第27話 遠州掛川

徳川を名乗った効き目は、直ぐに現れた。

遠江の国衆地侍たちは次々と今川を離れ、徳川に与する様になったのである。

数ヶ月が経ち、今川の城は、氏真が籠もる掛川城だけになった。

しかし闘将朝比奈泰朝が守る掛川城は、さすがに堅く、包囲しても中々落ちなかった。

「・・・・・・なんとかせねば」

城を眺めながら、家康は呟く。

もうあまり余裕は無い。

近頃、甲斐の武田の軍勢が、遠江に出没しているという報告が入っている。

直ぐに、武田と婚姻を結んでいる織田を通し、抗議したが、

「徳川どのが苦戦しているから、手を貸しただけでござる」

と言う、明らかに徳川を見くびった返事が返ってきただけだ。

これ以上時をかければ、武田が何をするか分からない。

早くどうにかしなければならない。

しかし・・・・・・。

「殿・・・・」

ジッと掛川の城を睨んでいる家康を、家臣が呼びかける。

振り返ると、夏目吉信が立っていた。

「あまり根を詰めるのは、良くありませぬ」

静かな口調で、吉信が言う。

「気晴らしに遠乗りでもして、領内を見回っては如何でしょうか?」

少し考え、家康が頷く。

「ああ、そうだな」

近習の阿部正勝を呼び、馬を用意させる。

この頃家康は、側近くに古兵の夏目吉信を置いている。

高力清長の助言だ。

「一揆に加担した者と、殿の側に居た者で、家中に溝が出来ております、ここは誰ぞ、一揆に加わった者の中から数人、側に置いてくだされ」

そうだな、と家康は同意した。

ただでさえ、一揆に加担した者は、家中でも身分の低い者が多い。

その上、自分に弓を引いたのだからと、家康が遠ざければ、彼らの不満は更に募るだろう。

誰が良い?と家康が清長に尋ねると、先ずはと、夏目吉信の名を挙げた。

家康もそれが妥当だと思った。

吉信は人望もあり、家中に慕う者も多い。

一揆の時も、手勢を動かす指揮を執っていた様だし、実直な人間で信頼も置ける。

清長の助言を聞き入れ、家康は吉信を側近くに居るよう命じた。

最初は畏れ多いと断る吉信だったが、清長に説得され同意した。


馬に乗り、掛川城を包囲している陣を抜け、家康は遠乗りに出掛ける。

共には吉信に正勝、それに先手役の本多忠勝、後は榊原康政や植村家存などが付き従う。

「殿」

しばらく進んでいると、忠勝が馬を寄せて来る。

「なぜもっと、果敢に攻めぬのであります」

「・・・・・・・・」

家康は何も答えない。

「遠江の者たちを盾に使い、その屍の超えていけばあんな城、直ぐにも落ちますぞ」

忠勝の言葉が非道でも何でもない。

敵からこちらに鞍替えした者は、信頼を得るため死兵となるのは、戦さのしきたりだ。

むしろ戦さから外せば、忠義を疑われているとか、手柄を立てる機会を奪われたとか言って、非難してくる者もいるくらいだ。

だから忠勝の言っている事は、珍しく、至極真っ当な事だ。

しかし家康は何も答えず、無視したままだ。

「殿が和議を結ぼうとしている話を耳にしました」

大きな声で忠勝が問う。

「真で御座いますか?」

「・・・・・・・・」

そっぽを向いたまま、家康は無視し続ける。

和議を結ぼうとしていると言うのは、本当の話だ。

石川数正に命じ、京にいる足利公方義昭に仲介を頼み、城を開けさせようとしているのである。

理由は、掛川の城が堅牢という事だけではない。

家康が今川を滅ぼすという事、まして氏真の討ち取るという事に、やはり腰が引けているのだ。

駿府にいた時、家康は氏真に虐められていた、目の仇にされていたと言ってもいいくらいだ。

しかしその事で、氏真を恨んでは無い。

何故なら、氏真が家康を嫌っていた理由は、義元が家康を可愛がってくれていたからだ。

義元のお気に入りだから、氏真は家康に嫉妬していたのだ。

今川義元には恩義がある、だから今川を滅ぼす事、氏真を討ち取る事には、やはり躊躇がある。

何とか和睦で、城を空けて貰いたい。

しかしその話が上手くいっていない。

一つには、氏真が家康を嫌っており、和睦に応じないらしい。

だがこれは周りが説得すれば、なんとかなるだろう、氏真だって、状況を理解していないわけではない。

一番の問題は、和睦の条件である。

こういう場合、包囲されている今川から、男子の人質を出し、氏真は出家、今川家はその人質の息子が継ぎ、家康がその当主の後見役になるというのが妥当だ。

だが氏真には息子がいない、娘だけだ。

朝比奈泰朝ら今川の重臣たちも、先がないのは分かっている、徳川が兵を引いても、武田が攻めて来る。

どう足掻いても、今川は持たない。

だが主家の存続は、武士として絶対の事だ。

だから和睦には応じないのだ。

妙な言い方だが、攻め手も城方も和議は結びたいのだが、落とし所が無いのである。

「殿」

忠勝が詰め寄って来る、しつこい奴じゃと思いながら、家康は無視し続ける。

「まぁ、まて平八郎」

榊原康政が声をかけて来る。

「殿には殿の、お考えがあるのじゃ、そうせっつくな」

そう康政が言うと、ふん、と鼻を鳴らして忠勝が退がる。

チラリと家康は、康政の白くてポチャっとした顔を眺めて、大したものだと思う。

本多忠勝は、叔父の忠真どころか、主君である家康の言うことも聞かない暴れん坊だ。

その忠勝が、幼友達の康政の言うことには逆らわない。

忠勝が康政の言うことを聞いてるというより、康政が忠勝を巧く扱っているという感じだ。

どちらにしても大したものである。

しかし・・・・・・と家康は顔を歪める。

止めるなら、さっさと止めろ、シロポチャ、と康政の顔を見ながら、家康は内心、怒る。

おそらく康政は、忠勝にわざと不満を言わせたのであろう。

康政は自身の不満を、忠勝を使って家康に伝えたのだ。

そしてそれは、家中皆の不満でもある。

そんな事は家康も分かっている、しかしどうしようも無いのだ。

苛つき、思わず口に手がいき、爪を噛み始める。

「殿」

夏目吉信が声をかけて来る。

「なんじゃ?」

顔を向けると、吉信は右手の方を見ている。

その視線を追うと、数騎の騎馬武者が見える。

「武田の者か?」

「おそらくは」

家康の問いに、吉信は静かに答える。

「彼奴ら・・・・・・・」

捕らえて武田に抗議しようと、家康は馬を進める。

しかし途中で、うっ、と唸って馬を止める。

数騎に見えた騎馬武者は、近づくと騎馬徒士合わせて百人はいたのだ。

これは既に出没するとか、荒らし回っているというものではない、明らかな侵略だ。

「まずいなぁ・・・・・」

家康は呟く。

捕らえようにも、こちらは二十人ほどしかいない、掛かっていけば、返り討ちにあるのは目に見ている。

くそ、と吐き捨てる、ここは一旦引いて、手勢を連れて来るしか無い。

仕方なしに家康が馬首を返していると、テクテクと忠勝が前に進む。

「あ、待て」

家康が止めるのも聞かず、忠勝が何時もの大音声で、武田の騎馬武者たちに吼える。

「貴様ら、何処の者じゃ?ここは松平の・・・・・では無かった、徳川の領地であるぞ」

武田の騎馬がゆっくり近づく、こちらを計っている様だ。

彼らからすれば、徳川の小勢が引くと思っていたのであろう、そうやってこの辺りの実質的な支配下に置くつもりである。

所詮、侍の領地支配は力である。

名目はどうであれ、兵を置き、相手が恐れて引けば、そこは領地になる。

そんなことは家康も分かっている、何もいわずここで引けば、武田の支配を認める事になる、そういう意味では忠勝が正しい。

しかし今ここで争えば、捕らえられるか、下手をすれば討ち取られる、そうなればすべてが終わりだ。

「なにをやっておる、馬鹿者」

小声で忠勝を諌める。

が、当然、忠勝は聞かない、更に馬を進めて相手に告げる。

「ここにおわすをどなたと心得る、徳川三河守家康さまぞ」

「あ、ばか」

忠勝の言葉に、思わず家康は大声を上げる。

武田の武者が動き始める。

当たり前だ、ここで家康を討ち取れば、遠江どころか三河まで手に入るのだから。

「かかって来い」

威勢良く忠勝が馬を駆る、しかし忠勝の巨体に馬が直ぐに潰れる。

くそっ、と吐き捨て忠勝は、馬から下りて槍を振るう。

だが誰も相手にしない、武田の武者は忠勝を避けて家康を狙う。

待て、と忠勝が追いかけようとすると、二人、三人、足軽が槍を構えて、忠勝の動きを封じる。

「防げ、殿をお守りしろ」

吉信が声をあげ、家臣たちが家康を囲み身構える。

次々と武田の武者は襲いかかって来る、それを阿部正勝が舞う様な槍捌きで防ぎ、家中一の剛力、植村家存が吼えて追い散らす。

だが多勢に無勢、家臣たちは次々に討ち取られていく。

「ぐはっ」

飛礫を喰らって家存が、呻き声を上げ膝を付く。

「ここまでか・・・・・・」

家康も覚悟を決めて、愛刀の五条義助に手をやる。

その時。

「殿」

呼ぶ声に顔を向けると、康政が三人の騎馬を連れてこちらに戻って来る。

「彼奴・・・・・・」

そう言えば、先程から姿が見えなかった、どうやら助けを呼びに戻ったらしい。

助かった、と思ったが、同時に家康はある事に気づく。

おそらく康政は、武田の兵が見えた時、忠勝が喧嘩を売ると、読んでいたのだろう。

だったら平八郎を止めぬか、シロポチャ、と心の中で康政に文句を言う。

「本多肥後守忠真、お相手致す」

康政が連れて来た三人の内の一人、忠勝の叔父、忠真が、名乗りを上げ、一直線に敵に向かう。

「防げ」

武田の足軽たちが槍を構えて、忠真を止めようとする。

ふん、と気合と共に、忠真の三河文殊が閃く、槍が中ごろで断ち切られ、足軽たちがギョッとする。

そのまま忠真は進み、一人二人と敵を斬っていく。

康政が連れて来た残りの二人は、家康の知らない者だった。

そのうちの一人は、痩せていて品の良い顔をしている。

年の頃は二十歳ぐらいで、忠勝や康政と同じくらいだろう。

その若者が槍を振るう、正勝にも劣らない見事な腕だ、流れる様な動きで、敵を次々と討ち取っていく。

最後の一人は、痩せた老人だ。

老人は家康の方に向かわず、忠勝を囲んでいる足軽たちの方に行く。

やぁ、と足軽が槍を振るう、老人はそれをヒョイっと避けて、手にしている棒を振るう。

すると足軽が手を抑えてその場に蹲る。

その後も、ヒョイヒョイと動き、老人は次々と敵を打ち据えていく。

「な、何者じゃ、あの爺い?」

驚きの声を家康が上げる。

家康が今まで見た中で、一番強い武者は忠真である。

老人はその忠真より、明らかに強い、それも数段うえだ。

ただ強いと言うより、何か妙な感じのする動きだ。

「あの方は、血槍どのにございます」

あらかた敵を追い払い、危機を脱して、吉信が近づき、家康に告げる。

「チヤリ・・・・・?」

初めて聞く意味の分からない言葉に、家康が首を捻ると、吉信が頷く。

あれよあれよという間に、老人は武田の兵を打ち据え、大将と思しき武者の前まで進む。

「き、貴様・・・・・」

裏返った声を武田の武者が上げる。

これだけの手勢を率いているのだ、大将はそれなりの勇士であろう。

その男が明らかに動揺している。

無理もない、家康も同じくらい驚いてるのだから。

武田の足軽が、後ろから老人に飛礫を投げる。

老人は振り向きもせず、棒を振るう、すると飛礫が跳ね返り、足軽がその場に蹲る。

その時家康はある事に気づく、老人は片手なのだ、左腕が無いのだ。

たった一本の腕で、手綱も引かず、腿だけで馬を操り、敵を打ち据えていたのだ。

これで驚かぬ方が、どうかしている。

くっ、と武田の大将が、覚悟を決めて身構える。

「秋山さま」

老武者が前に出て大将を庇う。

「此奴、血槍にござる」

「チヤリ・・・・・・?」

秋山と呼ばれた大将が言葉を繰り返すと、老武者はゆっくり頷く。

「我らでは勝てませぬ」

そう老武者が告げると、くっ、と呻いて、秋山は、引け、引け、と大声を上げる。

武田の兵が次々と引いていく。

「た、助かった・・・・・のか・・・・」

家康が安堵の息を漏らす。

「殿、ご無事で?」

忠真が近寄って、声を掛けて来る。

ああっ、と答え、家康は手を振ると、件の老人の方に顔を向ける。

老人の方は、忠勝に向かって何か声をかけると、そのまま家康の方には来ずに、プイと背を向け、もと来た道に帰っていく。

「なんなんじゃ、あの爺いは?」

思わず家康は声を上げる。

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