第58話 甲賀の里
「不味い」
鈴木孫三郎重朝が呟く。
「そうか?悪くないと思うが・・・・・・」
そう言って鳥居元忠は、重朝の手にある蜜柑を取り、一房、口に入れる。
「うむ、酸っぱくて旨いぞ」
「・・・・・蜜柑は甘くて旨いものじゃ」
重朝は目を細める。
「やはり蜜柑は紀州のものじゃ、他の土地では旨くならぬ」
「そうか・・・・・?」
元忠は首を捻る。
「紀州と三河でなにが違う?」
「全てじゃ」
ピシャリと重朝は言う。
「風、水、土、それに陽の光、全て違う」
そうか、と元忠は苦笑する。
六年前、京に木綿を届けようとした時、甲賀の忍びに襲われそうになり、重朝と出会った。
その時、元忠は雑賀衆の重朝に、紀州雑賀に何か名品はないか?と尋ねた。
重朝は驚き、初めは相手にしてくれなかったが、しつこく元忠が尋ねると、
「蜜柑に決まっておろう」
と、ぶっきらぼうに答えた。
なるほどたしかに、と元忠は頷く。
紀州の蜜柑は有名だ。
元々蜜柑は、唐土から肥後国の八代という所に伝わった。
その後、その八代の蜜柑が京の朝廷に献上され、これを上方でも作ろうとという事になり、紀州で栽培されたという話だ。
元忠は蜜柑の木を分けてくれるよう、重朝に頼んだ。
初めは相手にしなかった重朝も、しつこく元忠が頼むと根負けし、蜜柑を作っている農家に、口を利いてくれた。
そして数年前、蜜柑の木を三河に運んだのである。
その木がやっと今年、十分な大きさの実をつけた。
元忠はその実を重朝に渡す為、京に木綿を運んだ後、雑賀の里にやって来た。
「不味いわ」
顔を顰めて重朝は告げる。
「これでは売り物になどならぬ」
「そうか?」
「少なくとも、上方では売れぬ」
「・・・・・・・」
重朝は、元忠の方を見ないで喋る。
訪ねても会おうとしなかった。
何かあったな・・・・・。
そう思ったが、元忠は尋かない。
重朝は雑賀衆の鉄砲撃ち。
彼らは銭で諸侯に雇われ、戦さ働きをする。
おそらく元忠に顔を会わせ辛い、何かがあったのだろう。
仕方ない、そういう世だ。
元忠も敢えて、なにも尋かない。
「ではな」
そう言って、雑賀の里を去る。
鬱ぎ込んでいた弟の忠広も、姉川の戦いを機に、家中の者と打ち解けるようになった。
良い事が一つあった。
しかし悪い事は、相変わらず多い。
先ずは妻の病だ。
医者には、もう良くならないと言われた。
側に居てやりたいが、そう言うわけにもいかない。
妻も務めに励むよう、言ってくる。
どうしようも無い事は、どうしようもない。
人の生き死には、どうしようも無い事だ。
その務めの方を、あまり上手くいっていない。
荷を運び、売り買いをしているのだが、あまり銭が貯まらないのだ。
理由は分かっている。
欲を出してしまうのだ。
京に木綿を運び、何も運ばず三河に戻るのを、元忠は損だと思ってしまう。
そこで京の物を、三河に持っていくのだが、あまり何も売れない。
三河の者は質素で、何も欲しがらない。
まして京の高価な品など、特にそうだ。
徳川家中でそう言うのを好むのは、石川の当主、家成ぐらいだ。
そうなれば結局、売れ残り、尾張や小田原まで運び、なんとか売ろうとする。
しかしそうなれば手間がかかり、儲けは無くなる。
父上ならこんな事はすまい、と元忠は思う。
父の忠吉は松平家の宿老でありながら、矢作川の水運を差配する、渡り衆の頭でもあった。
その矢作川の荷運びだけで、巨万の富を築き、その銭で、家康が三河に戻った時、今川から独り立ちするのを助けた。
そんな父なら、欲など出さず、三河の者が何も欲しがらないなら、空の荷で急いで三河に戻り、もう一度、木綿を運ぶだろう。
それが元忠には出来ない。
どうしても物を買ってしまい、なんとか売ろうとしてしまう。
思うに元忠は、物を運ぶ事を、銭を生むためではなく、人と人を結びつける為にやってしまうのだ。
物と物、人と人、人と物が結びつく事に、なんとも言えない面白さを感じてしまう。
それが良くないのだ。
商いは銭を生むもの。銭を生む為のもの。
それ以外の事を考えるべきではないのに、どうして余計な事を考えてしまう。
分かっているのだが、やめられない。
元忠は旅が好きだし、知らない土地で、知らない人に会うのが楽しい。
だが父や優れた商人たちは、そんな事どうでも良いのだろう。
銭になるかどうか、それが大事で、それが全てなのだ。
どうしたものかね。
我が事ながら、苦笑してしまう。
これはどうにか出来る事だが、しかしどうしようも無い事だ。
京の茶屋に戻った。
「準備はよいか?」
荷の手配を命じていた者が、へい、と答える。
「では、いくぞ」
茶屋清延に挨拶をして、京を出発する。
以前の様に、琵琶湖を船で渡る事は出来ない。
近江の浅井が、織田と敵対しているからだ。
両者は姉川で激突。その戦さには織田の援軍として、元忠の徳川家も参戦した。
しかし決着はつかず、両者兵を引く。
そうしていると、四国に逃れていた三好一党が、再び上方に攻め上がってくる。
急ぎ信長は摂津に向かい、これを迎撃。
当然この隙を、長政が見逃す筈がない。
軍勢を率いて、織田方の拠点、宇佐山城に攻め込む。
浅井の猛攻の前に、城主森可成は討ち死。
しかし落城前に、信長が摂津より戻って来て、浅井勢を退ける。
長政は、一旦延暦寺に逃げ込む
延暦寺を囲み、長政の引き渡しを信長は要求するが、叡山は神域あると、延暦寺側はこれを拒否。
三好の動きも気になる信長は、足利公方義昭を通じて、長政と和睦する。
だがこれは誰の目にも、一時期的なものにしか見えない。
琵琶湖を通れないので、元忠は京から東に向かう。
甲賀の里を通り、伊勢に抜け、そこから三河に向かう。
伊勢は織田の滝川一益が治める地、安全に通れる。
甲賀も問題は無い。
「待て」
里に入る手前の森で、茂みの奥から声がする。
「わしじゃ、三河の鳥居彦右衛門じゃ」
元忠が茂みに向かって叫ぶと、スッと若者が一人現れる。
「元気だったか、清十郎」
笑顔で元忠が声をかけるが、若者は無視して、
「頭がお呼びじゃ」
と告げる。
こちらに背を向ける若者を見て、元忠は苦笑する。
若者は茶屋に潜り込み、元忠を罠にかけた男だ。
だが元忠は別にその事を恨むわけでもなく、親しく声をかけている。
もっとも若者の方は、相手にしない。
清十郎という名も、本当の名では無いらしい。
「では本当は何というのだ?」
そう元忠が尋ねると、
「忍びが本当の名を、教えるわけがないだろう」
と若者は冷たい目を向け答える。
里の中央にある屋敷に、元忠は通される。
「よう、来られた」
屋敷の主で、甲賀の望月家の当主の望月出雲守が、縁側で小鳥に餌をやっている。
「ご無沙汰しております」
元忠が挨拶すると、手の中の餌を払い出雲守は振り向く。
四十過ぎの顔の大きな男だ。
別に眼光鋭いわけでもなければ、精悍な顔付きというわけでも無い。
色の白い品のある、上方領主の風貌だ。
以前、その事を元忠が言うと、はははっ、と笑い、
「忍びでござい、などと言う顔をしておれば、忍びとばれますよ」
と言われた。
そう言えばそうだが、徳川に仕える服部政成は、まさに忍びでござい、という顔をしている。
その事を言おうかと思ったが、やめにした。
一度、望月出雲守に、罠にかけられた。
だが銭を払って、その場は見逃してもらった。
その後元忠は、銭を払うので里を通らして貰いたいと頼んだ。
ククッ、と笑い、
「お易い御用ですよ」
と出雲守は答えた。
それから甲賀を通る様に、元忠はしている。
「お呼びだそうで?」
「まぁ、ねぇ・・・・・・」
縁側から立ち上がり、居間の方に入るよう、出雲守は手で示す。
二人は部屋に入り、背後に清十郎が控える。
「実は・・・・・・陣借りに行こうと思いましてなぁ」
そうですか、と元忠は頷く。
陣借りと言うのは、他国の者が銭を貰って戦さに出る事だ。
織田の鉄砲足軽の様な浪人者も居るが、鈴木重朝の様な雑賀の地侍も居る。
甲賀者も、陣借りに出る事が多い。
しかし雑賀衆の様に、鉄砲を使って敵を討つという様な事では無く、物見をしたり、火を放ったり流言を流したりして、敵陣を混乱させたりという様な仕事をする。
「何処に?」
「武田ですよ」
それは・・・・・と元忠が呟く。
甲斐の武田信玄は東の北条、西の織田と手を結んでいる。
攻めるとするなら北の上杉か或いは・・・・・・。
「三河を攻めるそうです」
「そうですか」
淡々と元忠は応じる。
武田はいずれ攻めてくる。
予期していた事だ。
「敵味方になりましたなぁ」
微笑みながら元忠が言うと、いやいや、と言って出雲守はぺシャリと首筋を叩く。
「鳥居どの」
「はい」
「わしはあんたが好きだ」
首を一度回して、出雲守が告げる。
「徳川は滅ぶ」
「そう・・・・ですね」
勢力、将兵の質と数、そして当主の力量、どれを取っても武田の方が数段上だ。
「武田に着けとは言いませぬ」
穏やかな目で、ジッと元忠を見つめる。
「ただ戦さの間は、何処かに逃げておられると良い」
スッと目を離し、ポリポリと頭を掻く。
「戦さが終われば、また木綿を運べば良い」
また目を元忠の方に戻す。
「わしが武田の御屋形さまに、口を利いてさせあげますよ」
元忠は少し驚いた。
他国の、それも忍びの者の言う事を、武田信玄という国主は耳に入れるというのだ。
信じられない話だが、おそらく本当の事だろう。
信玄は謀を得意とする。
そしてその為に、忍びの者をよく使う。
当然、彼らの事を信頼し、その言葉に耳を貸すのだろう。
「いかがか?」
くくっ、と元忠は苦笑する。
「出雲守どの」
スッと元忠は見つめる。
「拙者も貴殿が好きだ」
「・・・・・それは良かった」
「しかし・・・・・・」
少し頭を下げる。
「お気遣いご無用」
元忠は知らぬ土地に行くのが好きだ。そこで人と出会うのが好きだ。
それでも・・・・・。
「拙者は徳川の臣下でござる」
顔を上げ、出雲守を見つめる。
「徳川の臣下として、殿の為に戦わねばなりませぬ」
「死にますよ」
ええっ、と元忠は頷く。
「それが武家の奉公でござる」
「・・・・・・・そうですか」
ふん、と出雲守は息を吐く。
「いらぬ事を言いましたね」
いえ、と元忠は首を振る。
「代わりにと言うと変ですが、頼みを一つ聞いてください」
「・・・・・・まぁ、聞くだけなら」
ニヤリと出雲守が微笑む。
「わしが死んだら、木綿の荷運びの仕事・・・・・・」
元忠は背後を振り返る。
「清十郎に任せたいのですが」
な、なにを、と清十郎が慌てる。
「お前さんは賢いし、働き者だ」
「あれは芝居だ」
清十郎は、罠に掛けるため茶屋の手代になりすましていたのだが、その仕事が見事だったのだ。
「芝居でも結構」
元忠は出雲守の方に向き直る。
「何よりも段取りが上手い」
ほぉ、と出雲守は呟く。
「仕事は段取りが肝でござる」
「確かに」
「段取りの上手い者に、仕事は任せたい」
深く元忠は頭を下げる。
「わしが死んだら、清十郎を茶屋に遣ってください」
「しかし・・・・・」
「茶屋どのも、清十郎を買っております」
はははっ、と出雲守は笑う。
「鳥居どのも、茶屋の亭主も変わっておりますねぇ」
自分たちを罠に掛けようとした男に、仕事を任せたいと言うのだ。
確かに変わっている。
「良いでしょう」
「か、頭」
清十郎が慌てる。
「わしが武田の御屋形に仕えるのは・・・・・・」
出雲守は清十郎の方を見る。
「御屋形がわしを買ってくれるからだ」
静かに、だかしっかりとした口調で、出雲守は告げる。
「男は、自分を買ってくれるお方の為に、働くものさ」
ぅぅっ、と清十郎は詰まる。
「かたじけない」
いえいえ、と出雲守が手を振る。
それでは、と言って、元忠は立ち上がる。
「鳥居どの」
出雲守が声をかける。
「妙な言い方ですが・・・・・」
少し頭を下げて、出雲守が告げる。
「ご武運を」
ええっ、と言って振り返り、元忠も応じる。
「出雲守どのも、ご武運を」
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