死地へ
水野信元は浜松城の奥へと進む。
前に立つ人影を見て、誰かわからず、うん?と呟いたが、相手が分かり、皮肉な笑みを浮かべて近づく。
「姿が見えぬから、岡崎に隠れておったのかと、思うておったわ」
藤十郎、と弟、忠重に呼び掛ける。
「・・・・・・」
忠重が黙ったままなので、そのまま通り過ぎようとする。
スッとその信元の前を、忠重が塞ぐ。
「なんじゃ?」
「・・・・・岡崎が落ちれば、刈谷は目の前です」
ジッと強い視線で忠重は、信元を見る。
「なぜ、撃って出ないのです?」
「・・・・・・・」
今度は信元が黙ったままだ。
「もう武田との間で、話が着いているという事ですか?」
ギッと信元は忠重を睨み返す。
「わしはこやって、水野を守って来たのじゃ」
強い口調で信元は続ける。
「出て行ったお前に、とやかく言われる筋合いは無いわ」
退け、と信元は弟と突き飛ばし、城の奥に進んで行く。
「・・・・・・・」
忠重は兄の背を、しばし見つめる。
城門の方に行こうと前を向くと、そこに家老の酒井忠次が立っていた。
「酒井どの・・・・兄は」
武田と通じております。
そう言おうとした。
更に言えば、家康が城を出て行った後、何をするか分からない。
城に火を放つかもしれないし、乗っ取るかもしれない。
そう告げようとした。
だがその前に、忠次が手で制す。
「分かっております」
ムスッとした顔で、忠次は続ける。
「拙者が見張っておりますゆえ、ご安心を」
「・・・・・承知しました」
忠重は頷く。
「それより藤十郎どの」
静かに忠次は、忠重の名を呼ぶ。
忠次の妻は、忠重の姉、碓井である。
そういう意味では、二人は義理の兄弟になる。
「お手前に、頼みたい事がござる」
「なんでしょうか?」
硬い表情のまま、忠次は言う。
「厳しい戦さでござる」
はい、と忠重は頷く。
「殿が危き時は・・・・」
忠次の言葉を、忠重が手で制す。
「分かっていおりますよ」
「・・・・・・」
暗い目で忠次は、忠重を見つめる。
「己の使い道ぐらい、承知しております」
「・・・・・・かたじけない」
忠次は少し頭を下げた。
「怖いか?四郎」
「あっ・・・・いえ」
内藤家長が声をかけると、四郎左衛門正貞は緊張した顔で返事をする。
正貞の父は、家長の従兄弟である強弓の異名を持つ正成だ。
「無理をするな」
ニコリと家長は微笑む。
ふと見ると、正貞の籠手の紐が緩んでいる。
「緩んでおるぞ」
あっ、はい、と答えて正貞が結び直そうとする。
しかし手が震えて、上手く直せない。
「見せてみろ」
家長は正貞の手を掴む。
「弓使いにとって、籠手は要じゃ」
「すみませぬ」
小さな声で、正貞が謝る。
「・・・・・お前、手、大きゅうなったなぁ」
籠手が小さいので、上手く結べて無いのだ。
正貞は去年元服したばかり、身体も弓の腕も、今が一番伸び盛りだ。
「わしのを使え」
予備に持っている籠手を、家長が取り出す。
「しかし・・・・・」
「良いよ」
ニッと家長は笑みを浮かべる。
予備の籠手は父の形見だ。
ずっと着けられないでいる。
父に矢を向けた、その死目にも会えなかった。
だから着けれないのだ。
これからも着けられないだろう。
「殿をしっかりお守りしろ」
「はい」
「親父どのの側を離れるな」
「あ、はい」
籠手を結び終えた家長は、行け、と言って正貞の肩を、ポンポンと叩く。
此度の戦さ、家長は左翼だが、正成と正貞は家康の居る本隊だ。
「・・・・・・・」
去って行く正貞と、その先に居る正成をジッと眺める。
この戦さで死ぬ。
そう家長は決めている。
殿が戦うと言った。
三河の為に戦うと言った。
だから死ねる。
そう家長は思った。
しかし内藤の家を、潰すわけにはいかない。
去年、子が産まれた。
まだ当然、家督は継げない。
でも構わない。
ここで家長が死に、正貞が継ぎ、息子に譲れば良い。
正成も居る、問題無い。
家長は本多忠勝や渡辺守綱らがいる、左翼の部隊に向かう
戦うのだ、息子の為、妻の為、三河の為に。
恐れはある。
だがそれを超える、強き想いがある。
それを持って、死ぬだけだ。
出陣じゃ、と言う徳川家康の言葉を、鵜殿氏長は静かに聞いていた。
氏長は松平譜代の家臣では無い。
曽祖父の代から今川に仕える、今川の家臣だった。
同じ様な今川の旧臣たちは今は、皆、武田に仕えている。
当然だ。
彼らが今川を離れたのは、当主氏真が頼りにならないと思ったからだ。
徳川に着いた者たちも、武田が攻めて来れば、皆、武田に靡く。
何故なら、家康では信玄に勝てないどころか、相手にもならないからだ。
その上、氏長は他の者より、徳川を見限るのが当たり前の立場である。
氏長の父親は、家康に殺された様なものだからだ。
徳川家中の者の多くは、氏長が家康を裏切るだろうと思っている。
現に家康自身が、そう思っているのだ。
武田の侵攻が始ると家康は、氏長に任せていた二俣城を取り上げ、譜代家臣の中根正照に与えている。
皆が武田に奔ると思っていた。
その事が当然だと思っていた。
しかし氏長は、徳川に留まり続けている。
戦さの前に、弟の氏次が訪ねて来た。
氏次は叔母の嫁ぎ先である、溝口松平家に身を寄せている。
「兄上、武田に向かいましょう」
当然の事を、氏次は言った。
武田が今川に攻め入った時に、今川を裏切った瀬名信輝、朝比奈信置らから、誘いの密使も来ている。
だが氏次は断った。
「何故です、兄上」
氏次は戸惑っていた。
当然だろう。
徳川は親の仇、それを捨てて武田に奔ると言うのは、当初から決めていた事。
今をおいて、決行する時は無い。
「武田には、お前一人で行け」
何故です?と再び氏次が問う。
「・・・・・・」
答えなかった。
答えられなかった。
氏長自身、なぜ自分が徳川の為に、死地に向かっているのか、上手く言葉に出来なかった。
ポンポンと誰かが、氏長の肩を叩く。
見ると本多三弥正重だった。
「行きましょう」
正重の言葉に、氏長が頷く。
行く、これから、死地に行くのだ。
氏長は前を向く。
榊原康政や鳥居忠広らが立っている。
彼らと共に、仲間と共に、死地に行くのだ。
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