第28話 今川滅亡

ポツポツと小雨が降ってきた。

その中を、ジッと頭を下げる。

前をゆっくりと行列が進んでいく。

少しだけ顔を上げる。

立派な漆塗りの駕篭を、家康は静かに見つめる。

ゆっくりと駕籠が、家康の前を過ぎていく。

駕籠の戸が開くのではと、一瞬思ったが、当然、何事もなく駕籠は通り過ぎていく。

少し後ろから、同じ様な立派な駕籠が続く。

二つの駕籠が通り過ぎるのを、家康は静かに見送る。

これで終わったのだ・・・・・・・。

目を閉じ、心の中で呟く。

「三河守どの・・・・・・」

呼ばれて振り向くと、男が近づいて来る。

「ご無沙汰しております、朝比奈どの」

家康は、今川の重臣、掛川城主、朝比奈泰朝に頭を下げる。

泰朝の方も少し頭を下げた。

老けられたな・・・・・。

スッと上げた泰朝の顔を見て、家康はそう思った。

確か家康より、四つ五つ上のはずだから、三十路を超えたばかりのはず。

しかし心労の為か泰朝の顔は、それとりは十か二十は老けて見える。

ふと、泰朝の父、泰能の事を思い出す。

家康が父の墓参りの折に会ったが、その時泰能はおそらく五十過ぎだったろう。

その泰能と泰朝が、重なって見える。

「此度のご配慮、誠に感謝いたします」

そう言って泰朝は、深々と頭を下げる。

「主君になり代わり、お礼申し上げます」

いえ、と家康は手を振る。

結局、今川は掛川の城を開けた。

条件として家康は、氏真の出家は求めず、氏真は妻の実家、小田原の北条家が引き取る事、今川の家臣も皆、小田原に随行するのを認める事、掛川の城にある武器、食料、その他の全てのものを今川方が、小田原に運ぶのを認める事、などである。

援軍の望みの無い今川方からすれば、破格の条件と言えよう。

ただ氏真を討つ事に躊躇のあった家康としても、望み通りの条件だ。

泰朝は顔を上げ、先に進む駕籠の方に目をやる、家康もそちらを見る。

最初の駕籠に氏真が、後ろの駕籠にはその妻と娘が乗っている。

「駿府を追われた時は、酷いものでした」

泰朝の呟きに、家康は頷く。

勿論、家康は見たわけでは無いが、氏真も妻子も着の身着のまま、馬にも駕籠にも乗れず、走って逃げたと聞いている。

振り返り、では、と言って泰朝はその場を去ろうとする。

「あ、あの、いや、その・・・・・・・」

家康は呼び止めるが、言葉に困る。

「申し訳ない」

「・・・・・・・・・」

静かな顔で、泰朝は家康を見つめる。

「この様な事になり・・・・・・」

家康は深く頭を下げる。

「亡き先代、義元公には大恩があり、朝比奈殿にも世話になりました、それなのに・・・・」

「三河守どの」

ゆっくりと泰朝は首を振る。

「乱世の理、武門の性でござる」

「しかし・・・・・」

「仕方なき事・・・・・」

静かに告げる泰朝の顔を、家康は眺める。

泰朝に前に会ったのは、桶狭間の戦いの評定の後、十年前だ。

あの戦さで全てが変わった。

それまで家康は、自分の行く末について、前途について、今川の一門衆として、義元の下で、泰朝や岡部正綱らと共に、今川の家を盛り立てていく、そう思っていた。

その事に誇りを持っていた。

そうさせるほど、義元は偉大な主君であり、今川の家は盛況であった。

武田も北条も、勿論、織田も、上方の三好、西国の大内すらも、義元が率いる今川の敵ではないと思っていた。

いずれは東国をまとめ、足利の一門として義元が上洛し、三好家を掃討、幕府と将軍家を守り、天下に号令する、そう信じていた。

その今川一門として、手柄を立てて立身出世し、いずれは今川を支える侍になりたい、そう心の底から願っていた。

立派な主君に仕える事、それが立派な侍になるという事だと、目指していた。

それなのに・・・・・・・。

「岡部の次郎右衛門は・・・・・・」

家康が沈んだ顔をしていると、泰朝が静かに告げる。

「未だ、武田に捕らえられたままです」

岡部の次郎右衛門とは、家康の友人、岡部正綱の事である。

武田の侵略の際正綱は、その叔父で東海の一の武者と言われる岡部元信と共に、頑強に抵抗し、最期は捕らえられたと聞いていた。

「取り返す為の使者を、武田に送る様に殿に申し上げたのですが・・・・・・」

暗い顔で泰朝が言う、続きは聞かなくても分かる。

正綱を嫌っていた氏真が、そんな事をするわけが無い。

「・・・・・・・・」

家康が黙っていると、泰朝が無理に笑みを浮かべる。

「小田原に行けば殿も安心し、次郎右衛門の事、なんとかしてくれるでしょう」

望みは薄いと思えるが、家康も無理に微笑み、そうですな、と答える。

ふと、泰朝は家康から視線を外す、家康も視線を追う。

迎えの北条の一行が見える。

「それでは・・・・・・」

泰朝が頭を下げて、北条一行の方に向かう。

「殿」

後ろに控えていた石川数正が、呼びかけてくる。

家康は、うむ、と答える。

城の引き渡しの間、無用な諍いが起きない様に、家康は軍勢を後ろに下げている。

連れてきているののは、数正や酒井忠次など、重臣たちだけだ。

泰朝は北条一行の代表らしい、身なりの良い若者と何やら話し、終わると頭を下げて、氏真の駕籠を追う。

その若者は家康の方を見て、近づいてくる。

「お久しぶりです、次郎三郎どの」

「ご無沙汰しております、助五郎さま・・・・・・いえ、美濃守さま」

家康は頭を下げて挨拶すると、くくくっ、と笑い、助五郎で良いですよ、と若者は答える。

若者はかつて家康と駿府で仲良くしていた、助五郎こと北条美濃守氏規である。

「・・・・・・・・お元気そうで」

はい、と家康は答えて、しばし氏規を眺める。

目元には幼き日の面影が残る、しかしその強い眼差しには、幼い頃には無かった、強い意志を感じる。

関東の大家、小田原の北条一門としての誇りが、氏規に強さを与えているのだろう。

「色々とかたじけのう御座いました」

家康は深く頭を下げる、いえいえ、と氏規は手を振る。

氏真退去の此度の一件、氏規の働きによるものなのだ。

武田の遠江侵略に、家康は頭を痛めた。

織田を通して抗議しても、効果が無い。

そこで北条を頼る事にした。

既に隠居している、北条の先代当主氏康は、武田の駿河侵攻に激怒していると、鳥居元忠が報告してきたからである。

取り敢えず使者として、石川数正を送ってみた。

話し合いは上手くいった、と言うより、氏康は家康の申し入れなど関係なく、武田の駿河領を攻める気でいたのだ。

使者として数正が小田原にいた時、窓口として取り次いでくれたのが、氏規であった。

そこで数正が、氏真の件を、氏規に相談したのである。

何時もの数正の、勝手な行動だが、さすがに今回は家康も、よくやった、と褒めた。

氏規は直ぐに、兄である北条当主、氏政に氏真を引き取る様頼んでくれた。

だが氏政は渋った。

国を失った氏真を引き取っても、何の益も無いと思ったからだ。

そこで氏規は、氏真に息子がいないので、氏政の息子を今川の跡取りにするという条件で、引き取る事にしましょうと言ったのだ。

その条件なら、と氏政は承知したが、今度は氏真が、それでは嫌だと、了承しない。

氏真は三十路を超えたばかりで、まだ息子を成すかもしれない、そう思って、了承しないのである。

それを氏規と、その姉である氏真の妻が、懸命に説得、氏真に子が産まれたら、また話し合うという条件で、取り敢えず氏真は納得し、小田原への退去がなされたのだ。

「彦五郎さまは兄です・・・・・お助けするのは、当然の事です」

散々揉めたことなど、全く顔に出さず、穏やかに氏規は告げる。

「それに・・・・・・・」

遠くを見ながら、氏規が呟く。

「彦五郎さまには、駿府でお世話になったのですから」

良いお方だ、と家康は思った。

氏規が駿府にいた時、氏真に何時も虐められていた。

家康や正綱も嫌われていたが、虐められていたという意味では、氏規が一番酷かった。

それでもそんな事は、全て水に流し、氏真の為、奔走したのだ。

「・・・・・・・・・」

家康は黙って氏規を見つめる。

「・・・・・・・・・」

氏規も黙って家康を見つめ返す。

言わねば、そう家康は心の中で呟く。

おそらく氏規も、家康の言葉を待っているのだろう。

昨日、数正が家康に言ってきた、今後、北条と結び、武田にあたるべきだと。

徳川は織田と結んでいる、そしてその織田は武田の婚姻を結んでいる。

既に信長の姪を養女として、信玄の息子、勝頼に嫁がせているのだが、更に信長の嫡子に信玄の娘を嫁がせる話も進んでいるらしい。

上方の支配を進めたい信長からすれば、信玄に背後を突かれ無いようにするのが、最も大切な事だ。

だから決して信長は、信玄と事を構えはしないだろう。

そうなれば家康の生き残る道は、北条との同盟しかない。

だがその道は簡単ではない。

北条の隠居、氏康は信玄の駿河侵攻に怒り、武田と和睦する気は全くない。

しかし当主の氏政は違う。

正しく言えば、氏政の妻である信玄の娘が、実家との和睦を望んでいるらしいのだ。

氏康は武田の嫁を送り返そうとしているらしいが、氏政が反抗しているらしい。

更に両者の対立は、激しくなっている。

武田と断交したい氏康は、越後の上杉輝虎と手を結ぼうとしてる。

元々は輝虎は、越後守護代の長尾家の末子だ。

兄を追い落とし当主になっているのだが、関東管領上杉憲政が、北条に関東を追われたのを保護して、その上杉家と管領職を受け継いでいる。

その憲政を追った張本人である氏康が、手を結ぼうと言っているのである。

輝虎は信用しない、当然だ。

条件として、当主氏政の嫡男を人質として差し出すよう、輝虎は言っているらしい。

氏康は承知してしたらしいが、氏政が断固反対しているとの事だ。

そう言った話が、北条家中から漏れて、小田原の町の者たちが噂していると、元忠が報告してきた。

どこまで真相か分からないが、どうやら北条の実権は氏康から氏政に移りつつあるらしい。

その昔、川越の戦さで多勢の関東管領軍を、寡兵で打ち破り、関東にその武名を轟かせた、相模の獅子、北条氏康も既に五十過ぎ。

息子とその嫁に、言うことを聞かせることも出来ないようだ。

おそらく氏政が、武田との和睦を進めてしまうだろう。

そんな家中で、武田と断交して、徳川と結ぶように動いてくれと頼めば、氏規は氏政に疎まれてしまう。

下手をすれば、家を追われるかもしれない。

出来ぬ、そのような事・・・・・・・。

家康の脳裏に、幼き日、臨済寺の奥で、一人泣いていた助五郎の姿が浮かぶ。

この方を辛い目に遭わせるわけにはいかぬ。

目の前で家康が何か言うのを静かに待つ、氏規の優しい微笑みを見ながら、家康はそう思う。

「あの・・・・・・」

「はい」

「・・・・・・・・」

腹に力を入れて、意を決し家康は告げる。

「またいつか、皆で酒でも呑みましょう」

「・・・・・・・・」

家康の言葉に、一瞬、驚き固まるが、直ぐに苦笑して氏規は答える。

「ええ、必ず」

朗らかな笑顔で、氏規が言う。

「拙者、酒は強うなりましたぞ」

はははっ、そうですか、と笑って家康は頷く。

これで良い・・・・・・。

家康は心の中で呟く。

これで良いのだ・・・・・情にすがるな、律儀に生きろ。

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