第49話 花も実も兼ねた武士
「止めぬか平八郎」
家康は絶叫する、しかし本多平八郎忠勝は止まらない。
「誰かあの馬鹿を止めろ」
家康は大声を上げて、側にいる者たちに命じる。
ははははっ、と鳥居元忠は苦い顔で笑う。
阿部正勝は何時もの無表情で、プイと他所を向く。
顔を歪め、あっ・・・・ああっ、と夏目吉信は声を漏らす。
ぐぐっ、と呻き家康は前を向く。
本多忠勝が槍を振り回しながら、大きな身体で縦横無尽に暴れ回っている。
既に浅井勢は退いている、周囲にいるのは織田の者ばかりだ。
しかし関係無しに、暴れ回っている。
「治右衛門はどうした?」
怪力無双の忠勝を止めれる者は、そうは居ない。
既に叔父の忠真では止められず、今回も来ていない。
家中一の剛力だった植村家存も、大怪我をして戦さ場には出られない、そうなれば止められるのは家中一の大兵、大久保治右衛門忠佐だけだ。
「半蔵めを捕らえにいっております」
元忠が困惑顔で答える。
くっ、と家康は唸る。
そうだ、家中には忠勝以外にもう一人、渡辺半蔵守綱という厄介者が居たのだ。
遠くの方で守綱も、暴れているのだろう。
「誰でも良いから、なんとかしろ」
暴れる忠勝を見ながら家康が、声を嗄らして叫ぶ。
「では、拙者が・・・・・」
すぐ背後から声がする、えっ?と家康は振り返る。
だが誰もいない。
なんだと?と思い、再び、忠勝の方を見ると、小柄な人影が近寄って行く。
その影からニュッと棒が伸び、ヒョイっと忠勝の足を絡めて持ち上げる。
あっ、と思うと、忠勝の巨体がその場に引っくり返る。
「誰じゃ?」
直ぐに身体を起こし、忠勝が吠える。
「平八郎、戦さは終わりじゃ」
「あっ、お師匠さま」
自分をひっくり返した相手、長坂信政を見て忠勝は驚く。
「帰るぞ」
はい、と言って忠勝は立ち上がる。
家康に近づき、では、と信政は頭下げ、忠勝を連れてそのまま去って行く。
「・・・・・・・」
「殿」
言葉を失っている家康に、元忠が声をかける。
あ、ああっ、と思い出して頷き、
「退け、退け、皆、退け」
と声を上げる。
「何をやっておった」
信長の甲高い声を耳にして、ひぃ、と家康は身を縮める。
兵を引かせ、その後始末は大久保忠世らに任せると、家康は直ぐに織田の陣に向かった。
兎にも角にも、今は信長に謝る事が先決だ。
「わしはなんと言った?」
諸将を集め、信長が鞭を持って見回している。
「なんと言った?」
「・・・・・・・・」
信長の厳しい声に、皆黙って顔を伏せる。
「この戦さ、浅井新九郎を討てば我らの勝ち、そうで無ければ負け、そう言うたな」
ピシッと信長は鞭を鳴らす。
「今此処に新九郎の首は無い、ならば我らの負けじゃ」
不味い、取り逃したのか、思いながら家康は、少し離れた所から様子を伺う。
「なぜ負けた?」
「・・・・・・」
信長の怒号に、家臣たちは黙っている。
「右衛門」
この中では一番身分の高い、次席家老の佐久間信盛の前に信長は立つ。
「わしの陣立てに、ぬかりはあったか?」
信長の問いに、・・・・・いえ、と小さな声で信盛は答える。
はぁ?と大きな声で信長は問い返す。
「何時もの通り、殿の陣立てはまこと見事で、一切、手ぬかりなどあろう筈が御座いませぬ」
少し大きな声で、信盛は一挙にそう告げる。
「ほぉ、わしの陣立てにぬかりはなかったか・・・・それは安心した」
笑みを浮かべて信長が言う。
その笑みが、背筋が凍るほど恐ろしい。
「では、なぜ負けた?」
「・・・・・・・」
「なぜ負けた?」
「我らの・・・・・落ち度にございます」
顔を伏せ、硬い声で信盛は答える。
「ほぉ、落ち度のぉ・・・・・・」
信長は信盛の前を去り、今度は柴田勝家の前に立つ。
「権六、わしは何と言うた?」
「・・・・・・」
「なんとお前に命じた?」
冷めた目で信長は、勝家を見下ろす。
申し訳御座いませぬ、と勝家は頭を下げる。
「お前、耳が無いのか?」
勝家の肩に、信長は鞭を置く。
「わしはどう命じたかと、聞いておるのじゃ」
「・・・・・・先鋒の坂井どのが、わざと退いて敵を誘い込むので、拙者に止めるようにと・・・・・」
静に重い口調で、勝家は答える。
「そうじゃわしは、そう命じたな・・・・・・憶えておったのか」
忘れたのかと思うたわ、と鞭で肩をポンポンと叩きながら、信長は小馬鹿にした様に言う。
「ではなぜ、言われた様にせぬ?」
「それは・・・・・・」
「何故せぬ?」
鋭い口調で信長が問い質す。
勝家は目を閉じ、しばし黙っていたが、反対側に座る稲葉良通に目をやって答える。
「拙者は防いでおりましたが、いつまで経っても稲葉どのの攻めて来ぬので、耐えきれず」
はっ、と信長が顎を上げ鼻を鳴らす。
「聞いたか一鉄、権六は負けたのはお主の所為だと言っておるぞ」
「これは・・・・・・」
良通が大声を上げる。
「尾張一の猛者と言われる、柴田どのの言葉とも思ませぬな」
「・・・・・・・」
黙って勝家は、良通を見つめる。
「ご自分の不甲斐なさを、拙者の所為になされるか」
良通は信長の方に向き、話を続ける。
「此度の我らの任、敵を背後から突くというもの」
声を大きくして良通は、周囲を見回す。
「相手に気付かれては、元も子も御座いませぬ」
冷めた目で信長は、良通の言葉を黙って聞く。
「だから敵の物見を避ける為、大きく回り込まねばなりませぬ、多少遅れるのは、当然でござる」
「多少・・・・・」
勝家が低い声で応じる。
「多少でござるか?あれが多少でござるか?半日かかるのが多少でござるか?」
「な、なにを・・・・」
「稲葉どのらしくも無い、言い訳をなさるとは・・・」
「何を言うか」
顔を真っ赤にして怒り、良通が立ち上がる。
応じる様に黙って勝家も、立ち上がろうとする。
「黙れ」
両者に信長の雷が落ちる。二人とも黙って席に着く。
離れた所でそれを見て、家康は息をのむ。
佐久間信盛も柴田勝家も、そして稲葉良通も皆、四十も五十も過ぎた歴戦の武者である。
それが年下の主人である信長が怒鳴れば、子供の様に怯えて静かになる。
忠勝を始め若い連中が、全く家康の言うことを聞かない徳川とは、えらい違いだ。
「・・・・・・・・」
三人の重臣を叱り終わると、信長は次に、その他の将を一人ずつ、睨んでいく。
蝗顔の池田恒興は、ギョロリとした目をプイと背ける。
蟷螂顔の滝川一益は、はははっ、と苦笑いをしながら、遠くの方を見ている。
皺だらけの猿顔をした木下秀吉は、信長と目が合うと、あひゃっ、と呻いて慌てて下を向く。
「おい、サル」
獲物を見つけた信長は、鞭で手を叩きながら、秀吉を見下ろす。
「お前、戦さの前に、新九郎を討ち取れば、市を貰えるのかと聞いたな?」
「はひゃ・・・・・はははぁ」
「聞いたな?」
「あ、はい」
小さな声で震えながら、秀吉は頭を下げる。
「何度も聞いたな?」
「何度もは聞いておらぬかと・・・・・」
恐る恐る秀吉が答える。
「黙れ、この禿げネズミが」
信長は怒鳴って、秀吉を蹴る。
床几に座っていた秀吉は、そのまま背後に倒れる。
「何をやっておった、何をやっておった」
怒り狂った信長が、鞭で秀吉を滅多撃ちにする。
「ご勘弁を、ご勘弁を」
亀の様に縮こまった秀吉が、唯々赦しを請う。
「ああっ、ああ」
思わず家康は声を漏らす。
あんなもの、いくら殴られた役と言っても死ぬぞ。
うん?と声に気づき、信長が家康の方を見る。
「・・・・・・・」
鬼の形相だ。
秀吉への折檻を止め、ズンズンと家康の方に向かってくる。
不味い。
家康は震える。
忠勝の所為で、信長の作戦はぶち壊しだ。ただで済むわけがない。
震えながら家康は後退りする。その時、しまった、と後悔した。
連れて来た家臣は、石川数正と阿部正勝である。
数正は信長の威にのまれ、青い顔で震えている。
一方の正勝は知らぬ顔で、プイと他所を向く。
二人とも助けにはならない。
「あ、あの・・・・・」
家康の前に信長が立つ。冷めた目で信長が家康を見る。ゴクリと家康は唾をのむ。
信長の手が上がる、思わず家康は目を瞑る。
「徳川どの、まことに助かりました」
高い声を上げながら、信長は家康の肩を両手で叩く。
えっ?と戸惑いながら、家康は目を開ける。
そこには信長の、満面の笑みがあった。
「三河衆のおかげで、我らは大勝利ですぞ」
ははははっ、と信長は大笑いをする。
さっき負けたと言うておったではありませぬか、と内心思いながら、家康は、ははっ、と固まった顔で無理に笑う。
怒ってない?
家康は戸惑う。
「ところで、あの当方の陣に一騎駆けをおこなった武者、何と申される?」
「本多平八郎に御座います」
「そうか、平八郎と申すか」
信長の手が、鎧の袖と胴の間の、何も無い隙間に入る。
「見事な剛勇の士」
少しずつ信長の手に力が入る。
「花も実も兼ねた、まことの武士よ」
凄い力で家康の肩を、信長が掴む。
痛い痛い、兄上、痛い、と心の中で訴えながら、家康は顔を歪める。
怒っていない訳、無いですよね・・・・・必ず、平八郎は叱っておきますから、二度とこの様な事にならない様、気を付けますから、赦してください。
目に涙を溜めながら、そう心の中で家康は信長に謝る。
「まこと三河衆は東海一、いや東国一の武者よ」
そう言うと、信長は家康の肩から手を放す。
赦してくれた・・・・と家康はホッとする。
「本当に頼もしい」
そう言うと、ガバッと信長は家康に抱擁する。
「竹千代、よう聞け」
低い小さな声で、信長が耳許で囁く。
「武田が攻めて来ても何もするな、城に籠もって何もするな、わしが何とかしてやる」
早口にそう言うと、信長はバッと離れる。
「帰りに岐阜に寄られい」
信長は再び、甲高い大きな声を上げる。
「援軍の礼じゃ、米でも銭でも好きなだけ持っていかれい」
「・・・・・あ、あっ・・・」
うん?と信長は笑顔で首を傾げる。家康は戸惑ったが、はい、とだけ答える。
「徳川どのは我が義弟、今後とも頼りにしておりますぞ」
パンパンと最後に家康の肩を叩くと、信長は家臣たちの方に向かう。
「では岐阜に戻るぞ」
そう信長が宣言すると、ははっ、と諸将が応える。
「いつまで転がっておるか、サル」
伏せったままの秀吉に近づき、信長が地面に鞭を振るう。
ひぃ、と声を上げ、恐る恐る秀吉が顔を上げる。
「お前はサッサと横山の城を落とし、新九郎を小谷から引きずり出す算段を立てろ」
「もう無理なのでは・・・・・・」
「何のために、お前に半兵衛を貸し与えておる」
ピシッと信長が鞭を振るう。
「とっとと知恵を絞らせて来い」
ひぇええええ、承知しました、と悲鳴を上げて、秀吉が駆けていく。
「それでは織田どの、我らもこれにて」
明智光秀が席を立ち、信長に丁寧に頭を下げる。
「ご苦労でござった」
信長が冷めた目を、光秀に向ける。
「公方さまに宜しゅう」
そう信長が言うと、承知しました、と光秀がもう一度、頭を下げる。
おや?と、二人の遣り取りに、家康は何か妙なものを感じた。
「それでは・・・・・」
通り過ぎざま、光秀は家康に会釈する。
「ああ、どうも」
家康は深く、頭を下げる。
「・・・・・・我らも陣に戻るぞ」
しばし光秀の背を見てたが、信長に頭をさげ、家康は陣に戻った。
わっははは、と大きな笑い声が聞こえて来る。それも幾つもだ。
家康は陣に戻って眉を顰める。
織田の陣と違い、徳川の陣はお祭り騒ぎだ。
特に家康の馬廻衆の若い連中、本多忠勝や榊原康政、それに内藤家長、渡部守綱、酒井重勝らが、はしゃぎ回っている。
無理も無い、八千の朝倉軍を、五千の徳川軍で破ったのだ。それも実際に戦ったのは家康の本隊千五百だけだ。
それにその後、信長の策ではあったが、押されていた織田軍に加勢し、浅井軍まで打ち負かしている。
徳川の将兵からすれば、朝倉も浅井も、それに織田も負けた戦さなのに、徳川だけが勝った戦さなのだ。
それはお祭り騒ぎにもなる。
「静かにせぬか、お前ら」
家康が大声を上げて、騒ぎを鎮めようとするが無駄だ。
重臣や老兵たちの方を見るが、皆すでにサジを投げている。
筆頭家老の酒井忠次は何時ものムスッとした顔で、プイと他所を向いているし、大久保忠世や夏目吉信、米津常春らも、諦めた様子だ。
全く・・・・・。
家康は頭を抱える。
こんな事なら、作左を連れてくるばきだったか、と思ったが、いや、と首を振る。
本多作左衛門重次を連れて来ても、忠勝と喧嘩をするだけで、騒ぎが大きくなるだけだ。
「いい加減にせい」
もう一度、家康が言うと、
「殿が何か言うておるぞ」
「お褒めの言葉じゃ」
と家長と鳥居忠広が言って、他の者を静かにさせようとする。
何がお褒めの言葉じゃ。
家康は腹が立ったが、それでも静かになるなら、それで良い。
康政が忠勝を抑えて、漸く静かになる。
「皆、大儀であった」
一同を見回し、家康が告げる。
「皆の働き、織田どのも大そう感謝されておった」
「なにが、感謝じゃ」
ふん、と一つ忠勝は鼻で笑う。
「尾張の者はまこと、戦さができぬのぉ、弱すぎて話にならぬわ」
忠勝が言うと、そうじゃ、そうじゃ、と周りの連中も声を上げる。
「黙れ」
家康が声を上げる。
全く・・・・あれは織田どの策じゃったのじゃ、それをお前がぶち壊しにしたのじゃ。そう忠勝に言ってやろうかと思ったが、またどうせ騒ぎになるので止めにした。
「織田どのが礼として、岐阜の城の蔵から、好きなだけ銭でも米でも持って行って構わぬとの事じゃ」
ほぉおお、と皆から歓声が上がる。
「殿とは違って、織田どのはさすが気前が良いですなぁ」
ははははっ、と笑って忠勝が機嫌良く言う。
うるさいわ、と家康が睨み付ける。
「ならば城中の米と銭を、全て分捕ってやりましょう」
家長が言うと、そうじゃ、そうじゃ、当然じゃ、と周りの連中がまた騒ぐ。
「殿、女子は持って行ってはいかぬのか?見目麗しゅのを、四、五人、いや二十人ばかし・・・・・・」
ははははっ、渡辺守綱が笑いながら言うと、それは良い、と榊原康政が応じる。
「三河と違い、尾張や美濃は女子が美しいからなぁ・・・・・」
はっ、として康政口を塞ぐ、背後で舅の大須賀康高が睨んでいたからだ。
「いい加減にせぬか、お前ら」
家康は怒鳴り声を上げるが、やいのやいの、と騒いで、若い家臣たちは黙らない。
「もう良い、三河に帰るぞ」
そう家康が宣言すると、その時だけは、おおっ、と声を上げて応じる。
まったく・・・・と家康は顔を顰め、溜め息を吐く。
手が震えている。
人を槍で突き刺した。そしてその後馬乗りなり、相手の首を奪った。
ジッと目を閉じ、その時のことを思い出す。
グッと何かが、胃の方から登って来る。
「鵜殿どの」
呼び掛けられて、鵜殿氏長は目を開けた。
男が立っていた。名は確か、本多正重とか言った。
氏長と共に、浅倉勢に横槍を入れた、榊原隊の一人だ。
見事な武者だった。槍を振るい、次々と敵を討っていった。
氏長が黙っていると、正重が近く。
「お見事な戦さ振り、さすがは名家のお方」
正重はニッと微笑んだ。
・・・・・いえ、と氏長は手を振って、否定する。
「御謙遜を・・・・・ほれ」
そう言って正重は、顔を横に向ける。
そこには本多康重や石川康通など、此度初陣の若者たちがいた。
皆、氏長の方を見ている。
「皆、鵜殿どのの働きに感心しておられるのですよ」
正重がそう言うので、氏長は彼らに会釈する。
康重らも会釈を返す。
「行って話をされると良い」
「・・・・いえ、しかし・・・・」
氏長が戸惑っていると、正重は顔をこちらに戻す。
「我らは、共に戦った仲間にござる」
「・・・・・っぁ・・・」
さぁ、と正重が促すので、氏長は立ち上がり、康重らの方に向かう。
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