第62話 一言坂の戦い
気に入らない。
勿論、主君徳川家康の事である。
「なぜ、我らを信じてくださらぬのですか」
そう内藤家長は言いたかった。
しかし耐えた。
耐えねば良かったと思った。
いっそ言ってやれば良かったと、後悔した。
数日前、二俣城救援の為、後詰めを出しましょうと、嘆願しに行った。
しかし家康の返事は、織田の援軍が来てからだの一点張り。
確かに勝ち目が薄いのは分かる。
それでも討って出るべきだと、家長は思った。
軍勢は数も大事だが、士気も大事である。
ここで討って出ねば、士気は落ちる一方だ。
その上、家康が家臣たちを信じず、織田を頼りにしてる。
これでは益々、皆やる気を無くす。
男の子とは武士とは、己を認めてくれる者の為に、命をかける者だ。
それなのに家康は、全く家臣を信じていない。
それでは皆が命をかけれない。
それではどんな相手にも、勝てはしない。
もっと我らを信じて欲しい、認めて欲しい。
そう家長は、主君家康に言いたかった。
「殿に認めて欲しいなら、認められる様に精進しろ」
そう従兄弟の正成など、家中の老兵は言う。
家中の老兵たちは、家康に少し弱い。
理由は松平の先代、そして先々代が家臣の謀叛に遭って命を落としているからである。
その為、老兵たちは、家康に負い目、引け目を持っており、本多作左衛門重次を除けば、皆あまり何も言わないのだ。
「主君が自分たちを信じないのは、自分たちが家臣として未熟だからだ」
「だから家臣として、殿に精一杯、忠義を尽くせ」
それが老兵たちの理屈だ。
大人の理屈だ。
正しいがそれは、大人の理屈だ。
家長たちはそれに賛同しない。
自分たちを信じず、他家の織田を信じる家康を赦せない。
「殿は何故、我らを信じない」
「気に入らぬ」
皆で集まり、そう言い合っていた。
「ではどうする?」
榊原康政がそう問うた。
「無論、我らだけで討って出る」
そう本多忠勝が答えた。
「そうだ、そうだ」「討って出よう」
皆が同意した。
家長が周りを見る。
忠勝に、渡辺守綱、それに鳥居忠広、本多正重、酒井重勝。
みんな居る。
家中の若い連中が集まり、勝手に討って出ているのだ。
皆、何のために戦おうとしているかといえば、それは当て付けの為に、戦おうとしている。
自分たちを信じない主君家康に対して、当て付けの為に戦おうとしている。
家老の酒井忠次が、武田が警戒しているから、勝ち目はないと言った。
その通りだろう。
こんな百人程度の人数で向かえば、間違いなく皆殺しに遭う。
それなのに家長は、何の恐怖も後悔も無い。
主君への当て付けの為に死ぬのに、それに疑いもない。
それが男の子だ、それが侍だ、何より若さだ。
大人たちは、馬鹿だと言うだろうが・・・・・。
いや、違う。
家長は首を振る。
若さだけでは無い、三河者だから戦うのだ。
大人は、そして尾張者は、馬鹿だと言う。
だが家長達にすれば、馬鹿で結構だ。
三河者は、つまらぬ意地の為に死ぬ。
賢くは生きない、愚かに生きる。
愚かに生きて、意地を張って当て付けで死ぬのだ。
それが我らだ。
幼き日、三河は今川に支配され、織田に攻められていた。
大人たちの不甲斐なさに、何時も腹を立てていた。
自分たちが大きくなれば、力があれば。
そう思っていた。
大人になった。力を得た。
だから戦う。
望む様に行き、望む様に戦い、望む様に果てる。
周りを見る。皆がいる。
何も恐れる事はない。
「・・・・おいでなすったか」
前方に気配を感じる。
ニッと隣りに居る広忠に微笑み、家長は弓を構える。
「居たな」
報せ通り、徳川勢が居る。
しかし思ったより数は少ない。百人も居ない。
恐らく偵察隊であろう。
「どうするね?大将」
と左近は部隊を率いて来た山県昌景の方に、顔を向ける。
武田軍は、信玄の本隊と、別働隊の山県隊で二俣城を包囲していた。
徳川が動いたと聞き、信玄は山県昌景と腹心の馬場信春に迎撃を命じる。
大将は昌景で、副将が信春だ。
馬場信春の方が、年齢も家中での席次も上だ。
しかし任されている兵は、昌景の方が多い。
勇猛果敢で押して押しまくる昌景に、目付け役として信春を置いているのだろう。
「馬場隊はここに残り、後の者は敵の背後に回り込む」
昌景から指示が出る。
坂の下かい、と左近は呟く。
ここは一言坂という坂だ。
此方は坂の上に構えている。
逆落としを掛ければ、相手はあっさり壊滅するだろう。
しかしそれでは相手を逃してしまう。
敢えて坂の下の背後に回り込んで、相手を皆殺しにする気だ。
当然だ。
相手は偵察隊。本隊に報告されれば厄介だ。
坂の上から馬場隊の攻撃が始まった。
あぁぁ、と左近は呟く。
将がだらしないのか、奇襲というわけでもないのに、徳川勢の動きはバラバラだ。
馬場隊に押されて、徳川勢が此方に来る。
「逃すな、討ち取れ」
昌景の声が響く。
「こっちにも敵だ」
「囲まれておる」
徳川勢の悲鳴が聞こえる。
終わったな。
楽な戦さだ。
そしてつまらぬ戦さだ。
少し離れた所で、左近はそれを眺めている。
徳川の兵は次々討ち取られていく。
昌景も楽勝だと思ったのだろう、いつもの様に激しくは攻めない。
少しずつ確実に、徳川の兵を討ち取っていく。
終いだな。
そう左近が思った時、
「うわぁあああああああああ」
天地が裂けるような唸り声が聞こえて来る。
なんだ?と顔を向けると、黒い大きな影が、此方に突っ込んでくる。
「あああああああっ」
唸り声と共に、影が旋回する。
周りの山県隊の兵が、次々に吹き飛ばされていく。
死兵だ。
追い詰められた兵は、ごくたまに死域というものを超え、死兵になる。
「間を取れ、飛礫衆、構えろ」
昌景は素早く命じる。飛礫が死兵に飛ぶ。
しかし死兵は止まらない。
無駄だ。
死兵は痛みを感じない、飛礫程度では止まらない。
ただそれは、昌景も承知だ。
「槍を構えろ」
昌景は続けて命じる。
飛礫はただの牽制。
本命は槍衾での串刺しだ。
山県昌景は勇猛果敢な将だが、猪突猛進の愚将では無い。
ただの死兵に、戦局を一転などさせない。
「突け」
昌景の号令で、槍隊が死兵を串刺しにしようとする。
その時、一矢、坂の上の徳川勢から放たれる。
ぐわっ、と呻いて槍衾の一角が揺らぐ。
まずい、と左近は思った。
昌景も思っただろう。
死兵はその揺らいだ槍兵に躍り掛かる。
「防げ」
昌景が怒鳴るが遅い。死兵は縦横無尽に暴れ出す。
「間を取れ、隊列を崩すな」
再び昌景が部隊を離そうとする、しかし死兵はそれを許さない。
これは厄介だね。
左近は苦笑する。
しかし・・・・・。
ジッと左近は己の手を見る。
震えていない。
あの鬼に会った時の様な、震えは無い。
それはそうだ。
左近は身を低くする。
死兵が大きく槍を振るった時、低い姿勢のまま体当たりを喰らわせる。
ばん、と死兵は跳ね飛ぶ。
あの鬼とは違う。
自分とそれ程変わらぬ、巨体の死兵を眺めながら左近は思う。
ただの死兵だ。
力はあってもそれだけだ。
戦いは力だけでは勝てない。
大切なのは、緩急だ。
ぐぅっと唸り、死兵は左近を睨む。
スッと大太刀を抜き、左近は死兵と相対する。
その時、山県隊の背後から、わぁあああと声がする。
「徳川の本隊か」
昌景は直ぐに、そちらに隊列を向けようとする。
「槍隊構え」
今度は背後の徳川本隊に、槍衾を構える。
だが、ぐわっと、叫び声を上げ、槍兵が一人、跳ね飛ばされる。
「強弓か」
昌景が声を漏らす。
横目で左近が倒れている槍兵を見ると、喉に矢が刺さっている。
矢でふき飛ばすのか?とんでもないのがおるなぁ。
そう思っていると、ぐわっ、あがっ、と山県隊の槍兵が呻き声を上げ、次々その場に倒れて行く。
はっ、と左近が向きを変えると、太刀を構えた武者が、山県隊の槍衾を打ち破り、左近と死兵の間に立つ。
「平八郎、無事か」
その武者、ヤクの毛が付いている立派な兜を付けた武者が、背後の死兵に声を掛ける。
ううううっ、と唸るだけで、死兵は答えない。
まぁ、答えられないのだろう。
「肥後どの、息はあります」
白いポチャっとした武者が、死兵に近付き、様子を見ている。
「小平太、平八郎を連れて行け」
ヤクの毛の兜を付けた、肥後と呼ばれた武者が、左近に構えをとったまま、白いポチャっとした武者に命じる。
承知と言って、白ポチャは、死兵を抱えて走り去る。
すぅうううううう、と小さく長い息を、ヤクの兜の武者はする。
強い、明かに強い。
「山県さま」
左近が大声を上げる。
「退きましょう、ここは」
「・・・・・・・そうだな」
昌景は勇猛果敢だが馬鹿ではない。引き際は分かっている。
「退くのか?」
ヤクの兜の武者が、ジッと鋭い目で左近を見ながら問う。
「相手の力量も分からぬほど、未熟で無いですよ」
左近はそう言って、太刀をしまう。
しかしヤクの兜の武者の方は、太刀を構えたままだ。
「ときに・・・・・」
ニッと微笑み、左近は問う。
「先程の御仁、平八郎と・・・・」
「・・・・・ああっ」
全く隙の無い構えのまま、ヤクの兜の武者は答える。
「まさかあの、姉川の戦さで一騎討ちを演じた、本多平八郎どのか?」
「・・・・・・そうだが」
ははははっ、と隙だらけの左近は笑う。
「これはいい」
「・・・・・・?」
ヤクの兜の武者は、不審な顔をする。
「つまらぬ勝ち戦さと思うておったが、なかなかどうして、徳川さまは勇士揃いだ」
山県隊が退き始める、左近も相手に背を向ける。
「それでは」
と言いって、左近が去ろうとすると、ようやくヤクの兜の武者も太刀を収めて退がる。
クルリと顔だけヤクの兜の武者、そして徳川勢に向け、左近は大声で告げる。
「徳川三河守に過ぎたもの、唐の頭に本多平八」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます