第64話 国主の務め
服部正成から報告を受けたとき家康は、衝撃を受け、食事も喉を通らず、夜も眠れなかった。
しかし一晩経つと、諦め開き直った。
悩んでいたところで如何しようも無いし、そもそも家康には如何のしようも無いのだ。
ただ城に籠もって居れば、信長と信玄の間で落とし所を決め、それに従うだけだ。
情けない話だ。
だが如何しようも無い。
己の事も己で決められない。
その事実に向き合うと、苦しくなるだけだ。
だから向き合わない。
そうすると、多少食欲も出て、眠くもなった。
飯を食い、少しウトウトして、昼を過ぎた頃、酒井忠次と阿部正勝が部屋に来た。
「城内で若い衆が騒いでおります」
正勝が淡々と報告する。
「放っておけ」
どうせまた、撃って出ると、喚いているのだろう。
若い連中は勝手に出撃し、一言坂でコテンパンにやられた。
何人も死者を出している。
特に本多忠勝は、瀕死の重傷を負っていた。
しかし何時もの事だが、忠勝は一晩寝るとケロリとして動き回っている。
どういう身体をしておるのだと、家康は呆れる。
「殿」
忠次が何時ものムスッとした顔を、家康に向ける。
「殿は主君で御座います」
「・・・・・・」
プイと家康は顔を背けるが、忠次が続ける。
「家臣を諫めるのも、主君の務めにございます」
なにが主君の務めだ、と家康は思う。
徳川という家が滅びようとしている。
それなのに家康は何も出来ない。
徳川が滅びるか如何かを決めるのは、家康では無い。
信長と信玄なのである。
そんな主君ではないか、わしは。
「殿」
「・・・・・・分かった」
忠次が強く言うので、家康は諦めて立ち上がる。
「止めぬか」
城門の前に集まっている家臣たちに、家康は大声を上げる。
何事だ?とは問わない。
見れば状況は一目瞭然だ。
忠勝ら若い連中が、撃って出ようと勇んでいるのを、叔父の本多忠真や大久保忠世たち年嵩の者、それに夏目吉信ら老兵たちが止めているのだ。
「殿」
忠勝が大声で呼ぶ。
「拙者、殿は臆病者だとは知っておりましたが、嘘つきだとは知りませなんだ」
「なんだと?」
いかに言っても、さすがの暴言。家康はカチンと来て忠勝の方を睨む。
「殿は織田の援軍が来れば、撃って出ると言われた」
うっ、と家康は詰まる。
「何故、撃って出られませぬ」
そうじゃ、そうじゃ、と周りに居る若い連中が声を上げる。
「平八郎、殿に無礼であろう」
忠真が叱る。
「それに撃って出ないのは、罠があるからだ」
確かに半分は、忠真の言う通りだ。
だが残りの半分は、いや、半分以上は、信長が出るなと言っているからだ。
「罠なら罠で結構で御座る」
ドンと槍の石突きを突き、忠勝は応える。
「平八郎は武士でござる、男の子でござる」
胸を張って大音声で、忠勝は告げる。
「罠を恐れ、敵を恐れ、死を恐れる、臆病者では御座らぬ」
おおっ、と周りの若い連中が声を上げる。
「・・・・・・・・」
黙って忠真が忠勝に近寄る。
そして、パン、とその頬を叩く。
あっ、と家康は驚く、周りの者も、えっ、と黙る。
何より忠勝が、目を見開いて、忠真を見つめている。
叱っている事はあった、押さえつけているのはしょっちゅうだ。
しかし手を上げた事は、見たことがない。
「死んで良いなどと言うな」
忠真は静かな目で、甥を見つめる。
「お前には、妻も居ろう、母も居ろう、妹も居るだろう」
「・・・・・・・」
「いずれ子も生まれるだろう」
そっと忠勝の肩に、忠真は手をやろうとする。
「誰もお前に、死んでほしくなど無いのだ」
パン、と忠勝はその手を払い、ドン、と叔父を突き飛ばす。
「臆病者の叔父上の張り手など、痛くもなんとも御座らぬ」
なにを・・・と尻餅を付いた忠真が呟く。
「平八郎は侍でござる」
叔父を見下ろし、忠勝が胸を張る。
「侍は恥を知る者」
忠勝の大音声が、城内に響く。
「命を惜しまず、名を惜しむ者にござる」
ああっ、家康は呻く。
かつて家康はその言葉を聞いた。
主君、今川義元から聞いたのだ。
義元は家臣に、安心して死地に赴ける様、その言葉を口にしたのだ。
それを今、家康は家臣に言われている。
それも忠勝の様な、自分勝手をしている家臣にだ。
「拙者は、平八郎は天下無双の侍を目指しております」
忠勝は槍をグッと天に突き出す。
「死ぬのが怖くて、城の籠もって震えているくらいなら、潔く散って参る」
「馬鹿な事を申すな」
「馬鹿で結構」
忠真が立ち上がり諫めるが、忠勝が止まる訳が無い。
「どうしても許さぬと言うなら」
忠勝は家康の方を一瞥する。
「主従の縁を切って貰って構いませぬ」
「お前、何を言うておる」
忠真が慌てる。
「本多の家は、叔父上が継がれれば良かろう」
ふん、と一つ忠勝は、鼻で大きな息をする。
「そうすれば、作左も・・・・・」
忠勝は叔父の手首に目をやる。
「皆も、喜ぶでしょう」
「いい加減にせぬか」
忠真が忠勝に詰め寄る。
「拙者、ただの平八郎になって、戦さをするのみに御座います」
「この・・・・」
「止めい」
家康が大声を上げ、忠勝らに近づく。
「・・・・・平八郎」
冷めた目で忠勝の大きな身体を眺めながら、家康は呟く。
「お前は変わらぬなぁ・・・・・・いくつになった?」
「・・・・・二十と・・・四つになります」
不審げに家康を見ながら、忠勝は答える。
「初めて逢うた時から、何にも変わらぬな」
「・・・・・・」
忠勝が眉を寄せる。
「憶えて居らぬのか?」
「桶狭間の戦さの時でございましょう」
「そうでは無い」
家康は首を振る。
「その前に逢うておるだろう」
はぁ、と忠勝は首を傾げる。
「忘れたのか?」
顔を顰めて、家康が言う。
「お前が七つか八つの時に、逢うておろうが」
「そうで御座いましたか?」
そうだ、と家康は頷く。
「お前はわしに小便をかけてな」
顰めた顔のまま、家康はクイっと顎を上げる。
「不甲斐ないお殿さまに仕えとうない」
少し声を大きくして、家康は言う。
「そう言ったのじゃ」
「・・・・そうですか」
家康が何を言いたいのか分からないので、忠勝も忠真も戸惑っている。
「その時、わしが何と答えたか、憶えておるか?」
忠勝はムッとした表情で答える。
「逢うた事も憶えて居らぬのです、何を言われたかなど・・・・」
「その時わしはな」
家康は大声を上げ、忠勝の言葉を遮る。
「こう言ったのじゃ」
グッと家康は、自分より背の高い忠勝を睨む。
「お前が認める様な、立派な大将になってやると」
そう言って家康は、忠勝の襟首を掴む。
「その言葉が偽りでないと、今お前に見せてやる」
バンと、家康は忠勝を突き飛ばす。
そして家臣たちに向け、大声で命令する。
「馬引け、槍持て」
スゥッと息を吸い、家康は告げる。
「これより撃って出る」
「・・・・・・・」
初めて皆、家康が何を言っているのか分からないで居た。
しかし少して、意味に気付き、夏目吉信が駆け寄る。
「殿、お待ち下さい」
ズズッと近寄り、強い言葉で吉信は告げた。
「ここはご辛抱を」
「・・・・・・次郎左」
皺だらけの吉信の顔を眺めながら、家康は呟く。
「死ぬのが怖いか」
「いえ、そう言う事ではなく・・・・」
「わしは怖い」
吉信の言葉を遮り、家康は告げる。
「だがわしは徳川三河守」
家康は忠勝の方を見る。
この馬鹿にも、己もあれば、意地もあるのだ。
「三河の国主だ」
吉信の方に向き直り、強い口調で言う。
「三河が攻められるのならば、戦わねばならぬ」
わしにだって意地くらいある。
そう家康は心の中で吠え、家臣たちを見回す。
「わしは撃って出る」
腹の底から声を張り上げる。
「死ぬのが怖い者は残っておれ、責めはせぬ」
年嵩の家臣たちの方を見る。
「わしは一人でも撃って出る」
今度は若い者の方に向く。
「ついて来たい者だけ、ついて来い」
先頭に立つ忠勝が、おおおおおっ、と拳を振り上げ大声を上げる。
おおおっ、おおおっ、と渡辺守綱や内藤家長など、若い連中が大声を上げていく。
「それでこそ、わしらの殿じゃ」
ははははっ、と笑いながら、忠勝が言う。
うるさいわ、と家康は睨む。
「御家老」
吉信が酒井忠次の方を向く。
もう止められるのは、忠次だけと思ったのだろう。
「・・・・・・・・」
しかし忠次は何も言わず、黙って家康を見つめている。
家康も忠次を見る。
わしが主人じゃ、わしが決めるのじゃ。
負ける事も、滅ぶ事も、わしが決める。
そう家康は目で、筆頭家老である、叔父の忠次に訴えた、
「威勢がよいのう、次郎三郎」
伯父である水野信元が奥から現れ、忠次の隣りに立つ。
「わしは行かぬぞ」
ニヤニヤ微笑みながら、信元は告げる。
「わしの主人は、尾張のお殿さまじゃからな」
「・・・・結構でござる」
家康は冷めた口調で答える。
フン、と鼻で笑い、信元は城の奥に退がっていく。
「三河守さま」
援軍の織田家の主将、佐久間信盛が慌てて駆け寄ってくる。
「お気持ちは分かりますが、ここは辛抱して下さい」
低く強い声で、信盛は続ける。
「城に籠もって居れば、必ず我が殿がなんとかしてくれます」
そんな事、言われなくても家康だって分かっている。
信長は家康を見捨てないし、信長ならどんな困難にも打ち勝つことが出来る。
「佐久間どの・・・・」
家康は静かに答える。
「お手前は、援軍の任を果たしておるし、なんの落ち度も御座らぬ」
信盛が眉を寄せる。
「残った家臣たちに、佐久間どのは勤めを果たした、三河守が勝手に攻めただけだと、織田どのに報告させます」
「いや、そう言うわけには・・・・」
困惑してそう呟く信盛に、それはそうだろう、と家康は思う。
家康を見捨てたとなると、信長は烈火の如く怒るだろう。
どう弁明しても、信盛を赦す訳が無い。
「城の残って居られい」
「ですから、そう言うわけには・・・・」
「三河守さま」
家康と信盛が話していると、織田の副将の平手汎秀が近寄ってくる。
「撃って出るなら、お供致します」
「何を言っておる」
信盛は慌てる。
「殿は城に籠もっておれと、言われたのじゃ」
「三河方々が撃って出るのです」
若い汎秀は、強い表情で告げる。
「援軍である我らが、城に籠もっておって如何いたします」
「馬鹿な事を申すで無い」
信盛が強く諫めるが、汎秀は止めない。
「姉川の戦さの折、三河の方々に奮戦頂いた」
汎秀はギッと強い視線を、家康に向ける。
「今度は我らが、助太刀致す番です」
グッと一歩前に。汎秀は詰め寄る。
「尾張者にも、義理もあれば、武勇もあります」
「・・・・・・・」
家康は平手汎秀という若者を、しばし眺めていた。
この若者が、あの信長の傅役だった老人と、どの様な関係なのか、そしてこの若者自身が、信長とどういう関係なのか、家康には分からない。
だがその顔を見ていると、信長が家康に言った、
「城の籠もっておれ、わしが何とかしてやる」
という言葉を思い出す。
この若者も信長に守られており、それを破ろうとしているのだ。
「好きになされい」
家康が言うと、忝い、と汎秀は頭を下げる。
「行くぞ」
と家康が言って歩き出すと、
「お待ちを」
と言って、服部正成が駆け寄り、その場にひざまづく。
「今、物見を出しております、しばらくお待ち下さい」
家康はムッとして、顔をしかめる。
此度の武田との戦さ、絶えず後手後手に回っている。
勿論、家康と信玄の力量の差はあるだろう。
しかし正成の間諜が上手くいって居らず、武田の忍びにしてやられているのもある。
「もう良いわ」
「しかし罠を張っております」
「罠だと分かっておる罠など、罠では無いわ」
そう言って家康が進む。
殿、と正成近寄るが、
「退け、伊賀者」
と言って、忠勝が追い払う。
門の前に立ち、家康は振り返って家臣に告げた。
「皆、出陣じゃ」
おおおっ、と家臣たちが声を上げる。
そして武田が待ち構える戦さ場に、死地に向かう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます