第21話 どちへんなし
「なんじゃ?これは」
そう、本多作左衛門重次に言われ、はぁ?と天野三郎兵衛康景は、眉を寄せる。
「御触で、御座いますが?」
「そんなことは分かっておるわ」
領内に配る御触書の紙を指差し、重次が言う。
「これはなんじゃと、言うておるのじゃ」
「これ・・・・・と申しますと?」
そこには文の最初に書かれている、布告、という文字がある。
「お前は阿呆か?」
「何を仰いますか、阿呆とは無礼で」
康景はムッとして答えるが、言い終わらないうちに、重次が口を開く。
「三河の百姓に、漢字の読める者などおるか」
あっ、たしかに、と康景は納得する。
「まったく使えぬ奴じゃ、さっさと書き直せ」
そう言って立ち上がると、ブツブツ文句を言いながら、重次は部屋を出て行く。
腹が立って康景は、部屋に残っている高力与左衛門清長の方に向く。
「あの様な言い方をせずとも、宜しゅうございましょう」
何時もの鈍い大仏顔で、清長は答える。
「まさそうだが、作左どのの言う通りだ」
書き直してこい、と言うように、静かに頷く。
「・・・・・・・分かりました」
不満を隠さない顔で康景は立ち上がり、足を引き摺りながら部屋を出て行く。
天野康景、本多重次、高力清長の三人は、領内を見回る奉行の役を任命された。
三人の中で康景だけは二十代で、二人は三十代、どうしても若い康景が雑務をやらされる。
それは構わない。
しかし重次は奉行にされた事が不満なのか、ああだこうだと文句ばかり言う。
ならばご自分でなされい、と康景は言いたいが、我慢している。
家に戻り、直ぐに自室に向かう。
「お食事は?」
妻が尋ねてくるが、よい、と短く答え、御触れの書き直しを行う。
康景は駿府で育った。
駿府は気候も人も穏やかで、そして豊かな町だ。
その上、国主である今川義元が、荒廃した都から、公家や僧を呼んで保護した為、町が洗練されている。
その駿河で主人家康と共に、臨済寺で手習いを行なっていた康景は、経典や漢詩も読める。
そんな康景からすれば、漢字の読めない三河の者たちの為に、御触れを全て仮名に書き直すのは、馬鹿馬鹿しい仕事だ。
勿論、三河は生まれ故郷である。
しかしその故郷が貧しく、また人々が無知で田舎者であるのを誇るのが、康景とすれば恥ずかしいし、嫌な気持ちにもなる。
それでも一晩かけ書き直し、朝一番で城の奉行の集まる一室に向かう。
少しすると清長が、しばらくすると重次がやって来る。
どうぞ、と康景は書き直した御触れを見せる、一読し、重次が口を開く。
「こんなもの書き直すのに、一晩もかけよって」
ムッとしたが、康景は黙っている。
「まったく使えぬ奴じゃ」
そう言うと重次は立ち上がり、
「わしは領内を見回りに行く、触れを庄屋どもに渡しておけ」
と言って部屋を出て行く。
「・・・・・・・」
出て行く重次を、顔をしかめて見ている康景の隣で、清長が御触れの紙を一読すると、筆を取って最後に一文書き足す。
「ではこれを持って、庄屋たちを回るぞ」
渡された紙を見て、康景は声を上げる。
「こ、これは・・・・・・」
「殿は・・・・・」
何時もの大仏顔で、清長が告げる。
「三河の者たちは皆、作左どのの言うことを聴くと仰った」
「はぁ・・・・・・」
「つまり、そうせよと言うことじゃ」
康景は書き足された、最後の一文に目をやる。
この御触れを破れば、本多作左衛門が怒る。
領民たちは漢字どころか仮名も読めない、それで庄屋たちを回り、仮名で書かれた御触れを渡して行く。
背中の怪我のせいで、康景は杖をつきながら歩く。
「この辺りは、この寺の住職に頼もう」
先を歩く清長が、立ち止まって告げる。
たしかにこの辺りには大きな庄屋が無く、人々はこの寺に集まっているようだ。
「あ、しかし・・・・・」
戸惑いの声を康景が上げたが、清長は構わず進む。
「これは、高力さま」
境内を掃いていた老僧が、手を止め二人に近づく。
「ご無沙汰しております」
「いえいえ、こちらこそ」
清長が丁寧に挨拶すると、老僧も手を合わせて頭を下げる。
少し世間話をした後、清長は本題に入る。
「それで此度、殿が御触れを出されまして・・・・」
「それは・・・・・」
老僧が少し表情を硬くする。
当然だろうと康景は思う。
この辺りは熱心な門徒が多く、一揆に加わった者が沢山の居る。
この老僧もおそらく、一揆に加担しており、鎮圧後は無理やり改宗させられたのだろう。
素直に御触れを、受け入れるだろうか・・・・?
康景が警戒しながら見ていると、老僧は表情を緩め、
「分かりました、中でお話を・・・・・・」
と言って、二人を庫裏の方に案内する。
境内の奥の方では、十才ほどの少女が赤ん坊を背負って洗濯をしている。
「みな、お客さまに挨拶しなさい」
そう老僧が言うと、辺りを駆け回っいた五、六才の少年たちが三人駆け寄り、少女と並んで、康景と清長の前に立つ。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
「どうも、お邪魔します」
子供らが挨拶すると、清長は丁寧に挨拶を返していく。
「では中へ」
老僧が勧めると、二人は庫裏の中に入る、少女は洗濯に戻り、少年たちはまた駆け回り始める。
これを、と康景が御触れの紙を老僧に渡す、合掌して受け取り、老僧は読み始める。
大した事は書いていない。
罪人たちの裁きは奉行が執り行うとか、年貢を納め時は城から役人が来て指示を出すとか、そういう事が書かれている。
要は今まで、寺社に認めていた不入の権を認めず、領主である松平家が、全ての領民を統治するというものだ。
「分かりました」
老僧は静かに答え、頭を下げる。
それでは、と康景と清長は挨拶をして、寺を後にする。
「意外とあっさり受け取りましたね」
寺を出て少しすると、康景は思ったことを口にした。
門徒たちは自分たちの不入の権を守るため、一揆まで起こしたのだ。
それなのにあの老僧は、えらく簡単に了承した
「門徒といっても、あの寺は上の方ではない、末寺だ」
「あ、はぁ・・・・・」
寺にも上下がある、本寺と末寺があり、本寺は大きく、末寺は小さい。
だが末寺だからと言って、領主の命に従うものなのか、と康景は少し首を捻る。
「なんで末寺が様々な場所に、沢山あるか分かるか?」
先を歩く清長が振り返り、尋ねてくる。
「あ・・・・いえ」
いきなりの事で康景は、答えに窮する。
「日ノ本で御仏の教えは先ず、天子さまの政の為に使われた」
前に向き直り、歩きながら清長は話し始める。
「鎮護国家、国を守り鎮めるため、各地に護国寺が建てられた」
何の話をし始めたのか、訝しく思いながら、康景は清長の背中を見つめる。
「次に公家たちが、現世御利益のため加持祈祷をし、子孫繁栄のため氏寺を建てた」
確かに上方にある多くの名刹は、藤原摂関家の様な公家たちの氏寺が多い。
「そして次に、武家たちが求める禅の教えが広がり、禅寺が建てられていった」
上方と違い、武士の都である東国には、禅寺が多い。
「そして皇室、公家、武士の仏法では無い、民百姓の仏法として、浄土の教えが生まれたのだ」
農村にはそれまで、惣というものがあった。
その惣を中心に、民百姓は繋がり生きてきた。
しかし浄土宗はその惣入り込み、講と言うものに、取って変えたのだ。
「先ほどの寺で、子供らが居たであろう?」
「ええっ」
「あの子らはみな、孤児じゃ」
淡々と清長は話し続ける。
「戦さや飢饉で親を亡くし、生きていく事が出来ない子を、ああして寺で引き取り、育てておるのじゃ」
「・・・・・・・・・・・」
「惣を講に代える、いや講に変わるのは、そうしなければ、民が生きていけないからじゃ」
「・・・・・・与左衛門どの・・・・・」
康景が呼ぶと、清長は振り返る。
「殿が門徒を解散させた事、反対なのですか?」
ジッと清長は康景を見る。
そして息を一つ吐き、首を振る。
「そうではない」
「しかし・・・・・・・」
「御仏の法と領主の法が、共に活きる事が大切なのだ」
静かだが強い口調で、清長は告げる。
「領主の法でできぬ事、至らぬ事を、御仏の法で行えば良い」
そう言うと清長は再び前を向く。
「しかし領主の法が乱れば、民は御仏の法にすがるしか無い」
清長はゆっくり歩き始める。
「御仏の法だけでは、危うくなる」
「・・・・・・・・」
康景は黙って続く。
「だからこそ、我らがしっかりと領主の法を定め、民を守っていかねばならぬ」
その後も二人は、領内を回り、それぞれの集落で庄屋や住職に、御触れを配布して行った。
そうやって回っていると、康景はある事に気がつく。
清長は寺を回り、それぞれの寺の仏像や経典の保護や修繕に、協力している様だ。
そのため僧侶たちは、清長を信頼しており、その清長の指示であるなら、御触れを受け入れるとしているのだ。
一方、何人かの庄屋を訪ねた時、
「ああこれが、先ほど作左さまが言っておられたものですね」
と相手が答える事があった。
どうやら重次は、集落を回り、御触れが出ることを、事前に知らせているらしい。
そして庄屋たちは、御触れ書きの最後の一文、触れを破れば、作左が怒る、と言うのを目にすると、ははっ、と頭を下げた。
それを見ていて康景は思った。
領民は清長の徳を慕い、重次の威を畏れている。
それにより御触れは、領内に行き渡って行く。
だが・・・・・・・。
康景は暗い気持ちになる。
自分は何の役にも立っていない、自分には徳も威も無い。
ただ雑務をこなしているだけで、これなら城の小者でもできることだ。
思わず溜め息が出る。
身体さえ動けば、戦さ場で戦える、武勲を立てる事が出来る。
それなのに深い傷を負った所為で、やりたくも無い、そして自分には向いていない奉行の仕事をやらされている。
「どうかしたか?」
康景の溜め息を見て、清長が声をかけてくる。
「いえ・・・・・なんでもありませぬ」
「・・・・・・・・・」
ジッと清長が康景を見つめる。
その視線に耐えられず、康景は口を開く。
「拙者は、どへちんなしだなと」
どへちんなしとは三河の言葉で、どちらでも無いと言う意味だ。
良い言い方をすれば、偏りが無いとか公平と言う意味だが、悪く言えば優柔不断、あるいは特徴が無い、取り柄なしという事だ。
「与左衛門どのは皆に慕われております」
目を細めて清長は、康景の話を聞く。
「作左どのは恐れられております」
はぁ、と息を吐き、康景は空を見る。
「拙者は何もありませぬ」
首を振る。
「向いておらぬのでしょう」
「・・・・・・・・奉行の仕事はつまらぬか」
冷めた声で清長が言う。
「い、いえ」
そのいつに無い清長の鋭い視線に、康景は慌てる。
「その、拙者は役に立っていないと言うか、奉行の才覚が無いと言うか・・・・・」
「ではお主には、何の才がある?」
明らかにいつもと違う、清長の態度と言葉に、康景は焦る。
「いや・・・・・・その・・・・」
「又五郎」
清長は康景の幼名を呼ぶ。
「殿は若さまの守り役を、お主にでは無く、七之助に命じた」
たしかに家康は、嫡子竹千代の守り役を、康景と同じように幼き頃から家康に仕えていた、平岩七之助親吉に命じた。
「なぜだと思う?」
「それは・・・・・・・」
困惑しながら康景は答える。
「七之助は殿と同い年であるし、いつも最も近くにいて、殿の言うことは何でも聞く忠義者だからでしょう」
「そう思うか?」
突き放す様に冷めた口調で、清長は言う。
「わしはそうは思わぬ」
ジッと清長は康景を見る。
「殿はご自分でも気づいておられぬ内に、お主の才覚に気づき、守り役をお主では無く、七之助に命じたのだ」
「・・・・・・拙者の・・・・・才覚?」
そうだ、と清長は頷く。
「又五郎、お主の才覚、ゴマをする才覚だ」
「な、なにを言われるか?」
康景は大声を上げる。
「いかに与左衛門どのといえ、勘弁なりませぬ」
足を引き摺りながら、康景は清長に掴みかかろうとする。
その手をかわし逆に清長は、康景手を掴む。
「お主、殿の近習であった頃、よう気が付いて、殿の望まれる事を先回りして行っておったなぁ」
「は・・・・はぁ?」
手を掴んだまま、静かな声で清長が告げる。
「それが何で御座る」
清長の手を振る解こうと、康景は力を入れる、しかし足の踏ん張りが効かないので、力が上手く入らない。
「主君の望む事をするのが、近習の、家臣の務めではありませぬか」
振り解こうと暴れながら、康景は大声で言う。
「それを世の中で、ゴマすりというのじゃ」
清長の低く、冷たい、そして強い言葉に、えっ、と声をあげ、康景の動きが止まる。
「主君が望む事、主君が喜ぶ事をする」
目を細めて清長が静かに告げる。
「それを世の中では、ゴマをするというのじゃ」
ぐぐぐっ、と唸り、康景は言葉に詰まる。
「もし若さまの守り役に命じられていれば、お主は・・・・・・今川の三浦備後守の様になっておったわ」
「そ、それは・・・・・」
違う、と康景は言いたかった。
三浦備後守とは、今川彦五郎氏真の守り役で、氏真が当主になった後、側近として権力を握っている三浦正俊の事だ。
今川家中、そして隣国では佞臣、君側の奸と呼ばれている人物だ。
「その様な・・・・事は・・・・ありま、ありませぬ」
康景は顔を伏せて、小さな声を上げる。
「本当にそう言えるか?」
清長が冷たく言い放つ。
「三浦備後は、ただただ、今川の彦五郎どのの気持ちを察し、その望む事、喜ぶ事をしておるのでは無いのか?」
うっぐ、と康景は呻く。
「それがお前とどう違う?」
康景は顔を上げることが出来なかった。
その通りだと思ったからだ。
「よいか、又五郎」
清長の声が大きくなる。
「武士の奉公とは、滅私奉公だ」
「めっし・・・・?」
康景が顔を上げると、清長が頷く。
「己の為にやるのでは無い、お家の為にやるのだ」
「も、もちろん、分かっております」
「分かっておらぬ」
バッサリと康景の返事を、清長は斬って捨てる。
「己に向いているとか、才覚があるとか、その様なものではない」
「・・・・・・っぁ・・・・・」
「奉行の仕事より、戦さ場に出る方がよい、とかそういうものでは無い」
清長の目はいつもの様に細く、その顔はいつのもの様に大仏の様だ。
しかしいつもと違い、恐ろしく康景には感じる。
「お主は自分の為に、手柄を立てておるのか?」
次々と発せられる言葉が、康景の身体に刺さる。
「手柄はお家の為に立てるものだ、お家の役に立つという事が大切だ、それが全てだ」
グッと康景は拳を握る。
「仕事が向いていないなら、己を向けろ、才覚が無いなら、その才を生め」
清長は前を向き、小さな声で最後に告げる。
「お主の為にお家があるのでは無い、お家の為にお主がいるだ」
そのまま清長は歩き始める。
くそっ、くそっ、くそっ、と思いながら、康景は家に帰る。
おかえりなさいませ、と妻が声をかけてくれたが、無視して自室に向かう。
座ると、くそっ、と床を叩く。
清長の言葉に腹が立った。
なぜ立ったか?
当たっているからだ。
康景は自分が、機転の利く男だと思っていた。
特に共に駿府に行った平岩親吉と比べ、自分の方が何倍も気の利く、賢い者だと思っていた。
親吉が家康の近習を務めていた時、その仕事ぶりを見て、自分ならこうするのに、七之助の奴は気が利かないな、と何時も思っていた。
そして自分が近習になった時、いつも家康の事を考えて、気を利かせていた。
「それを世の中で、ゴマすりというのじゃ」
清長の言葉を思い出す。
その通りだ、康景のやっていた事など、ただのゴマすりだ。
そんなゴマすりをしていた事を、手柄だと思い、才覚だと思っていた。
「仕事が向いていないのなら、己を向かせろ、才覚が無いなら、その才を生め」
うううっと唸り、康景は頭を掻く。
悔しい、何も言い返せなかった。
「お主の為にお家があるのでは無い、お家の為にお主がいるのだ」
ぐっと顔を伏せる。
ズキンと背中が痛む。
この傷さえなければ、戦さ場で・・・・・・。
そう思う。
しかしそう思えば思うほど、傷が痛くなる。
はぁ、と一つ溜め息を吐く。
どんなに悔しかろうと、どんなに腹が立とうと、それにどんなに背中の傷が痛かろうと、明日もまた城に行き、奉行の仕事をしなければいけない。
康景は立ち上がり、襖を開けて居間の方を見る。
妻が糸紡ぎをしている。
奉行の職に付いているとはいえ、それほど碌があるわけでは無い、
妻は内職せねばならない。
まだ子は居ない、それでも一家の主人として、この家を守っていかねばならない。
全てを投げ出すわけにはいかない。
次の日も、康景はいつもの様に、城に向かった。
奉行の部屋に着くと、いつもの様に二人はおらず、しばらくすると清長が、そして重次がやって来る。
「まだ配り終えておらぬのか?いつまでかかっておる」
重次がいつもの様に、ガミガミと小言を言う、すみませぬ、と康景が頭を下げる。
康景は清長と二人、昨日と同じように領内を回る。
清長は特に昨日の事には触れず、黙って歩く、康景も杖をつき、足を引き摺りながら、付いて行く。
「あれはなんじゃ?」
集落に入る前、清長が声を上げた。
道を大きな荷車が進んでくる、荷台に大きな袋を載せているが、時期的に米や麦では無いだろう。
「さぁ・・・・・」
「止めて調べてみよう」
「しかし・・・・・」
「他国の間者かもしれぬ」
それはないだろうと、康景は思ったが、たしかに見慣れぬもの物運んでいる。
「おいお前たち、それはなんだ?」
一行を止めて、康景が尋ねる。
男たちはこの辺りの百姓で、手拭いを被り、尻を端折っている。
「鰯の干物です」
「はぁ?」
一同を代表して進み出た男の言葉に、康景は首を捻る。
「こんなに大量に、如何するのだ?」
近づき袋の中を確認すると、たしかに鰯の干物だ。
「はぁ、それが茶屋さまが、これを畑に蒔けば、綿の木がよく育つと仰いまして・・・・・・」
「まことか・・・・?」
康景が問うと、男は、へい、と答える。
だがその顔を見るに、男も半信半疑のようだ。
田畑に撒く肥料としては、灰や牛糞をなどを使うと言うのは、康景も聞いたことがある。
しかし鰯の干物など聞いた事もないし、食べ物を使うなど勿体ない気がする。
「これ程の鰯、如何した?」
「三河だけでなく、尾張や伊勢の方からも取り寄せております」
「そ、そうなのか・・・・」
これだけの量を集めるのは、なかなか大変だろう。
「効き目はあるのか?」
清長が男に尋ねる。
「へい、まだよう分かりませぬが、茶屋さまが言うには、上方では米や麦にも使っているそうで、なんにでも効き目があるそうです」
「米や麦にも効くのか?」
「そう仰ってました」
ふむ、と鈍い顔で清長が頷く。
「あの・・・・・もう行って宜しゅうございますか?」
「ああ、構わぬよ」
清長が赦すと、それでは、と男たちは頭を下げて去って行く。
男たちが去って行くと、清長もまた、黙って歩き出す。
「与左衛門どの」
その背に康景は、声をかける。
「先ほどの話、まことでしょうか?」
「さぁな」
さして興味無さげに、清長は答える。
「俄かには信じられませぬ」
「そうだな・・・しかし、まぁ」
振り返らずに、清長は話す。
「茶屋も商人だ、銭勘定をして損にならぬからやってるのだろう」
「まぁ・・・・たしかに」
その通りだと、康景は思う。
「ですが、本当にそれほど効き目があるのなら、棉だけでなく、米や麦にも撒いた方が良いのではないのでしょうか?」
「そうだな」
冷めた口調で答える清長に、康景は苛立つ。
「殿に進言してみては、如何でしょう?」
強い口調で言う康景に、振り返って清長は淡々と告げる。
「・・・・・・三郎兵衛」
清長は康景の幼名では無く、今の名で呼ぶ。
「わしはお主の上役ではない」
さも当然だとと言う顔で、清長が言う。
「わしとお主は同格の奉行だ」
「それは・・・・・・」
言いかける康景に背を向け、清長は再び歩き始める。
「お主がそう思ったのであれば、お主が殿に願い出れば良かろう」
突き放すように清長は言う。
しかし康景は腹が立たなかった。
むしろやってやろうという、強い気持ちが生まれた。
「はい、分かりました」
城に戻ると、まだ岡崎に留まっていた茶屋四郎次郎清延を、康景は訪ねた。
「鰯の肥やしの事ですが・・・・・・」
康景の問いかけに、品のある笑みを、清延は浮かべている。
「米や麦にも、効き目はあるのでござるか?」
「勿論に御座います」
茶を康景に勧めながら、穏やか清延が答える。
「干鰯ともうしましてねぇ、上方や西国ではよく使われております」
「ほぉ、そうか」
「実りは目に見えて違います」
ふむ、と康景は頷く。
「では、他の田畑にも回してくれぬか」
「それは・・・・・・・」
清延は顔をしかめる。
「なんじゃ?」
「ただというわけには・・・・」
「銭を取るのか?」
康景も顔をしかめる。
「干鰯は、漁場で余った物を集めておりますが、それを運ぶには人手がいります」
むむむっ、と康景は呻く。
「それに今ですら、余った物では足りぬから、銭を払って足りない分を買っていおるのです」
「そうなのか・・・・・・・」
うぅむ、と顎に手をやり、康景は悩む。
銭がかかるのであれば、それでは意味がない、折角、米が多く取れても、それでは損だ。
「多少、銭がかかっても、損にはなりませぬよ」
康景の心の内を読み、清延が言う。
「そうなのか・・・・?」
眉を寄せ、いま一つ信じられない顔を康景はする。
ええ、と清延は微笑みながら答える。
「しかし・・・・・どちらにしても買うとなると銭が・・・・」
「天野さま・・・・」
ズッと清延は康景に近づく。
「当方、松平さまに矢銭を納めております」
「・・・・・ああっ、知っておる」
門徒の一揆の時から、茶屋は松平家に矢銭を納めている。
「その銭は殆ど、鉄砲や他の武具に使っております」
「そうだな」
矢銭とはそう言うものだ。
戦さに必要な物に使うから、矢銭というくらいだ。
「その銭を、干鰯を買うのに使われたら如何でしょう」
「矢銭をか?」
康景の声が大きくなる。
そんな事、考えた事も無かった。
領内の作物の収穫を増やすために銭を使う、そんな領主、聴いた事がない。
「そ、それは・・・・・」
康景が戸惑っていると、清延は更に近づく。
「鉄砲を買うより、安うございます」
「まぁ、そうだろうな」
「それに直ぐに元が取れます」
どうやら清延はこの話に乗り気のようだ。
「そんなに違うのか?実りが」
「それもありますが、蕎麦を植える事が出来ます」
「そば・・・・・・?」
康景が首を捻ると、はい、と笑顔で清長が答える。
「上方や西国では、春の速く育つ、早稲というのを植え、それを秋の始めに刈り取り、その後、麦を植え、冬に刈り取り、最後に蕎麦を植え、田植え前に刈り取るのです」
「そ、そんな事をしておるのか」
たしかに年に三度も収穫すれば、元はすぐに取れる。
「しかし・・・・それでは・・・」
康景は眉を寄せる。
「土地が疲れるだろう」
米作りに詳しくない康景でも、農民が土地が疲れるからと、二年に一度、豆を田んぼに植えるのを知っている。
そうする事で、土地が力を取り戻すのだ。
「ですからその為の、干鰯でございます」
「まぁ、そうだな」
とりあえず、納得はする。
「そうでしょう、そうでしょう」
清延は何度も頷く。
此奴、と康景は少し呆れる。
茶屋四郎次郎清延という商人を、康景は奇妙な男だと思った。
銭儲けになれば、作物の作り方を農民に教えたり、松平家の為に鉄砲を買い揃えたりと何でもする。
しかしその稼いだ銭を、溜め込んだり、遊興に使ったりという事をしない。
その銭を使って、更なる銭儲けをしようとしているのだ。
例えば、康景の妻を始め、三河の女子に糸車を貸し与え、糸紡ぎの内職をさせている。
そうする事で、ただ綿を作るのではなく、木綿として上方に売っているのだ。
そう言う考え方は、商人では当たり前かも知れないが、侍である康景には妙なものに見える。
「分かった、殿に願い出てみよう」
そう康景が言うと、ああっ、そうそう、と清延はグイと近づく。
「上方には鍬や鋤など、大変使いやすいものが多くございます、お取り寄せ致しましょうか?」
ニコニコと微笑む清延に、まったく、と苦笑しながら、康景は答える。
「取り敢えず、今は肥やしだけで良い」
「肥やしだと?」
康景が告げると、主人家康は顔をしかめる。
「そんなもの、わざわざ買い集めるのか?」
「はい、そうすれば米や麦の実りが増えます」
「いや・・・・・しかし・・・・」
家康は背を向け、鷹に餌をやる。
「殿、米作りは国の大本にございます」
「そうだが・・・・・備えを疎かにすれば、国そのものが無くなるであろう」
「ですが。今なら・・・・・・」
武田と手を組み、今川を挟み撃ちにすると言う策、家中の皆が疑っていたが、成功し武田が駿河に攻め込んだのである。
おかげで今川は、松平どころではなくなり、こちらは攻められるおそれは無いのだ。
「この機に力を貯めておくべきです」
「じゃがなぁ・・・・・」
「力を貯めておけば、いずれどの様な事になろうと、必ず道が開けます」
杖をつき、ズイッと康景は前に出る。
「そうは言うがなぁ・・・・・・・」
主人家康は、いつも以上に消極的で優柔不断だ。
康景の後任の近習、阿部正勝の話では、腹を下し体調が悪いらしい。
どうする?・・・・・・あの手を使うか?
少し迷ったが、康景は意を決す。
「う、ううっ・・・・・」
突然、呻いて康景はその場に倒れる。
「如何した?三郎兵衛」
「あ、いえ・・・・・・」
慌てて声をかけてきた家康の顔を見つめながら、康景は苦しそうな声で告げる。
「背中の傷が痛みまして・・・・・・・」
「うぐっ・・・・・・」
「大した事ではありませぬ」
殿を庇って出来た、名誉の傷でございます、と訴える様な眼差しを、康景は家康に向ける。
「あ・・・・・くっ・・・・うむ」
家康は顔を歪め、言葉にならない声を漏らすが、意を決し康景に告げる。
「分かった、お前の好きなようにせい」
「ははっ、ありがとうございます」
そう言って康景は、頭を下げる。
「痛」
勢いよく下げすぎたので、本当に背中に痛みが走る。
自分は気が利く、どちへんなきだ。
畏れられる威もなければ、慕われる徳もない。
それならそれで良い。
それならそれで出来る事がある。
そう考える事に康景はした。
家に帰ると、妻が台所で大きな筍を茹でていた。
「お帰りさないませ」
「大きいなぁ、如何した?」
尋ねたが、だいたい予想はつく。
ニコニコ微笑みなが、妻が答える。
「内藤さまから、頂きました」
予想して通りの答えが帰ってきた。
内藤の家は弓矢の家と言われ、矢にする為に大きな竹林を持っている。
だから季節になると、筍を家中の者に配っている。
「竹か・・・・・・」
ふと康景は、戦さ場で鉄砲の弾を防ぐのに、竹の束を使うという話を思い出す。
「我が家も、竹を植えるか・・・・・・」
そう呟く。
「はい・・・・・・?」
妻が振り返る。
「いや、なんでもない」
康景は答える。
微笑んだまま、妻は前を向く。
妻は尾張の者だ。
織田と手を結ぶ時、家中の者で縁組をしようと言う話が出た。
三河の者は皆、尾張の者を嫌うので、誰も手を上げなかった。
そこで家康の気持ちを察し、康景が願い出たのだ。
ゴマすりで娶った妻だが、一生懸命、尽くしてくれるし、他国の三河に溶け込もうとしている。
妻の背を見ながら、康景は思う。
明日も頑張ろう。
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