第54話 甲駿相国同盟、崩壊
信玄は遠山景任を見つめる。
景任は城持ちの国衆としては、少し微妙な立場に居る。
武田に臣従していながら、織田にも仕えているのだ。
鎌倉の源右将軍頼朝の頃より、武家の主従とはつまるところ、御恩と奉公である。
御恩とは、公方なり守護なり、或いはそれと同じくらい力を持った者が、領地を安堵する事である。
奉公とは、その恩に報いる為、戦さ働きをしたり、普請に人足を出したりする事である。
東美濃の恵那郡岩付城城主、遠山左衛門尉景任の、その領地を認めているのが、信玄であり信長なのだ。
景任は元々、当然だが美濃の国主、斎藤利政に仕えていた。
そして利政が息子、義龍の謀叛に遭い討たれると、その義龍に仕える。
その後、信玄が信濃を攻め取り、岩付に兵を送ると、景任は主従を誓う。
程なく信長が義龍の息子、龍興から美濃を奪う。
越後の長尾景虎と戦っている為、信長と事を構える気の無かった信玄は、景任に信長にも仕える事を許す。
謂わば武田と織田の緩衝材に、遠山景任という国衆を使ったのだ。
その後、信長が婚姻の話を持ち掛けてきた。
景任の弟、直廉の妻は、信長の妹である。
その直廉の娘を、信長の養女として、諏訪家を継いでいる信玄の庶子の、諏訪四郎勝頼に嫁がせるという話だ。
まぁ、妥当な話だが、信玄の嫡子、義信が反対する。
義信の妻は今川義元の娘、義信からすれば、信長は舅の仇、当然、受け容れられない。
だが信玄が、押し切る。
不満の義信を見て、信玄は不味いと思った。
義信は気概のある若者だ。
その上、傅役の飯富虎昌は、嘗て信虎を駿河に追い出した、板垣信方らの一味であった。
信虎を追い出した様に、信玄を追い出すかもしれない。
謀叛の芽は、小さいうちに摘むしかない。
先手を打って信玄は、虎昌を切腹させ、義信を幽閉する。
勝頼と信長の養女との婚姻が決まった後、景任は一人の男を連れて来た。
京を追われている足利義昭の取次衆で、明智十兵衛光秀と名乗った。
これは・・・・・と思える程の男だった。
大きな頭に、鋭い眼光。黙って座っていても、人を圧する貫禄。
この男の言葉は正しいと思わせる、人としての重みと厚みが、明智光秀という男にあった。
今川と同盟を結ぶ時、太原雪斎に会っている。
光秀は雪斎にも劣らない、風格を備えていた。
その光秀が、静かに告げた。
「左馬頭さまの御上洛に、手を貸して頂きたい」
「・・・・・わしに、兵を出せと?」
苦笑しながら信玄が問うと、いえ、と光秀は首を振る。
「兵は織田どのに出して頂きます」
鋭い眼光を、光秀は向ける。
「大膳さまには、美濃を攻めないで頂きたい・・・・それだけに御座います」
信玄はニヤリと笑う。
この明智光秀という男、信玄と歳は変わらぬ様にも思えるが、その目の輝きを見るに、意外と若いのかもしれない。
「当家と織田家は婚姻を結んでおる、攻めるわけが御座いますまい」
はははっ、と信玄はわざと声を出して笑う。
「まして上洛の大事を為そうとしている、邪魔をするなど・・・」
「大膳さまに一つ・・・・」
信玄の言葉を遮り、光秀は告げる。
「聞いて頂きたき、策がございます」
「策・・・・・とな?」
笑みを消し表情を固くして、信玄は問う。
「三河の松平と、手を組んでいただきたいのです」
「三河の・・・・松平」
勿論、知っている。
知ってはいる。
松平次郎三郎元康。今川義元の寵臣で娘婿だ。
生前、義元が可愛がっていたので、よくある話だが跡継ぎの氏真に疎まれた。
このままでは処刑されるだろうと言うところを、謀叛を起こしている。
義元の死後、今川はガタガタで、被官の国衆地侍の離反が相次いでいるのだが、それの一番大きなモノが、元康の謀叛である。
大した人物では無い。
少なくとも、信玄と北条氏康が、氏真の為、兵を出し本気で潰そうとすれば、何時でも潰せる。
その程度のモノだ。
「それは・・・・・・」
目を細めて、信玄は問う。
「公方さまの命か?」
ゆっくり光秀は首を振る。
「左馬頭さまは、まだ公方ではありませぬ」
確かにそうだ。
上洛して朝廷から将軍の宣下を受けなければ、義昭はただの前将軍の弟に過ぎない。
左馬頭という官位も、次期将軍が就くもので、征夷大将軍になれば左近衛中将に就く。
「左馬頭さまが上洛するには、織田どのの軍勢が必要」
淡々と光秀は語る。
「その為に、大膳さまのご助力が、必要」
「それで?」
「その為に・・・・・」
鋭い眼光で光秀は、信玄を見つめる。
「三河の松平と、結んで頂きたいのです」
うむ、と呟き、信玄は身体を揺らす。
「それが・・・・よう分からんねぇ」
松平と手を結ぶ事が、何故、足利義昭に手を貸すという事なのか?
「松平と手を結び・・・・・」
スッと光秀は目を細める。
「今川を挟み撃ちして頂きたい」
周りで聴いていた家臣たちから、なんと、と声が上がる。
確かに信玄は織田と婚姻を結び、それに反対する嫡子義信を幽閉した。
しかしまだ今川と手を切ったわけでは無いし、攻め入るという程の、関係にはなっていない。
義信の幽閉も、病気で療養していると、家臣や近隣の国々には言っている。
「攻めるか・・・・・今川を」
はい、と光秀が返事をした。
周りの家臣たちの多くは、動揺している。中には光秀に疑いや敵意の目を向ける者もいる。
そういった者を気にすることもなく、光秀は話を続けた。
「今川の領地の内、駿河を武田が、遠江を松平が取るとするのです」
ほぉ、と信玄は声を上げる。
「遠江をくれてやるのか?」
やり過ぎだろうと、信玄は思った。
武田は甲斐守護の家、松平はただの国衆、領地の大きさも、主君の格も、家臣の数も、武田の方が断然上だ。
それが同等の盟約など。
「あまり、良い話で無いなぁ」
話にならないと思いながら、信玄は冷たく言う。
「ここまでは・・・・・」
冷めた口調で、光秀も返す。
「ここ・・・・・まで?」
光秀が頷く。
「その後、武田と織田で松平を攻め、武田が遠江、織田が三河を得ます」
ほぉ、と信玄は思わず声を上げる。
面白い、と光秀を見ながら思った。
光秀は足利義昭の為、助力してくれと言った。
義昭が上洛する為、織田の兵を使うので、その間、織田を攻めないでくれ、と頼んで来た。
見返りに、今川と松平を差し出す、と言っているのだ。
そこが面白い。
光秀は織田の家臣では無い、あくまで足利義昭の家来だ。
義昭はまだ、将軍では無い。
一ヶ所の領地も、一部隊の兵士も居ないだろう。
それなのに、その何の元手の無い状態で、光秀は天下取りと言う大事を為そうとしている。
諸侯の内情、利害を調べ上げ、それを使い、諸侯を説き伏せて周る。
まさに古代唐土の縦横家、蘇秦と張儀の様だ。
それが面白い。
何故なら、信玄が嘗て望んだものだったからだ。
信玄は、弟信繁が武田の当主になり、自分は使僧になろうと思っていた。
ただの使僧では無い。
各地の諸侯と駆け引きをして、武田を大きくする。
謂わば、今川の太原雪斎の様な人物だ。
光秀は、雪斎より才覚は上かもしれない。
いや、才覚と言うより度胸か。
雪斎には、今川という元手があった。
光秀にはそれが無い。
何も無い。
ただ己の才覚だけだ。
それ才覚だけで、日ノ本を一つの盤上に見立て、諸侯を駒として操っているのだ。
面白い。
「良いだろう」
信玄は承諾した。
織田の上洛を、信玄は静かに眺めていた。
見事な手際だった。
織田勢は秋、稲刈りの時期に上洛すると、冬にはもう居城の岐阜に戻っていた。
光秀を通し、武田とは手を結んでいたが、明かに信玄を警戒しているのだ。
そんな信長から書状が届く。
内容は卑屈なぐらい謙り、信玄とこれからも仲良くしていきたいと言うものだ。
上等な漆塗りの蒔絵箱も届いた。
ここまで腰を低くしておきながら、手の者の報告によると、信長は長尾景虎にも書状と宝物を贈っている。
もし信玄が裏切れば、景虎と挟み撃ちにするつもりだ。
喰えぬなぁ・・・・と信玄は苦笑した。
書状には、松平との同盟の事も書いていた。
後になって気付いた事だが、松平を攻める事には、触れていなかった。
光秀の策に乗り、松平と手を組み、今川を攻める。
どちらにしろ、いつかは今川を攻めるつもりでいた。
一つには、義元、雪斎に対する恨みだ。
二人が生きている間、ずっと信玄は今川の軛の下であった。
その恨みを晴らす。
それにもう一つ。これが思いとしては一番強い。
信繁の仇だ。
山本晴幸が、信繁を道連れに死んだ。
恐らく、信玄は今川を恨んでいるのを知っており、いつか攻めるかもしれないと思い、信繁を殺したのだろう。
この一事は信玄にとって、どうしても許せない事だ。
晴幸を買っていた事もあったので、その憎しみは更に増す。
そして最後に、冷静に考えて、早いうちに今川を如何にかするべきであったからだ。
義元亡き後、その息子、氏真が家督を継いだ。
氏真は凡庸だ。信玄も、そして周囲の者、今川の家中の者もそう見ている。
そこで後見になったのが、氏真の祖母、寿桂尼だ。
寿桂尼は女傑で、嘗て夫と長子を相次いで亡くした後、僧になっていた次子の義元を還俗させ、側室の子と家督争いを制し、義元を当主にした人物だ。
長子氏輝が若くして家督を継いだ時も、側近たちと共に、今川仮名目録という法度を作った才媛でもある。
知恵と決断力を持った女人である。
が、既に老いている。
そして嘗ての側近たち、朝比奈泰能、三浦氏満、庵原忠胤らはもう居ない。
何より義元の軍師、雪斎が居ない。
尼将軍も今は、ただの老婆だ。
そんな朝比奈泰能も太原雪斎も居ない寿桂尼が、頼りにしたのが北条氏康である。
武田今川北条の三ヶ国同盟を結び、三家は婚姻で結ばれたが、寿桂尼は娘婿の氏康の事を、嫁の弟である信玄より信用しているのだ。
氏康の方も、これを利用しないわけがない。
以前も、義元には男子が氏真しかいなかった為、自分の三男氏規を今川の養子に出している。
寿桂尼にすれば氏規は外孫、別に今川を継がせるのに文句は無い。
今川北条も無い、全て自分の産んだ孫と言うわけだ。
そこに氏康がつけ込む。
義元が死に、氏真が当主となった。氏真には子が居ない。
氏真の妻は氏康の娘、何なら再び氏規を養子に・・・・。
そう氏康は考えるはずだ。
そうなれば、駿河、遠江は北条のモノになる。
信玄とすれば、指を加えて見ているわけにはいかない。
早速、調略の手を伸ばす。
これが恐ろしいほど上手く。
次々と今川の家臣たちが、内応を承知したのだ。
あまりの簡単さに、信玄は少し不安になったが、いざ駿河に攻め込むと、まさに雪崩れ打った様に、今川の家臣たちが、武田に奔ったのだ。
これがあの精強を誇った今川かと、信玄自身、呆気に取られた。
当然、氏康は激怒だ。
信玄が裏切った。それも今、この時にである。
武田北条の怨敵である越後の長尾景虎を、両方から攻め、家臣たちに謀叛を起こさせ、虫の息まで追い込んでいたのだ。
信玄が兵を集めていたのも、越後を攻める為と、氏康にも氏真にも通達し、景虎にも伝わる様にしていたのだ。
そこを裏切ったのだ。
だが信玄からすれば、それが兵法だ。
裏を掻く、それが国主の駆け引きだ。
氏康が怒り狂おうと、知ったことでは無い。
駿河を手に入れ、今川を滅ぼし、信繁の仇を撃つ、それが第一だ。
しかしここで氏康が、予期せぬ一手を打った。
事もあろうに、怨敵である長尾景虎と手を結ぼうとしたのだ。
まさか?と信玄は首を傾げ、焦ったな、と苦笑した。
景虎が承知するわけが無いし、景虎が承知しても、氏康に関東を追われた上杉憲政が許すわけが無い。
が、これがどうした事か、景虎が承知する。
なんと・・・・と信玄は、驚く。
これで信玄は、東と北、北条と長尾、二勢力と相手をせねばならない。
安全なのは西の織田だけだ。
信長の方も、義弟である浅井長政に裏ぎられ、上方につきっきりだ。
妙な具合に、信玄と信長、背中合わせで、戦わねばならなくなった。
手を組んだが、北条と長尾の同盟は、上手く機能していない。
信玄が、越中の椎名康胤に、景虎を攻撃する様仕向けた為もあるのだが、両者は上手く連携して信玄を攻める事は出来ないでいる。
信長の目が西に向いている間に、決着を付けたい。
信玄は勝負に出て、小田原を攻める。
だが、堅城の小田原、流石に落ちない。
兵を退くしかない。
力技ではどうしようも無い。
なら策を講じるまでだ。
氏康は和睦を受け容れない、だがその息子の氏政は違う。
氏政は信玄の娘を娶っていたのだが、この妻を大事にしていたらしい。
だが武田との手切りになった時、離縁させられ甲斐に送り返された。
信玄の娘の方も、夫をそして息子たちを、想っていたので、食が細くなり遂には亡くなってしまった。
この事で氏政は氏康を恨んでいる。
ここに信玄は付け入る。
亡き娘が、どれだけ婿殿を想っていたか・・・・。
その事を書状して、密かに氏政に送る。
嘘は無い。本当の事だ。
氏政も、どれだけ妻を想っているかを、書状に書いて送ってきた。
こうなれば、容易い。
信玄が自分の不徳を詫びれば、氏政はそうではなく、父が悪いと言う。
このまま氏政に謀叛を唆すか?
氏康は既に隠居している。勿論、実権は握っているが、家臣の中には、氏康がいつ亡くなるか分からないから、氏政に着こうと言う者も多い。
如何するか?
悩んでいたが、良い方に転んだ。
氏康が病で亡くなったのだ。
そうなればこちらのもの、氏政は父の遺言だと言って、長尾と手を切り、武田と和睦した。
遺言と言ったのは、冥府に居る氏康への当て付けだろう。
兎に角、これで北条はなんとかなった。
ようやく次に進める。
松平、いや、徳川を攻め、遠江を得るのだ。
が、ここで信長が裏切ったのだ。
世の中は上手くいかない。何事も上手くいかない。
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