第67話 追撃

 ハッと家康は目を覚ます。

 既に辺りは暗くなっていた。闇の中、森を進んでいる。

 おぶられて、進んでいる。

 誰に?と初めは分からなかった。

 しかし家臣の服部正成だと気付く。

「半蔵」

「はっ」

「何をしておる?」

 少しずつ記憶が戻る。

「殿を城に、お連れしておるところです」

「戻れ」

 家康は低い声で、強く言った。

「・・・・・・・」

「戦さ場に戻れ」

「・・・・殿」

 淡々と正成は答える。

「我らは負けたのです」

「・・・・なぁ・・・」

「負けて逃げておるのです」

 ハッキリと正成は告げる。

「もう戦さ場などありませぬ」

 その言葉に家康は、カッとなった。

 怒りと悲しさと、不甲斐なさと、そういった負の感情の全てが溢れ出した。


「降ろせ」

 感情のままに、家康は怒鳴った。

「降ろせ、降ろせて言うておろうが」

 暴れる家康に仕方なく正成は、家康をその場に降ろす。

「わしをここ置いていけ」

「殿・・・・間も無く城です、追っ手も迫っております、お急ぎを」

「うるさい」

 キッと家康は、正成を睨む。

「わしは大将じゃ」

「・・・・・・」

「家臣を皆置いて、逃げる大将がどこにいる」

 声を嗄らして家康は訴える。

「家臣あっての大将じゃ、家臣を皆捨てて、一人だけの大将など、大将ではないわ」


「・・・・殿」

 家康の側で片膝をつき、正成は答える。

「それは違います」

「なにを?」

「これは戦さでござる」

 いつもの全く感情の無い表情で、正成告げる。

「戦さとは、大将を取り合うものです」

 その感情のない正成の顔を、家康は睨む。

「家臣が皆死のうと、大将が生きて居れば、負けではありませぬ」

 かつて聞いた言葉だ。 

「大将が討たれれば、家臣が皆生きていようと、その戦さは負けでござる」

 同じ言葉を家康はかつて、信長から聞いた。

「殿が生きておれば、我らは負けではございませぬ」

 正成はゆっくり立ち上がる。

「負けでなければ、再起を図る事も出来ます」

「黙れ」

 家康は大声を上げる。

「伊賀者のお前なんぞに、大将の何が分かる」


「・・・・・・」

 冷めた目で正成は、ジッと家康を見下ろしている。

 何も無い目だ。

 怒りも哀しみも恐れも、そして家康に対する忠義も。

 何も無いのだ。

 前々から、家康はその目が嫌いだ。

 服部半蔵正成という男には、なんの揺らぎも迷いも無い。

 それが気に入らない。


 なんじゃその目は、主人に対してなんじゃ。

 そう言おうと、家康が口を開きかけたその時、バッと正成は家康に背を向ける。

 何だ?と家康が問う前に、正成の視線の先から声がする。

「ようやく見つけた」

 雪を降らせていた厚い雲が流れ、その切れ間から月の光が射す。

 その光が闇の中から、声の主を照らし出す。

 男が一人。

 鎧を着ていない。小袖と皮袴で、正成と同じ猟師の様な格好だ。

「望月出雲守・・・・どの」

「久しいな、服部の小倅」

 ニヤリとその男、正成が望月出雲守と呼ぶ四十男は笑う。

「そちらに居られるのは、三河のお殿様であろう?」

 望月出雲守という男は、正成の背後にいる家康に顔を向ける。

「・・・・・・」

 何も答えず黙って正成は、家康を庇う様に身体をずらす。


「服部の小倅」

 正成に顔を戻し、望月出雲守が言う。

「お殿様を渡せ」

「・・・・・・お断りいたす」

 正成の言葉に、はぁ、と一つ、望月出雲守は溜息を吐く。

「分からぬわけではあるまい」

 望月出雲守が、一歩前に出る。

 背後から数人の人影が現れた。

 更に家康の周囲の闇から、ガサゴソと人の気配がする。

「どちらにしろ、そのお殿様は連れて行く」

 顎で望月出雲守は、家康を指す。

「お前さんが差し出すか、わしらがお前さんを殺して連れて行くか、それだけの違いだ」

 冷徹にではなく、淡々と当たり前の様に、まるで寒くなれば雪が降ると言った、当然の話をする様な口調で、望月出雲守は告げる。


「甲賀と伊賀の違いはあるが、同じ忍び」

 望月出雲守は更に一歩、前に出る。

「お前さんの親父どのには、義理もある、お前さんを殺すのはしのびない」

 それに・・・・と望月出雲守は、周囲を見回す。

「お前さんが抗えば、わしの手下も幾人か死ぬ」

 声も見た目も、望月出雲守という男、上方の温厚そうな地主という感じだ。

 しかしその言葉は、恐ろしく冷徹だ。

「わしは無駄な人死は嫌いじゃ」

 心の底からという風に、望月出雲守は言う。

「お前さんが素直に差し出せば、お前さんは死なぬし、わしの手下も助かる」

 万々歳じゃ、と望月出雲守は手を上げる。


「それでも・・・・」

 正成は静かに応じる。

「お断りいたす」

「・・・・・・何故かね?」

 不思議そうに眉を寄せ、望月出雲守が問う。

「悪いが少し、立ち聞きさせてもらったよ」

 静かに望月出雲守は続ける。

「そのお殿様、お前さんがそこまでして守るほどの御仁かね」

 ヒョイっと家康の方を、望月出雲守は一瞥する。

「お前さんの言葉を、そのお殿様は聞いてはくれぬのだろう?」

「・・・・・・」

 正成はなにも答えない。

「こっちにつけとは、言わぬがねぇ」

 黙る正成を眺めながら、望月出雲守は話を続ける。

「武田のお殿様は大した御方だぞ」

 望月出雲守は微笑む。

「わしら忍びの者の言葉をよく聞いて下さる。忍びの者の告げる報せが、どれほど大切か分かっていらっしゃる」

 そのお殿様とは大違いよ、と望月出雲守は言う。

 思わず家康は、グッと詰まる。


 望月出雲守の言う通りだからだ。

 出陣前に正成は、物見を出しているから、少し待ってくれと言った。

 それを無視して、家康は打って出た。

 家康は信玄の罠を、分かっていると思っていたからだ。

 しかしそれは間違いであった。

 信玄はその家康の思い込みを逆手にとって、殿(しんがり)を先鋒にしたのだ。

 もしあの時、正成の言葉を聞いて、物見を出していれば、こんな惨敗は避けれた。

 信玄なら、こんな失敗りをしないだろう。

 ちゃんと忍びの者の報告を、聞くはずだ。


 武田信玄は謀の名手だ。

 何故そうなのかと問えば、賢いからだ。

 賢いと言うのは、物事を正確に捉えるという事だ。

 忍びの者の報告を信じず、耳を貸さずに、勝手に自分の頭の中で、相手がこう来るはずだと決め付けるなど、愚か者の見本の様なものだ。


「・・・・・・・」

 家康は正成の背中を見つめる。

 正成は家康を引き渡すだろう。

 当然だ。

 正成はその役目を、その務めを、真面目に律儀に果した。

 それなのに家康は、それを認めなかった。

 文句まで言った。

 侍は、男の子は、己を認めてくれる者の為に戦う。

 自分の働きを、正しく認めてくれる者の為に、忠義を尽くすのだ。

 望月出雲守の言う通り、家康は正成が守るに値しない主君だ。


「さぁ、そこを退かれい」

「・・・・・お断り致す」

「何故、断る?」

 不審そうに望月出雲守は尋ねる。

 家康も同感だ。

「そのお殿様は、お前さんの事を信じても居らぬし、頼りにもしてもおらぬ」

 望月出雲守の言葉が、家康に刺さる。

「まともに見てすら居ないだろう」

 その通りだ。

「そんな御仁を何故守る?」

「関係ござらぬ」

 低く、そして強い口調で、正成は告げる。


「殿が拙者をどう思っていらっしゃろうと、そんな事関係ござらぬ」

「・・・・・・・」

「拙者は殿を守る」

 何故?と家康は思った。

「何故じゃ?」

 と望月出雲守は問う。

「何故なら拙者が、服部半蔵だからでござる」

 闇の中、正成の低い声が響く。

「拙者が服部半蔵である以上、この名にかけて、殿は、松平の御当主は、必ず守る」

 正成はスッと構えを取る。

 手にしているのは、片手で扱う短い槍だ。

「それだけでござる」


 正成の言葉を聞きながら、家康はジッとその背中を見つめる。

 何故、正成がこんな事を言うのか、自分を見捨てないのか、全く分からない。

 ただ一つだけ分かることは、正成の顔を見えないが、その目は何時もの様に、何の迷いも揺らぎもないのであろうという事だけだ。


「そうか・・・・そうか」

 ポリポリと望月出雲守は頭を掻く。

「なら仕方がない」

 クルリと望月出雲守は背を向ける。

 周囲にいる手下たちが一歩前に出て、家康たちを囲む。

「ここで死ね」


 闇に潜む望月出雲守の手下たちが、家康らに迫る。

 正成が槍を構え、家康を庇う。

 ヒュッと何かが飛来する。

 それを正成が槍で叩き落とす。

 しかし次々と何かが飛来してくる。

 正成の肩にその何か、恐らく棒手裏剣であろう物が突き刺さる。

 ここまでか・・・・。

 家康は覚悟を決め、腰の太刀に手をやる。


 その時。


 ばぁあああん、と銃声が響く。

 ギョッとして皆の視点が、一点に集まる。

 望月出雲守とは別の方から、男が一人、ゆっくりと現れる。

「滝川右衛門、推参・・・・・なり」

 現れた男は、ニヤリと笑って名乗る。

 確かに織田の家臣、滝川右衛門一益だ。


「久しいぶりだね、望月の親分さん」

 ニヤニヤと微笑みながら、一益は言う。

「どういうつもりだ?」

 不快そうな顔で、望月出雲守は問い返す。

「いや、なにねぇ」

 ペシペシと首筋を、一益は叩く。

「今やわしも主持ち、主命でやって来たのですよ」

「主命・・・・だと?」

 ええっ、と一益は頷き、家康の方を見る。

「わしの大将がね、そちらの三河のお殿様を助けに行けと」

 兄上が・・・・と家康は呟く。

「ここはどうでしょう」

 一益は家康から、顔を望月出雲守に戻す。

「同じ甲賀の忍び、義理もある、引いて頂けませぬか」

「ふざけるな」

 冷たく望月出雲守は答える。

「お前に義理などあるか、お前がわしにあるのは、博打の負け分だけだろうが」

「ははははっ、痛いところを突かれる」

「負け分を忘れてやる」

 望月出雲守が手を振る。

「とっとと失せろ」

「そういうわけには・・・・・・」

 一益の背後か、数人現れる。

「いかんのですよ」

 溜め息混じりに一益が言う。


 背後の者たちは、皆、鉄砲を構えている。

「一戦やる気か?わしと?」

「お望みなら」

 望月出雲守と滝川一益との間に、緊張が走る。

 闇の中、双方の手の者が構える。

「・・・・・・いいだろう」

 静かに望月出雲守が言う。

「ここは引こう」

「助かります、親分さん」

 ペコリと一益は、頭を下げる。


「待て」

 望月出雲守の背後から声が上がり、一人の男が現れる。

 兜は被っていないが、鎧を着ており、望月出雲守とは違い、歴とした侍の様だ。

「そこに敵の大将がおるのだ」

 武士は家康を指差す。

「逃すわけにはいかぬ」

 低い冷たい声は、強い怒気を含んでいる。

「武藤殿、お気持ちは分かるが、ここは引いて下さい」

「正気か?」

 武藤と呼ばれた武者は、望月出雲守の言葉に驚く。

「そいつが何者か知らぬが」

 顎で武藤何某は、一益を指す。

「忍び同士の義理より、御屋形さまの命を果たせ」

「そうではござらぬ」

 望月出雲守は静かに告げる。


「その滝川右衛門という男、まことに恐ろしき者」

「なに?」

「滝川右衛門が守ると申したなら、その三河のお殿様は、小田原の城に居るのと同じ、いやそれ以上に厄介なのです」

 家康と武藤何某は、一益の方を見る。

 大きな目をした蟷螂の様な顔の一益が、ニヤリと笑う。

「馬鹿馬鹿しい」

 武藤何某は、吐き捨てる。

「お主らがやらぬなら、わしがやる」

 そう言って武藤何某が家康に向かう。

 待たれい、とその腕を望月出雲守が掴む。

「お前さんは、武田のお殿様のお気に入りだ」

 クッと武藤何某が振り返る。

「見殺しにすれば、わしが怒られる」

「・・・・・・では、御屋形さまに何と言う?」

 武藤何某は、望月出雲守を睨む。

「目の前に敵の大将がいて、それを逃して、何と申し開きをする」

「わしが申します」

 静かに望月出雲守が言う。

「わしが、勝てぬ相手が来たので、と申し上げます」

 ここはお引きを・・・・・・と望月出雲守は、武藤何某を抑える。

 キッと武藤何某は、家康を睨み付ける。


 丁度、雲の切れ間から漏れる月の光が、武藤何某はの顔を浮かび上がらせる。

 異相だ。

 武藤という侍は、鋭い三白眼と大きな鷲鼻をしている。

 天狗か何か、人外の者を思わせる顔だ。


「あのお殿様は小者です、放っておいても、いずれ潰れますよ」

 お前さんが相手にするほどの者でもない、そう望月出雲守が言うと、ふん、と鼻を鳴らし、武藤何某は身を引く。


「悪いね、親分さん」

 一益が言うと、望月出雲守が睨む。

「右衛門、これは貸しだぞ」

「勿論、勿論」

「わしと、それにこの武藤どのにじゃ」

 分かりました、と一益は頭を下げる。



 望月出雲守と武藤何某が去ると、一益は家康の方に近づく。

「・・・・・・・」

 正成が家康を庇ったまま、一益に身構える。

「服部の若旦那、わしは味方じゃ」

「・・・・・・この世に、滝川右衛門という御仁の味方など、おるのですか?」

「酷いこと言うねぇ」

 クククッ、と一益は苦笑する。

「親父どのに何と言われたか知らぬが、わしはそんなに悪人では無いよ」

 それに今は・・・・とヒョイっと一益は、正成の背後にいる、家康の方に顔を向けた。

「わしは織田に仕えておる」

 ニッと微笑み、一益は正成を見る。

「お前さんのお殿様に何かあれば、織田のお殿様にわしが怒られる」

「・・・・・・・」

「わしはお殿様に言われて、助けに来ただけだ」

「・・・・・・織田殿が」

 家康が呟くと、ええっ、と一益は頷く。

「竹千代は馬鹿だから必ず打って出る、だから助けに行け、そう言われたのですよ」

 一益の言葉に、ああっ、と家康は泣きそうになる。


 悲しいからで無い、勿論、嬉しいからでも無い。

 口惜しくて、情けないからだ。

 結局また、信長に助けられた。

 それも言う通りに城に籠もっておれば良かったのに、それに逆らって打って出て、それで助けられているのだ。

 情けなくて惨めで、家康は自分が心底嫌になった。

「取り敢えず、城に戻りましょう」

 一益の言葉に逆らわず、家康は立ち上がり、ヨロヨロと歩み出す。

 

 



 

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