第17話 岐阜
「この辺りで、手打ちと致しましょう」
高力与左衛門清長が、何時もの鈍い表情の大仏顔で告げる。
「・・・・・・・」
元康は黙っている、黙っているが、承知はしている。
「一揆のことは不問とし、家臣の帰参をお許し下さいませ」
仕方あるまい、と元康は何も言わず、目を瞑る。
「そして寺社の不入の権利を、お認め下さいませ」
「おい、それでは・・・・・」
元康が慌てて口を開く。
「それでは以前と、変わらぬではないか」
「皆の心は変わっております」
表情を変えず、淡々と清長は言う。
「殿が寛容な御方であると思い、皆が心から忠節を尽くすでしょう」
「そうかもしれぬが・・・・・・」
元康が声を上げるが、清長は鈍い表情のまま、黙って見つめている。
チラリと隣を見ると、こちらも何時ものムスッとした蛙面で、酒井忠次が黙って座っている。
こいつ、と思いながら元康は忠次をしばし眺める。
近頃元康は、この二人のカラクリが分かってきた。
忠次がいつも黙っていて何も言わない。
もし何か言いたいことがあれば、清長に言わしているのである。
「殿」
清長が呼びかけてくる。
「ここが潮時に御座います」
「・・・・・・分かった」
元康は清長の言葉を聞き入れ、家臣の帰参を許し、寺院については元に戻すと宣言した。
家臣たちは次々と戻り、領内に平和が訪れた。
しかし納得していない者も居る。
金策の目処がつき、上方から帰ってきた石川数正は、当然元康に詰め寄る。
「殿」
「何も言うな」
「そうはいきませぬ」
必死の顔で数正は食い下がる。
「茶屋の四郎次郎は、それこそ身代が潰れるほど、矢銭を殿に献上したのです」
ぐぐっと数正は近寄る。
「それでも足らぬと、今度は四方に借財までしたのです」
大きか声を上げ、数正が言う。
「それではあまりにも、酷うござる」
「分かっておる」
顔を背け、小さな声で元康が答える。
「だから・・・・その・・・少しでもよいから、銭を四郎次郎に返してやれ」
「そのような銭、どこにもありませぬ」
だから金策に走り回っておったのです、と言うような表情を数正はする。
「家臣たちの帰参を許すのは構いませぬ、しかし寺社の不入を許すのは・・・・・・」
「そうなればまた再び、一揆になろうが」
数正の言葉を遮り、元康が声を荒げる。
「そもそもお前が、門徒を切れ崩せると言うから」
「それは・・・・・・」
うっと数正は言葉を詰まらせる。
「・・・・・・・・」
しばしジッと見あった後、数正が口を開く。
「その点については、拙者の落ち度で御座いました」
少しだけ頭を下げるが、直ぐに数正は顔を上げる。
「しかし今なら酒井の将監どのも、本證寺の空誓和尚も居りませぬ、ここを押し切れば・・・」
「彼奴らがおらぬ方が、むしろ纏まっておるくらいじゃ」
こう言うところが此奴の良くないところだと、元康は数正の、その白くて細長い顔を見つめる。
数正は切れ者だ、様々な策を献じるし、助言を求めれば直ぐに答える。
打てば響く知恵者だ。
しかし自分の考えに、固執するところがある。
織田と手を結ぶ時も、水野との和睦という、自分の案に拘り、相手が別の案を出しているのに、それに耳を貸さない。
どうもそう言う所がある。
変な言い方だが、どんなに仲が悪くても、本多作左衛門重次と同じ、頑固な三河者なのだ。
「しかしこのままでは、以前と何も変わりませぬ」
数正の言葉に、元康も黙るしかない。
「今川が攻めて来れば、どうするおつもりですか?」
嫌な事を聞く、と元康は顔を歪める。
どうするもこうするもない、織田を頼るしかないのだ。
そしてそれを元康が嫌がっているのを、数正は察している。
「どうなされるのですか?」
目を細めて数正は元康を見る。
痛いところを突くと思い、元康は顔を歪める。
「・・・・・・っ、うんん」
「殿」
「あっ、あ」
「はい?」
「少し考えさせろ」
そう言うと元康は立ち上がり、数正を残し自室を出て行く。
「鷹の餌やりに行く」
外の廊下に控えている阿部正勝に声をかけ、元康は中庭に向かう。
「まったく、どいつもこいつも」
廊下を歩きながら、思わず呟いてしまう。
元康は歴史が好きだ。
特に、唐の太宗李世民に憧れている。
李世民の言葉に、主君は家臣という水に浮かぶ船だ、というものがある。
元康からすれば、自分の家臣は荒れ狂う海だと思った。
ふと今川義元の事を、思い出す。
元康は今川と手切れになったが、それでも自分を可愛がってくれた義元の事を、未だに思慕し、そして尊敬している。
君主として義元は優秀だが、その家臣たちもそれぞれ、素晴らしかったと思っている。
まず何と言っても、義元に師父と呼ばれていた太原雪斎である。
元康は間違いなく、天下一の軍師であったと思っている。
それに朝比奈泰能や岡部元信など、優れた人物が多い。
それに比べ、自分の家臣はなんだと、思ってしまう。
筆頭家老の酒井忠次は、いつもむすっとして何も言わない。
元康にとっての軍師である石川数正は、知恵は雪斎に比べれば雲泥の差だし、そのうえ自分の策に拘り、言う事を聞かない。
本多重次はぎゃあぎゃあと喚くし、本多忠勝は暴れん坊だ。
優秀な家臣など一人もいない。
「本当にまったく」
そう呟きながら中庭に出ると、いつの間にか正勝がいない事に気がつく。
「彼奴、どこ行った?」
首を捻るが、構わず鷹のいる鳥小屋に向かう。
「さて・・・・・・」
鳥小屋の前で、しばし待っていると、正勝がやって来て、黙って竹筒を差し出す。
竹筒の中には餌の虫が入っている。
はぁ、と一つため息を吐き、竹筒を受け取る。
此奴も此奴で、何か喋れ。
心の中で元康は思う。
最初元康は近習として、平岩新吉を側に置いていた。
幼き頃から側にいて、側にいるのが当たり前だったから、近習に命じると言う訳でもなく、自然と近習になったと言う感じだった。
新吉は元康の言う事には忠実だったが、気はあまり利く方ではなかった。
そんな新吉を、息子の守り役に任命した後、近習にしたのは新吉と同じように幼い頃から側にいる、天野康景であった。
康景は新吉に比べると、器用で気が利いた。
元康は大概毎日同じような事をする、あまり思いつきで動くような事はしない。
それでも家臣が訪ねて来たり、急な用事が入って来たりする。
それを康景は上手にさばき、元康に負担が掛からないようにしてくれた。
その康景が門徒との戦いで重傷を負い、命は取り止めたが、歩くのが難しい身体になった。
本人はそれでも近習の役を続けたがっていたが、元康は任を解き、代わりに阿部正勝を近習にした。
だがこの正勝、何を考えているのか、全くわからない。
正勝も親吉や康景と同じように、幼い頃から元康とともに駿府にいた。
しかし二人が絶えず側にいて、臨済寺にも付いて来たの対し、正勝はそうでは無かった。
何をしてたのか、元康はよく知らない。
そんな事もあり、よくわからない掴み所のない家臣だ。
気が利くのかどうか、どんな性格なのか。
いつも黙っているので分からない。
今みたいに姿を勝手に消し、戻って来ても何も言わない。
餌を取りに行ったのなら、そう言えばいいのに黙っている。
まぁよいわ。
そう思いながら、元康はたかに餌をやる。
「殿」
呼ばれたので振り返ると、服部半蔵保長が若者を一人連れて、近づいてくる。
保長は杖をついて、足を引きずっている。
連れの若者は元康の前で跪いたが、保長は膝を曲げられないのか、立ったままだ。
「本日は、隠居の願いに参りました」
静かに淡々と保長は告げる。
おそらく元康が命じた内通者探しのため、足を怪我したのであろう。
しかしその事には一切触れず、元康にも触れさせない。
鋭い三白眼で、ジッと見つめるだけだ。
「そうか、今までご苦労だった」
はっ、と軽く頭を下げて、保長は後ろに控える若者に目をやる。
「これよりは倅に、なんなりとお命じくださいませ」
若者が顔を上げる。
年の頃は元康と変わらないだろう、父親と同じ鋭い三白眼をしている。
「では今日から、お前が半蔵だな」
そう元康が言うと、若者は頭を下げて名乗る。
「服部半蔵正成に御座います」
「うむ、頼むぞ半蔵」
はっ、と答え、正成は顔を上げる。
そして正成は保長の方を見る、保長が頷く。
「殿」
鋭い三白眼を元康に向けて、正成が言う。
「殿が父にお命じになった、門徒に通じている者を探す件・・・・」
「もうその話はよい」
元康は顔を歪めて、他所を向く。
「終わった話じゃ」
「いえ、そうではありませぬ」
静かな声で正成が告げる。
「敵に通じていた者は、いなかったのです」
正成の言葉に、はぁ?と驚きの声を上げ元康は振り返る。
「馬鹿を申せ、こちらの攻撃が全て読まれておったのだぞ、そんなわけがあるか」
そんなもの、お前が探り当てられなかっただけだろう、と元康は保長を見る。
「・・・・・・殿は本多弥八郎という男を、覚えておられますか?」
興奮する元康とは対照的に、静かに正成は尋ねる。
「本多・・・・・・弥八郎?」
首を捻る、記憶に無い。
「なんじゃ?作左や平八郎の親類か?」
「はい、本多の支流に御座います」
「その弥八郎が如何した?」
「殿には、鷹匠として仕えておりました」
その言葉を聞き、元康は鷹を見る。
黒くて大きい立派な鷹だ。
茶屋清延が献上した奥州の逸品である。
それを元康は自ら世話をしている。
高価だからではない。
仕えていた鷹匠が一揆に与したので、世話をする者がいなくなり、代わりの者もすぐに見つからないので、元康自ら世話をしているのだ。
元康は記憶を辿り、鷹匠の顔を思い出そうとする。
確か鋭い目を、それこそ鷹の様な目をした男だった。
痩せていた、小柄だったと思う。
年は元康と同じくらいか、少し上だった様な気がする。
あまり思い出せない。
「それでその鷹匠が、如何したのじゃ?」
眉を寄せて元康が問うと、鋭い三白眼でジッと見つめながら正成が答える。
「殿は鷹狩りを行いながら、陣立てを考えておられたのではありませぬか?」
正成の言葉に、あっ、と元康は声を上げる。
確かに元康は、鷹狩りをしながら、陣立てを考えていた。
「まて・・・・・・・待て待て待て」
ではそいつは、その本多弥八郎という男は、わしが鷹狩りをしながら陣立てを考えているのを見て、わしの攻撃の全てを読んだのか?
そう元康は大声を言いそうになり、ある事を思い出した。
元康は鷹匠に、鷹狩りをしながら陣立てを考えていると、確かに言った。
言ったがそれで、それを後ろから見ているだけで、全ての攻撃を読んだというのか・・・・?
元康は背筋が凍った。
とんでもない男が世の中に、それもこの三河に居る。
「それで・・・・・・」
「はっ」
顔を正成の方に向けて、元康は尋ねる。
「その弥八郎はどうした?」
「・・・・・・」
「帰参を許したのだ、戻ってきたのであろう?」
元康の問いに、正成は黙って、鷹に餌をやる元康を見つめる。
同じように保長と正勝も、静かに見つめている。
「・・・・・・・」
視線の意味に気づき、元康は鷹の方を見て、心の中で呟く。
それはそうだな、戻ってきておるのであれば、わしが餌をやっておるわけが無いな。
「死んだのか・・・・・」
謀叛を起こしたとはいえ、そこまでの才覚、惜しい事をしたと元康は思った。
「いえ、本多弥八郎は上方に逃げております」
「なに?」
正成の言葉に、元康は声を上げる。
「大坂にある、本願寺の本山、石山御坊に身を寄せています」
「・・・・・・・熱心な門徒という事か」
さぁ、それは、と正成は目を細める。
うむ、と元康も頷く。
熱心な門徒は、皆賢く無いとは言わないが、それほどの切れ者が、熱心な門徒というのは、何か奇妙に感じる。
「殿」
正成が静かに呼びかけてくる。
「拙者上方に向かい、けりをつけましょうか?」
淡々と、まるで手紙の使いでも行くように、正成は暗殺の任務を尋ねてくる。
伊賀者め、と元康は不快になる。
元康も侍だ、戦さ場では人を殺める事もあるし、それを部下に命じてもいる。
しかしそれはあくまで戦さ場の事であり、武勲のためであり、その作法もある。
だが忍びの正成は、それを作法も何もなく、密かにあやめようとしている。
それも今更、その本多弥八郎とやらを殺めても、何かになるという事もない。
「よい、放っておけ」
元康は鷹の方を向き、餌をやりながら言う。
「当家を出て行った者、もう関わりない事じゃ」
承知しました、と正成は答え、保長と共に退がる。
「本多弥八郎・・・・・・・」
元康はその名を呟く、やはり顔は上手く思い出せない。
まぁよい、と首を振る。
もう二度と会う事もあるまい・・・・・・・・。
結局、元康は数正の言葉を聞き入れた。
しかし前言は撤回しないとした。
「殿は元に戻すと仰ったのだ、だから寺ができる前に戻す」
そう数正言って、寺を破却していった。
これには元康も呆れた、策というより詐欺だ。
数正を嫌う、本多作左衛門重次も、
「与七郎め、卑劣な奴」
と怒っていたし、一揆に加担した者、そうでない者、多くの家臣が、数正に非難の目を向けた。
しかし再び一揆が起こることは無かった。
理由の一つは、元康を討ち取るために空誓が、雑賀の鉄砲撃ちを雇い入れたという話が家臣たちの間に流れ、空誓の声望が落ちた事だ。
しかしもう一つの理由の方が、元康は大きいのでは無いかと思っている。
本多弥八郎正信という男が、居なくなったという事だ。
兎にも角にもとりあえず、門徒との戦いは終わり、三河に平穏が訪れた。
同じ頃、信長も遂に美濃の稲葉山を攻め落とし、国主斎藤龍興を国外へ追放した。
「ほぉ、遂に・・・・・」
知らせを聞き、元康はそう呟いた。
元康と信長が手を結んで七年、信長の舅である斎藤道三が、その息子義龍に討ち取られてから十年の月日が経っていた。
その後、信長が居城を稲葉山に移したと聞き、元康は首を傾げる。
「そんなもの、移してよいのか?」
普通、国主は居城を変えない、追われて仕方なくと言うならともかく、自分から移すなどまず無い。
まして他国に移すなど、聞いたことが無い。
駿府に居るから、駿府の今川で、小田原に居るから、小田原の北条なのだ。
何処の国主にしろ、みな居城を他国に変えたりしない、そんな事をすれば、国主が国主でなくなるからだ。
侍とは領地のために戦う者だが、その領地とは父祖の地である。
それをあっさり変えるとは、
「全く、変わった事をなされる」
元康からすれば、全然理解出来ない。
美濃の斎藤家に養子に入るというのならまだ分かるが、織田のままだという。
「では、尾張織田なのに、美濃に居城を移すのか?」
そんな信長から、その美濃の稲葉山に来いと、使いが来た。
元康は領内が落ち着いたのを見計らい、稲葉山に向かう。
「これは・・・・・・・」
稲葉山に着いた元康は、思わず声をあげた。
山の麓にある井ノ口の街が、驚くほど栄えているのである。
井ノ口は中山道と東海道が交わる交通の要所で、昔から栄えてはいた。
しかし元康が驚いたのは、信長が国主斎藤家を滅ぼした直後なのに、街がまったく荒廃していない事だ。
普通、戦さをすれば乱取り(略奪)が行われて、街は破壊されるものだ。
しかし井ノ口の街は、乱取りにあった痕跡が見えない、街の人々は、自然に行き交い、物を売り、宿に泊まっている。
「なんなんじゃ、これは?」
元康が首を捻っていると、鳥居元忠が近寄り告げる。
「織田どのは、家臣の乱取りを、一切禁じたそうであります」
「ま、まことか?」
貧しい武士など、それが目的に戦さに来るようなもの。
「それを禁じるなど・・・・・・」
出来るのか?と疑いの目で元康が見ると、元忠は頷いて話を続ける。
「織田の軍勢の多くは、銭で集めた浪人衆で御座います」
うむ、と元康は頷く。
それは元康も知っている、ただそういう連中の方が、乱取りを禁じることは難しいだろう。
「その浪人衆を束ねておるのが、殿もご存知の滝川どのなのですが・・・・・」
ニコニコと微笑んでいた、蟷螂顔の滝川一益を元康は思い出す。
「その滝川どのが、織田どのの命を受け、浪人衆に乱取りをせぬよう禁じておるのです」
「いや・・・・・だから、禁じると命じて、禁じれるものなのか?」
元康の疑問に、さぁ、それは・・・・・と元忠を眉を寄せる。
しかし実際、二人の前には、乱取りを免れた井ノ口の街がある。
そういう事だと、納得するしか無い。
そうして活気のある井ノ口の街を抜け、稲葉山まで来ると、元康はさらに驚く。
山裾に所狭しと、屋敷が並んでいるのだ、
「なんでこんなに、屋敷があるのじゃ?」
まだ殆どは普請の途中であるが、山の斜面を切り崩し、多くの屋敷を建てようとしている。
「織田どのは御家来衆を、城下に住まわせようとしているそうです」
元康の疑問に、再び元忠が答える。
「住まわせる・・・・・にしてもこんなにか?」
信じられぬ・・・・・と口を開け、元康は眺める。
普通家臣はそれぞれの領地に住んでいる、それを戦さの時、陣触れを出し、城に集めて戦さ場に向かうのだ。
確かに重臣など一部の者は、城の近くに屋敷を持っているが、あくまで一部の者、こんなに多くの家臣を、城の側に住まわせるなど聞いた事が無い。
ふと元康は、駿府の街を思い出した。
今川館の周りには、領内各地の国衆地侍の子息が、人質として住んでいた。
いずれ義元はそれを、自分の馬廻衆にする気であったという。
信長のやっている事は、義元のそれを何倍にも大きくしたものだと、元康は思った。
「お待ちしておりました」
城下の一画、普請を終えたばかりの真新しい屋敷の前で、池田恒興がで迎えてくれた。
「殿は今、野駆けに出られております」
「いつもの事ですなぁ」
淡々と告げる恒興に、元康は苦笑する。
信長が戻るまで、織田家の重臣たちが挨拶に来るというので、元康は一室でそれを待つ。
間も無く重臣たちがやって来た。
先ず筆頭家老の林佐渡守秀貞が、挨拶をした。
「拙者、松平さまが清洲に居たの頃の事、よう憶えております」
ニコニコ微笑みながら、大きくなられましたな、と秀貞が言ったが、おそらく嘘であろうと、元康は思った。
元康に憶えが無いのもあるが、その鈍く光る目を見てそう思ったのである。
秀貞は五十過ぎ、瓜実顔の愛想が良さそうな男だ。
尾張者が本多重次を見ると、馬鹿で頑固な三河人の典型と感じるように、この林秀貞という男は、三河人が思う、ずる賢い尾張者の典型のように見える。
その点、次に挨拶をした柴田権六勝家という男は、尾張者らしからぬ骨太な武者だ。
年は四十そこそこ、顎の張った大きな顔で、立派な髭を蓄え為か、それほど大きくも無いのに、大柄に見える。
「今後とも、宜しくお願いします」
挨拶も礼儀正しいが、どこか素っ気ない。
と言って元康も、別に不快な気持ちにはならない。
むしろ一本気な性格を、感じ取ることが出来た。
林秀貞という男には、見覚えがなかっが、その後に挨拶された、丹羽五郎左衛門長秀には見覚えがある。
長秀は丸顔で垂れ目、年は三十路半ばで、信長と同じくらいだろう。
むかし元康が尾張にいた頃、信長には平手とい守り役の老人がいた。
信長が終始、仲間たちと遊び回っているのを、平手老人はいつも追いかけ回していた。
その平手老人従っていた小姓に、万千代という者がおり、丸顔で垂れ目で確か丹羽という姓であった。
おそらく・・・・・という目で元康が見ると、長秀はその事に一切触れず、静かに挨拶をした。
しかし少しだけ微笑んだ。
明らかに何か憶えている顔である。
その時、元康はある事を思い出す。
なぜ自分が、丹羽万千代と呼ばれていた小姓を、憶えていたのか。
それは万千代が平手老人に従い、信長を追いかけ回していたが、実は信長と通じており、事前に平手老人が向かっているのを、信長に報せていたのである。
元康は苦笑した。
おそらく元康に会っていないのに、会っている振りをする林秀貞と、会っているのに素知らぬ振りをする丹羽長秀。
どちらもいかにも尾張者だと、思ったからだ。
他にも森三左衛門可成、佐久間右衛門信盛などを紹介された。
挨拶が終わり、重臣たちが退がっていく。
それを見届けると、はぁ、と元康は溜め息を吐く。
織田の家臣はみな礼儀正しく、落ち着いている。
ようは大人なのだ。
それに比べて、と自分の家臣を思い出し、頭が痛くなる。
「お疲れですか?」
元康が溜め息を吐き、頭を押さえているので、恒興がそう声をかけて来た。
「ああ、いえ、大丈夫です」
「そうですか」
静かに恒興は答える。
「そう言えば、犬千代どの、いえ又左衛門どのは、如何なされた?」
重臣たちの中に、前田又左衛門利家は居なかった。
「野駆けに付いていっておるのですか?」
いえ、と恒興が首を振る。
「又左はいま、滝川どのと共に、北伊勢で戦さをしております」
「あ、はぁ、また戦さをしておるのですか?」
元康は呆れる。
美濃の戦さが終わったばかりというのに、すぐに次の戦さをしておられるとは・・・・・・。
むかし朝比奈泰能が信長の事を、鼬の様だと言っていたのを、元康は思い出す。
「滝川どの率いる兵は、浪人衆でございます」
淡々と恒興が告げる。
「城下で遊ばしておるより、戦さをしておる方が良いのです」
そうかもしれないが、攻められる北伊勢の国衆たちは、堪ったものではものではなかろう。
戦さをするには普通、大義名分、口実がいるものだ。
それなのに浪人衆を遊ばせておるのが、勿体無いと言う理由で戦さをするのだ。
そんなもの野盗野伏と、変わらぬではないか、と元康は呆れる。
その後も、元康は恒興と、信長の事、利家の事、織田家の事を話す。
元康も恒興も多弁な方では無い、会話は弾まず、すぐに止まる。
それでも別に元康は、気まずいと思わなかった。
恒興らしいと思うだけだった。
「殿が戻っておるやもしれませぬので、一度、城に戻ります」
そう言って、恒興は城に戻った。
ふと元康は、勝三郎どのも大変だなと、思った。
元康は毎日、大体同じ事をする。
そう心掛けている所もあるし、その方が良いし、自然とそうなる。
信長はおそらく逆であろう。
毎日同じことをすれば、すぐ、飽きた、つまらぬ、と言い出すだろう。
そんな信長の近習を務めるのだ、楽な仕事ではないだろう。
しばらくそんな事を考えていると、恒興が再びやって来た。
「殿がそろそろ、戻って来るそうです」
あいわかった、と元康は答えて、恒興の案内で城の方に向かう。
「しかし・・・・・・」
城に向かう坂を上りながら、元康は言う。
「家中の皆さまも大変ですなぁ、いきなり美濃に移れと言われて」
普請の続く屋敷を眺める元康に、先を歩く恒興は、振り返って、はい、と短く答える。
「反対しなかったのですか?」
恒興に視線を向け、元康が問う。
「こちらに移らないかった方々もいますよ」
「まことに?」
元康は少し驚く、信長がそんな事、許さないと思ったからだ。
「はい、松平さまの叔父上の水野どのや、又左衛門の兄上も領地に残られました」
叔父の名を聞き、それもそうだと、元康は思った。
織田との同盟が成立し、水野との和睦もなった後、二度ほど叔父の水野信元とは会った。
肉の厚い顔をした、いかにもやり手の国衆という感じで、とても信長のいうことを聞いて、領地を離れるなどしないだろう。
「殿は近々、この稲葉山の名を改めるつもりに御座います」
恒興が話のついでにと言うように、そう告げる。
「名を?」
「はい、ぎふと」
「ぎふ?」
耳慣れない音の響きだ。
ぎふ、ぎふ、と何度か口に出しても、どうもしっくりこない。
「松平さまは憶えておられぬかもしれませぬが、むかし殿の守り役だった平手さまが、殿の御教育のためと、京より沢彦和尚とい、臨済宗の僧をお呼びになりまして・・・・」
元康は首を捻る、平手という老人は記憶にあるが、沢彦という僧は記憶にない。
「たしかお会いになっては、おりませぬ」
首を捻る元康を見て、静かに恒興が告げる。
「その沢彦さまが、ぎふと名付けられたのですか?」
はい、と答え、恒興は側にあった枝を折り、地面に、岐阜、と書く。
「岐阜?」
「はい」
いかにも坊主が考えそうな、お経に出てくるような言葉だと、元康は思った。
「なんでも、古の唐土で、周の文王が殷の紂王を討とうと立った山を、岐山と言い、儒学の孔子の生まれ故郷を曲阜というそうです」
「ほぉ・・・・・それを合わせて岐阜ですか」
元康は家臣たちに聞こえぬように、恒興に顔を近づけ告げる。
「あまり兄上らしからぬ、名ですな」
信長という男、元康が知る限り、学問嫌いで、歴史などつまらぬ小難しい話だと、一蹴し、すぐに野駆けだなんだと走り回る、そんな男だ。
恒興は頷く。
「まぁ、殿にも考えがございまして、それを表した名前なのです」
「考え?」
「はい、殿は近頃、てんかふぶという文字の花押を用いておりまして・・・・・」
「てんか・・・・ふぶ?」
元康は首を捻ると、再び恒夫気が地面に、天下布武、と書く。
「天下に、武を布く」
「武を布く・・・・・・?」
平たく言えば・・・・・と言ってギョロリとした目を、恒興は向ける。
「公方さまを奉じて、軍勢を率い、上洛して、天下に号令するということです」
「ああ、なるほど」
元康は頷く、信長が足利公方義昭を庇護しているという話を、既に元忠から聞いている。
「近々、上洛なされるのですか?」
「はい」
恒興は頷き、話を続ける。
「おそらく本日、松平さまをお呼びしたのも、その話ではないかと・・・・」
そうですか、と元康は頷く。
内心、震えている。
三河の田舎で、家臣の一揆に手を焼き、旧主である駿河の今川にいつ攻められるかと、びくびくしてる元康には、上洛して天下に号令するという話、
「大した事ですなぁ・・・・」
と言う言葉しか出ない。
「あの兄上が・・・・・」
「ですが・・・・・」
冷めた口調で、恒興が告げる。
「中身はさして、変わっておりませぬ」
その言葉に元康は苦笑する。
変わっていないのは、信長だけではない、恒興もだからだ。
一行はそのまま城に入った。
広間で待っていると、外から甲高い声が聞こえてくる。
元康は少しだけ頭を上げ、前が見えるようにした。
前回、不意打ちで目の前にしゃがまれたのを、憶えていたからだ。
しかし広間に入ってきた信長を見て、元康はギョッとした。
信長は若い小姓を四人ほど連れて歩いている、その四人の小姓が、みな恐ろしく美しいのだ。
主人である信長自身が、色白で鼻筋が通り、美しい顔をしているから、絵になると言えばそうだが、それにしてもよく揃えたなと、元康は呆れる。
元康にも小姓はいる、しかし皆、家臣たちの息子を人質として取っているだけだ。
以前は内藤家長が側にいたが、元服して家を継ぎ、いま側にいる小姓は、石川家成の息子彦五郎や、本多広考の息子彦次郎などが居る。
いずれも資質などに特に拘らないし、まして美貌などどうでも良い。
元々、尾張の人間は、三河者に比べて垢抜けて、美しいが、それでもこれだけの美童をよく集めたものだと、呆れながらも感心する。
「よう来られた、松平どの」
主座に座ると、信長が甲高い声で呼びかける。
「ご無沙汰しております」
そう言って元康は顔を上げる。
「お前ら、退がっておれ」
信長が小姓らに命じる、はっ、と答え、退がっていく。
元康も後ろに控える鳥居元忠と阿部正勝に、
「退がっておれ」
と命じる、二人も、ははっ、と答え退がる。
「・・・・・・・・・」
広間には元康と信長、それに恒興だけになった。
すると、信長はニヤニヤと微笑みながら、元康に話しかける。
「竹千代、お前、門徒どもと戦さをしたそうだな」
「あ、はぁ・・・・・」
「阿呆じゃのう、お前は」
顎を上げて、元康を見下ろしながら信長は言う。
「坊主なんぞと戦さをしても、何の得もないわ」
「それは・・・・・分かっております」
少しムッとしながら、元康は答える、元康とてしたくてしたわけでは無い。
「ほれ、なんとかと言うであろう、賽子がどうのこうのと言う・・・・・」
「はぁ?」
突然の信長の言葉に、元康は戸惑う。
「ほれあれだ、なんとかと言うでは無いか、坊主と賽子と、何処ぞの川と、喧嘩するなと言う、あれじゃ」
苛々しながら早口で信長が言うが、意味が分からず元康は、恒興の方を見る。
「あれでございましょう、白河院のままならぬもの、賀茂川と双六の賽、それに山法師」
恒興が淡々と述べると、それじゃ、それ、と信長が大声を上げる。
「ようは坊主と戦さをするなど、阿呆のやる事じゃと言うことよ」
呵々と嗤う信長に、いい加減我慢ができず、元康は声を上げる。
「別にしたくてしたわけでは御座いませぬ、それにもう終わった話では御座いませぬか」
ふん、と一つ鼻を鳴らし、信長は顔を反らす。
「困っておったのなら、なぜ助けてくれと言わぬ」
うっ、と元康が言葉に詰まる。
「いつでも助けてやると、言うたであろうが」
「そ、それは・・・・・」
顔を歪める元康を、不敵なえみを浮かべて信長が見つめる。
「兄上も美濃攻めで、大変で御座ろうと思いまして・・・・・」
「なんじゃ?わしの心配をしておったのか」
はん、と一つ信長は笑い飛ばす。
「可愛げのない奴じゃ」
信長は目を細めて、元康を見つめながら続けて言う。
「まったくお前は可愛げがないのう、新九郎とはえらい違いじゃ」
「新九郎・・・・・どので御座いますか?」
聞き覚えの無い名で、元康は首を捻る。
そして再び、恒興の方を見る。
「北近江領主で、浅井新九郎長政さまに御座います」
「北近江の・・・・・浅井どの?」
コクリと頷く、恒興が続ける。
「殿は美濃攻める為、西の近江の浅井さまと手を結んだのであります」
「それだけではない」
信長が割って入る。
「近々わしは上洛する、その為に通り道の浅井は味方にしておかねばならぬ」
「たしかに・・・」
元康が頷くと、信長は顎を引いて、少し冷めた顔をした。
「それでお市をくれてやった」
「ああっ、妹君の・・・」
信長の妹、お市のことは元康も名だけは聴いている。
大変な美人と評判だ。
まぁ、この兄上の妹じゃ、美人であろうなぁ、と信長の端正な顔を眺めながら、元康は思う。
「一度だけ会ったが、新九郎はなかなかの男じゃ」
ニッと笑って信長が言う。
「それにどっかの誰かと違って、可愛げがあったしな」
皮肉な笑みを浮かべる信長に、顔を顰めて元康が応える。
「もう、よいではありませぬか、その様な話・・・・・」
信長をジッと見つめる。
「拙者に今日来るように言ったのは、その様な話をする為ですか?何か用があるから呼んだのではないのですか?」
腹が立ったので、早い口調で元康は一気に喋る。
「ああ、そうじゃ」
顎を撫で、信長が告げる。
「わしは公方を奉じて、上洛いたす」
「はい」
「お前も兵を出せ」
「承知しました」
居ずまいを正し、元康は頭を下げる。
「拙者自ら、三河の精鋭を率い、公方さまの露払いをいた・・・・・・」
「よい」
「しまぁ・・・・え?」
いたします、と言おうとした元康の言葉を、信長が遮る。
「お前は来ぬでよい、竹千代」
「え?あっ?はぁ?」
驚いている元康の顔を眺めながら、さも、当然のように信長が告げる。
「上洛には新九郎が付いてくるので、お前はいらぬ、形だけ兵を出せ」
手でひらひらと払いながいう信長に、元康はムッとする。
なんじゃさっきから、新九郎、新九郎と。
そう腹を立てながら元康が信長を睨むが、信長の方は知らぬ顔だ。
「松平さま」
恒興が静かな声で、話しかけてくる。
「いつ駿河が攻めてくるか分かりませぬ、ご無理をしていただかなくても、大丈夫です」
「いや、それは・・・・・」
たしかにその通りだ。
元康が全軍を率いて上洛すれば、その隙に今川に攻められるのは目に見えている。
「お心遣いだけで、充分で御座います」
そう言うと、恒興は頭を下げる。
あ、はい、とむしろ恒興の心遣いに元康は、信長に対する腹立ちが収まっていく。
「それより竹千代」
信長が告げる。
「お前には、別の話があるのだ」
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