第30話 鵜殿兄弟

「それでは・・・・・・」

男が頭を下げる。

「お世話になりました」

若者がふたり、男に深く頭を下げる。

「・・・・・・・・」

しばし男は若者たちを見つめる。

「決心は変わりませぬか?」

「・・・・・・はい」

若者のうち、年嵩の方が静かに答える。

「しかし・・・・・・・辛い道ですよ」

「分かっております」

ジッと男は若者たちを見つめる、若者たちも男を見つめる。

「そうですか・・・・・・」

いや、失礼、と男は首を振る。

「男の子が決めた事を、とやかく言って、まことに申し訳ござらぬ」

いえ、と若者が首を振る。

「こちらこそ、心配して頂き、かたじけのう御座います」

スッと、若者は姿勢を正す。

「松井どの」

若者たちは再び、頭を深く下げる。

「本当に、お世話になりました」

いえ、と男は首を振る。

名残惜しいが、いつまでも居るわけにはいかない。

男は立ち上がり、それでは、と出て行く。

出て行った男の名は、松井宗恒、今川義元の近臣だった松井宗信の息子である。

父親が桶狭間の戦いで討たれた後、家督を継ぎ二俣城の主人となる。

「兄上・・・・・・・」

宗恒が去った後の、部屋に残った二人の若者のうち、年若の方が年嵩の方に向く。

年嵩の方、兄の方は黙って頷く。

二人の若者は、今川の重臣、鵜殿長照の子、三郎氏長と藤三郎氏次である。

桶狭間の戦さの後、二人は松平家の石川数正の騙し討ちに遭い、捕らえられ、当時の松平元康、今の徳川家康の妻子と交換されたのである。

その後、父氏照は、今川の居城駿府で自決した。

別に人質交換の事を、主人氏真や周囲の者に責められたわけではない。

しかし御家の面子を思い、子供のために主家に不利益を与えたと恥じ、命を絶ったのである。

父の死に悲しんでいる間も無く、武田が駿府に攻め込んできて、兄弟は旧知の松井宗恒を頼り、その居城二俣城に落ち延びた。

そしてその後、今度は徳川勢に城を包囲される。

不退転の覚悟で宗恒は城に籠もり、兄弟も協力する。

だが掛川城に落ち延びた、今川氏真に後詰めを頼むが、氏真はそれに応じなかった。

援軍の無い籠城など、唯々死を待つだけである。

結局宗恒は、自分の首と引き換えに、城の者の助命を願い出て、城を開けた。

家康は助命を許し、更に宗恒の首も取らなかった。

ただし宗恒と鵜殿兄弟は捕虜として、三河に連行された。

そして掛川の城は落城、家康は宗恒と兄弟に、好きにする様に言ってきた。

遠江や三河親類を頼る手もあったし、徳川に仕える道もあった。

しかし宗恒は、父が今川義元に目を掛けて貰っていたのだからと、小田原に居る氏真の元に向かう。

鵜殿兄弟にとって、家康は父の仇、当然、仕えるはずも無いと宗恒は思い、自分と一緒に小田原に来るものと思っていた。

だが鵜殿兄弟は三河に残り、あろう事か、父の仇である家康に仕える道を選ぶ。

「良いのか?」

兄氏長が弟氏次に問う。

「兄上、何度問われても、答えは同じです」

強い眼差しで、氏次は答える。

そうか、と氏長は頷く。

氏長は弟に、自分は徳川に仕え、禄を貰い、そこから仕送りをするので、小田原に行って氏真に仕えるよう、何度も言った。

氏真は小田原では居候である、当然、家臣に与える禄など無い、生活は苦しくなる。

だがそれでも、父の仇に仕えるよりはましだ。

武門の子が、それも鵜殿の様なそれなりの家の子が、なすべきことでは無い。

死ぬよりは辛い、恥ずべき事だ。

しかし氏次は自分も共に残ると言った、兄だけ恥辱の中に置かないと言ったのだ。

それで二人で残る事しにた、辛い恥辱の道を歩む事にした。

何故そうしたか?乗り越えなければ、ならないからだ。

「わしはあの時、恐怖した・・・・・・・」

氏長が呟く、どの時か聞かなくても氏次には分かる。

松平の手勢に騙し討ちに遭い、父の前で人質に捕られた時の事だ。

あの時の、服部という伊賀者目を、未だに兄弟は忘れられない。

その伊賀者の居る、徳川に仕える。

その恐怖を乗り越えなければならない。

捕らえられた時、二人は十二歳と七歳だった。

今は十九と十四になっている。

「徳川に仕える」

「はい」

「徳川父の仇だ」

「はい」

氏長の言葉に氏次は強く頷く。

「だが、ここでのし上がる」

黙って氏次は頷く。

恥辱の中で、恐怖を乗り越え、耐える力を手に入れる。

そして武勲を立て、武名を上げ、いずれ・・・・・・。

二人は口にはしない。

徳川はこのまま保つとは思えない。

いずれ武田に攻め滅ぼされるか、織田に取り込まれるであろう。

その日は必ず来る。

その日までに、力をつける。

そしてその日に徳川から離れ、鵜殿の家を再興する。

「兄上」

うむ、と氏長は頷く。

その日まで・・・・・・・・。

二人の兄弟にあるのは、その想いだけだ。

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