、鼻を近づける。

 その匂いに、ムッと顔を歪め、

「とても少しとは思えませぬが」

 と言う。

「良いだろ別に」

 同じ様に正俊も顔を歪める。

 だが親子はあまり似ていない。

 四角い顔でずんぐりむっくりの父に比べ、昌月は母似でヒョロリとしている。

「此度は駿河と遠江の者の戦さじゃ」

 角張った顎を撫でながら、正俊が言う。

 確かに新参の駿河と遠江衆が、前線に立っている。

 戦さの作法のようなもので、降ったばかりの新参の者は、新たな主君に忠義を見せるため、前線で手柄を立てようとする。

 それを古参の者は邪魔をしない。

 まして自分たちは譜代の甲斐衆でも無い、信濃の者だ。

「わしらに出番は無いよ」

 正俊は手を振る。

「ところが父上」

 ズイと昌月は父に近寄る。

「美濃守さまがお呼びです」

 美濃守とは武田の重臣、馬場美濃守信春の事である。

「・・・・・面倒くさいなぁ」

 正俊は嫌な顔をする。

「そう言わず、ついて来てください」

 ニコリと昌月は微笑む。

「お家と、わたくしの今後のために」

 ムッと正俊は顔をしかめる。

「親をこき使いおって、ろくな者でないのう」

 そう言いながらも仕方なく、正俊は歩き出す。

 その背を眺めながら、昌月は苦笑する。



 何も考えることが出来ない。

 唯々、暴れ回る。

 ここが何処で、自分が誰かも思い出せない。

 思い出そうとしない。

 思い出したくない。

 何処か分からぬまま、誰か分からぬまま。

 何があったか思い出せぬまま、暴れて死のう。

 それだけだ。

 唯々暴れた。

 早く俺を殺せ。

 そう心の中で叫びながら、暴れた。

 周りにいる連中は、初めは襲い掛かった。

 殺そうとして来た。

 しかし今は、距離を取り、槍を構えるだけだ。

 何をしている、殺せ、殺してくれ。

 そう口に出して叫んだ。

 しかし言葉にならず、うわぁああああっ、と言う雄叫びになるだけだ。

「わざわざ呼び出されて・・・・」

 呟きが聞こえる。

「何かと思えば死兵か・・・・つまらぬ」

 だが言葉の意味は分からない。

 呟いた男が、スッと前に出てくる。

 殺せ、俺を殺せ。

 そう心の中で叫びながら、があああああああっ、と雄叫びを上げながら、男に襲いかかる。

 次の瞬間、天地がひっくり返り、ガハッ、と呻いて、その場に倒れる。

 何だ・・・・・?俺は・・・・?

 本多忠勝は正気を取り戻す。

 身体を起こそうとする。

 しかし全身に激痛が走り、動かない。

 特に足腰が石のように固まり、動かすことが出来ない。

 顔を上げて前を見ると、武者が一人立っている。

 背はそれほど高くない、忠勝の肩ほどの高さだ。

 細身というほどではないが、無駄の無い身体つきをしてる。

 顔は四角く、張った顎だ。それに太い眉と小さな目をしている。

 年は五十過ぎか、六十過ぎに見える。

 風貌身体つきは、家中の夏目吉信らをと同じ、古強者という感じだ。

「よくやった」

 老武者の向こうにいる武田勢の将らしき男が、声をかける。

 討ち取れ、と武田衆が忠勝の方に向かって来た。

「・・・・・・」

 忠勝はそれを受け入れる。

 その時、老武者が槍を傾け、武田衆を塞ぐ。

「な、何を?」

「もういいでしょう」

 戸惑う武田衆に、老武者は静かに言う。

「何があったが知りませぬが、戦さは終わりでしょう」

 老武者は、顎を少し後ろにしゃくらせる。

「こんなものほっといて、さっさと引き揚げましょう」

「・・・・・・・」

 武田勢は、将らしき長身の男を見る。

 長身の将は、どうするか迷っているようだ。

「むかしねぇ・・・・・・」

 老武者は話をはじめる。

「唐土に孫氏だが呉氏だかいう、兵法家がおりましてね」

 何の話をし始めたのか分からず、忠勝も武田勢も戸惑う。

「それが言うには、戦さで勝って相手を皆殺しにするのは、馬鹿だそうです」

 世間話の様に、軽い調子で老武者は話を続ける。

「なぜなら相手が、手下になるかもしれないからです」

 老武者は槍を戻して、肩に担ぐ。

「一等賢いのは、戦さの前に裏切らせる事だが、それが出来なければ、勝った後、相手は逃すそうですよ」

 忠勝からは背中しか見えないが、老武者は微笑んでいる様だ。

「まぁ、武田の御屋形さまは、唐土の兵法家なんぞ、興味ないでしょうがね」

 その言葉に、長身の将は、苦笑する。

「分かった、引こう」

 将が宗言うと、武田勢は引き揚げ始める。

「・・・・・ま、まて」

 忠勝は声を振り絞る。

 武田勢が止まる、

「殺せ」

 忠勝の言葉に、武田勢が振り返る。

「殺せ」

 全身の力を振り絞って、忠勝は叫ぶ。

 武田勢が数人、忠勝に近づこうとするが、老武者がそれを制す。

「・・・・・・・」

 老武者が忠勝を見下ろす。

 忠勝も睨み返す。

 おい、と言って、老武者は忠勝の肩を蹴る。

 力の入らない忠勝は、そのまま顔を地に付ける。

 顔を起こそうとすると、その忠勝の顔を、老武者が踏みつける。

「調子に乗るな小僧」

 忠勝の顔を踏み付けながら、老武者は告げる。

「お前は負けたのじゃ」

 先ほどの軽い調子と違い、冷めた口調で老武者は言う。

「お前が生きるか死ぬかは決めるのは、負けたお前ではない」

 ぐっと老武者は、踏み付けた足に、力を入れる。

「勝ったわしが決めるのじゃ」

 そう言うと、老武者は忠勝の顔をから足を退け、顔を近づける。

「お前なんぞ弱すぎて、殺す価値も無いわ」

 うっ、と忠勝が呻く。

「何じゃ泣いておるのか?」

 そう老武者が言う。

 確かに忠勝の目から、涙が溢れる。

「悔しい?己が弱くて、情けないか?」

 忠勝から顔を離し、老武者が大声を上げる。

「だったら強うなってみい、わしが殺したいと思うほど、強うなってみい」

 胸を張って老武者は告げる。

「いつでも相手になってやる」 

 堂々と老武者は名乗る。

「わしは信濃の伊那衆、保科甚四郎正俊じゃ」

 その名に、忠勝の全身が凍り付く。

 保科甚四郎正俊。

 槍弾正の異名を持つ、武田一の猛者。

 そして・・・・・・。

 ジッと忠勝は老武者、保科正俊を見つめた。

 正俊は忠勝に背を向け呟く。

「良い月じゃ」

 雲の切れ間から月が出て、東国一の槍使いを照らす。

 保科甚四郎正俊、東国一の槍使い、そして、師の、長坂信政の、血槍九郎の左腕を奪った男。

「我が名を」

 保科正俊は振り返り、忠勝に告げる。

「月を見る度、思い出せ」

 

 

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