敗北
どうにか家康は、浜松城に辿り着いた。
「それでは」
そう言って滝川一益は服部正成と共に、家康の側を離れる。
「・・・・・・」
返事をする気力も失い、家康は城門のすぐ奥でへたりこむ。
家臣たちが、城に戻って来た。
槍を杖にして歩く者、仲間の肩を借り進む者。
皆、ボロボロだ。
「・・・・・・善九郎」
阿部正勝を見つけ、家康は声を上げる。
家康の鎧を着た者を、背負っていた。
近づいてみると、水野忠重だった。
「藤十郎・・・・・無事なのか?」
「息はしております」
家康の問いに、何時もの様に淡々と正勝は答える。
「そうか・・・・良かった」
「急ぎ手当てをせねば、なりませぬので」
そう言って、正勝は城の奥に向かう。
「善九郎・・・・・次郎佐や小太夫らは・・・・・」
家康の問いに正勝は振り返り、冷めた目でしばし見つめた後、ゆっくりと首を振り、そして去って行く。
馬鹿な事を訊いたと、家康は思った。
老兵たちが生きているわけが無い、当たり前だ。
その後もしばらく、戻って来る家臣たちを眺めていた。
「三河守さま」
呼ばれて家康は顔を向ける。
右翼を任せていた、織田の援軍の大将、佐久間信盛だ。
「佐久間どの・・・・・平手どのは?」
信盛が一人で立っていたので、家康は問う。
「立派な最期でございました」
一房の髪を見せて、信盛は告げる。
「あ、あの・・・・」
「失礼いたします」
家康が口を開きかけると、それを許さず信盛は一礼して去って行く。
左翼を任せていた若い連中も、戻って来た。
渡辺守綱と本多正重が、誰かを抱えている。
正重が抱えているのは、鵜殿氏長の様だ。
家康を恨んでいて当然のあの若者まで、死地に赴いたのだ。
内藤家長が駆けていくる。
本隊に居た従兄弟の正成に近寄り、何か問うている。
正成が首を振り、何かを見せている。
籠手か何かの様だ。
それを見て、家長が顔を伏せる。
正成の息子が死んだのだと、家康は察する。
小姓として家康の側にいた。
特に目を掛けた訳でも、可愛がっていた訳でもない。
ただ一度だけ、
「父の様な立派な弓使いになれ」
と言ってやると、はい、と目を輝かせて答えたのを憶えている。
だがその顔が、最期にチラリと見た、恐怖に震える顔に変わっていく。
「・・・・・・」
家康は目を閉じ、ググッと身体を震わせる。
多くの者が死んでいき、多くの者が、父や兄、息子を失っていった。
家康は、本多忠勝がいない事に気づく。
「あの馬鹿もくたばったか・・・・・・」
戦さの前、あれだけの大言を吐いたのだ、生きてはいまい。
しかしそれでも、忠真が連れ戻すかと、思っていた。
その忠真の姿も見えない。
二人と討たれたのか・・・・。
どうでもよい。
もう家康は、何も考えたくない。
疲れきり、心も折れた。
「殿」
呼びかけられ、顔を向けた。
酒井忠次のムスッとした顔がそこにある。
怪我をしていないし、汚れてもいない。
おそらく負ける事はお見通しで、戦さになる前に城に戻り、手当ての支度などをしていたのだろう。
怒る気もしない。
当然だ。
現に家康は、負けたのだから。
「小五郎・・・・・」
静かに家康は叔父を呼ぶ。
「わしは、愚かか?」
家康は心の底から思う。
元々、信長と信玄の戦さだった。
二人の駆け引きだった。
両者は、正面からやり合う気はなかった。
そんな事をすれば、潰し合いになるだけだからだ。
強い相手と手を組み、弱い敵を叩く。
それが二人の考えだった。
そこで両家の境を何処にするかの?それが重要になった。
もっと言えば、間にある徳川をどうするかだ。
遠江だけ武田のモノにするのか、三河もか、三河の半分は残すのか。
それを二人が決め、それに家康は従えば良いだけの話だったのだ。
だから信長は、城から出るなと言ったのだ。
何とかしてやると言ったのだ。
それを馬鹿な意地を張り、勝手に戦さを始めた。
そしてそれを、信長も信玄も読んでいた。
信玄は罠を張り、信長は滝川一益を送ってくれた。
一益は信長の、最も信頼する武将だ。
上方での戦さに、無くてはならない人物だ。
それを家康が馬鹿をやるから、言っても言う事を聞かないからと、送ってくれたのだ。
こんな愚か者が他にいるだろうか。
居ないだろう。
日ノ本中を探しても、いや唐天竺を見回しても、居ないだろう。
家康は自分が、この世で最も愚かな男に思えて来た。
「わしは・・・・間違っていたのか?」
情けなくて、家康は呟く。
「殿」
忠次が、淡々と答える。
「拙者、殿を賢き方と思うた事など、ただの一度もありませぬ」
クッと、家康は忠次を睨む。
「しかし此度の戦さ、殿が間違っていたとは思いませぬ」
「・・・・なんだと・・・・」
ゆっくり忠次が家康に近づく。
「殿が言われた通り、殿は国主としての務めを果たされました」
「だが負けた」
家康は怒鳴る。
「惨敗ではないか」
涙と鼻水を流しながら、家康は震える。
「殿」
静かに忠次は応じる。
「勝った負けたは、兵家の常にございます」
淡々と忠次は続けた。
「負ける事は、愚かな事でも、間違った事でもありませぬ」
ただ、と忠次は強い視線で、家康に告げる。
「優れた大将は、今日の負けを、次の勝ちの糧にするのです」
「次などあるか」
家康は大声を上げる。
コテンパンにやられた。もう動ける者は殆どいない。
武田が攻めて来ても、城を守る者がいないのだ。
「・・・・・・・」
忠次が黙って、家康を見つめる。
言いたい事は家康にも分かる。
滝川一益が来ている。家康を尾張に送り届けてくれるだろう。
その後、どうなる?
家康は織田の客将、いや居候となって、信長に飼われるのだ。
その内、信長と信玄の間で話し合いがもたれ、お情けで、松平郷一つぐらいは返して貰えるかもしれない。
そこからやり直せ。そう忠次は言っているのだ。
しかし家康は、そうするつもりは無い。
今更、信長のお情けに縋って生きる気はない。
と言うより、心が折れて、生きる気力が無いのだ。
「・・・・・殿」
静かに忠次が呟く。
「今は少しお休み下さい」
後・・・・・と家康の腰の方に目をやり、忠次は付け加える。
「袴を替えられませ」
ググッと家康は唸った。
逃げている途中、あの武藤という武者に睨まれた時、恐ろしさのあまり、失禁どころか、糞まで漏らしたのだ。
「・・・・・っが・・・」
何か言い返そうと思ったが、家康は黙って城の奥に向かう。
その家康の背を、忠次は黙って見つている。
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