本多忠真

 負けた。

 心の底から、榊原康政は思った。

 戦さの前から、負けるだろうとは思っていた。

 しかしここまで、見事に負けるとは思っていなかった。

 主君である家康は、陣を幅広くとった。

 拙いと思った。

 だがしかし、

「では、どうする?」

 と尋ねられたところで、康政もどうすれば良いかなど、分からなかった。

 ただ拙いと思い、負けるだろうと思っただけだ。

 だがここまで見事に、完膚なきまでに叩きのめされるとは、康政も思わなかった。

 康政が見るに、武田信玄は家康の動きを読んだのではない。

 家康を自分が望むよう動くように、仕向けたのだ。

 打って出るように、陣を広く取るように。

 そう仕向けたのだ。

 己が望むように相手を動かす。

 もっと正しく言えば、己がある動きをする。

 それに対し相手が取る道が、二つあるとする。

 それを読み、己が好まぬ方の道を事前に塞いでおく。

 そうすれば相手は、己が望む動きをする。

 それが武田信玄という男の、戦さなのだ。

「これが王者の戦さか・・・・・」

 康政は心の底から感心し、感服した。

 その王者の戦さを、此度、負けの側から見た。

 存分に味わった。

 信玄は抜かり無い。

 おそらく家康は討ち取られている。

 徳川、そして松平は滅ぶだろう。

 これから康政は、己がどうなるか分からない。

 それでも今日、この戦さを、この負けを味わった事は、康政にとって得るものがあった。

 この榊原小平太康政という侍の、糧になった。

 そう心の底から 康政は思た。

 そういう戦さだった。

「小平太」

 名を呼ばれ、康政は振り返る。

「肥後どの」

 本多肥後守忠真が近づいてくる。

「負け戦さじゃ」

 ええっ、と康政は頷く。

「お主は半蔵らと、できるだけ皆を助けて城に戻れ」

 少し離れたところで、渡辺半蔵守綱が怪我人を担いで歩いている。

「肥後どのは?」

「わしは平八郎を探してくる」

 ああっ、と康政は呟く。

 戦さに魅入っていた、忠勝が何処にいるのか、気にしていなかった。

「分りました」

 康政が答えると、うむ、と忠真が頷き、一言、

「生きろよ」

 と言う。

 承知、と康政は応じる。

 忠真はそのまま去っていく。

 その背中を眺めながら、康政は思う。

 康政が子供の頃、三河の松平家は、絶えず尾張の織田と戦い、いつも負け戦さであった。

 負け戦さが、肥後どのを強くしたのさ。

 そう三河一の武者の背を見ながら、康政は心の中でつぶやく。




 妙だな・・・・・と忠真は思う。

 信玄の策は見事と言う他ないほど、綺麗に決まった。

 忠真は家中の若い連中と共に、右翼にいた。

 伏兵を警戒しながら、進軍していた武田軍を追っていた。

 するといきなり、武田の殿(しんがり)が徳川の中央本隊に襲い掛かった。

 意表を突かれ、徳川の左右両翼は何も出来なかった。

 本隊が壊滅した頃、ようやく左右両翼は後ろから武田を攻撃し始める。

 それからの武田の動きがおかしい。

 徳川の本隊を壊滅させた。

 このまま浜松城に攻め込めば良いのに、武田の動きが緩慢だ。

 何かあったのか?それともこれも信玄の策か?

 これだけの勝ち戦さ、策も何もないだろう。

 ではなんだ?

 疑問には思うが、今は忠勝を探すのが先だ。

 いつもの様に忠勝は、一騎で武田の陣に突っ込んで行った。

 忠真はそれを、いつもの様に追いかけた。

 しかしいつもと違い、その足が鈍い。

 老いもある、だがそれ以上に・・・・・・。

「・・・・・・・」

 手が痛い。

 初めて、それも皆の前で忠勝をぶった。

 幼き頃から、何度も叱った。暴れるので押さえつけることもあった。

 縛って納屋に、一晩中、閉じ込めたこともあった。

 しかしぶった事はなかった。

「侍は恥を知る者、命を惜しまず、名を惜しむ者でござる」

 そう忠勝が言った。

 忠真は目を閉じる。

「命を惜しむな、名こそ惜しめ」

 かつてそう、父忠豊に言われた。

 自分が言われたのではない、兄の忠高が言われたのだ。

 その父も兄も、戦さ場で勇敢に死んだ。

 忠勝も、それを望んでいるのだ。

 ただ・・・・・。

「息子の事を頼む」

 兄の最期の言葉を思い出す。

 託されたのだ。

 忠勝だけは守らなければならない。

 兄の為にも、そして・・・・。

 手首の数珠をチラリと見る。

 フッと微笑み、首を振って忠真は甥を探す。


 居た。

 忠勝は程なく見つかった。

 鳥居忠広ら数人と、その何倍もの敵と相対している。

 わぁあああああ、と忠勝が叫び、武田勢に襲いかかる。

 武田勢は距離を取り、飛礫を投げ、槍で突き出し忠勝を牽制する。

「やめぬか、平八郎」

 忠真は駆け寄り、忠勝の肩を掴む。

「戦さは終わりじゃ」

 武田勢の方に顔を向ける。

「武田の方々も引かれい」

「・・・・・」

 夜の闇でよく見えないが、武田勢は静かにジッと構えている。

 やはり妙だと、忠真は思った。

 武田勢にとって最も大事なのは、敵の総大将である家康を討ち取る事だ。

 そしてもし、もう家康を討ち取っているのなら、その事を忠勝ら徳川勢に言えば良い。

 そうすれば、徳川は兵を引くしかないのだから。

 こんなところで、無意味に暴れる忠勝の、相手をする必要などない。

 何かあったのか?

 これほど見事に策が決まったのに、明らかに武田勢の動きがおかしい。

「お前らも引け」

 忠勝の周囲にいる家中の若い連中らに、忠真は言う。

 どうしようかと、彼らは戸惑っていたが、

「いいから、引け」

 ともう一度、忠真が強く言うと、立ち去って行った。

「我らは引く、お手前らも引かれい」

 忠勝を羽交いにしたまま、武田勢に忠真は告げる。

「・・・・・・」

 暗闇で見えないが、武田勢に迷いがある。

 おそらく本隊の甲斐衆でないのだろう。

 武田に降ったばかりの、遠江衆か駿河衆か。

 そのままゆっくり、忠真は忠勝を引き摺って後ろに下がろうとする。

 しかし、忠勝が、がぁぁぁあ、と叫び、忠真を振り解き、武田勢に襲いかかる。

「おのれ」「騙したな」

 武田勢がそう声を上げながら、忠勝に槍を構える。

「何をしておる、さっさと討ちとれ」

 武田勢の新手がやって来た。

 どうやら甲斐衆の様であり、先にいた連中に強く命じる。

 おおおおおっ、と声を上げ、槍が忠勝に迫る。

 うわぁあああ、と叫び、忠勝はなぎ払う。

 ひゅっと、飛礫が忠勝の兜に当たる。

 グワっと、膝を付き、更に矢が飛んできて、肩や腕に刺さる。

 ぐううっ、と忠勝が唸る。

 サッと忠勝に駆け寄る。

「死ね」

 武田勢の槍が、忠勝に襲いかかる。

 もうかわす力は無い。

 ふん、と忠真の三河文殊が閃く。

 槍の柄を斬られ、敵兵は驚く。

 しかし多勢に無勢。次々に襲い掛かって来て、忠真も忠勝を守りきれない。

 「お覚悟」

 敵の槍が忠勝に向かう。

 ぐっ、と忠勝は唸る。

 しかし身体は動かない。

 その時。

「平八郎」

 忠広が忠勝を庇う。

 グハッ、と忠広が敵の槍を腹に受ける。

「四郎左」

 忠勝が声を上げる。

 ガハッと血を吐きながら、忠広は目を前の敵を、槍で振り払う。

「しっかりしろ、四郎左」

 忠勝が立ち上がり、忠広を抱える。

 あっ、あっ、と忠広は血を吐きながら呻く。

「引け、平八郎」

 敵の攻撃を捌きながら、忠真が言う。

 武田勢は一旦、引いた。

 おそらく忠真を手強いと見て、態勢を立て直し、いっぺんに襲い掛かる気だ。

「四郎左を連れて逃げろ」

「いやじゃ」

 忠真は忠勝の方を向く。

「お前の望む強さは、お前が目指す天下無双は、こんなところで、こんな風に死ぬ事なのか?」

 ハッと忠勝は顔を上げる。

「四郎左を助けてやれ」

 武田勢の気が満ちていく。

 いつ襲い掛かってくるか分からない。

「友なのだろう、助けてやれ」

 武田勢に太刀を構えたまま、忠真は言う。

 グッと呻き、忠勝が忠広を背負う。

「平八郎・・・・・」

 去ろうとする忠勝に、忠真は声をかける。

「あっ・・・・」

 一瞬、言いかけた事をやめ、首を振る。

「生きろ、生きて天下無双になれ」

「っぁ・・・・・」

「行け」

 何か言おうとする忠勝に、強く命じる。

 そのまま忠勝は、走り去っていく。

 さて、と間をとり、忠真は武田勢に相対する。

「それがし、徳川三河守家臣、本多肥後守忠真」

 ゆっくりと太刀を、八相に構える。

「我が首取って、手柄と致せ」

 

 





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る