唐の頭
「うむ、よう来た」
はぁ、と少し戸惑った様子で、本多忠真は家康の前に座る。
家康は顎で、阿部正勝に指示すると、正勝が忠真の前に包みを置く。
「これは・・・・・?」
「褒美じゃ」
開けてみい、と目で家康が促すと、忠真が包みを開ける。
桐の箱が現れて、それを開けると中には兜が入っている。
兜の横に毛が付いており、それに忠真は触れる。
「唐渡りのヤクの毛のじゃ」
家康が告げると、えっ?と忠真は驚く。
「その様な貴重な物を、それがしに・・・・?」
うむ、と家康は頷く。
忠真は目を見開いている。
どれだけ貴重か、その価値がよく分からないのだろう。
家康にも分からない。
姉川の戦さが終わった後、信長の指示通り、家康は岐阜に立ち寄った。
お待ちしておりました、と織田の奉行、村井貞勝が迎えてくれた。
家康は貞勝とは初めて会うが、鳥居元忠から少し聞いている。
織田家では丹羽長秀に次ぐ二番手の奉行で、蔵を預かる納戸役を任されているとの事。
徳川でいえば、それこそ元忠の役目だ。
丸顔で色が白く、武士と言うよりは、商人、それも上方の商人という感じだ。
生まれは近江という事だが、信長の家臣には何人かいる、斎藤利政に仕え、その後信長の元に来た者らしい。
こちらです、と微笑む貞勝が城の中庭に案内する。
あっ・・・・と家康は言葉に詰まる。
そこには山と、米俵と銭が入っているであろう壺が、置かれていたからだ。
内藤家長が、岐阜の城中の米と銭を持って行こうと言い、他の者もそうだそうだと言っていたが、持って行こうと思っていた、倍以上の量だ。
と言うより、家康自体、これ程の量の米や銭を見たことが無い。
今まで見た一番多い銭は、元忠の父、忠吉が長年、渡り衆をしながら貯め込んでいた銭だが、その数倍はある。
これほどか・・・・・織田の富は、と家康は度肝を抜かれる。
家長を始め家臣たちも、皆、言葉を失っている。
一人、元忠は分かっていたのだろう、貞勝に礼を言い、運ぶ手配を始めている。
「三河守さま」
貞勝はニコニコと微笑みながら、家康に近寄る。
「殿より、お渡しする様に言われた品がございます」
背後に控える者が、包みを差し出す。
「これは・・・・・?」
「唐の頭でございます」
「とうの・・・・・かしら?」
はい、と貞勝が頷く。
「唐のヤクという獣の毛をあしらった、兜にございます」
はぁ・・・・と家康は頷く。
高価な物なのだろうが、どれだけ高価なのか、全く想像も出来ない。
「殿が本多どのに差し上げる様にと」
「ほ、本多?」
家康が驚いて声を上げると、はい、と貞勝は頷く。
「此度の戦さで、大きな手柄を上げられたそうで」
はぁ?と家康は顔を歪めるが、構わず貞勝は続ける。
「手伝い戦さで褒美も出ないだろうから、特別にと」
あ、ああっ、と家康は頷く。
褒美も何も、これだけ銭米を貰えれば、徳川の将兵で不満のある者などいるわけが無い。
信長とってこれ程の銭米も、なんでも無いのだろう。
改めて織田の盛況さに、家康は言葉を失う。
既に義元いた頃の今川すら、遥かに超えている。
どうぞ、と言うので、家康は背後に控える阿部正勝に受け取る様、目で促す。
「三河の方は、やはりお強い」
貞勝は笑顔で告げる。
「殿も、本多どのをまこと見事な武士だと、褒めておられました」
はぁ、と家康は小さな声で応える。
ひょっとして信長は忠勝の事を恨んで、次に戦さでどさくさに紛れて、討ち取る様、その目印の為、兜を渡すのではと、家康は一瞬疑ったが、さすがにそれは無いだろうと思い直す。
忠勝の事など気にしている程、信長は暇では無い。
家臣たちには負け戦さと言っていた信長だが、近隣の諸侯には家康に言ったのと同じ様に、勝ち戦さと触れ回っている。
当然と言えば、当然だ。
武士は勝つ大将の下に集まる。勝てば諸侯も牢人たちも、その大将の処にやって来る。
だから戦さが終われば、勝ったと喧伝するものだ。
浅井長政の方も、自分たちが勝ったと、近隣の諸侯に遣いを出して報せているだろう。
姉川の戦さの様な、大将が討たれたわけでも、城が落ちたわけでも無い戦さなら、両方共にそうするものだ。
公平な目で、と言うと、織田の味方をしていた家康が言うのは妙だが、それでも敢えて言うなら、長政の方が優勢の戦さだっただろう。
なにせ織田は浅井の、三倍の兵力だったのだ。
それを退けただけでも、長政の勝ちと言える。
信長の上方支配は、長政があってこそ成立している。
その長政が敵に回ったばかりか、武名まで上げられれば、厄介この上ないだろう。
「あの・・・・何故、それがしに?」
「留守を守ってくれた、それに以前、武田の衆に襲われた時、助けてくれた」
家康がそう答えたが、はぁ、と余り忠真は納得していない顔だ。
本多に与えろと言ったのだ、別に平八郎で無くてよかろう。
そう思って、家康は兜を忠真に与える事にした。
忠勝に与えれば、更に調子に乗るだけだ。
「平八郎にお与えになられたら・・・・・」
家康に心の内が分からない忠真が、恐る恐る言う。
「彼奴に何の手柄がある」
クワッと目を見開き、家康が言う。
いえ・・・・・でも・・・・と言いづらそうに、忠真は続ける。
「此度の戦さ、大手柄をあげたと」
「彼奴はそんな事、触れ回っておるのか?」
家康が怒鳴ると、はぁ、と忠真が頷く。
「妻や母などに自慢げに、己一人で戦さに勝ったと」
「あれは織田どのの策だったのだ」
大声を家康上げると、はぁぁ?と忠真は首を傾げる。
「作戦で織田はワザと負けたフリをしていたのじゃ」
「えっ!?」
「それをあの馬鹿が、ぶち壊しにしたのじゃ」
「そ、そうなのですか?」
「そうじゃ」
それでわしは、兄上に・・・・と言い掛けたが、さすがにそれは口に出来ない。
「あの・・・・・」
申し訳なさそうに、忠真が問う。
「平八郎は、言う事を聞かなかったのですか?」
「彼奴がわしの言う事を、聞くわけがなかろうが」
「いえ、殿のでは無く・・・・・」
本当に言いにづらそうに、忠真は尋ねる。
「その・・・・・・血槍どのの・・・・」
「ああっ、あの爺いの言う事は、よう聞いておった」
「でしたら」
グッと家康は忠真を睨む。
「あの爺いがわしの言う事を聞かぬのじゃ、意味がないわ」
と言うより。
「余計に、タチが悪いわ」
「そ、それは・・・・・」
戸惑う忠真に、家康は怒鳴る。
「もう二度と、あの爺いをわしの前に連れて来るな」
ハクションと大きく一つ、血槍こと長坂信政はくしゃみをする。
「どうも良くないな」
鼻を摘む父信政に、はぁ、と小さな声で、信宅は答える。
「まぁ、今年一杯ということろか」
「・・・・・・・」
今年中に自分が死ぬ、と言っているらしい。
信政は数年前、旅先で血を吐いた。それで旅を止め、三河の地にやって来たのだ。
「墓の場所は憶えておるな?」
父の問いに、はいと信宅は返事をする。
血を吐いて直ぐ、信政はある場所に行き、信宅に穴を掘らせた。
何の為に?と父には尋かない、黙って掘った。
「此処がわしの墓じゃ」
掘り終わると、信政が告げた。
「いずれわしは此処に入る」
「・・・・・亡くなられたら、此処に埋めれば宜しいのですか?」
いや、と信政は手を振る。
「己で入る、お前の手は煩わせんよ」
穴を掘ったのは私ですが、と心の中で呟きながら、信宅は頷く。
「腹が減らなくなり、息をするもの億劫になったら、此処に入る」
何事でも無い様に、当たり前の事に様に、信政は言った。
己を操るという事は、その生きるという事を操る。
生きるという事を操るという事は、その死を操る。
父は槍を操る様に、その死を操るのだ。
あの場所に行くのだ、あの穴に入るのだ。
そう信宅は思った。
自分はどうする?そう考えた。
「お前はこのまま、ここに居れ」
信宅の心を読み、信政が言う。
はっ、と信宅は答えたが、内心は、さぁね、と思っている。
出来れば信宅は父の様に、放浪の旅をして、槍と己を磨くだけの日々を送りたい。
しかし父は、磨くほどの才は無いから、このまま三河にいて、本多の家に仕えろと言う。
不満はあるが、取り敢えずは言う事を聞く事にする。
「それでな・・・・・」
信政は話を始めた。
これから起こるであろう事、それに対して信宅が如何すべきか。
細かく、そして同時に大きな流れを話した。
信宅は黙って聞いた。
父は異常人だ。
禄にも家にも興味が無い。
信宅には一応、妹がいる。
以前、父が三河に居た時、戦さで夫を亡くした寡婦を、側に置いていた。
当時の当主である、松平忠広がそうさせたのだ。
その寡婦が、信宅を産んだ。
しかし父は、信宅が産まれる前に旅に出た。
忠広が亡くなってしばらくした時、父が三河にやって来た。
その時、妹が生まれ、程なくして母が、産後の肥立ちが悪く亡くなった。
母が亡くなると、父は信宅を連れて再び旅に出た。
妹は服部保長に預けたのだが、その後、保長の息子の正成の妻になっている。
その妹に対しても、二人を産んだ母に対しても、そして信宅にも、信政はなんの興味もないらしい。
信宅を連れて行ったのは、或いは槍の才があれば仕込もうか、と思った程度の事らしい。
そして信宅には、信政の目から見て槍の才が無かった。
あった所で、如何したという事も無かったのだろう。
「・・・・・・・」
父の話を聞きながら、その無い左腕を見つめる。
その左腕を失った経緯も、普通で無い。
ただ槍のことだけなのだ。父にあるのは。
だが槍のことだけにしか興味の無い父は、何故か世の流れが見えるらしい。
或いはそういうものなのかもしれない。
一晩かけて、信政は色々語った。
半分くらいは頭に入ったが、半分はそのまま流れた。
「ではな」
語り終えるとそう言って、父は家を出て行った。
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