信玄、動く
「皆、待たせたな」
信玄が広間に戻ると、雑談していた家臣たちが静かになる。
「さてと・・・・・・」
上座に座り、一同を見回す。
末席に座る遠山景任の、硬い表情をしばし見つめる。
「・・・・・実はな、公方さまより、上洛して織田を討てという、命が密かに届いた」
なんと、と家臣たちが騒ぐ。
本当はまだ届いていない。だが、信玄はそう告げる。
「公方さまの命、断るわけにもいくまい」
よく言うわ、と内心、自分の言葉に信玄は呆れる。
かつて、義昭の兄である先代の義輝が、越後との戦さを止める様、散々言って来たのに、無視していた。
それを今更である。
「御屋形さま・・・・・おそれながら」
末席の景任が声を上げる。
まぁ、待て、と信玄は手で制す。
「我らと織田は姻戚、兵を向けるわけがなかろう」
信玄が穏やか言うとに、内藤昌豊や高坂昌信らが苦笑している。
今川を攻めておきながら、よく言われる、と思っているのだろう。
信玄もそう思う。
「だが公方まさの命、放っておくわけにもいかぬ」
一同を見回し、
「そこで」
と信玄は声を上げる。
「木曽左馬頭」
はっ、と信玄の娘婿、木曽左馬頭義昌が応える。
「お主、手勢を率い、飛騨の三木を攻めろ」
「飛騨・・・・ですか?」
義昌は少し戸惑う。
そうじゃ、と信玄は頷く。
肩幅のある大きな身体の義昌は、面長の少し小さな顔をしている。
その顔を少し傾げる。
信濃が領地の義昌は、隣国飛騨にも何度か兵を出している。
しかし何故今なのか、疑問があるのだろう。
元々三木の当主良頼は、越後の長尾景虎に与し、信玄の家臣である義昌と戦っていた。
義昌に手酷くやられた後、一時、信玄に主従を誓っていたが、信長に乗り換えたのである。
この良頼、妙なところがある。
異常に肩書き好きなのだ。
元々飛騨は、宇多源氏の姉小路家が支配していた。
それを国衆の三木家が乗っ取る。
ここまでは、何処の国にもある下克上だ。
その後、良頼は姉小路家の家名を継げる様、幕府や朝廷に働きかけていく。
ここまでもまぁ、よくあることだろう。
朝廷も中々、うんとは言わず、それでも良頼が朝廷への献金を続け、なんとか姉小路の家名を継ぎ、飛騨守の官職を得ることが出来た。
ここまでならまだ分かる。武士の世は大義名分が重要だ。
国主として朝廷に認められれば、国衆地侍との紛争も、優位に進む。
しかし何を思ったのか、良頼はその後も朝廷に献金を続け、参議の官職を得る。
参議は四位の位階だが、公卿と見なされる地位だ。
つまり良頼は、山深い飛騨の国主、実質ただの国衆なのに、公卿なのである。
その上、信長が上洛した時、良頼もそれに従い、宮中に参内したという話だ。
だから良頼は殿上人でもあるのだ。
戦乱の世だ、まして飛騨の山奥。公卿も殿上人も関係無い。
それなのに、良頼は上機嫌である。
上機嫌で周囲に、
「わしは殿上人だ」
と触れ回っている。
そんな妙な男、放っておけば良い。
義昌からすれば、そうだろう。
「三木は織田に与しておる」
顎を摩りながら、信玄が告げる。
「織田と事を構える事は出来ぬが、その手下なら良いだろう」
信玄は景任に目を向ける。
「そう織田どのに、申しておけ」
ははっ、と景任は頭を下げる。
「左馬頭」
はっ、と義昌が応える。
「任せたぞ」
「承知しました」
ゆっくりと義昌は頭を下げる。
一度だけチラリと、信玄とその脇に座る勝頼を見る。
勝頼の方は、一切義昌を見ない。
それを見て、うむ、と信玄は顔をしかめる。
木曽左馬頭義昌は、信濃の豪族木曽家の当主だ。
信玄が信濃に攻め込んだ時、その父義康は直ぐに主従を誓い、武田方として村上、小笠原と戦った。
その事を信玄も重く見て、娘真里を義昌に与えたのだ。
ただ義昌自体は、父が武田方に与した事を良しとしておらず、村上や小笠原と組んで、武田と戦うべきだと訴えたらしい。
だが元服前の息子の言うこと、黙れ、と義康は一喝し、縁組みを進める。
初めは義昌は信玄に懐いてはいなかった。甲斐に挨拶に来ても、太々しい態度であった。
しかし信玄は、そんな義昌に目を掛け、可愛がってやった。
そうしていると、そのうち心を開き、今では信玄に心酔している。
問題は勝頼との関係だ。
真里は勝頼の妹、だから義昌は勝頼の義弟になる。
だが歳は義昌の方が、六つほど上だ。
勝頼は庶子で、諏訪家を継いでいる。
だからどこかで、義昌は勝頼を同格と見ていた。
しかし嫡子義信を廃した為、勝頼が跡継ぎになる。
ただ信玄はある事情により、勝頼を正式な跡継ぎにしていない。
これが両者の関係を、微妙にし続けている。
義昌はまだどこかで、勝頼を同格と見ている。
勝頼は当然、義昌を家臣と見ている。
義昌は勝頼を意識ているが、勝頼は義昌を見ない様にしている。
勝頼は義昌を、他の家臣と同じ様に見ようとしているのだ。
当然、義昌はそれが気に入らない。
これはよく無いねぇ・・・・。
信玄の悩みの種だ。
村上、小笠原を追った後、信濃の要は諏訪と木曽だ。
勝頼を甲斐に持って来れば、信濃は義昌一人になる。
その義昌が、勝頼とあまりよろしくない。
信玄が生きているうちは良いが・・・・・。
ゴホゴホッ、と咳をする。
「殿」
馬場信春が声をかけるが、手で制す。
「いかんね、今年は寒い」
微笑みながら誤魔化すが、家臣たちは微妙な表情だ。
時は無い、このままでは良くない。
もう一手打つか。
家臣たちを見回す。
武田は今、一番強い。
兵の数、将の質、全てが揃っている。
足りないのは総大将の信繁だけだ。
それでもまぁ、大抵の相手には勝てる。
信長には勝てないが、他なら行ける。
では何処に行く?
東の北条とは結んでいる。西の織田には行けない。
北の長尾景虎に、最期に一戦挑むか?
いや、やめておこう、越後を取っても、今更どうしようもない。
若狭の武田は滅んでいるし、佐渡に金があるのかどうか。あったとしても、山本晴幸が居ないとどうしようもない。
それに景虎は強い。
どうせなら弱い方を叩こう。
「三木を叩くとして、それだけでは公方さまも承知すまい」
一同を見回し、信玄が頷く。
「三河の徳川も叩く」
世の中、上手くいかない。
だからと言って、嘆いてばかりいても仕方ない。
出来る事をやるだけさ。
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