第52話 虎の影
武田太郎晴信、出家して信玄と号している甲斐の虎を、家康が初めて知ったのは、件の井伊家のお家騒動の時である。
今川の被官である遠江の国衆、井伊家で家督争いから謀叛が起こり、井伊家の家老が義元に讒訴、義元が当主の弟二人を処刑、その一方の息子が甲斐に逃げたと言う話だった。
しかしこの事で驚いたのは、
「どうやら裏で、武田大膳が糸を引いていたらしい」
という岡部正綱の言葉だった。
大膳大夫は信玄の官位であり、同時に通称だ。
まさか?と当時、竹千代であった家康と菅沼定盈は首を傾げた。
「武田は当家と手を結んでいる、それが当家の被官に謀叛を唆したと言うのか?」
そう定盈が問う。
今川と武田は先代までは争っていたが、義元の代になって和睦、近々、今川の姫が武田の嫡子に嫁ぐという話だ。
「そこが武田大膳の恐ろしいところよ」
そう正綱が答えると、どういう事だ?という顔を、家康と定盈はする。
「今川と武田は手を結んでいる、更に御屋形さまと雪斎師父は小田原の北条とも結ぼうとしている」
父親から聞いたのであろう話を、正綱は語る。
正綱の父親久綱は、奉行として雪斎の手足となって働いているのだ。
「御屋形さまと雪斎師父の手で、三ヶ国が結ぶ、これは大事だ」
「確かに」
定盈が頷く。
「その時に、武田に背かれては不味い」
「それで?」
「それで武田は、足下を見ておるのだ」
「足下を見る?」
家康が問うと、正綱が頷いた。
「今、当家は武田に強く出れない、だから武田に何かされても大抵の事には、目を瞑らなければならないのだ」
「なんと・・・・」
定盈は声を上げる、しかし家康には、やはりしっくりこない。
「しかし当家と武田は手を結んでいる、つまり味方ではないか」
家康は眉を寄せて、続ける。
「味方に謀をもちいるのか?」
「そこが武田大膳の恐ろしさよ」
正綱は指をクルクル回す。
「味方を弱くして、なんの得がある?」
家康には分からない。
「盟約は未来永劫続くわけでは無い」
「だから打てるうちに、少しでも相手を弱くしておくのだ」
正綱の後に、定盈が続ける。
ふむ、と家康は頷く。
その頃、やはり家康には分からなかった。
味方を弱くしてなんになる、そう考えていた。
当時の家康は、敵は敵、味方は味方。
味方を増やして敵を討つ、そういうふうに世の中を見ていた。
しかし家臣の門徒たちによる一揆にあったり、主家である今川を裏切ったりしていくうちに、そんなに世の中、単純ではないと分かった。
信玄は家康の二十ほど上だ。
父広忠や旧主義元らと、同じ年頃だ。
その信玄に挑む。義元や太原雪斎が駆け引きをしていた相手に。
勝てるのか・・・・?
不安になる。
相手は老獪な謀の名手。
だが勝たねばならない。負ければ滅ぼされるだけだ。
先ずは相手を知る事。
信玄の事を色々と調べて、一つの弱点に家康は行き着く。
信玄は戦さが苦手だ。
勿論、家康が信玄にそう言えば、信玄は笑うだろう。
当たり前だが、信玄は家康よりも戦さ上手だ。
ただ謀に比べれば、戦さの方が下手である。
信玄には、どうしても勝てなかった相手が二人いる。
義元や北条氏康、越後の長尾輝虎では無い。
北信濃の村上義清と、上州の長野業正である。
国主では無い、国衆である二人を、信玄は戦さで攻め滅ぼす事が出来なかったのだ。
確かに地の利を得、山城で守りを固める国衆を攻め滅ぼすのは、信玄でなくても至難のわざだ。
それでも信玄は二人を戦さでは倒す事が出来ず、義清は得意の謀で、業正の方は、病で亡くなるのを待ってから、その城を奪っている。
だから家康も、二人を真似れば良い。二人の様に、城を堅く守れば良いのだ。
注意すべき謀だ。村上義清は家臣の内応で敗れている。
家康は信玄より若いし、病気知らずだ。業正の様に、病で負けるという事はない。
堅く守り、裏切り者が出ない様にする。
それしか無い。
守りを固めるとなれば、その為に手配をしなければならない。
先ずは要衝に、信頼出来る将を置く事だ。
遠江の要所、掛川城には石川家成を置いた。
これは石川数正の策なのだが、初め家康は如何だろう?と疑ったが、これは数正の策が当たった。
遠江の国衆地侍からすれば、三河の者が自分たちの上役になるのである。酒井忠次や本多重次の様な偏屈者が来るより、家柄が良く、寛容、というより怠け者の家成の方が受け入れやすい。
家成の方も、心得たもので、
「皆さまの良きように・・・・・」
と言って、威張る事も無ければ、何かを命じる事も無かった。
この為、遠江の国衆地侍は家成に対し、素直に従っている。
馬廻り衆である、先手役の将も新たに増やす事にした。
大久保忠世、榊原康政、そして植村家存の三名である。
忠世は初めから決めていた事だが、康政に関しては、朝倉との戦さでの活躍を見て決めた。
若く、元々は家康から見れば陪臣であるが、機転が利き、機を見るに敏なところがある。
忠次や忠世に相談したが、二人とも賛成した。
ただ康政には、一つ不満もある。
問題児の本多忠勝と、幼友達で仲が良いのだ。
しかし考えようによっては、康政を使って忠勝を抑えるという事も出来る。
それを思って、康政を将にした。
家存を任じたのは、それまでの功績と、長尾との同盟を成し遂げたからである。
だが将には任じたが、以前の戦いで負った傷の為、戦さに出る事はもう出来ない。
戦さで傷を負った者たちは、岡崎の城に送り、息子の信康の家臣としている。
家存にはその者たちのまとめ役を、任せる事にした。
それぞれの城に家臣を置き、本隊の将も決めた。
信玄が攻めて来れば、城は守りを固める、家康が本隊を率いる後詰めに出る。
それしか無い。
そうやって時を稼ぐしか無い。
いずれ信長が、上方の支配を固めるだろう。
そうなれば信長は、足利公方義昭を擁しているのである。
義昭の命令で和睦となれば、信玄も従うしか無い筈だ。
「城に籠もって何もするな、わしがなんとかしてやる」
信長の言葉が、家康の頭の中で響く。
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