防戦
ようやくに織田の援軍がやって来た。
しかし・・・・・。
「たったの三千」
阿部正勝の報告を聞き、家康は言葉を失う。
その上、やって来た将が問題だ。
「おおっ、次郎三郎」
家康の叔父、水野信元である。
「なに心配するな、わしに任しておれ」
ははははっと笑いながら、信元は家康の肩を叩く。
ええっ、家康は短く答えた。
家康はこの叔父が嫌いだ。
別に叔父が織田に付いたせいで、父広忠と敵味方になり、母が離縁されたからでは無い。
叔父甥であるとは言え、家康は三河の国主、それに対し信元は刈谷の国衆に過ぎない。
それなのに信元は、家康に馴れ馴れしく接して来る。
信元が気さくな人間なら良い。
しかしそうでは無いのだ。
信元は叔父甥の仲なら、家康に対して強く出れるから、そうしているだけなのだ。
もし立場が逆で、信元が国主なら、
「甥とは言え、わしは国主、礼儀をわきまえぬか」
と言うだろう。
信元はそう言う男だ。
よく居る人物と言えばそれまでだが、家康はやはり好きになれない。
援軍の大将は、織田の次席家老、佐久間信盛である。
副将は平手汎秀という、二十歳そこそこの若者であった。
平手という姓に、家康は聞き覚えがある。
信長の傅役をしていた老人が、そんな姓であった。
あの老人の孫か・・・・・。
家康はそんな事を思ったが、老人の顔は覚えていないので、眉の太いクッキリとした若者の顔を眺めていても、特に何とも思わなかった。
「三河守さま、ご安心を」
不服そうな家康を顔を見て、信盛が告げる。
「此処には三千しかおりませぬが、全軍合わせれば、二万に御座います」
「では・・・」
残りは後から来るのか?
そう家康が尋ねようとすると、先に信盛が答える。
「岡崎や吉田に、それぞれ兵を詰めております」
三河の岡崎は、家康の嫡子信康が居る松平の本拠地、吉田は渥美半島の付け根にある東三河の要衝だ。
「岡崎には林どのも入っております」
林とは、織田家の筆頭家老林秀貞の事である。
「浜松で武田を防ぎ、後詰めを出せば、問題ありませぬ」
それでは困る、と家康は言いそうになった。
二俣城が落城した。
「申し訳御座いませぬ」
城主の中根正照は、城を開け、浜松に逃げた来た。
その事を家康は責める気は無かった。当然の事だし、城主に命じた時も、口には出さなかったが、程よいところで逃げる様に、暗に指示していた。
正照もそれを了承して、逃げて来たのだ。
だが・・・・。
「後詰めを出して頂いたにもかかわらず」
よい、と家康は手を振る。
後詰めが来ないと思って、正照は城を開けたのだ。
だが後になって、家康が兵を出していたと知り、正照は自分を責めているのである。
家康からそすれば、兵を出したつもりは無い。
勝手に本多忠勝ら、若い衆が出て行って、それを連れ戻す為に出て行っただけなのだ。
「取られたら取り返せば良い」
頭を伏せる正照に、家康は告げた。
「それだけだ」
浜松の東にある二俣城が落ちた以上、それより東にある掛川、高天神城とは遮断された。
今は師走、田植えの時期まで戦さが出来るとなれば、武田には後、四ヶ月は時があるという事だ。
信玄はおそらく浜松には来ないだろうと、家康は見ている。
田植えまでの四ヶ月を使い、掛川、高天神城を締め上げて落とし、東遠江、奥三河の支配を強めるはずだ。
そしてそれが厄介なのだ。
武田の武器は、当主信玄の調略と、騎馬である。
騎馬と言って、戦場を駆ける一騎駆けの騎馬ではない。
信玄はその支配した領地に、棒の道と言う道を通す。
この道を使い、甲斐の名産である馬を使い、素早く行軍するのだ。
普通、徳川や武田の様な、地侍が中心の軍勢は、田植えや稲刈りが終わった時期に、陣触れを出し、国主の居城に集まった後、他国に攻め入る。
そうなれば、必ず二ヶ月三ヶ月はかかる。
しかし武田では、それが半月足らずで出来るのだ。
それが武田の騎馬隊の恐ろしさなのだ。
恐らく信玄は、掛川や奥三河の領地に、棒の道を通すはずだ。
そうやって、田植えの時期に甲斐に戻り、田植えが終われば再び攻めて来る。
それも甲斐から三河に来るのに、半月足らずでだ。
そんなもの防げる筈がない。
各城に兵を置き、浜松が囲まれれば後詰めを出す。
信長らしく無い策だ。
信盛や秀貞の策だろうか?
いや、織田家ではそれは有り得ない。
ではやはり兄上の考えなのか?
家康は首を捻る。
どうも府に落ちない。
少し経って、織田の将兵から漏れて来る話を聞き、家康は理由が分かった。
上方の門徒との戦いで、織田はかなりの苦戦しているらしい。
その為、織田は徳川の援軍を送る余裕が殆ど無いのだ。
将も佐久間信盛は兎も角、若輩の平手汎秀や、名ばかりの筆頭家老の林秀貞。
兵の方も、精鋭は門徒との戦さに出ており、尾張に残っていた怪我人や老兵ばかりだと言う。
クソっと、家康は頭を抱え、また爪を噛む。
どうする?
いや、どうすれば良かったんだ?
部屋で一人になると、家康はその事ばかり考える。
無理にでも、二俣に後詰めを出すべきだったのか?
いや、どっちにしても無理だった。
ならば二俣に、最も兵を入れるべきだったのか?
そんな兵は居ないし、二俣は小城だ。
奥三河の連中が裏切らない様、何とか手を・・・・・・。
どう打つと言うのだ、手などなかった。
そもそも武田と組んで今川を攻めるから。
だが攻めねば、今川に滅ぼされている。
考えれば考えるほど、自分がどうしようも無い様に思えて来た。
どうにも出来なかった。
初めから、生まれて時から。
そんな風にまで考え始めている。
どうすれば良かった?
どうしようも無い。
どうすれば良かった?
どうしようも無い。
その言葉が、何度も何度も、頭の中を駆け巡る。
ああっ、と呻き、両手で顔を押さえる。
何でこんな事に・・・・。
そう思ってしまう。
こんな風で無い人生を生きたかった。
ではどんな人生だ?
両手を放し、ジッと前を見る。
律儀に生きたかった。
太原雪斎に言われた。
律儀に生きる事が肝要だと。
そうだ、律儀に生きる。
家康はそれだけだった筈だ。
だがどう生きれば律儀なのだ。
家康にはもう、何も全く分からない。
「殿」
服部正成が部屋に入って来た。
「武田に動きが」
うむ、と家康は頷いた。
掛川か高天神に向ったのだろう。
それを家康は、黙って見ているしかない。
討って出たところで、二俣の二の舞いだ。
「岡崎に向っています」
そうか、と家康は正成の言葉に頷く。
うむ、と呟き、家康は腕を組む。
「殿」
再び、正成が口を開く。
「何じゃ?」
「武田が、岡崎に向っております」
「だから、分かったと言うて・・・・・・」
言いかけて家康は止まる。
「お前、今、何と言うた?」
ジッと鋭い三白眼で家康を見つめながら、正成が告げる。
「武田が岡崎に向けて、軍を進めております」
「・・・・・っぁ・・・・」
驚いて家康は、顎が外れるほど口を開けた。
「殿」
心配して、正成が近づこうとするが、家康は手で制し、首の振る。
岡崎に向っている?掛川や高天神では無く?
「どう言う事だ?」
思わず声を上げる。
「分かりませぬが、おそらくは・・・・・」
尋ねた訳では無いのだが、正成が答えようとする。
「われらと織田を分断するつもりなのでしょう」
うっ、と家康は唸る。
その通りだ、それしか考えられ無い。
そして家康はある事に気が付く。
家康は信玄を手強い敵相手だと、恐るべき敵だと思っていた。
しかしそれは間違いなのだ。
信玄が岡崎に向ったのは、信長に徳川から手を引けと言うためなのだ。
最初から信玄は、信長を相手に駆け引きをしていたのだ。
家康など、端から相手にしていなかったのだ。
ははははっ、と家康は力無く笑う。
家康は如何するか?如何するべきか?ずっと悩んでいた、考えていた。
しかしそれは、意味のない事だったのだ。
家康を如何するかは、家康が決める事ではないのだ。
信長と信玄が決める事なのだ。
家康はまだ、己を如何するか決める、勝負の場にすら上げてもらっていなかったのだ。
「城に籠もっておれ、わしが何とかしてやる」
信長の言葉が頭の中で響く。
その通りだ、その通りなのだ。
これは信長と信玄の戦いなのだ。
自分が何かを考える必要も、決める必要もないのだ。
それなのに・・・・・・。
ははははははっ、と家康は己の滑稽さを唯々笑う。
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