国主の駆け引き
武田の侵攻が始まった。
それは予期していた。
しかし予期していない形で起こった。
「公方まさの命?」
家康は思わず大声を上げる。
「ど、どういう事じゃ?」
武田信玄が、足利公方義昭の命を受け、織田討伐のため、徳川に攻めるというのだ。
「なんでそうなる」
家康にしれば、全く意味が分からない。
上洛して義昭を将軍にしたのは信長である、その信長を義昭が追討せよと言っている。
「実は・・・・・・・」
事情を聞くため呼び出した鳥居元忠が、苦い顔をで告げる。
「以前から公方さまと織田どのの仲が、あまりよろしくなく・・・・・」
「知っておったのか、お前」
「申し訳ございませぬ」
家康の怒号に、元忠が頭を下げる。
ふん、と家康は大きく鼻で息をする。
どうせ家康に意味がないと思って、言わなかったのであろう。
顔をみれば分かる。
それはそうだが、それでも言え、わしは主君だぞ、このゆからぬ者め。
そう心の中で怒鳴りながら、家康は元忠を睨み付ける。
しかし簡単に元忠を責められない。
信長と義昭に溝があったのは、家康も知っていたのだ。
義昭を奉じて上洛したにも関わらず、信長は義昭の仇である、松永久秀を赦しているのだ。
しかし、それでも・・・・・。
「公方まさも、大それた事を・・・・・」
家康の呟きに、元忠も肯く。
今や間違いなく信長は、上方、いやそれどころか天下第一の実力者である。
それなのに、その信長を討とうとは・・・・。
一度だけ見た義昭の大きな顔を思い出し、家康はくびを振る。
だが考えて見れば、姉川の戦さの時、信長の明智光秀に対する態度が妙であった。
あの時、既に二人はこうなる事が分かっていたのか。
むむむっ、と家康が唸る。
「・・・・・・・」
ふと、元忠と目が合う。
「彦右衛門、まだ何か言ってない事があるのでは無いか?」
その目を見て、家康はそう感じた。
「いや、その・・・・」
「あるのか?あるなら言え」
「いや、この事は別に・・・・・」
元忠の歯切れが悪い。
「良いから、言え」
決めるのはわしじゃ、主君はわしじゃ。
そう思いながら、家康は詰め寄る。
「実は・・・・・・」
仕方なしに、元忠が口を開く。
「内々の話で、茶屋どのの親しい者が、拙者に所に来て・・・」
「それでなんじゃ?何があった」
なかなか言わない元忠に、家康は苛つく。
「あっ、はい」
観念して元忠が告げる。
「実は公方さまが、殿に副将軍になって頂きたいと」
「ふ、副将軍?わしがか?」
副将軍と言えば、義昭が信長に与えようとして断った役職。
そんなもの本来は存在しない、信長の為に特別に作ったものだ。
それでも一応、管領職より上としている。
「副将軍・・・・わしを・・・・」
「殿」
呆けている家康に、側に控える酒井忠次が、何時ものムスッとした顔で告げる。
「受けてはなりませぬ」
「わ、分かっておる」
ジロリと忠次が家康に目を向ける。
「受けても、武田は攻めてきます」
「分かっておると、言うておろうが」
忠次の言う通り、信玄は元々家康を攻めるつもりなのだ。
義昭の命は口実に過ぎない。
越前を攻めた時に、信長が使った手と同じだ。
浅井が朝倉を攻めてくれるなと言う、それに対してこれは公方さまの命令なのだと言う。
信玄が、信長と事を構える気が無いのは、明白だ。
武田の領地は甲斐と信濃、そして駿河。もし本当に、義昭の命令通り、上洛して信長を討つ気なら、信濃から隣国美濃を攻めれば良い。美濃の岐阜が信長の居城なのだから。
徳川を攻撃する必要などどこにも無い。最初から徳川を狙っているのだ。
もう一つ、信玄が信長と事を構える気が無い証拠がある。
信玄は武田の家督を、諏訪家に養子に出した庶子の四男、四郎勝頼の息子に嗣がせると、宣言している。
なぜわざわざ、まだ三つか四つの孫を跡継ぎにしたのか?
理由は明白だ。
その信玄の孫、武王丸の母親が、信長の姪で養女だからだ。
つまり信玄は、自分の跡継ぎは、織田の血筋だと信長に見せているのだ。
信玄は信長に、戦う気はありません、ですが公方まさの命なので、取り敢えず形だけ、徳川を攻めます、と言っているのだ。
もし家康が、副将軍の職を受け、義昭に与すれば、信玄は、織田どのの敵を討ちましょう、と言って徳川を攻めるであろう。
武田は甲斐守護の家だが、信玄は先代の公方、足利義輝の頃から、その命を聞いた事が無いので有名だ。
散々義輝に、越後の長尾景虎と戦さを止めるように言われたのに、全く命に従わなかったのである。
それを今更、将軍の命で上洛して織田を討つなど、嘘に決まっている。
あくまで狙いは家康だ。
ぐぐぐっ、と家康は唸る。
こうなれば・・・・・・。
「兎に角、守りを固め、織田どのの援軍を待つしかあるまい」
「それは・・・・・・」
元忠が顔を歪める。
「安心致せ、織田どのが我らを見捨て、武田に付くことは無い」
信長が家康は見捨てる事は無い。
それは家康は分かっているが、大半の家臣は勿論、分かっていない。
ただ元忠や忠次など、一部の者は、なんとなく分かっている様だ。
「いえ・・・その・・・」
その元忠の歯切れが悪い。
「心配致すな」
「いえ、そうでは無く」
元忠が首を振り、一息吐いて、静かに告げる。
「織田どのは今、上方から動けないのです」
「何故だ?」
そんな事無いだろうと、家康は声を上げる。
確かに浅井長政や三好一党、六角の残党たちと信長は戦っているが、いずれも信長の敵では無い。
だが元忠が顔を歪めて、理由を告げる。
「大阪の本願寺の本山、石山御坊が、公方さまの命を受け、織田どのに一揆を起こしたのです」
「・・・・・っ、ぁ」
家康言葉を失う。
三河で門徒に一揆を起こされた事がある家康は、その恐ろしさが骨身に滲みている。
侍が戦さで敵を討つが、それは単純な人殺しでは無い。
あくまで武勲のため、手柄の為に戦う。
だから雑兵を、あまり相手にしない。
自分と同じ侍を狙うのだ。
そして雑兵たちは、自分が仕えている侍の盾になったり、相手の隙を突いたり、敵の雑兵を抑えたりする。
基本、侍同士の戦いで戦いである為、暗黙の決まりの様なものがある。
しかし門徒の一揆は違う。
先ず侍以外が沢山加わる。
それも農民の雑兵では無い。女子供、老人が、鍬や鋤を持って襲いかかってくるのだ。
彼らは手柄の為になど戦わない。
目的はただ一つ、仏敵を屠る為に戦っているのだ。
勿論、侍の方が武器も優れているし、戦いにも慣れている。
しかし大量の人数と、死をも恐れぬその心には、負けてしまう。
それにもう一つ問題なのは、門徒を討っても手柄にならないという事だ。
農民の女子供、老人を幾ら殺しても、当然、手柄にならない。
だから侍たちの士気も上がらないのだ。
「な、なぜ、門徒が?」
それも本願寺の本山である、石山御坊が蜂起したのだ?
信長が上洛した時、本願寺に矢銭を要求した。
これに対し本願寺側は、五千貫の矢銭を払った。
名目は京都御所の再建であり、本願寺側も信長に払ったのでは無く、将軍である義昭に払ったとしているが、実際のところは信長の上方支配を本願寺が認めた証である。
信長の方でも本願寺の寺領には一切、手を付けていない。
以前信長は家康に、坊主と戦うなど阿呆だ、と言っていたが、本当にそう思っていたのだろう。
だから出来るだけ、本願寺を刺激しない様にしていた筈だ。
それが何故?
「武田信玄の妻は、公卿三条家の出で御座います」
唐突の元忠の言葉に、意味がわからず家康は首を捻る。
「その妻の妹が、本願寺の門首、顕如の妻なのでございます」
「はぁ?」
家康は目を見開いて驚く。
本願寺の浄土真宗が他宗と違うのは、僧の妻帯と認めている事である。
開祖親鸞も妻を娶っており、代々その血筋が門首となっている。
本願寺の力が大きくなれば、当然、貴顕の者から嫁を取る。
それで国主や公卿などと、縁続きになるのだ。
「信玄は以前も、越中の門徒を動かし、越後に攻撃を仕掛けております」
元忠の言葉を、半分、上の空で家康は聞く。
信玄は妻の実家を通し、門徒の一揆を起こさせる事が出来る、そういう事だ。
「・・・・っ・・・ぁ」
言葉が上手く出ず、呼吸も上手くできない。
信玄は信長と事を構える事を避けている、そう家康は思っていた。
なぜなら信長には、銭で集めた牢人衆の足軽鉄砲隊がいるからだ。
その連中で、田植えや稲刈りの時期に攻められれば、ひとたまりも無い。
現に越前を攻めたとき家康は、朝倉が手も足も出なかったのを目にしている。
各地の諸侯は地侍が主力だ。
彼らはそれぞれの所領に住み、陣触れを出すと集まってくる。
それでは遅過ぎ、織田の軍勢には間に合わない。
まして田植えや稲刈りの忙しい時期には、集まることすら出来ない。
武田であろうが、北条であろうが、西国の毛利であろうが、信長の足軽鉄砲隊の前には、誰も敵わない。
そう家康は思っていた。
しかしそんな事は無かったのだ。
門徒の一揆。
それを操れるとするなら、信玄に信長は勝てない。
織田の鉄砲隊ですら、門徒の一揆には手こずるはずだ。
恐ろしい・・・・。
心の底から家康は、信玄が恐ろしくなった。
信玄は表面上、足利公方義昭の命を受け、織田を討つため上洛すると言っている。
しかし裏で、信長の姪の子を跡継ぎにすると宣言し、織田との対決を避けている。
だがその更に奥で、門徒を動かし、織田を牽制している。
信玄の狙いはあくまで徳川だ。
信長に対し、徳川に手を貸せば、門徒の一揆を続けるぞと、言っているのだ。
これが国主の駆け引きか。
家康は息を飲む。
裏があるだけでは無い、更にその奥があるのだ。
こんな相手に勝てるわけがない。
家康は少し、信玄を甘く見ていたところがある。
太原雪斎が存命で、今川が盛況だった頃、武田と今川では、今川が方が優勢だった。
それも断然、今川が勝っていたのだ。
信玄は今川に、多少のちょっかいは出していたが、今川に逆らう事はしていなかった。
どうしても若き日のその記憶が、家康に信玄を少し甘く見せたのだ。
しかしそんな甘い相手では無い。
今川義元には雪斎が居たから、信玄を抑える事が出来たのだ。
言ってしまえば、義元と雪斎の二人がかりで、信玄を抑えていたのだ。
勝てない、そんな相手に勝てるわけが無い。
家康は絶望で、目の前が真っ暗になるのを感じた。
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