死闘、三方ヶ原

 本多忠真や服部正成の言う信玄の罠が、何であるか家康にも読める。

 三年前、武田は相模の北条に攻め込んだ。

 小田原城を包囲したが、堅城の小田原、武田は落とせず兵を引いた。

 そこに北条方は追撃を掛けるのだが、三増峠と言うところで武田の伏兵に遭い、更に別働隊に挟み撃ちにされ、散々打ち負かされている。

 此度も同じ策だろうと、家康は考える。

 と言うより、他の策などあり得ないのだ。

 信玄は兵を伏せ、別働隊を用意している。

 なら此方はどうすれば良いか?

 伏兵と別働隊に対処出来る様に、陣を敷けば良い。

 家康は陣を広くとった、よく言うところの鶴翼の陣である。

 こちらの兵は一万、対して武田方は三万。

 普通、寡兵の方が、鶴翼の陣を構える事はない。

 しかし伏兵と別働隊を警戒する為、敢えて陣を広くとった。

 これで伏兵、別働隊、そして本隊を各個撃破していけば良い。

 それが家康の作戦だ。

 

 戦さになれば信玄に、謀ほどの恐ろしさは無い。

 甲州兵は強いが、三河兵だって負けてはいない。

 地の利はこちらにある。

 織田の鉄砲隊もある。

 充分に戦える。

 来るなら来い。

 家康は意を決して、城を出た。



 師走の中頃、温暖な三河にしては珍しく、雪でも降りそうなどんよりとした曇り空だ。

 徳川軍は、右翼に織田の援軍である、佐久間信盛、平手汎秀率いる二千、左翼には本多忠勝、内藤家長、榊原康政ら、家中の若い連中を中心とした三千、そして中央に大久保忠世が指揮する家康の本隊を四千を置いた。

 夏目吉信ら老兵たち千人は、酒井忠次率いる後方の部隊に控えている。

 伏兵を警戒しながら徳川軍は、ゆっくりと天竜川と浜名湖に挟まれた三方ヶ原に進む。

 家康の読みでは、伏兵は恐らく、三方ヶ原の先にある祝田の坂で待ち構えている筈だ。

 なぜなら開けた三方ヶ原では、兵を伏せても丸見えだからだ。


 グッと馬上で、手綱に力が入る。

 雪が一つ、ヒラヒラと家康の頬に落ちてくる。

「降って来たか・・・・・」

 不味いな、と思いながら家康は空を見上げる。

 その時、

「申し上げます」

 伝令がすごい勢いで駆けてくる。

「敵本隊が三方ヶ原にて、こちらを待ち受け、攻撃をかけて来ました」

「・・・・・・えっ?」

 家康は意味が分からず、声を上げる。

「どういう事だ、敵は進んでいたはずだろう?なぜ此方に攻撃できる」

 側にいた水野忠重が、家康の思っていた疑問を口にする。

 その通りだ。

 武田勢は西に向かっていたはずだ、

 三方ヶ原は開けているとは言え、三万の軍勢が簡単に、旋回できる筈がない。

「て、敵は」

 震えながら伝令が答える。

「殿(しんがり)が先鋒だったのです」

 はぁ?と家康と忠重は声を上げる。

 伝令が何を言っているのか、意味が分からないのだ。

「恐らく信玄坊は・・・・・・」

 側に控える阿部正勝が、淡々と述べる。

「殿が打って出る事、更に陣を広くとる事を読んでいたのでしょう」

「読んで・・・・いた?」

 目を見開き驚愕している家康に、正勝はコクリと頷く。

「だから行軍中にも関わらず、殿(しんがり)に精強な先鋒を置いたのです」

 正勝の言葉に家康は唖然として、大きく口を開く。

 普通、行軍している時、どうしても遅れる荷駄隊が後ろになる。

 そして先鋒は、敵に出会っても良い様に、精鋭を置く。

 しかし信玄はそれを、逆様に置いたのだ。

 何故か?

 正勝の言う通り、家康が打って出ると、それも三増峠での戦さの事を思い出し、陣を広く取ると読んだからである。

「・・・・っ、ぁっ・・・・」

 家康は驚きのあまり、息が出来なくなる。

 戦さになれば、一矢は報いる事が出来る。

 死ぬ気になって挑めば、勝機が掴めるかもしれない。

 そう思っていた。

 しかしそんな甘い相手では無いのだ。

 武田信玄は。

 わぁわぁゎぁあ、と喚声が聞こえて来る。

 それもかなり近くでだ。

 当然である。陣を広くしたため、前衛が薄くなっているのだ。

「敵が直ぐそこまで、迫っております」

 二人目の伝令が現れ、早口に告げる。

 おそらく大久保忠世が、必死に抑えているのだろう。

 しかし持つわけがない。そもそも敵はこちらの三倍いるのに、陣を広げたのだから。

「がっ、ぁ、あっ」

「殿」

 家康が混乱していると、後方の陣に控えていた筈の、夏目吉信や米津政信ら老兵たちがやって来た。

「ここは我らが食い止めます」

「殿はおしろにお戻り下さい」

 老兵たちの言葉に、はっ、と家康は我に帰る。

「何を言う」

 家康は大声を上げ、己を奮い立たせる。

「わしは罠があろうと、討たれようとも、戦うと言うたではないか」

 己自身に向けて、家康は叫ぶ。

「しかし・・・・・」

「織田の方々も来ておられる」

 グッと前線の方に家康は顔を向ける。

「援軍に来られた方々を見捨て、わしだけ逃げられるか」

 そう家康が怒鳴った時、わぁあああああ、と雄叫びを上げながら、敵味方の兵が、目の前に押し寄せて来た。

「お逃げ下さい、殿」

 青木貞治が、家康に向かって叫ぶ。

 貞治は中根正照と共に、二俣城を任せていた譜代の家臣だ。

 家康が後詰めを出したのに、城を開けた事を、正照共々、深く恥じていた。

「此度は是非、先鋒を」

 戦さの前に、二人はそう願い出た。

 死ぬ気だと分かっていたが、主君としてそれを止める事は出来なかった。

 その貞治の腹に、敵の槍が刺さる。

 あっ、と家康が声を上げそうになった時、何かが頭に当たる。

 ガァンと、強い衝撃を受け、家康は馬から落ちそうになる。

 何だ?と思うより先に、二発目が肩に当たり、その正体に気付く。

 飛礫か。

 先ほどより更に、雪が降ってきている。

 これでは鉄砲は使えない。むしろ飛礫の方が有効だ。

「徳川三河守、覚悟」

 なんとか手綱を握り落馬を逃れた家康に、武田の騎馬武者たちが襲いかかる。

 ぐっ、と家康は唸り、太刀に手をやる。

 ぐはっ、と呻き、先頭の騎馬武者が、馬から落ちる。

「殿、お引きを」

 強弓の内藤正成が、騎馬武者を射落としていく。

「・・・・・・・」

 正成の側に立つ、息子の正貞が、青い顔で震えているのが見える。

「殿、ここはお下がりを」

 駄目じゃ、と抵抗する家康を、忠重や吉信らが、無理矢理引っ張っていく。



「負け戦さでございます、今は一旦、城まで引きましょう」

 敵から少し離れたところで、吉信がそう告げる。

「お待ちを・・・・・・」

 吉信の言葉に、家康が言い返そうとした時、何処からか服部正成が現れた。

「武田の乱波衆が潜んで、殿が城に向かうのを、狙っております」

 なんと、と忠重が驚く、家康も驚愕する。

 信玄は、そこまで手を打っているのだ。

「・・・・誰方か殿の身代わりを、お願い致します」

 淡々と静かな声で、正成は言う。

「その間に拙者が、殿を城にお連れいたします」

「なにを言うておる、半蔵」

 家康が怒鳴るが、構わず吉信が応じる。

「分かった、わしが身代わりになろう」

「ならぬ」

 吉信の言葉に、家康は反対する。

「お前は・・・・次郎左、お前は、戦さに出ることに、反対していたではないか」

「殿・・・・・・」

「そのお前が、なぜ死なねばならぬ」

 家康は強い口調で、皆に告げる。

「わしは此処で死ぬ、潔く戦って死ぬ、そう決めたのじゃ」

「殿、失礼致します」

 主君家康の言葉を無視して、正勝が家康を馬から引きずり降ろす。

「やめぬか、善九郎」

「殿」

 正勝と組み合っている家康に、吉信が近寄る。

「わしはもう、死んでおるのです」

「何を言っておるのじゃ?」

「門徒の一揆のおり、わしは殿に刃向かいました」

 皺だらけの吉信が、静かに告げる。

「本当ならそこで、処刑される身・・・・・そうされて、当然の者で御座った」

 穏やかに、優しく吉信は微笑む。

「それを殿は赦して下さいました、側に置いて下さいました」

「次郎左・・・・・・」

「申し訳ない事にございます」

 吉信は頭を下げる。

「だから、ご安心を」

 頭を上げて、吉信は告げる。

「死人が、冥府に帰るだけにございます」

「ならぬ」

 家康が大声を上げて、正勝を振り解こうとする。

「・・・・・・・」

 正勝が正成を見る。正成が頷く。

「御免」

 サッと正成が、家康の背後に回る。

 何を・・・・と家康が言いかけると、正成の腕が家康の首にかかる。

 うっ、と家康は呻き、身体をジタバタさせるが、正成は微動だにしない。

「・・・・っがぁ・・・・」

 家康の意識が遠のく。



「おい」

 思わず忠重は声を上げる。

「気を失われておるだけです」

 淡々と述べ、服部正成は家康の鎧を脱がしていく。

 よし、と言って、夏目吉信が鎧を着ようと、正成の方に近づく。

 待て、と忠重がそれを止める。

「身代わりは、わしがやる」

「いえ、それはしかし・・・藤十郎さま」

 戸惑う吉信に、忠重が告げる。

「お前では、偽者だと直ぐにばれる」

 自分の鎧を脱ぎながら、忠重は正成に近寄る。

「わしなら殿に、瓜二つじゃ」

 その通りであった。

 忠重は家康の叔父にあたるが、歳は一つ上。

 背丈や年格好、それに声がよく似ている。

「しかし危のうございます」

 米津政信が言うと、ニコリと微笑み、忠重はその肩を叩く。

「ならわしを、しっかり守ってくれ」

「・・・・え?あっ・・・・」

「総大将の三河守の周りに、家臣がいないのではおかしかろう」

 政信はどうしようかと眉を寄せるが、吉信が前に出て告げる。

「分かりました、お守り致します」

「頼むぞ」

 老兵二人に頷くと忠重は、正成から家康の鎧を受け取る。

「実を言うとな・・・・・」

 家康の鎧を眺めながら忠重が、ニヤリとする。

「殿のこの鎧、一度着てみたかったのよ」

 忠重の言葉に、老兵たちは苦笑する。

 家康の鎧は、初陣の褒美に今川義元から与えられた物。黄金に輝く、金溜塗りの立派な具足だ。

 吝い家康の、唯一の贅沢である。

「・・・・・・」

「藤十郎さま、お早く」

「ああっ」

 しばし鎧を眺めていた忠重を、阿部正勝が急かす。

 よし、と鎧を着替えた忠重は、吉信、政信の老兵たちに頷く。

 老兵たちも頭を下げる。

「殿の事、頼むぞ」

 忠重が正成に言うと、ははっ、と正成は頭を下げて、家康をおぶる。

「では、行くぞ」

 そう忠重が言うと、ははっ、と老兵らが応じる。

 



 




 

 

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