第61話 二俣城 救援

 爪を噛むのが止まらない。

 たとえ酒井忠次に叱られても、今の家康には止められない。

 武田の侵攻は始まった。

 先ずは武田随一の闘将と言われる、山県昌景が信濃から直接三河に侵攻する。

 これには家康も驚いた。何故なら遠江の浜松で待ち構えていたからである。

 菅沼定盈の仲介で家康に与していた、奥三河の山家三方衆があっさり武田に奔ったのだ。

 三千で三河に侵攻した山県勢は、三方衆を配下に加え、五千に増えた。

 そこに今度は武田信玄の本隊が信濃から青崩峠を通り、遠江に侵攻。

 こちらも遠江の犬居城の天野景貫が、直ぐに寝返り、居城を明け渡す。

 信玄はその城を、腹心の馬場信春に任せて、二俣城を包囲する。

 二俣城は、家康の居城、浜松の北東に位置し、天竜川と二俣川の合流地点にあり、小城だがかなりの堅城だ。

 しかし詰めている兵は、千二百。

 城を囲む武田方は信玄の本隊は二万二千、そこに山県勢も加わり三万近くになっている。

 二俣が陥ちれば、それより東にある、掛川、高天神と言った遠江の要衝は、浜松と遮断される。

 そうなればそれらの城も直ぐに陥ちる。現に只来、天方、飯田と言った掛川周辺の小城は、既に武田に降っている。

 直ぐにでも家康は、二俣城の救援に向かわなければならない。

 しかし家康は迷っている。

 浜松には八千の兵がいる。

 この数で攻撃しても、武田を破れるかどうか難しい所だ。

 その上、遠江の国衆たちが次々に武田に奔っている。

 もし浜松を空ければ、誰かが裏切り、浜松を乗っ取るかもしれない。

 それどころか、武田に攻め掛かろうとするのを、信玄に密告する者がいるかもしれない。

 新たに加わった家臣たちは、信用出来ない。

 いや、それどころか、譜代の三河衆とて分からない。

 なぜなら家康の父も祖父も、家臣の謀叛に遭って死んでいるのだから。

 だから不用意に、家康は動けない。

 もはや家康が信じられるのは、信長だけだ。

 信長だけは、兄上だけは、自分を裏切りないし見捨てない。

「城に籠もって何もするな、わしが何とかしてやる」

 目を閉じると、信長の言葉が頭に響く。



「殿」

 城に籠り、唯々爪を噛んでいると、阿部正勝がやって来た。

「榊原小平太どのが、お目通りを願い出ています」

「いい、追い返せ」

 手を振って家康は応える。

 用件は分かっている。


 数日前、榊原康政と内藤家長が面会を求めて来た。

「二俣城に後詰めを出しましょう」

 予期していた事を、家長は口にした。

 腕を組んで、うむ、とだけ家康は頷いた。

「このまま中根どのを、見殺しになされるのですか?」

 家長が詰め寄る。

 二俣城には、譜代の家臣、中根正照を入れている。

 実直な人物で、家康を裏切る事はまず無い。

 ただ本多重次の様な頑固者でもなければ、家長らの様な血気盛んな若者でも無い。

 家康が後詰めに出れないとなれば、出来るだけ城に立て籠り、限界が来れば、城を開けるだろうと、家康は見ている。

 もっともそれは、高力清長の読みで、正照を城主にする様に薦めたのも、清長である。

 だから家康は、二俣城は半分諦めている。

「織田どのの援軍が来れば、直ぐにでも向かう」

 信長の援軍さえ来れば、勿論、後詰めに向かう。

「それはいつ来るのです?」

 強い口調で家長が言う。

 ぐっ、と家康は言葉に詰まる。

 家長も、本願寺が蜂起して、織田がそれどころでは無い事は、知っているのだ。 

「殿」

 家長の隣に座る康政が、少し前に出る。

「敵は多勢、こちらは無勢」

 ポッチャリとした白い顔の中の小さな目が、鋭く光る。

「しかしこちらには、地の利があります」

 声を落とし、康政が告げる。

「奇襲を掛けましょう」

 うむむっ、と家康は唸り、側に控える酒井忠次の方を見る。

「・・・・・・・」

 何時ものムスッとした顔で、何も答えない。

「小五郎」

 呼び掛けても、返事もしない。

「どう思う?」

 強い口調で家康が問うと、腕組みを解き、ゆっくり答える。

「武田はおそらく、奇襲は読んでおるでしょう」

 家康にも康政たちにも目を合わさず、淡々と忠次が告げる。

「成功するのは、万に一つかと」

「しかしご家老」

「ただし」

 康政の反論を、忠次が遮る。

「ここに籠もっておれば、万に一つも生き残れないでしょう」

 静かに忠次は家康を見る。

「殿」

 忠次の言葉を得て、家長が再び詰め寄る。

「ここは討って出るべきです」

「・・・・・・っ、ぁ」

「殿」

「ま、待て」

 詰め寄る家長を、家康は止める。

「万が一の策など、乗ることなど出来ぬ」

「しかし、殿」

「織田の援軍さえ来れば、二股が落ちようと、掛川や高天神が落ちようと、全て取り返せるのだ」

 家康の読みでは、武田は二俣城を落とした後、それらの城を攻めるはずだ。

 その間に本願寺との戦さを片付ければ、必ず信長が助けに来てくれる。

 信長は絶対に自分を見捨てないし、信長が来れば、どんな敵にでも勝てる。

 そう家康は信じている。

「今は耐えろ」

 家康が強く二人に言う。

「・・・・・・・」

 全く納得していない顔を、二人は見せる。



 その康政が来たのだ。

 どうせ同じ話だろう。

「火急の様だそうです」

 淡々と正勝が言う。

 はぁ、と一つ溜息を吐く。

「分かった、会おう」

 

「申し訳ございませぬ」

 いきなり、康政は頭を下げる。

 予期していなかった行動に、家康は戸惑う。

「な、なんだ?」

 はっ、と康政が顔を上げる。

「実は平八郎めが」

「・・・・・っぁが・・・・」

 家康は固まる、その先は聞かなくても分かる。

「勝手に皆を率いて、二俣城に向かい」

 ぐっ、と家康は康政を睨み、嘘をつけ、この白ポチャめ、と心の中で怒鳴る。

 明らかに康政が唆したのだ。

「まことに、申し訳ございませぬ」

 再び康政が頭を下げる。

 しかしもう家康は、康政を見ていない。

「肥後と大久保の七右衛門を呼べ」

 そう正勝に命じると、家康は立ち上がる。

 

  

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