第26話 徳川

近頃、家康には妙な趣味が出来た。

薬作りだ。

そもそもの切っ掛けは、一年ほど前に腹を下した事にある。

そうして終日、厠に通っていると、丁度三河に来ていた茶屋四郎次郎清延が、それならば、と丸薬を出してきた。

試しに飲んでみると、直ぐにこれが効いたのである。

「大したものじゃ、この薬・・・・・・」

「はい、それは今、上方で評判の医者、曲直瀬道三の薬であります」

ほぉ、と家康は声を漏らし、何とは無しに、清延に尋ねる。

「これは、幾らぐらいするものなのじゃ?」

薬の値など皆目見当も付かない、ただの興味本位で訊いた。

「八百文にございます」

「八百文か・・・・・・さすがに高いなぁ」

三十粒ほど入った袋を手に取り、家康が呟く。

「だが仕方がない、今度、二袋ほど取り寄せてくれ」

はい、と清延は頷く。

「それだけだ千六百文、一貫と六百文か・・・・・大事に飲まねばな」

「・・・・あの・・・・松平さま」

薄い笑みを浮かべて、清延が告げる。

「一袋ではありませぬ、一粒が八百文であります」

「・・・・・・・・・はぁ?」

思わず家康が声を上げる。

あまり家康は物の値を知らない、しかし以前、鳥居元忠が人足の手当てが日に大体、二十文と言っていた。

ならばこれ一粒で、人足が四十人雇えると言う事だ。

「そ、そんなにするのか?」

薬の袋を持つ手が、思わず震える。

「少々カラクリがありまして・・・・・・」

清延は話を続ける。

「曲直瀬道三という医者、町医でして、貧しき者からは銭を取らず、分限者からのみ銭を取るのです」

「・・・・・・・・では、貧しいふりをすれば、ただということか?」

「いえいえ、ですからそれが、上手いカラクリなのです」

ゆっくり清延が首を振る。

「曲直瀬道三に銭を払うのは、自分が分限者であると、周りに見せることなのです」

なるほど、と家康は頷く。

「上方の者は、見栄っ張りだからな・・・・・」

ははははっ、と清延が笑う。

「そうではありませぬ」

「如何いうことだ?」

家康が首を捻る。

「曲直瀬道三の薬に高い銭を払っている、そうなればその商家の主人は、金回りが良い、銭を多く持っており、商いが上手くいっているという証になるのです」

ふむ、と家康が相槌を打つ。

「商いが上手くいっているというのは、信用になります」

「信用?」

はい、と頷き清延が話を続ける。

「信用があれば、あそこの店から物を買おう、あそこの主人にこれを売ろうと、人と銭が集まるのです」

ほぉ・・・・と家康は声を漏らす。

「そういうものか?」

「そういうものです」

しかし・・・・・・と家康は、薬の入っている袋を眺める。

「一粒、八百文はいかにいうても・・・・・・」

高い。

「これ一袋で、二十貫になるのか?」

家康は顔を歪める。

元忠の話では、鉄砲が一丁、七十貫から百貫するという。

つまりこの薬四、五袋で、鉄砲が買えるという事だ。

その時、家康はふとある事を思いつく。

「おい、四郎次郎」

「はい」

「医術の書物は手に入るか?」

「はぁ?」

今までも家康は、大好きな歴史の書物を、清延に取り寄せさせた。

「薬作りの書物じゃ、それがあれば自分で薬を、作る事ができるのではないか」

「いや・・・・・それはそうですが」

呆れながら清延は返事をする。

「なにもその曲直瀬という医者の様な、しっかりとした薬を作って、商いをするというのではない」

家康は手を振る。

「取り敢えず、わしが飲む分、家臣が飲む分、それも大病には使わぬ、風邪や腹下しの様な物に使うだけじゃ」

「そ、そうですか・・・・・」

「それに金瘡にも使えよう」

金瘡とは刀や槍での傷の事だ、戦場に出れば誰でも負う。

「まぁたしかに・・・・・」

「とにかく、探して参れ」

分かりましたと言って、清延は下がる。

次に来た時、清延は和剤局方という書物を持ってきた。

それだけではなく、噂の曲直瀬道三の弟子だという医師も、連れてきたのだ。

早速、薬の作り方を教えてくれと頼んだ家康に、その医師は首を振る。

「薬作りも大切ですが、それより病にならぬ様に、養生する事が肝要にございます」

「養生・・・・・とな」

はい、と医師は頷く。

「日々節制を務める事で、万病を排し、長寿を得るのでございます」

なるほど、と家康は頷き、その日より、節制を心掛ける。

雑穀の飯を食い、薄い汁を飲み、酒を控え、食事を少なく、何度かに分けて取る事にした。

だが薬作りも行った。

和剤局方の中の書かれている薬草を調べ、近習や小姓に野山から取って来させ、薬研で摩っていく。

「日ノ本に数十、数百の領主がおりますが、薬作りが趣味などというのは、殿だけでございましょうなぁ」

呆れながら石川数正が言う。

が、家康は構わず、日々養生と薬作りに励んだ。


そんなある日、その数正と清延が二人でやって来た。

「なんじゃ?」

薬研で野草を磨り潰しながら、家康が問う。

「松平さまのうじは、何でございましょうか?」

「うじ?」

清延の言葉に、家康は手を止める。

「はい、源氏や平家、藤原と言った氏です」

「ああ、その氏か・・・・・・」

近頃小姓に取り立てた、強弓、内藤正成の息子、四郎左衛門を呼び、薬研を片ずけさせる。

なんであったかなぁ、と首を傾げ、数正の方を見る。

「拙者は源氏にございます」

「知っておるわ」

数正のすました顔に、顔を歪め強い口調で家康は言う。

戦乱の世、名家は没落し、素性の定かでない侍たちが台頭している。

殆どの国衆地侍は、氏など分からず、適当なものを自称している。

三河の者も大半がそうだ、家康の松平家も、家康が九代目となっているが、三代目の信光より前は、かなり怪しい。

そんな三河で、数正の石川家は例外に出自がはっきりしている。

源八幡太郎義家の六男で、義時を祖としている、当主の家成の家には家系図もある。

家成も数正もその事を誇りにしている。

「たしか・・・・・藤原ではなかったか?」

すました顔の数正から視線を外し、家康が呟く。

「殿」

数正が呼びかける。

「今日より源氏を、名乗って下さい」

「源氏を・・・・・?」

家康は首を傾げる。

「来年、公方さまのお城が落成します」

「ああ、そんな話しておったなぁ」

家康が手を結んでいる織田信長が、足利公方義昭を奉じて上洛したのは一昨年の事だ。

その時信長は、上方の三好一党を追い払い、岐阜の城に戻った。

後に残った義昭は、本圀寺という寺を仮御所にしていたが、巻き返しを図った三好一党に攻められたのだ。

足利の譜代家臣、そして上方の地侍が奮戦し守りを固め、更に信長が雪の中、援軍に駆けつけ、義昭は助かったが、さすがにいつまでも寺暮らしというわけにはいかないので、信長が将軍に相応しい城を建てるという事になった。

その城が京の二条に出来るという。

「もう出来るのか・・・・・」

相変わらずの、信長の仕事の早さに感心する。

「その落成の式に、殿も出席してくれと、織田どのからの要請で・・・・」

数正の言葉に、うむ、と家康は頷く。

遂に上洛か・・・・・と内心、感慨に耽る。

「そこで殿には、三河守として出席して頂く事になりまして・・・・」

うむ、と再び頷いたが、うん?と家康は声を上げる。

「今、なんと言うた?」

「ですから、殿には三河守として、出席して頂くと・・・・・」

「そんなもの無理だろう」

早口に家康は言う。

三河守とは朝廷が命じる官職で、三河の国主である。

家康は三河の領主であるが、国主ではない。

正確に言えば、家康が三河を支配していることを、その領民、そこに居る地侍たちは認めているが、朝廷や幕府は別に認めていない。

つまり家康は三河の土地を、朝廷や幕府の許可なく、勝手に支配しているのだ。

もっとも、それは家康だけでは無い、駿河の今川家の様な一部を除いて、日ノ本の殆どがその様な領主で満たされており、それが戦乱の世というものなのだ。

その為、先祖代々の譜代の家臣たちは家康の命に従うが、例えば菅沼定盈などは、別に従う義務はない。

ただ今川と戦うので、松平に後ろ盾になってもらっているだけなのだ。

勿論、諸侯の中には、国主や官位を自称している者も沢山いる。

この自称も二つある、まったく勝手に名乗っているのと、朝廷に銭を納めて、勝手に名乗っているのを、黙認してもらうというものだ。

前者は例えば、本多忠真の肥後守だ、これなどは自称というより、ただのあだ名だ。

後者は石川家成の日向守などだ。

家康の祖先にも何人か、銭で官位を自称している者がいる。

応仁の戦さの後など、都の皇室や公家衆も困窮しているので、銭を払えば割と簡単に黙認してくれる。

しかし京で行われる将軍の御所の落成式に、自称の官位であれば。

「まずかろう」

家康が顔を歪める。

「ですから、殿に源氏になって頂くのです」

数正が静かに応える。

「つまり、何処ぞの養子に入ると言うことか?」

コクリと数正は、家康の言葉に頷く。

朝廷において最も大切なのは、血統と家柄だ。

官位はその家柄に合わせて、与えられる。

「で、何処の養子にしてもらえる事になったのじゃ?」

冷めた口調で家康は尋ねる。

家康は歴史は好きだが、別にそれほど肩書きは好きでは無い。

あればあるにこしたことはないが、大金を叩いてまでという気がする。

そんな金がなるなら、鉄砲を買うなり、米を買うなり、それこそ薬や書物を買うなりあるだろうと思ってしまう。

「源氏の新田の末裔に、トクガワという御家がありまして、そこにお願いする事に致しました」

「新田・・・・・・かぁ・・・・」

眉を寄せて家康が呟く。

肩書きはそれほど興味は無いが、家康は歴史は好きだ。

新田と聞いて、負けた方では無いか・・・・と内心思ってしまう。

「先々代の清康公が世良田という姓を名乗られて、これが新田の支流に御座いまして」

「ほぉ、じじ様が・・・・・・ではそれほど無関係という事は無いのか・・・・」

「いえ、その・・・・・・」

言いにくそうに、数正が答える。

「そういう書状が出てきたという事に、しておくのです」

「・・・・・要は偽りという事か」

顔を顰めて家康が言う。

しかしお前ら、なんでもかんでもじじ様にするなぁ・・・・・・と心の中で家康は呟く。

家康の祖父清康は英傑で、当時、松平家は三河各地に分裂し争っていたのを、嫡流でもなかったのに統一した人物だ。

その後、若くして謀叛に遭い命を落とすが、老臣には今でも慕う者が多いし、家中では、清康さまさへ生きておれば、織田や今川とも互角に渡り合えたのに、と言う者も多い。

そのぐらい家中で清康の名は、大きく重い。

「・・・・・・しかし」

祖父の事は置いておいて、家康は言う。

「そこまでして、新田を名乗る必要もなかろう」

「しかし・・・・・」

「それこそ」

目を細めて、数正を見る。

「源氏で良いなら、お前の家の系図の隅に、名前を書いておけば良かろう」

「殿、それでは殿は、拙者の家の分家という事になります」

冷めた顔で数正は続ける。

「そうなれば殿は、当主である日向守どのに頭を下げねばなりませぬが、それでもよろしいのですか?」

家成の御大尽顔を思い浮かべ、家康はムッとする。

そんなこと出来るか。

「しかし、それ・・・・・・・」

家康は口を尖らせる。

「新田は足利の仇敵であろう」

足利の初代将軍尊氏と、鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞は、覇権を争った敵同士。

「足利の公方さまの御所の落成の式に、新田の分家が来るのはまずかろう」

「誰もその様な事、気に致しませぬ」

家康の言葉を、呆れた口調で数正が応える。

「分からぬでは無いか、そんな事」

「いえ、大丈夫です」

「織田どの顔を潰す事になるし・・・・・」

はぁ、と数正がため息を吐く。

「なにも公方さまに直接お伺いしろとは、言うておらぬ」

少し腹を立てながら、家康は告げる。

「近臣の方にそれとなく・・・・・」

「ご安心下さい」

ピシャリと数正が答える。

「この話、公方さまの近臣の方から出た話でございます」

「そ、そうなのか・・・・?」

驚く家康に、はい、と力強く応じる。

「既に関白さまの許しも得ています」

「か、関白さま・・・・・」

家康は言葉を失う。

三河の田舎領主でしかない家康には、関白など御伽噺に出てくる者と変わらない。

信長が将軍を奉じ上洛し、天下に号令している。

その信長と手を結んでいると言う事は、関白がどうのと言う話なのだ。

はぁ・・・・・・と声を唯々漏らす。

「お分り頂けましたか?」

公方や関白と言われれば、うむ、と家康も答えるしかない。

では、と数正が退がろうとするので、待て、と家康が止める。

「その・・・・なんだ」

家康は宙に字を書く仕草をする。

「トクガワと言うのは、どの様な字を書くのじゃ?」

「あ・・・・それは・・・・」

少し数正が戸惑う。

「なんじゃ、分からぬのか?」

「いえ、その様な事はありませぬ」

それはそうだろう、これから名乗る家名なのだ、分からぬわけが無い。

「ではどんな字だ?」

はぁ、と呟き、数正は清延の方を見る。

不審に思いながら、家康は部屋の入り口に居る、近習の阿部正勝に命じる。

「紙と硯を持て」

正勝は黙って頭を下げ、そして黙って、石川家成の息子の彦五郎に持ってくるよう、顎で指示する。

此奴、と家康は内心呆れる。

家康は家中の少年達から幾人か選び、小姓として側に置いている。

今川義元がそうした様に、いずれその者たちを、馬廻り衆の将兵にするつもりだ。

その世話と指導を正勝に任せているのだが、相変わらず無口なこの男は、特に何も小姓らに言わず、まさに顎で使っている。

まぁ、小姓らの方も良くしたもので、鷹の為に虫捕り命じられたり、薬の為の野草取りを命じられたりすれば、楽しげに野山を駆け回っている。

だがそれはそれとして、少しは自分で動け、と思いながら、家康は正勝を睨むが、相変わらずの無表情だ。

石川の彦五郎が、年の離れた従兄弟である数正の前に半紙と硯、そして筆を置く。

「・・・・・・・・・」

「どうした?字が分からぬのか?」

なかなか書こうとしない数正に、家康が尋ねる。

いえ、と数正は首を振る。

妙だな、と家康が首を捻っていると、では、と言って数正が書き始める。

得川、と言う字をサラサラと書き、数正は家康の前に差し出す。

「これが・・・・・そうか・・・・・」

ジッと家康は眺める。

「なんかあまり、しっくりこぬなぁ・・・・・」

家康が呟くと、殿・・・・・・と数正が小さな声で呼びかけて来る。

「その字は、その・・・・・得川どのの御家の字で御座いまして・・・・・・」

「だからこの字を名乗るのであろう?」

文字から目を離し、数正の方を見る。

「いえ・・・・それが・・・・」

言いにくそうにしていたが、意を決したらしく、数正が告げる。

「得川どのの方から、同じ字は避けて頂きたいと・・・・・・」

「はぁ?」

顔を歪めて家康が声を上げると、数正が早口に一気に喋る。

「その、先方は殿のことを、あまり存じてはおりませぬ、だから同じ文字は避けて欲しいと・・・・・」

「要は・・・・・」

グシャッと家康は、得川と書いてある半紙を握る。

「どこの馬の骨とも分からぬ三河の田舎者に、家名を名乗られるのが迷惑という事か」

「いえ・・・そこまでは・・・・」

「うるさいわ」

半紙をその場に放り投げる。

「新田の末裔如きが、偉そうに」

「殿」

静かな声で数正が窘めようとする。

「こっちだって新田など、名乗りたくも無いわ」

「落ち着かれませ」

ふん、と鼻を鳴らし、家康はそっぽを向く。

はぁ、とため息をつき、数正は再び半紙に向かう。

「大樹寺の天室和尚に、字を決めて頂きました」

サラサラと数正は字を書き、家康の前に置く。

徳川。

「・・・・・・・・なんか、のろまで鈍重そうな字だな」

「字がのろまなどと・・・・・・重々しいと言うことではありませぬか」

不貞腐れる家康を、数正が宥め賺す。

「・・・・・・・・・・」

次の間に控える、石川彦五郎や内藤四郎左衛門など、小姓の子供らが、静かに家康を見ている。

子供らの前で、あまり大人気ない姿を見せるのもどうかと思い、家康は機嫌を直し、紙を手に取る。

「そうじゃな、わしには不恰好に見えるが、子や孫の代まで使っておれば、見慣れてくるかの・・・・・・・」

「あの・・・・殿・・・・」

また数正が、言いにくそうに声を上げる。

「実は・・・・・・」

「なんじゃ?まだ何かあるのか?」

「その・・・・・得川どのが、使うのは殿一代にして頂きたいと・・・・・・」

「はっ?」

「いえ、そのもし若様がどうしても使いたいと言うのであれば、その時は、また、その・・・・・再度・・・・・・」

カッとなって家康が、紙を丸めてその場に叩きつける。

「新田の残党が偉そうに」

「殿、言葉が悪う御座いますぞ」

「残党と言って何が悪い」

そうであろうが、と勢いのまま早口で家康は喋る。

「落ちぶれて家名を売って生きておるのであろう?」

「そのような事ではありませぬ」

眉を寄せて数正が答える。

「得川どのが断っていたのを、この条件で何とか飲んで頂いたのです」

ふん、と背を向ける家康に、数正が続ける。

「家名を他人使われると言うのは、あまり良い気持ちではありませぬ、それをこちらが頼んで、頼み込んで、お願いしたのであります」

「ああ、お前は得川の気持ちが、よく分かるだろうなぁ」

「はぁ?」

グッと数正の方を向き直り、家康が吠える。

「お前は出目が良いから、得川の気持ちが分かるのであろう?」

「殿」

呆れながら数正が声を上げる。

「お前も日向守と相談して、家名を売って歩けば良かろう」

「何を馬鹿な事を・・・・・・」

家康が清延の方を向いて言う。

「四郎次郎、石川の家名ならば、売れるであろう?」

「ええ、探せば・・・・・」

思わず答える清延に、おい、余計な事言うな、と数正が小声で言う。

「お前には、銭を出して、偽りを言って、出自を買っているわしの気持ちなど、分からぬわ」

そう言って家康は、再びそっぽを向く。

なんとか機嫌を取ろうと、数正が優しく告げる。

「殿・・・・・・新田は源氏の名門、公方にもなれる血筋に御座います」

「お前はわしに、松永弾正の様に公方さまに謀叛を起こして、取って代われと言うのか」

首だけ回して家康が吠える。

「その様な事、言うておりませぬ」

「当たり前じゃ、公方さまになれるわけはないし、なりたくもないわ」

悲鳴の様な高い声を、家康が上げる。

「ここまで虚仮にされて新田の残党を名乗るくらいなら、瀬名に頭を下げて、関口の婿養子になる方が、まだマシじゃ」

家康が数正を睨む。

「関口も源氏じゃ、国主になれよう」

殿・・・・と静かに冷たく、数正が答える。

「それが出来ぬのは、殿が一番ご存知のはず」

うっ、と家康は言葉に詰まる。

その通りだ。

妻の瀬名には、岡崎に戻ってから一度も会っていない。

家康が会いに行くと、何時もの醜女の大っきな侍女が、

「いま、お身体がすぐれぬと・・・・・・」

と言って、謝りながらも、絶対に家康を瀬名に会わせようとしない。

と言うよりは、瀬名が会おうとしないのだ。

既に家康にとって瀬名は、離縁していないだけの、元妻だ。

「それに関口では駄目なのです」

数正が淡々と説明していく。

松平は国主の家では無い。

では、三河の国主は誰なのか?

三河の、そして東海の国主は当然、今川である。

だから家康と今川氏真の戦いは、あくまで国主である今川家に、家臣である松平家康が謀叛を起こしているに過ぎない。

義元が死に、今川家は落ち目だ。

菅沼定盈が遠江の国衆たちを説得しているが、彼らも今川を裏切る気ではある。

しかし松平に付くとなると、躊躇っているのだ。

何故なら松平は、自分たちと同格の国衆だからである。

しかし家康が徳川家になれば、話は変わってくる。

「足利と新田は同格、ならば足利の一門衆である今川と、新田の支流である徳川も同格という事になります」

しかし関口では違う。

関口は今川の分家である。

家康が関口を継いでも、分家の関口家康が、本家の今川氏真に謀叛を起こしているというだけなのだ。

「だから徳川でなければ、ならぬのです」

数正の強い口調に、確かに、と家康も頷かざるを得ない。

「しかし・・・・・・」

「それに我らには、迷う余裕も、悩む暇もありませぬ」

家康もそれは分かっている。

信長の指示で、家康は武田と手を結んだ。

最初はまさか結べるとは、家康も数正も思っていなかった。

何故なら武田の次期当主、義信の妻は氏真の姉だからである。

しかし武田の当主、晴信こと、出家した信玄は、この提案を受諾、家康と手を結び、今川を挟み撃ちにしたのである。

他国には漏らしていなかったが、数年前から嫡子義信は幽閉されていたらしく、信玄は今川攻めを考えていた様だ。

そしていざ、武田の今川攻めが始まると、次々と駿河の国衆地侍が今川を裏切ったのである。

武田との取り決めで、松平は遠江、武田は駿河を領するとなった。

今川の本国は駿河なのだから、武田の駿河ぜめは苦戦するだろうと、家康も数正も見ていた。

しかし駿府はあっさりと武田の手に落ち、氏真は朝比奈泰朝の守る遠江掛川城に逃げ込んだのだ。

こうなれば家康としても、頭を抱える。

今川に反旗を翻したが、出来れば氏真の処理を、自らの手でしたくは無かった。

遠江を家康が手に入れた後、信玄が駿府を落として氏真をどうにかするという形を望んでいたのに、その氏真が遠江に来てしまったのだ。

どうにかしないといけないが、どうにも出来ないでいるのだ。

「殿」

数正はグッと一歩近寄る。

「今川をどうにかするためには、これしか手がないのです」

うっ、と家康が詰まる。

「それに、先程も申しましたが、この話、公方さまの近臣の方、明智どのという御仁から出た話・・・・」

更に数正は近く。

「言わば、公方さまの命でございます」

「それは・・・・・・・」

「得川どのが渋っておったのを、関白さまが口をきいて頂いたのです」

家康が喋ろうとするのを、数正が遮る。

「こちらが断るなどと言えば、それこそ織田どのの顔を潰す事になります」

ぐぐぐっ、と家康が唸る。

家康が信長を恐れている事を、数正は分かっている。

「これしか手は無いし、断る事も出来ませぬ」

間近に数正は迫る。

「宜しいですね」

「・・・・・・・・・・・」

家康は顔を背ける。

「殿」

「ああ、分かった好きにしろ」

顔を背けたまま、家康は大声を上げる。

それでは、と言って、数正と清延が退がる。

「・・・・・・・・・・」

阿部正勝が静かに家康を眺めている、家康はそっぽを向いたままだ。

しばらく正勝は眺めていたが、頭を下げて、小姓たちに退がる様に顎で指示して、自分も退がる。

部屋に誰も居なくなった。

一人になった家康は、しばらくその姿勢で居たが、ゆっくりと丸めた紙を引き寄せて掴む。

クシャクシャの紙を広げ、そこに書かれている徳川という字を眺める。

はぁ、と一つ大きな溜め息を吐く。




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