第25話 母
「母上さまに、お会いになっては如何ですか?」
織田と手を結び、水野家と和解して数ヶ月後、筆頭家老の酒井忠次がそう言った。
ふむ、と頷き元康は、ムスッとした忠次の、何時もの蛙面を眺める。
叔母上に何か言われたな・・・・・・・。
忠次は近頃、妻を娶った。
初めてでは無い、十年以上前に最初の妻と死に別れ、ずっとやもめ暮らしをしていたのだが、娶ったのだ。
相手も後家だ。
桶狭間の戦いで夫を失っているのだが、その後家が元康の母の妹なのだ。
元康は物心つく前に、母於大とは生き別れている。
父広忠が、叔父から領地を取り返す為、駿河の今川に庇護を求めた。
対して於大の兄、水野信元が、今川と敵対する織田に与した為、両親は離縁、於大は実家に戻ったのだ。
以来、母には会っていないが、織田と手を結び、水野との和睦がなったので、会える様になった。
周囲も会う様に勧めるのだが、元康はそれをはぐらかしてきた。
別に、幼い頃自分を捨てたらかと言って、母を恨んでいるわけではない。
元康も戦乱に生きる武家の子、家族が引き裂かれると言う事を覚悟もしているし、分かってもいる。
ただ何となく、母という者に、どの様に接すれば良いのか、分からないのである。
「あまり気にせず、そのままお会いになれば、宜しいかと・・・・・」
元康の胸の内を読み取り、忠次が静かに告げる。
そのそのままが、分からぬのじゃ、と元康は言ってやりたかったが、
「分かった、会おう」
と了解する。
場所は城ではなく、松平家の菩提寺、大樹寺にした。
父の墓参りの後、母に会うという形をとったのだ。
これが母か・・・・・・。
会ってみて、それが元康の、率直な思いだった。
もっと心を動かされたり、動揺するかと思ったが、そんな事は特になく、淡々と受け入れる事ができた。
「立派になられて・・・・・・」
母の方は元康と違う様だ、目に涙を溜めて、顔を手で覆い、言葉を詰まらせながらそう言った。
「目元の辺りは父上さまに、よく似ておられる」
はぁ、そうですか、と元康は静かに答える。
皆によく言われる、しかし元康自身は、さしてそう思わない。
記憶の中にある父広忠は、優しげな眼差しをしていた。
元康は自分はそれほど、慈愛に満ちた目も、心根もしていないと思っている。
逆に母於大の顔を眺めていると元康は、やはり、ばば様に似ているな、と思った。
於大の母、於富は、数奇な人世を送った女性だ。
尾張の小さな地侍の家に生まれ、国衆の水野家に嫁ぎ、元康の母於大を産む。
美貌の主とあったと云われ、元康の祖父清康が水野に攻め入った時、於大を無理矢理奪い自分の妻にしている。
清康との間に、碓井姫という娘を産む、この碓井姫が後の忠次の妻である。
その後清康が亡くなり、三河の地侍の家に次々と嫁ぐが、いつも夫に先立たれる。
最後は駿府に移り住み、出家して尼寺で過ごしていたところを、孫の元康が人質としてやって来たので、よく訪ねて来てくれた。
かつては国衆地侍が取り合った美貌の女人だったが、元康が駿府で会っときには、色の白い小太りの老婆であった。
今の於大はあの頃の於富と、同じ年頃だろう、色も白く小太りだ。
「今まで、色々ろ苦労なされて・・・・・」
その言葉を聞いた時、ああ、ばば様にそっくりだ、と元康は思った。
於富こと、出家して源応尼と名乗っていた祖母も、同じような事を、同じような声で言っていた。
祖母於富からすれば、、人質として駿府に連れて来られた元康は、親元から引き離され、寂しい思いをしている、可哀想な孫だったのだろう。
しかし当の元康、当時の竹千代は、それほど我が身を、可哀想とも不幸とも思っていなかった。
確かに今川の嫡子、龍王丸こと氏真に虐められていたが、岡部正綱など友人たちもいたし、何より当主義元に可愛がって貰っていた。
それほど不幸という事も無かった。
むしろ可哀想がってくれる祖母の愛情を、持て余し気味であった。
立派になられて、辛たったでしょう、本当に良かった、と同じような言葉を於大は繰り返す。
それが記憶の中にある於富と、全く同じだ。
ああ、とか、はぁ、とか元康は答えた、これも記憶にある於富と会話で、自分が発した返事だ。
「では、そろそろ・・・・・」
会話らしい会話も成り立っていないので、居心地が悪くなり、元康はその場を去ろうとする。
取り敢えず、会うには会ったのだから、忠次の顔も立つし、叔母も文句は言うまい。
「お待ちくだされ、次郎三郎どの」
「・・・・・・・何か?」
腰を浮かしかけた元康は、再び座り直す。
「今日は次郎三郎どのに、良い話を持って来ました」
「良い・・・・・・話ですか?」
ニコニコ笑顔で告げる母の言葉に、元康は首を傾げる。
「三郎太、源三郎、お入りなさい」
於大がそう言うと、二人の少年が部屋に入ってきた。
一人は十七、八、もう一人は十歳ほどだ。
「二人とも、兄上に挨拶しなさい」
年嵩の方が、はっ、と答え、頭を下げる。
「久松三郎太勝元にございます」
色の黒い、肩幅のある若者である。
「源三郎にございます」
年少の方も名乗る、こちらも色が黒く、腕白そうな少年だ。
二人とも、それほど元康と似ていない。
その二人が名乗り終わると、於大は、うんうん、と涙ぐみながら笑みを浮かべる。
「みな父は違えど、同じ母から産まれた同胞、二人とも必ず、次郎三郎どののお役に立つのですよ」
はい、と二人の少年が返事をする。
「次郎三郎どの、二人をそばに置いて、可愛がって下され」
これで呼んだのか・・・・・・・・。
微笑む母の顔を見ながら、元康は呆れる。
於大は松平の家を出た後、久松俊勝という尾張の地侍に嫁いだと聴いている。
どうやら後妻の様で、向こうには既に跡取りがいるのだろう。
それで二人の息子の身が立つように、元康のところに来たのだ。
呆れはする。
だが母於大は、打算ではなく、それが良い事だと心の底から言っているようだ。
二人の息子が元康の役に立ち、元康が二人の面倒を見る。
息子たちが互いに助け合う、これほど良い事はないと、本気で思っているのだろう。
これが母か・・・・・・。
元康は母と言うものの強さ、と言うより図々しさに、苦笑する。
「分かりました、母上」
苦笑しながら、元康が答えると、うんうん、と於大が頷く。
その度に、弛んだ顎が揺れる。
「二人ともそばに置き、拙者が面倒みましょう」
「真喜どのに、お目にかかりたいのだが・・・・・・・」
門徒の一揆を鎮圧し数ヶ月後、家康は戸田光忠を呼び出し、そう告げた。
「あ、はぁ、それは・・・・・・・」
困惑して光忠が返事に困っていると、側に控える石川数正が口を挟む。
「殿・・・・・お気持ちは分かりますが、もうお赦しになって良いのでは・・・・・」
「そうではない」
手を振って、元康が答える。
「ただ、お目にかかりたいだけじゃ」
家康が三歳の時、父広忠と実母於大は離縁となった。
その後、広忠は妻を娶った、それが戸田の真喜姫である。
幼い頃の家康の記憶では、真喜は色が白く、深い緑の髪をして、頬は熟れた桃のようであった。
そしてケラケラとよく笑う、明るい女性だった。
継子である家康、当時の竹千代にも優しく、よく遊んでくれたのを憶えている。
初恋、と言うと大袈裟だが、初めて好意を持った女人よ言えば、間違い無く、戸田の真喜どのなのである。
しかし竹千代と真喜の間には、悲劇が起こる。
父広忠は、叔父から領地を取り返すため、駿河今川家の庇護を求めた。
その為、嫡子竹千代を、人質として駿府に送る事になる。
その途上、真喜の実家、戸田家に立ち寄った時、事もあろうに真喜の父親、戸田康光が、竹千代を尾張に千貫で売ったのである。
銭に目が眩んだのではなかろう、織田に騙されたのか、或いは娘の為、邪魔な継子を始末したかったのか、理由は分からない。
だが当然、広忠は激怒、それ以上に怒ったのが、今川義元である。
自分に庇護と求めて人質を差し出して来たのに、それを途中で奪われるなど、大国の国主として、他の国衆地侍に示しがつかない。
直ぐさま義元は大軍を送り、戸田を攻め滅ぼした。
光忠は康光の弟で、真喜の叔父だ。
兄の暴挙を諌めたが聞き入れられず、今川が攻めてくる前に、城から逃げている。
康光は今川に討ち取られ、真喜は出家させられる。
逃げた光忠は、親類縁者を頼り、三河を転々としていた。
そして竹千代が元康になり、桶狭間の戦さが起きて、領主となり、門徒の一揆が起こると、元康の元に馳せ参じ、戦場で勇猛果敢に戦った。
それ程の武勲では無かったが、真喜の事を思い元康は、戸田家の居城田原城と、領地の一部を、光忠に返したやった。
別に家康は真喜の事を恨んでいない。
たしかに康光のやった事は酷いが、真喜は関係ないし、妙な言い方だが、康光に千貫で尾張に売られたから、吉法師に会う事も出来た。
「ただ単に、お目にかかり、話をしたいだけじゃ」
家康はもう一度、光忠に言う。
「あ、はぁ・・・・・」
光忠は眉を寄せて数正の方を見る、数正は黙って首を振る。
「分かりました・・・・・」
そう言って光忠は、頭を下げる。
場所は大樹寺とした。
父の墓参りのついでに会う、という形にしたのだ。
部屋に入り一目見て、家康はギョッとする。
この者が・・・・・真喜どのか?
部屋にいたのは、青白い顔をした老いた尼僧だ。
深い緑の髪も、桃の様な頬もない。
何より幼き日に見た、明るく活発な様子は、微塵もない。
少し戸惑ったが家康は、前に座り、
「お久しぶりです」
と声をかけた。
尼僧の真喜は何も言わず、数珠を巻いた手を合わせ、ゆっくりと家康に頭を下げる。
困惑しながら家康は、
「お元気でしたか?」
とか、
「今は如何されております?」
など、言葉をかけていった。
が、真喜は何も言わず、ただ合掌を繰り返すだけだ。
さすがに言葉に困り、家康も黙る。
会って如何するということは、無かった。
ただ会いたいだけだった。
家康にとって幼き日、楽しかった父との思い出の風景。
そこには絶えず真喜が居た。
だから父との思い出話でもしたかったといえば、それだけなのだが、考えてみればそれはこちらの都合だけだ。
それは家康の思い出であり、真喜のものではない。
真喜の中では、家康や広忠の事は、もっと別の思い出なのかもしれない。
「・・・・・・・・」
しばし真喜の顔を眺める。
母の於大より幾つか若いはずだが、痩せている分、老いて、というより枯れて見える。
於大の持っている図々しいまでの活力は、真喜には無い。
「・・・・・・それでは」
何も言葉が出ないので、元康は立ち去ろうとする。
「お殿さま・・・・・・・」
蚊の鳴くような声で、真喜が呼びかける。
初め家康はよく聴こえ無かったが、自分を呼んだのだと気付き、座り直す。
「申し訳ありませんでした」
ゆっくりと老いた身体を、真喜は曲げて、家康に頭を下げる。
「いえ、貴方が悪いわけではありませぬ」
ゆっくり首を振り、家康は答える。
「なにかしら、暮らしむきでお困りの事がありましたら、なんでも仰って下さい」
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