第51話 浜松
姉川の戦さの後、家康は居城を、三河の岡崎から、遠江の曳馬に移した。
「浜松」
登誉天室に頼んでおいた、新しい曳馬の名前が届いた。
「浜松かぁ・・・・・・」
家康は少し気に入らない。
信長が稲葉山を岐阜と変えた時、その意味を池田恒興から聞いた。
その壮大さに、初めは呆れたが、将軍を擁して上洛する信長を見て、なるほど岐阜だ、と納得する様になった。
だから家康は曳馬にも、岐阜の様な、壮大で力強い名を付けて欲しかったのだ。
「浜松・・・・・なぁ・・・」
そうこぼしながら、大きな湖を臨む景勝の地に着くと、なるほど浜松だ、と納得する。
城に着いて数日経つと、菅沼定盈がやって来た。
「菅沼次郎右衛門どの、鈴木三太夫どの、近藤平右衛門どのに御座います」
三人の四十過ぎの男が、定盈に名を呼ばれ、順に頭を下げていく。
定盈の菅沼家は、東海各地に根を張る大豪族で、定盈自身は東三河の生まれだが、奥三河や遠江など各地に親類が居る。
それで定盈は各地の菅沼一族を、徳川の味方になる様、説いて回っている。のだ。
既に、長篠の菅沼正貞、田峰の菅沼定忠ら奥三河の一族を味方に引き入れ、更に両者の仲介で、同じく奥三河の国衆である作手の奥平定勝も、徳川の着くよう説得した。
今、家康が持つ領地の内、父祖から受け継いだ中三河と西三河以外の、奥三河と東三河、そして遠江は定盈の尽力によるものであると言っても、過言ではない。
遠江の国衆も、まず同族の菅沼次郎右衛門忠久を説得し、その後、忠久と親しい、鈴木三太夫重時、近藤平右衛門康用を徳川の傘下に引き入れたのだ。
「三河守さま、本日は是非、お引き合わせしたい者を連れてまいりました」
一番年嵩の康用がそう言うと、うむ、と家康は頷く。
事前に定盈に、軽く話は聞いている。
それでは、と一番若そうな重時が立ち上がり、部屋を出る。
少しすると、十歳くらいの少年を連れて、重時が戻ってきた。
「拙者らが面倒をみております、井伊家の跡取り、万千代にございます」
代表して忠久が告げると、少年は行儀よく家康に頭を下げ、名を名乗る。
「井伊万千代にございます」
うむ、と家康は応じる。
目鼻立ちの整った、利発そうな少年である。
わしが駿府で、今川の御屋形さまにお会いしたのは、このくらいの頃か・・・・・。
家康は万千代を眺めながら、そんな事を思う。
緊張している万千代を見ると、あの日の自分を思い出す。何か言葉を掛けてやろうと思い、そうだと、家康はある事を思い付く。
「わしは万千代どのの御祖父さまに、会った事があるぞ」
「まことですか?」
万千代は目を見開いて驚く。
「ああ、今川と織田の戦の時、共に先陣を任されたのじゃ」
ニコニコと微笑みながら、家康は告げる。
「戦上手の上に、優しい御仁であってなぁ、まだ若かったわしに声を掛けてくださった」
本当はそれほど、井伊信濃守直盛と言葉を交わしたわけでは無かったが、万千代の緊張を解くため、家康はそう言った。
「あぁ・・・・はぁ」
戸惑った顔をして、万千代は忠久の方をチラリと見る。
忠久たちも、顔を顰めていた。
ん?と家康は不審に思う。
「あの・・・殿」
定盈が近づき、耳打ちをする。
「万千代どのは、信濃守どのの孫ではござらぬ」
えっ?と家康は驚く。桶狭間の戦さからもう十年以上経っている。
万千代が生まれたのはその頃か、或いはその後の様に思えた。
それに直盛はあの時、初老だった。息子には思えない。
「いえ、そうではなく・・・・」
定盈が更に近づき、小さな声で告げる。
「ほれ我らが子供の時分、駿府にいた頃、井伊家でお家騒動があったでございましょう?」
「ああっ、確かそんな事があったな」
「その時の・・・・・」
一度、定盈は話を切り、万千代や忠久に愛想笑いをして、再び続けた。
「甲斐に逃げた御仁がおりましょう」
「そう・・・・だったなぁ」
家康も小さな声で応じる。
「それの倅にございます」
えっ?と家康は声を大きくする。
「・・・・・・」
忠久ら三人を見ると、気まずそうな顔をしている。万千代は固まったまま、目を大きく開けている。
おほぉん、とワザとらしく家康は咳をする。
「そのなんだ・・・・いずれ折を見て、小姓として取り立てよう」
「はい」
万千代は姿勢を正し、頭を下げる。
「年の近い者も居るので、仲良くする様に」
ははっ、と返事をして、万千代は頭を上げる。
では、と康用が声を上げるので、
「うむ、退がって良い」
と家康が応える。
それでは、と万千代と三人の国衆たちは部屋を出ていく。
「取り敢えずは・・・・・なっ」
「ええ、取り敢えずは」
家康の言葉に、残って居る定盈が頷く。
井伊家は遠江の有力な国衆である。三河における松平と言えば言い過ぎだが、それでも多くの家とも繋がりがある、中心的な家だ。
そこでなんとか、その幼い当主を徳川に引き入れたかったのである。
徳川は三河と遠江を領有している。
しかし両国の国衆地侍が、皆家臣かと言えば、そうではない。
中三河、西三河の譜代の家臣以外は、あくまで領地を安堵している被官であるに過ぎない。
彼らから年貢を取る事は出来ない。徳川が戦さをする時、あるいは普請をする時に、触れを出せば彼らが集まってくると言うだけだ。
家康は三河守で、国主である。だがそれは朝廷が決めた官位で、国衆たちが認めるかどうかは別である。
無理に従えと言えば、それこそ今川氏真に東三河の国衆たちが叛いた様に、徳川に対しても彼らは謀叛を起こす。
国衆たちに認められるには、権威だけでは駄目だ。
戦さになれば勝ち、領地を守ってくれる。そう言う頼れる大将である事を、見せねばならない。
その為にも、有力な井伊家は取り込んでおきたい。
「殿・・・・・・」
各地の国衆を説き伏せる為、駆け回っている定盈は、少し痩せた。
「もし武田との戦さになった時・・・・・」
おそらくそれは、避けられない。
「織田はまことに、我らの味方をしてくれるのでしょうか?」
定盈が国衆たちを口説く武器は、結局それだ。
公方を擁している織田が後ろ盾になっているので、奥三河や東三河、遠江の国衆は、徳川に従っている。
「問題無い」
家康は硬い表情で首を振る。
「織田は徳川の縁戚だ、我らを見捨てる訳がない」
「・・・・それを言うなら、武田も同じでござる」
定盈の言葉に、うっ、と家康は詰まる。
確かに武田信玄の次男、諏訪四郎勝頼は、信長の姪で養女の姫を娶っている。
それに信長の嫡子に、武田の姫が嫁ぐという噂も聞く。
「大丈夫だ」
家康はわざと大きな声を上げる。
「浅井との戦さに我らは出陣した、織田どのも大そう感謝されておった」
「それは・・・・」
「なにかあれば、織田が必ず後詰めを出してくれる」
しかし・・・・・と定盈は顔を顰めて言う。
「浅井との戦さ、三河の者が暴れ回り、策を台なしにされて、織田どのが大そうお怒りだと・・・・・」
家康は、ギョッとした。
「その話、何処で聞いた?」
「・・・・・それは」
誰も居ない部屋なのに、定盈は周囲を窺い、家康に近づき小声で告げる。
「遠江の国衆たちが、噂しているのです」
「なんと」
「おそらく武田の間者が、そういう話を流している様で・・・・」
まことか?と家康が顔を向けると、定盈が頷く。
「武田大膳(信玄)は、謀の名手でございます」
「分かっておる」
いえ、と定盈が首を振る。痩せたのは、駆け回っている苦労の為では無く、心配の為だろう。
「殿が思っている以上に御座います」
ぐぐっ、と家康は唸る。おそらくその通りなのだろう。
「大丈夫だ、上総介(織田信長)どのは我らを決して見捨てなどしない」
家康は強く言うが、定盈は目を細めて不安げな顔をする。
当然だろう。誰がどう考えても、信長が家康を助ける理由が無い。
だが家康は知っている、信長は決して家康を見捨て無い。
その事を家臣たちに言っても良いが、どう言うって良いのか、家康にも上手く伝える事が出来無い。
はぁ、と、納得していない溜息を吐き、定盈は遠く、東の方を見つめる。
「北条が我らの味方に、せめて武田と手を切ってくれるだけでも・・・・」
「言うなら・・・・・」
「助五郎さまが、小田原にいらしてくれれば・・・」
「その話は言うならと、言うておろうが」
家康はグッと睨み、強く言う。
相模の獅子と呼ばれた、北条氏康が死去した。
それを機に北条の当主、氏政は武田と結び直した。
父の遺言だと言ったいるが、誰もそんな事信じていない。
今川、武田、北条の三ヶ国同盟を、今川義元が死ぬと信玄は破り、今川を攻めた。
この事に氏康は激怒した。
特に今川氏真に嫁いだ娘が、駿河を攻められた時に、着の身着のまま逃げたと言う話を聞き、信玄許すまじとなる。
武田と断交し、それまで争い続けていた、越後の上杉と和睦し手を結ぶ。
この事に当主である氏政は、反発する。
氏政の妻は信玄の娘なのだが、夫婦の仲は円満で、氏政は武田と縁を切りたくは無い。
しかし隠居の氏康は、無理矢理離縁させ、氏政の妻を甲斐に送り返している。
この事で氏康と氏政に、対立が生まれた。
上杉との同盟、上杉謙信は氏政の嫡子を人質として要求した。
これを氏康は承諾するが、氏政が断固拒否。結局、氏康の末子を送る事となる。
その氏康が亡くなったのだ、当然、氏政は武田と手を結ぶ。
そんな氏政に対し、家康と定盈の旧友である氏規が、武田と手を切り、徳川と結ぶよう訴えるが、氏政が聞く訳がない。
うるさい弟を氏政は、人質として甲斐へと送った。
家康は氏規に同盟の事を頼まなかった。それなのに氏規は家康の為、兄に歯向かい、甲斐に追いやられたのだ。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
家康は黙っている、定盈も黙っている。
口には出さ無いが、二人とも同じ事を考えていた。
二人のもう一人の友人である、岡部正綱も甲斐にいる。
正綱は今川の家臣として、武田の侵攻に立ち向かい、囚われの身となった。
今川は滅び、どうなったかは分からない。
或いは武田の将として、家康の前に現れるのかも知れない。
前途は多難だ。
家康はグッと目を瞑る。
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