甲斐の武田家

 何故だ・・・・・?

 織田の裏切りに、信玄も家臣たちも驚くと同時に疑った。

 徳川を攻めて三河を奪う事は、織田にとっても得である。

 それを拒否する。

 まさかこちらに攻めてくるの気なのか?

 上方の情勢を思えば、考えられない。

 今だ織田は、浅井浅倉と戦っているのだから。

 ではどういうつもりなのだ?


 それを確かめる為、遠山景任を呼び、問い質している。

 景任の答えは、分からないの一点ばりだ。

 顔を見れば分かる、本当に分からないのだ。景任もここで織田が裏切るとは思っていなかったのだろう。

「明智どのは、何と?」

 内藤昌豊が穏やかに問う。それは信玄も気になるところだ。

「それが・・・・・」

 困惑顔で、景任が答える。

「明智どのも織田さまを説いておる様ですが、織田さまが頑としてそれを受け容れないと・・・・・」

 初め景任が明智光秀を連れてきた時、二人は旧知の様だった。

 どうも光秀は美濃の者らしい。

 しかしそうなると・・・・。

「元々、織田どのが承知の策では無かった・・・・・・・という事ですかな?」

 少し高く、澄んだ綺麗な声が、冷たく響く。

 高坂弾正昌信が、信玄の思っていた事を口にする。

「そ、それは・・・・・・」

「織田どのが承知でもない策を、それを隠して我らに言ったわけですか?」

 ぐっ、と景任が詰まる。

 昌信は四十過ぎだが、十は若く見えた。

 色が白くクッキリとした二重瞼で、鼻筋が通り、美しい顔立ちをしている。

 元は甲斐の百姓の次男坊で、耕す田畑も無い、俗に言う村厄介であった。

 それを信玄が拾い、小者として召し抱えたのだ。

 初めはその美貌を愛でていたが、なかなか機転が利き、知恵が回るので、侍として取り立ててやり、更に北信濃の国衆、高坂家を攻め滅ぼした時、その高坂家の養子とした。

 歴とした武士の出ではない為、体面に拘る事もなく、退ける時には退ける柔軟な男だ。

 また成り上がろうという気持ちも強く、山本勘助晴幸から、作事、普請のやり方を習い、越後との戦いの拠点である、海津城を築いた。

「それと・・・・・」

 昌信は続けて、景任に問う。

「玉薬の件はいかがなりましたか?」

「・・・っ、あ、いや、その・・・・」

 景任の目が泳ぐ。


 信長が上洛してしばらくすると、織田の紹介だと言って景任が、今井宗久と言う堺の商人を連れてくる。

 宗久は鉄砲を売りにきたのだ。

 信玄が若い頃、南蛮から鉄砲が伝わった。

 その威力に信玄も関心を思ったが、いかんせん高価すぎる。

 戦さに役立つだけ集めようとすると、かなりの銭がかかる。

 そんな事に銭を使うならを、腕利きの忍びを雇う方がましだと思っていた。

 だが宗久は自前で鉄砲を作っているとの事で、安く売ってくれると言うのだ。

 それならばと、鉄砲をそれなりの数、買い揃えた。

 ところがだ・・・・・・。

「玉薬は・・・・その、なにかと値が張り」

 青い顔で震えながら景任が告げる。

 鉄砲にはその弾を飛ばす、玉薬(弾薬)が必要だ。

 玉薬は日ノ本では採れない、唐土から取り寄せないと駄目なのだ。

 その玉薬を扱う商いの一切を、今井宗久が取り仕切っている。

 そして宗久は、織田の御用商人。

 よく考えたものだと、信玄は感心する。

 先ず安価で鉄砲を大量に売る。

 それを使う為には、玉薬がいる。

 玉薬を抑えているのは宗久で、その宗久を抑えているのが信長である。

 だから玉薬が欲しければ、鉄砲を使いたければ、信長の言う事を聞かなければならない。

 まるで商人、いや盗っ人の考えだ。

「ですから・・・その」

「これも織田に一杯食わされたという事ですね」

 澄んだ綺麗な声で、昌信は景任に応じる。

 ダン、と音が響く。

 見ると信玄の庶子、諏訪四郎勝頼が床を叩いている。

 勝頼は信長の姪で養女を娶っている。その為、織田贔屓だ。

 鉄砲についても、二十五歳の若者らしく、新奇な物に興味を持ち、購入に積極的だった。

 それに勝頼には、武勇がある。

 信玄の様に、忍びを使い謀を巡らすと言うのを好まず、そんな事に銭を使うなら、鉄砲などの武器を買い揃えるべきだと、考えるたちだ。

 鉄砲の購入は、信玄も重臣たちも、あまり乗り気では無かった。

 だから勝頼は自前の家臣を集め、それに持たせていたのだ。

 この信長の裏切りを、勝頼は赦さないだろう。

「・・・・・・・・」

 信玄も信春ら重臣らも、静かに勝頼を眺める。

 内心、言わんこっちゃない、と言う気持ちだが、親の信玄にすれば、あるいは良い薬か、とも思えた。

 ただ薬が効き過ぎて、信長嫌い、鉄砲嫌いにならなければ良いがと、少し思う。

 勝頼が怒って事で、家臣たちが黙る。

 場が白けた。

「一息入れるか」

 そう言って信玄は立ち上がる。

「御屋形さま、どちらに?」

 内藤昌豊が尋ねるので、厠じゃ、と答える。

 ははっ、と昌豊が頭を下げる。皆もそれに従う。

 信玄が厠に行くと言うことが、どう言うことか承知しているのだ。


 広間を出ると、近習の武藤喜兵衛昌幸が控えていた。

 鋭い目と、長い鉤鼻、尖った顎。異相だが、父親譲りの切れ者である。

 家中の若い衆の中では、一番の逸材だ。

 だが同時に一番の曲者でもある。

 昌幸を外に控えさせ、信玄は厠に入った。

 広い厠だ、人が四、五人は入れる。

 便器には跨がらず、壁にもたれかかる。

「それで・・・・・・」

 そう信玄が呟くと、便器の底から、ハッ、と声がする。

 忍びだ。

 信玄は忍びの者をよく使う。

 これも山本晴幸から学んだ事であり、使っている忍びも、晴幸は推挙した甲賀者たちだ。

「公方さまと織田三郎の対立、抜き差しならないものに・・・・・」

 忍びの報せに、ほぉ、と信玄は呟く。

 以前から噂はあった。

 上洛した足利公方義昭が用意した管領職を、信長が断ったのだ。

 その上、義昭にとっては兄の仇である松永弾正久秀を、信長勝手にが放免した。

 それで義昭は信長に対するして、不審不満を募らせたらしい。

「御屋形さまに上洛して、織田三郎を討てとの公方さまの密命が・・・・・・」

 くくくっ、と信玄は笑う。

 不満があるだろうが、討てとは・・・・・。

 どうやら義昭という公方さまは、堪え性が無いらしい。

「密命というが、わしが織田と一戦やって、負ければそんなもの知らぬというのでは無いのか?」

「それは・・・・・はたして・・・」

 忍びの者は、おそらくそうでしょう、と答えたかったのだろうが、それは自分の務めの範疇では無いと思ったか、口にしなかった。

「・・・まぁ、良いがね・・」

 もし信玄が上洛して、信長を討ったところで、堪え性の無い義昭は今度は信玄が邪魔になるはずだ。

 そんなものに、付き合う気は無い。


 それにどちらにしても、信玄は信長と事を構える気は無い。

 なぜなら強いからだ。

 織田には銭で集めた牢人衆の、鉄砲足軽が居る。

 こいつらはただ鉄砲が使うだけでは無い、銭で集めた牢人というのが、問題だ。

 美濃の斎藤にしろ、越前の朝倉にしろ、信長は田植え稲刈りの時期に攻めている。

 これでは攻められる方は、堪っつたものでは無い。

 どの大名も家臣は大概、土地に生えている地侍だ。

 田植えや稲刈りの時期に陣触れを出しても、忙しいので集まって来ない。

 武田も当然、地侍が主力だ。

 信長が田植えか稲刈りの時に攻めて来て、まして大量の鉄砲を備えていれば、どうしようも無い。

 だがその事自体は、信玄はそれほど気にしていない。

 確かに織田の鉄砲足軽は脅威だが、打つ手はある。

 大名の勝ち負けは、戦さだけでは決まらない。

 戦さの前後の駆け引きが重要であり、それを疎かにすれば、戦さの勝ちも、意味が無くなる。

 それが信玄の考え方だ。

 信長に信玄と戦う事を、無意味だと思わせれば良い、損だと判らせれば良い。

 それだけの事だ。


 問題はそこでは無い。

 信長の強さは、織田の鉄砲足軽では無い。

 正しく言えば、それだけでは無い。

 では信長の強さとは何か?

 勢いであり、天運だ。

 桶狭間で今川義元を討ち取った。

 ただ今川を破ったのでは無い、総大将である義元を討ち取ったのだ。

 戦さで敵の総大将を討ち取るなど、あまり聴かない。

 まして劣勢であったのに。

 信長の桶狭間に比して言われるのが、北条の川越夜戦と毛利の厳島の戦いである。

 しかし川越夜戦では、上杉憲政は逃げ切っているし、厳島の戦いの陶晴賢は、追い詰められて自害はしているが、討ち取られてはいない。

 討ち取るのと自害では全く違う、と言うより、討ち取られたく無いから、自害するのだ。

 当然討ち取れば武名が上がるし、家に勢いが付く。

 その勢いが有った信長の処に、義昭が来たのだ。

 勢いが勢いを生む。信長はあっという間に上洛し、義昭を公方にした。

 信長の勢いは本物だ。

 前の上方の支配者である、三好長慶を超えるものなのは、確かである。

 信玄は信長を、平家の相国入道、平清盛だと見ている。

 その勢には勝てないし、戦うべきでは無い。

 だが潮の目は必ず変わる。

 平家も清盛が死ねば、衰退していった。

 だから待てば良い。

 じっくり構えれば良い。

 勢いの力、信長や清盛の力は天下を取る力だ。

 しかし天下を治める力では無い。

 天下を治める力、最後に勝つ力とは、勢いでは無く、ゆっくり積み重ねるものだ。


 だが・・・・・。

 ゴホゴホ、と信玄は咳をする。

「・・・・・・・」

 抑えていた手を見る。

 血だ。

 数年前から食も細くなった。

 病のことが無くても、信長は信玄より十以上歳下。我慢くらべは無理だ。

 ではどうする?さてどうする?

「・・・・・・・・」

 信玄は静かに目を閉じる。



 世の中は上手くいかない。何事も上手くいかない。


 


 

 

 

 

 

 

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