第29話 曳馬

掛川の城が落ちると、家康は一度岡崎に戻った。

評定を開き、今後の方針を決めるためである。

広間には酒井忠次、石川数正、そして高力清長、本多忠真、大久保忠世た重臣たちが並ぶ。

しかし石川家成、本多重次、本多忠勝などは居ない。

家成を呼ばなかったのは、居ても意味がないからだ。

西の旗頭であるが差配は全て、一歳年上の甥である数正がやっているし、別に評定に出てきても、特に何も言うことは無い。

何時ものお大尽顔で座っているだけなので、呼ばなくて良いと家康が言ったのだ。

当人の方も文句も言わず、趣味の芸事に勤しんでいる。

以前は連歌に凝っていたのだが、近頃は上方で流行っている茶の湯にはまり、茶屋清延に頼み、高価な茶道具を買い揃えていると言う話だ。

平岩親吉を呼ばなかったのは、守役の仕事が忙しいからだ。

織田からの嫁も来て、嫡子竹千代は元服し、信長から一字を貰い、信康と名乗っている。

その信康の為、親吉も忙しく働いているのだ。

本多重次を呼ばなかったのは、呼べばうるさいからだ。

評定に居れば、忠勝と喧嘩をし、家康に文句を言い、数正に噛み付く。

面倒なだけなので、数正と示し合わせて、呼ばなかったのだ。

正しく言えば、重次が領内の見回りをして、城に居ない時を見計らい、評定を開いたのである。

帰ってくれば、勿論、重次が怒るが、その相手をしている方がまだましだ。

本多作左衛門重次という男と出会い、十年ほど経つが、家康も段々と作左という男をどう扱えば良いか分かってきた。

本多忠勝は評定に呼べば、重次と喧嘩をするか、欠伸をしながらぼうっとしている。

重次が居ないのなら静かなものだから、呼んでやったのだが、

「調練に忙しいので」

と断ってきた。

殊勝な、とは家康は思わない。

調練と言ったところで、榊原康政や内藤家長ら幼友達を集めて、戦さごっこをしているだけなのである。

しかし呼んでも居眠りをするだけだ。

放っておくことにした。

鳥居元忠を呼ばなかったのは、単純に三河に居ないからだ。

渡り衆の仕事が忙しく、諸国を飛び回っている。

家康も元忠の事は好きにさせている。

諸国の情勢を伝えてくれるし、何より渡り衆の稼ぎが、徳川の財政を支えているので、文句は無い。

そういった面々が居ない代わりに、近頃側に置くようにしている夏目吉信や、新参の東三河の地侍、菅沼定盈や西郷清員らを呼んだ。

更に古参の米津常春、それに家康の年下の叔父である水野忠重などが並び、末席には服部半蔵正成が控えている。

「評定を始める」

一同が席に着いたので、家康がそう宣言する。

すると

「では・・・・・」

と早速、石川数正が口を開く。

「此度、掛川を落とし、当家は三河、遠江二カ国を治める事になりました」

家康の方を見ながら、数正は淡々と述べる。。

「そこで居城を岡崎より移すのが、よろしいかと思われます」

末席に座っていた正成が、いつの間にか地図を持って広間に入ってくる。

そして大きな地図を、一同の前に広げる。

見事な地図だと、家康は感心する。

三河と遠江の二カ国を描いているのだが、岡崎や掛川などの城の位置を、正確に示しているだけでなく、小さな城や、川や森なども細かく記している。

家康は昔、信長に言われて、鷹狩りをしながら、兎に角領内の地形を頭に入れた。

だからこれ程の地図を描く事が、どれほど大変か分かる。

大したものだ、と正成の方を見るが、既に席に戻っており、何時もの無表情で座っている。

「両国を治めのに、岡崎では少し西に寄りすぎております」

地図の岡崎の位置を、数正が扇子で指す。

「そこで・・・・・・・」

扇子をスッと東に動かす。

「この曳馬が宜しいのではないかと・・・・・・」

数正の言葉に、一同、地図を見ながら騒つく。

「殿、如何ですか?」

「うむ」

家康の返事に力は無い。

別に居城を移す事に、不満があるわけでは無い。

かつての家康なら、こんな事を数正が言い出せば、

「何を言っておるのじゃ?」

と正気を疑ってであろう。

居城を移す、それも他国になど、考えもしない事であり、同時に、移してはいけないものだと思っていたからである。

おそらく数正も同じであろうが、信長が尾張清洲から、美濃の岐阜に移すのを見て、居城は移しても良いものと、考えが変わったのだ。

だから居城を移す事に、反対は無い。

「・・・・・・・掛川で良いのでは無いか?」

「掛川では、東に寄りすぎかと・・・・」

家康の言葉に数正が、直ぐに返答する。

確かにその通りだ。

うむ、とそれでも家康は唸る。

「殿・・・・・」

天野康景三郎兵衛康景が声を上げる。

「名が気に入らぬのであれば、登誉天室さまに考えて頂いたら如何でしょう」

康景の言葉に、家康が何に不満なのか気づき、あっ、と数正は声を漏らす。

何時もの事ながら、康景は家康の胸の内を察するのが早い。

やはり近習に戻すべきかと、阿部正勝をチラリと見て、家康は思う。

「そうじゃな、名を考えて貰うよう、天室和尚に頼んでおけ」

はっ、と康景が返事をする。

「それで・・・・・・・」

数正が気を取りなおして、話を続ける。

「岡崎の城は、若さまを主人としましょう」

「そうだな」

「拙者と高力どの、作左どの、それに三郎兵衛が残る事にしては如何でしょう」

うむ、と家康は頷く。

康景を近習に戻したかったが、我慢する事にした。

続けて他の城の手配を、数正は告げる。

「掛川の城には、日向守どのがよろしいかと思います」

「そうかぁ?」

家康は首を捻る。

日向守とは数正の一歳年下の叔父である家成の事だ。

「小五郎の方が良いのではないのか?」

酒井小五郎忠次の方を見て、家康は告げる。

忠次は何時ものムスッとした蛙面で、何も言わない。

代わりに数正が口を開く。

「酒井どのには、このまま要所である吉田の城を守って頂き、日向守どのに入って頂くが、上策かと」

ふむ、と頷き家康は、忠次の方を見る。

何も言わず黙ったままだ、不満は無いらしい。

しかし・・・・・・・・。

「掛川は前線だ、日向守では心許ない」

家成の御大尽顔を思い浮かべ、家康は告げる。

「掛川は、取り込んだばかりの遠江衆をまとめる要の地、あまり我の強い方、頭ごなしに命ずる者より、日向守どのの様に、穏やかな人物の方がよろしゅうございます」

穏やかとは、良い様に言うの・・・・・と家康は数正の言葉に苦笑する。

「それに彦五郎を元服させ、側に置けばよろしいかと」

彦五郎と言うのは、家成の息子の事である。

今は小姓として家康の側にいるのだが、父親と違い気概のある若者である。

そうだな・・・・・と呟き、家康は高力清長の方を見る。

家臣の中で、家中の者たちに一番通じているのは清長である、清長が反対しないのであれば、問題ないのであろう。

「分かった、そうしよう」

家康は了承する。

「田原の城には、本多の彦三郎どのに入って頂きましょう」

直ぐに次の話を数正はする。

今度の意見には、うむ、そうだな、と家康は反対せずに返事をする。

田原は三河湾に臨む渥美半島の港である。

戸田家の居城で、かつてここで家康こと竹千代は、戸田康光に捕まり、尾張の織田に売られた。

本多の彦三郎とは、本多の重鎮、広考の事だ。

鳥居元忠の父親忠吉や、石川数正の祖父である清兼亡き後、徳川を代表する宿老である。

これまで家康の軍勢は、譜代の家臣たちで成り立っていた。

それぞれの家から、誰を何人出すか、先手役の将である広孝が決めていたのである。

しかし今や家康は三河の国主だ、その軍勢も触れを出せば、国衆地侍が馳せ参じてくる。

広孝はお役御免と言うことだ。

お役御免とはいえ、広孝はまだ四十過ぎ、徳川の宿老として働いてもらいたい。

敵の領地に接していない要衝を任せるには、丁度良い人物だ。

チラリと家康は本多忠真の方を見る、黙って忠真が小さく頷く。

よし、そうしよう、と家康は了承する。

「こちらも彦次郎を元服させ、側に置きましょう」

そう数正が続けると、ああ、と家康は苦笑する。

家成の息子彦五郎と、広孝の息子彦次郎は同い年で、共に家康の小姓を務めている。

既に彦五郎の妹を、彦次郎に嫁がせる事が決まっているので、義理の兄弟でもあるのだが、二人の性格はまるで違う。

彦五郎は父家成と違い、気概のある若者だが、彦次郎の方は、謹厳実直な父親広孝と違って、穏和で心の根の優しい子だ。

「そうだな」

家康は忠真の方を見ながら言う。

「わしの近くに置いておけば、平八郎の奴に虐められるからな」

ははっ、と顔を顰めて忠真が頭を下げる。

忠真の甥の忠勝が、

「本多の棟梁として鍛えてやる」

と言っては、彦次郎を連れ回して無茶な事をさせているのだ。

何時も彦次郎は泣いて逃げ回る、それを忠勝が追いかけ回す、見かねて忠真や石川の彦五郎が止めに入り、庇っいるのだ。

「殿」

数正が話を続ける。

「彦三郎どのを役から解くので、新たに将を付けるべきかと」

「ふむ、そうだな」

家康が同意すると、数正は大久保七郎右衛門忠世の方を一瞥する。

「大久保の七郎右衛門どのが、よろしいかと思います」

いや、それは・・・・・と忠世が断ろうとするが、それを遮り、そうしよう、と家康が了承する。

「常源どのにも話し、別家を立てるという事にしました」

また勝ってに決めおって、と家康は数正の言葉に呆れる。

常源とは、隠居している忠世の叔父の忠俊の事だ。

穏和で身体の弱い息子に領地を治めさせ、武勇に優れた甥の忠世、忠佐兄弟を家康の元に送っているのだ。

叔父に話を通している事、忠世は知らなかったらしく、戸惑いの表情を見せている。

「七郎右衛門、諦めて役につけ」

家康がそう言うと、はぁ、承知しました、と忠世が頭を下げる。

「丁度良いわ、平八郎の奴をお役御免にして、指揮を全て七郎右衛門に任せよう」

平八郎とは、評定にも顔を出さない本多忠勝の事だ。

いや、それは・・・・・・と忠世が、隣りに座る忠真の顔を伺う、忠真は何も言わず、苦笑いだ。

「殿、そうではなく、拙者に策があります」

自信満々に数正が声を上げる。

「どうすると言うのじゃ?」

目を細めて、家康が問う。

「今の軍はこれまで通り、平八郎に率いさせ、新たに多くの牢人を召しかかえるのです」

「牢人?」

家康が眉を寄せる、他の者がざわざわと騒ぐ。

しかし数正は強く頷く。

「拙者、織田の強さの秘訣は、銭で集めた大量の牢人の軍勢であると思うのです」

「うむ」

「牢人衆であれば、田植えも稲刈りも関係ありませぬ、好きな時に戦さが出来ます」

「確かにな・・・・・・」

苦い顔で家康が頷く。

それに対し、会心の笑みで数正は告げる。

「そうすれば戦さは、いつでも先手先手が打てます」

「・・・・・・・う、うむ」

「これこそ間違い無く、必勝の策にございます」

そう言い切る数正に、うううむ、と家康は唸る。

忠世や忠真、それに夏目吉信や米津常春なども顔を見合わせ、渋い顔をしている。

「その牢人隊を、七郎右衛門に指揮させるのです」

渋い顔をしている忠世をチラリと見て、数正は家康に告げる。

「如何でございましょう?」

どうだとばかりに胸を張る数正に、んんんん、と家康は唸る。

確かに理に適った話だ。

しかし家康は気乗りしない。

理屈では無い、ただ気持ちの問題なのだ。

おそらく忠世や忠真も同じだろう、あまり他国の者を入れたく無いのだ。

ふと、ある事に家康は気付く。

本多重次が居ない。

居れば理屈も糞もなく、断固反対しただろう。

重次が居ないのは、居ないうちに評定を行おうと数正が言ったからだ。

この為か、と家康は納得する。

勿論、家康も重次が鬱陶しいと思っていたので、賛成したのだが、余計な事を言われないために、居ないのを見計らって評定を開かせたのだろう。

「それに織田から、分けて頂いた鉄砲・・・・・・」

渋る家康に、数正は更に畳み掛ける。

「正直言って、当家では扱いかねています」

そうだなぁ、と家康も同意する。

鉄砲は信長が分けてくれて、その後も元忠が少しずつ買い集めているのだが、徳川家中ではあまり皆、使いたがらない。

三河の者は頑固で、尾張や駿河の者と違い、新奇な物を好まない。

それに門徒の一揆の時、雑賀の鉄砲撃ちに家康が狙撃されたので、家中の中で鉄砲は卑怯という考え方が強いのである。

「鉄砲を扱える牢人を、多く召し抱えて、その者たちに鉄砲を与えれば、間違い無く強力な軍勢になります」

力強く数正は言い切る、うむむむ、と家康は唸るだけだ。

家康は石川家成の息子や、本多広孝の息子など、家中の少年らを小姓にして、いずれはその者たちを馬廻り衆にするつもりであった。

それは言ってしまえば、今川義元がやっていた方法で、家康自身もその馬廻り衆候補の、その一人であった。

それに対し数正は、信長のやり方を取ろうと言っている。

義元のやり方と、信長のやり方、正しいのはどちらかと言えば、桶狭間で勝った信長である。

家康にしろ他の者たちにしろ、反対ではあるが、理屈で言えば数正が正しい。

重次が居れば、理屈も糞も無く反対していただろうが、その重次も居ない。

「では、その様していきま・・・・・・・」

「わしは反対じゃ」

誰もが反対だが、言葉に困り黙っているので、数正が決めようとしていた時、突然声が上がる。

驚いて家康が声の方を見ると、ムスッとした顔のまま、忠次が腕を組んでいる。

「何故でございます?」

まさか忠次が反対するとは思わず、少し驚いた顔で数正は問う。

「ではまず訊くが、我らはこれからいずこと戦さをする?」

忠次の問いに数正は眉を寄せる。

三河、遠江を領している徳川が接しているのは、尾張の織田と、甲斐、信濃、そして駿河を領している武田だ。

織田とは婚姻を結んでいる、当然、敵となるのは、

「無論、武田でござ・・・・・」

「武田は・・・・・」

数正が言い終わらない内に、忠次が口を開く。

「織田と違い、地侍が殆どだ」

忠次の言葉に、数正は頷く。

「そうなれば当然、攻めて来るのは、田植えや稲刈りの無い頃」

「そうです・・・・・・」

「それを守るのであれば・・・・・・」

ジロリと忠次は数正を見る。

「我らも田植えや稲刈りが無い時に、備えれば良かろう」

「それは・・・・・・」

「それともこちらから攻め込むのか?」

うっ、と数正は言葉に詰まる。

とても攻める余裕など無いし、何より家康も家中の者も攻める気などない。

あくまで三河、遠江の領地が守れれば、それで良いのだ。

「次に、織田が牢人の軍勢を使えるのは、あの滝川と言う男がいるからだ」

それは・・・・・と言って、数正は忠世を一瞥する。

「七郎右衛門が滝川どのに劣ると言う事でござるか?」

「劣る劣らぬの話ではない」

低い声でピシャリと忠次は言う。

「七郎」

忠次が呼び掛けると、はっ、と忠世が返事をする。

「お前、氏素性の知れぬ、無頼の輩を率いて、戦さに出られるか?」

「いえ」

「そやつらを、手足のように意のままに操れるか?」

「無理でございます」

「そやつらが乱取りをせぬよう、言い聞かせることが出来るか?」

そんな事・・・・・・と、忠世は首を振る。

そんだ、普通に考えて無理だ、誰も出来るわけがない。

鳥居元忠の話では、稲葉山を攻める際、滝川一益は配下の牢人衆に、一切の乱取り分捕り略奪を禁止したという。

更に言えば、信長は上洛する際、家臣に一切の乱暴狼藉を禁止し、一文でも盗みを働いた者は斬首するという触れを出し、まことにそれを行ったらしい。

初め京の者たちは、織田の軍勢を、源平の頃に京に入り、乱暴狼藉の限りを尽くしたといいう木曾義仲の様になると思っていたらしい。

それが一切騒ぎを起こさなかったので、驚き、その後、織田を支持したという。

その話を家康は、京の人間である茶屋清延から、直接聞いた。

「滝川と言うあの御仁・・・・・・」

静かに忠次が告げる。

「あの様な者がそうは居るとは思わぬ、少なくとも当家には居らぬ」

確かに、と家康も頷く、

どんなに信長が乱暴狼藉を許さぬという触れを出そうと、それを実行する者が居なければならない。

譜代の家臣ですら、言うことを聞かないかもしれないのに、牢人衆のそれをさせる。

滝川一益という男は、世にも稀な才を持つ男なのだ。

「それに・・・・・・・」

忠次は話を続ける。

「銭で召し抱える以上、織田と取り合いになる」

まるで食い物か着る物の売り買いの話の様に、忠次は言う。

「当然、銭を多く出す方に、ましな者は行く」

銭があるのは織田だ、皆分かっている。

「うちに来るのは、カスばかりという事か」

思わずそう漏らす家康に、忠次は黙って頷く。

「最後に・・・・・・・」

忠次の低い声が響く。

「これがもっとも重要な事だが・・・・・・」

与七郎、と忠次は数正の名を呼び、静かに見つめる。

「お主、牢人どもを召し抱えて、戦いの無い時、そやつらを如何するつもりだ?」

「如何する・・・・・?と言われましても・・・・・」

数正は戸惑う。

「勿論、城下に長屋を建て、そこに住まわせます」

「お主、何故織田どのが、のべつ戦さをしておるか分かるか?」

「はぁ?」

忠次の言葉の意味が分からず、数正も家康も、そして他の者も首を傾げる。

「牢人者など、所詮流れ者の無頼衆、野盗野伏せりと大して変わりわせぬ」

淡々と忠次が述べる。

「そんな輩を城下に住まわせて良いのか?」

「そ、それは・・・・・・・」

「必ず、騒動を起こす」

うぐっ、と数正が呻く。

「織田どのがのべつ戦さをしておるのは、牢人どもに暇を与えると、ろくな事をせぬからじゃ」

ああっ、と家康は声を漏らす。

信長を知る家康からすれば、何時も戦さをしているのは、そういう性格だからである。

嘗て、朝比奈泰能が信長の事を、鼬の様な男と言っていたが、ある意味家康も、同感であった。

だが忠次からすれば、そうではなく、牢人衆を抱えているから、戦さをするという事になる。

どちらが正しいかと言うより、鼬の様な信長だから、牢人衆を雇い入れ、そこに運良く、一益が現れ、指揮をさせ、のべつ戦さをしているのであろう。

「当家も織田の様に、絶えず戦さをするのか?」

いえ、と顔を伏せ数正は首を振る。

そうだろう、と低い声で言うと、忠次は家康の方を向く。

「よって、当家が牢人を多く召し抱える必要など、無いので御座います」

そう言い終わると、再び正面を向いて、忠次は黙る。

「小五郎の言う通りじゃ」

家康は忠次に同意する。

しかし・・・・・・・と家康は内心驚く。

こんなに忠次が喋ったのを、初めて見たからだ。

大概、忠次は自分では言わず、高力清長に代わりに言わせる。

それなのに今回は、自ら口にした。

他の者も驚いている、表情の無い大仏顔の清長ですら、いつもよりも目を細めている。

自ら口に出して言うほど、この一件は御家の大事だと、忠次は思ったのだろう。

数正に目をやる、グッと顔を歪めている。

それはそうだろう。

おそらく会心の策なのだろうに、反対されたのだ。

それも重次が、理屈もクソもなく反対したのでは無い、忠次が理を説いて反対したのだ。

数正にすれば、従うしか無い。

うむ、と家康は頷き、口を開く。

「利のあることには、それなりの代償を払うと言うことだな」

そう忠次に告げると、ムスッとした顔のまま、少しだけ頭を下げる。

「その代償は、我らには重い・・・・・・」

今度は数正に顔を向けると、静かに頭を下げる。

「が、与七郎の申す事にも一理あると、わしは思う」

そう言って次は、忠世の方に向く。

「七郎右衛門、お前にはやはり、先手組の将になってもらう」

観念した様に、ははっ、と忠世が頭を下げる。

「それに鉄砲の件じゃが・・・・・・・」

一同を見回す。

「これから武田との戦さになれば、城に籠って鉄砲で撃ち払う、それが要となろう」

忠真や吉信、恒春ら戦場に出る者たちが頷く。

「ならばやはり、鉄砲の上手な他国の者を、召し抱えるしかあるまい」

不満の者が居るだろうが、それは仕方がない。

「だが召し抱える者は、銭で集めるのでは無い」

天野康景の方を見る。

「領地を与えよう、幸い、三郎兵衛が新田を拓いたおかげで、少し領地に余裕がある」

康景は少し、頭を下げる。

「ただし、いくら鉄砲が上手くても、氏素性の分からぬは者、信用のできぬ者は召し抱えぬ」

声を低くして家康は告げる。

「武田の信玄入道は謀の名手だ、必ずこちらに間者を送ってくる」

半蔵、と末席にすわる服部正成を呼ぶ。

「間者の探り出しは、お主に任せる」

「承知しました」

「少しでも疑わしい者は召し抱えぬ、良いな」

ははっ、と低い声で答えて、正成は頭を下げる。

「確実に信用できる者を、数人召し抱える」

一同を見回し、そう致す、と告げる。

皆が、ははっ、と頭を下げる。

よし、と家康は頷く。

「それでは次に・・・・・・」

数正が再び口を開く。

家康は苦笑する。

忠次にやり込められたのに、へこたれず直ぐに次の策を言う。

正しく言えば、初めから考えていた策を、何があろうと順に述べていく。

知恵者だが、頭は固い頑固者。

それが石川与七郎数正という男である。

「武田と相対するとして・・・・・ここはやはり越後と手を組むべきかと・・・・」

目を細めて数正が言う、ふむ、と家康は頷くが、少し顔を歪める。

数正の冷めた顔を見れば、言いたい事は分かる。

本当は家康が北条氏規に情で訴え、小田原の北条と手を結ぶべきだと、数正は思っているのだろう。

しかし家康が、その事を絶対に了承しない。

そうなれば他に道はこれしか無い。

徳川は織田と手を組んでいる、しかし織田は武田とも婚姻を結んでいる。

上方の支配に集中したい信長からすれば、東から攻められるのは、絶対に避けたい。

徳川と武田の戦さになっても、織田の援軍は期待できない。

北条も駄目、織田も駄目となれば、後は越後の上杉だけだ。

だがこの策はかなり期待できると、家康は思っている。

何故なら武田と上杉ほど、宿敵という言葉が似合う相手はいないからだ。

北条に関東を追われた関東管領上杉憲実が、越後に落ち延び、関東管領職と上杉家の家督を譲ったのが、越後の守護代、長尾輝虎だ。

その後、関東管領上杉輝虎となって、関東に攻め入り、小田原城を包囲した。

しかし小田原城は堅牢で、その上、今川の後詰めもあり、輝虎は兵を引いた。

そう言う関係を考えれば、上杉の宿敵は北条と言う事になる。

しかし武田が今川を攻めると、北条の隠居、氏康が激怒、輝虎に和睦の使者を送ったのである。

条件の事で揉めてはいるが、和睦そのものは、輝虎も受け入れているらしい。

これに対し、上洛を目指していた足利公方義昭が、その助力を得るため輝虎に、信玄と和睦を斡旋したが、結局不首尾に終わった。

輝虎が武田と争うのは、北信濃の豪族に助力を頼まれたからに過ぎない、それに対して北条と戦うのは関東管領としての責務だ。

それなのに北条と和睦は出来ても、武田とは出来ない。

人の相性とでも言うのか、上杉輝虎と武田信玄の両者は、相容れぬものがあるらしい。

「そうだな」

家康は頷く。

両者が相容れない事は、此方とすれば、願ったり叶ったりだ。

徳川と上杉で武田を南北から挟み撃ちにする、攻め滅ぼせるとは思えないが、時は稼げる。

そうすればその内、信長が三好一党ら上方の敵を追い払い、義昭の元、幕府を再興してくれるだろう。

その義昭に和議を頼めばなんとかなるはずだ。

上方が片付けば、信長も後詰めを送ってくれるはず。

そうなれば信玄も、和睦を受け容れる筈だ。

それまで保てば良い。

「では、誰を越後に送るか・・・・・」

家康は顎に手をやりながら、一同を見回す。

使者にするには数正か、或いは・・・・・・・。

「殿」

高力清長が声を上げる。

うむ、と家康は頷く、数正か或いは清長辺りにしようと考えていたからだ。

「では、与左衛門、お前に任せよう」

「そうではありませぬ」

無表情の大仏顔を、清長はゆっくり振る。

「ここは植村の新六郎が、よろしいかと思われます」

「新六郎・・・・・・・・かぁ」

意外な名に、家康は首を捻る。

植村新六郎家存と言えば、家中随一の剛力で、戦場の勇士だ。

「それは・・・・・・・」

数正も戸惑い声を上げる。

家存は口下手というより無口で、殆ど喋らない、他国との使者、それも初めて送る使者なのだから、弁が立つ方が良い気がする。

「越後は北国にございます」

当然の事を清長は言う。

「北の者はあまり喋らぬと聴きます」

そうなのか?と家康は首を傾げる、確かにそんな気もするが、よく分からない。

「あまり喋らぬ者は、弁の立つ者をよく思いませぬ」

家康は苦笑する、数正を送れば、上杉の者が、いかがわしいと思うと言う事なのだろうか。

「上杉も武田との争いの為、我らとは手を結びたいはず」

苦笑する家康とは反対に、無表情のまま、清長は続ける。

「その様な場には、小細工などせず、こちらの本心を見せるべきです」

「確かに」

菅沼定盈が同意する。

「越後上杉弾正小弼は、義に厚い御仁と聴きます、ここは高力どのの言う通り、小細工などせぬ方が、宜しいのではないでしょうか」

うん、家康は頷く。

定盈は、東三河、奥三河、そして遠江の国衆地侍たちを徳川に引き入れるため、駆け回っていた。

交渉の駆け引きを、その身をもって学んだのだろう。

その定盈の言葉だ、家康も納得する。

「分かった、新六郎に任せよう」

家康が承認すると、ははっ、と小さな声で答え、清長は頭を下げる。

「・・・・・・・」

顔を上げた清長の細い目を、しばし家康は眺める。

門徒の一揆を鎮めた後、領内を見回らせるため、奉行を三、四人、命じる事にした。

その時、忠次が一番に上げたのが、清長である。

「誰よりも家中の者を見ております」

と言うのが、忠次の言い分だ。

おそらく正しかろう。

夏目吉信らを側に置くよう進言して来たし、家中の者見る目は確かだ。

家存の事も、単に寡黙だからと言うことだけではないのではと、家康は思った。

武田の秋山勢との小競り合いで、家存は大怪我をした。

多分もう、戦さ場には出られない。

そうなれば家存も、塞ぎ込むだろう。

無口な分、誰にも言えず、辛い筈だ。

それを見て取り、役を与えたのではないか。

そう家康は見ている。

「他に何かあるか?」

一同に尋ねる、もっとも何かあるとすれば、数正だけなので、数正に尋ねている様なものだ。

「いえ、特には」

数正が代表して答える。

「居城を移す事、七郎右衛門を先手役の将にするこは、わしが京より戻ってから執り行う」

家康は、足利公方義昭の居城の落成式の為、上洛するのだ。

「新六郎にはわしとともに京まで上り、その後若狭から、越後に向かわせる」

甲斐、信濃、駿河は武田の領地、通る事は出来ない、飛騨の山々も身体の不自由な家存には無理だろう。

「わしが戻るまで、準備を整えておくように」

そう告げると、家臣一同が、ははっ、と頭を下げる。

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