第16話 上宮寺の戦い

こいつがか・・・・・・。

そう正信が思うほど、現れた雑賀の鉄砲撃ちは若い男だった。

「若いなぁ」

加藤教明が代わりに口にする。

「大丈夫なのか?」

宗哲の方を見て、呟く。

「そっちが雑賀で一番の使い手を、用意しろと言ったのだろう」

年は十五、六くらい、色が黒く小柄で細身、その鋭い目で雑賀の鉄砲撃ちは教明をジロリと見る。

「だから俺が来た」

声も変わっていない、少年のものだ。

その声で、自信に満ちた口調で喋る。

「ふんん」

皮肉な笑みを、教明は浮かべる。

「大した自信だ」

「まぁ良い」

正信は静かに告げる。

上宮寺から少し離れた雑木林、寺に集まっていた軍勢は、既に動き出している。

「それでお前さんに頼みたいのは・・・・・」

そう正信が言いかけると、突然、雑賀の鉄砲撃ちは、銃を取り出し、流れる様な動きで火薬を詰め、玉を入れる。

「な、何をする気だ」

そう教明が言い終わらぬうち、鉄砲撃ちは銃口を正信に向ける。

「っあ」

教明が声を上げると、鉄砲撃ちは銃口をスッと横にずらし、ズドオォ、と発砲する。

「な、な、なんだ」

驚いて教明が振り向く、正信も宗哲も、狙いの先を見る。

木の陰から男が現れ、走り去って行く。

「まずい」

そう教明が叫ぶ、しかし鉄砲撃ちは、表情を動かさず、再び流れる様な動きで、持っていたもう一つの鉄砲に火薬を詰め、玉を入れる。

そして走り去る男を、後ろから撃つ。

ズドオォ、

銃声が響き、男は倒れる。

教明が男を捕まえようと、走り出す。

だが、ぐはっ、と呻いて、膝をつく。

「どうした?」

正信が近寄ると、肩に短い鉄の棒が刺さっている。

「手裏剣?服部半蔵か・・・・・」

家中の忍びと言えば、服部半蔵保長だ。

前を見ると、何処からか別の男が現れ、倒れた男を担いで走り去って行く。

「おい」

正信が雑賀の鉄砲撃ちの方を見る。

「駄目だ」

鉄砲撃ちは首を振る。

「銃は二丁しか持ってきていない」

鉄砲を正信に向ける。

「少し待って冷まさないと、銃が壊れる」

正信が手を近づけると、確かに鉄砲は火の様に熱い。

「如何するねぇ?」

肩を抑えながら、教明が尋ねてくる。

「まぁ良い構わぬ」

正信は首を振り、雑賀の鉄砲撃ちを見る。

「これから我らは戦さをする」

ジッと鉄砲撃ちは、正信を見つめる。

「お前さんにはその最中、敵の大将を撃ち取って欲しい」

「・・・・・大将?」

ああっ、と正信は頷く。

「松平次郎三郎元康だ」




「平八郎」

いつもの様に先鋒の更に先を、一人で進む本多平八郎忠勝に、鳥居彦右衛門元忠は声をかける。

「弟は、四郎左はわしが相手をする」

ヌッと無言で振り返る忠勝に、元忠は告げる。

「お主は手を出すな」

「・・・・・・・」

元忠の言葉に、何も答えず忠勝は前を向く。

おい、と元忠が声を荒げる、その肩に誰かが手をやる。

「肥後どの」

振り向くと忠勝の叔父、忠真が穏やかな顔で頷く。

「・・・・・平八郎には、わしが言うてきかせる」

「あ、はぁ」

「ただ・・・・・」

静かな口調で、忠真は告げる。

「弟御のこと、お手前が相手をする事はない」

「しかし・・・・・」

ゆっくり忠真は首を振る。

「わしか大久保の七郎右衛門どので、なんとかするから、安心なされい」

「・・・・・・・はい」

年長者で家中一の使い手でもある忠真なので、一応そう答えたが、元忠は弟忠広の相手は自分がするべきだと思っている。

元忠は弟のことがよく分からない。

忠広は末っ子で、両親もあまり忠広には構わなかった。

元忠は子供の頃から、家の務めである渡り衆の仕事を手伝ってきたが、忠広は手伝うこともなく、友だちと遊んでいた。

歳が近いので内藤家長と親しかったが、少し下の忠勝や榊原康政らともよく遊んでいた様だ。

特に忠勝とはよく喧嘩をしていた様で、それだけ仲が良い様だった。

むかし、元康が元服をして直ぐの頃、三河に墓参りに来た時、忠勝が元康に小便をかけるという悪戯をした事があった。

その時に逃げる子供らの一団を見たが、その中に忠広もいた。

そんな忠広が一揆に加担した。

別に熱心な門徒では無い。

兄の元忠も、家長や忠勝も元康側にる。

それなのに一揆に加担した。

あるいは自分に対する、何かなのかもしれない。

そう元忠は思ってしまう。

元忠は今度の門徒壊滅作戦では、石川数正に次いで中心的な人物だ。

元々茶屋四郎次郎清延を数正に紹介したのも、元忠だ。

その元忠に対する、反発なのだろうか?

元忠は顔を上げ、先を進む忠勝を見つめる。

どちらにしろ自分の弟の事だ。

手を握りしめ、その握り拳を見ながら元忠は思う。

この手でけりを着けよう。

そう心に決め、元忠が弟忠広が居るであろう上宮寺がある遥か前方を見た時、すごい速さで何者かが駆け寄ってくる。

「ご注進、ご注進」

男は叫びながら、軍勢に向かってくる。

「何奴」

先頭の忠勝が槍を構える。

「待て」

忠世が止める。

「お前、半蔵の倅の・・・・・・」

相手を見て忠世がそう言う、元忠も近寄ると確かに、服部半蔵保長の息子の弥太郎だ。

父と同じ三白眼の鋭い目をしているその男を、元忠も見知っている。

「如何した?弥太郎」

元忠が問うと、はぁはぁと肩で息をしながら、クッと顔を上げ弥太郎が答える。

「こちらの攻撃、読まれております、敵が待ち伏せしております」

一気に言ったその言葉に、なに、と忠世や周囲の者が反応する。

「直ぐに殿に知らせい」

そう忠世が近くにいた内藤家長に命じる、承知、と頷き、家長が後ろに居る本隊の方に走っていく。

「敵が来よった」

忠勝が叫ぶ。確かに前の方で、わぁあああ、と声が上がり、厭離穢土、欣求浄土と書かれた旗を掲げ、農民たちが鍬や鋤を持って、襲いかかってくる。

「来たか」

そう身構える元忠の裾を、服部弥太郎が引く。

「雑賀の鉄砲撃ちがおります、殿のお命を狙っております」

なに、と元忠は叫び、弥太郎の方を見る。

三白眼の若者は、黙って頷く。

「急ぐぞ」

そう言うと元忠は、元康が居る本隊の方に向かう。




「うぉおおおおお」

本多忠勝は叫び声を上げて槍を振り回す、敵はその勢いに恐れをなして、逃げていく。

妙だと忠真は思った。

一揆勢は農民が多い、しかし家中の侍たちも少なからず居る。

だがいま目の前にる連中は、農民ばかりだ。

これは・・・・囮か?

そう忠真は思う。

囮の部隊が先鋒の忠真たちを、元康の居る本隊から引き離し、そこを叩くつもりなのではないか。

「待て、平八郎」

甥を止めようと、大声を上げる。

しかし忠勝は当然止まらない。

その忠勝の前に、農民では無い鎧武者が立ちはだかる。

「元気が良いな、平八郎」

その武者、渡辺半蔵守綱が槍を構える。

「少し揉んでやる」

まずいと、忠真は思った、守綱は家中の若い衆では一番の使い手だ。

「よせ平八郎、お前では半蔵に勝てぬ」

忠真の言葉を聞き、ニヤリと守綱は微笑む。

「だとよ、平八郎」

それを聞いて止まる忠勝では無い。むしろ火に油を注いだだけだ。

しまった、と忠真が思っていると、凄い勢いで忠勝は守綱に打ちかかる。

しかしそんな大振り、勿論、守綱には通じない。スッとかわして鋭い突きを放つ。

ぐっ、と忠勝が呻く、浅い一撃だが肩に刺さる。

「平八郎、無茶をするな」

そう言って近づこうとする忠真に、

「仏敵滅殺」

と叫びながら、歯の無い老人が鍬で殴りかかってくる。

止められい、と言って老人から鍬を奪い取り、腕をねじ上げる。

次に、あああああっと叫びながら、十くらいだろうか、少年が竹槍で突いて来ようとする。

よさぬか、と言うと忠真は、少年に足をかけ、その場に倒す。

更に少年の母親であろうか、太った女性が鎌で忠真に斬りかかってくる。

鎌をかわし、老人を女性にぶつける。

二人が倒れると、老人の帯を奪い、縛り付ける。

まったくと、忠真はうんざりする。

侍同士、主命と家名のために、戦さ場で闘うのは構わないが、一揆、それも狂信的な門徒相手の戦さは、まったくやる気がおきない。

彼らを討ち取ったところで手柄にならないどころか、むしろ三河という国が貧しくなるだけなのだ。

こんな戦い、まったく意味がない。

そう思いながら、向かってくる門徒たちを、次々に取り押さえ、縛り上げていく。

そうしている間にも、忠勝と守綱の一騎討ちは続く。

うぉおおおおおお、と叫び声を上げて忠勝が打ちかかるが、それを綺麗にかわして、守綱が突きかかる。

槍を膝に受け、うっ、と忠勝が呻く。

守綱の攻撃は浅い、深追いして反撃されないようにしているのが一つ。

「相変わらず、下手くそな槍じゃのう」

揶揄いながら守綱が言う。

「少しは稽古をいたせ」

ニヤニヤ笑う。

深追いしない理由はもう一つ、挑発するためだ。

「平八郎」

榊原康政が忠勝に近づこうとする。

「おい平八郎、お亀に助けてもらうか?それとも叔父御どのに代わってもらうか?」

笑みを浮かべながら言う守綱を、グッと睨んで忠勝が叫ぶ。

「亀丸、助太刀無用じゃ」

まずいと思い、忠真も近く。

「よせ、平八郎」

忠真の言葉も聞かず、うわぁあああああ、と叫び、忠勝が槍を振るう。

その渾身の一撃を、パッとかわし守綱は鋭い一撃を見舞う。

「終わりじゃ」

これまでと違い深く、忠勝の肩に槍が突き刺さる。

だが、ぐぁあああああ、と叫び、忠勝は刺さった槍を両手で掴む。

「な、なんなっ」

守綱が槍を引くが、忠勝は放さない。

「あぁああああああああっ」

槍ごと守綱を持ち上げ、その場に叩きつける。

ぐはっ、と守綱は呻き、思わず槍を手放す。

「なんちゅう、馬鹿力じゃ」

直ぐに守綱は立ち上がる。

その時。

「平八郎」

誰かが忠勝を呼ぶ。

見ると鳥居元忠の弟、四郎左衛門忠広が立っている。

「来い」

忠広は槍を構える。肩や腿に矢が刺さっており、かなりの手負いのようだ。

おおっ、と応じ、忠勝が槍を構える、こちらも守綱の槍をくらい、かなりの深手だ。

「・・・・・・・・」

二人はゆっくり近づき、間合いを詰める。

「おおっ」

「やぁ」

互いに突きを繰り出し、槍が当たり跳ね飛ぶ、直ぐに薙ぎ払い、相手の攻撃を受ける。

忠勝に先ほどまでの力はない、肩の傷が深くて力が入らないのだ。

一方の忠広も、足が動かないのか、膝が曲がらないのか、棒立ちのまま槍を振るうだけだ。

「ふん」

動かない膝で、それでも忠広が渾身の一撃を繰り出す。

「あああっ」

それを身体で払いのけ、忠勝が体当たりを喰らわせる。

ぐわっと、二人が縺れて倒れる。

「四郎左」

忠勝が馬乗りになる。

「お前の負けじゃ、諦めい」

「・・・・・くっ」

ジッと忠広は忠勝を睨む。

「なら・・・・」

大きな声で忠広は叫ぶ。

「なら殺せ」

あっ、と忠勝が目を見開く。

「勝ったのなら殺せ」

ぐぐっ、と忠勝が呻く。

「殺せ」

忠広が声を枯らして吠える。

ううっ、と唸りながら、忠勝が脇差を抜く。

「平八郎」

忠真が駆け寄ろうとすると、誰かが腕を掴む。

見ると榊原康政が、静かな顔で首を振る。

あああああっ、と叫び、忠勝が脇差を振り上げる。

そのまま、ばっと脇差を振り下ろす。

はぁはぁはぁ、と息をしながら、忠広は忠勝を見つめる。

脇差は忠広を外れ、その顔の隣に突き刺さる。

忠広と同じように、はぁはぁと息をしながら、忠勝が立ち上がる。

「・・・・・平八郎」

小さな声で忠広が呟く、しかし忠勝は何も答えず、その場を去る。

戦いは終わっている、守綱は既に姿をくらましているし、残った門徒も捕まるか逃げるかしている。

「くそ、くそぉおおおお」

忠広が泣きながら叫んでいる。

「平八郎」

康政が忠勝に近づき、その肩を叩く。



「ご注進、ご注進」

本隊を率いてゆっくり行軍していた元康は、先鋒の方から大きな声を上げて駆けてくる内藤家長を見て、まずいと思った。

「奇襲は気付かれております、待ち伏せです」

家長の言葉を聞き、側にいた本多作左衛門重次は、なんと、と驚いて声を上げたが、元康は、またかと思っただけだ。

やはり敵に通じている者がいる。そう思い、周囲を見回す。

誰だ・・・・?

だが今は、それどころでは無い。

「ま・・・・」

「待ち伏せじゃ、敵に備えい」

元康が何か言う前に、重次が大声を上げる。

家臣たちがそれに従い、それぞれ身構える。

その時、後ろの雑木林から、わぁあああああ、と歓声が上がる。

「来たか・・・・・」

元康がそちらを向くと、厭離穢土、欣求浄土と書いた旗を掲げ、門徒衆がこちらに向かって来る。

元康の手勢は三百人足らず、対する門徒勢はその十倍は居るだろう。

しかしその大半は、鋤鍬を構える農民だ、

まともに戦えば、こちらの圧勝であろう。

しかし・・・・・・・。

「進めば浄土、逃げれば地獄、進め、進め」

一人の僧が声を枯らして叫んでいる。

その声に押されて、農民が、わぁああああ、と歓声を上げて押し寄せて来る。

「鉄砲を構え」

元康が命じると、直ぐに鉄砲隊が現れ、一斉に上空に砲撃する。

ズドォオオオオンと大きな音がして、農民たちの動きが止まる。

「引け、引けい、それ以上手向かいすれば、容赦はせぬぞ」

重次の大音声に、農民たちは逃げ腰になる。

そこに、うぉおおおおお、と雄叫びを上げ、門徒勢から一人、若い侍が打って出る。

「半之丞か」

元康のの側にいた、水野藤十郎忠重が叫んだ。

確かに向かって来る若い侍は、戦さの時、何時も本多忠勝や渡辺守綱などと一番槍を争っている、家中の若侍、鉢屋半之丞貞次だ。

「相手になってやる」

そう忠重は言って、槍を構え迎え撃つ。

忠重は元康の母の弟で、刈谷水野家の者だ。

しかし兄である当主水野信元と不和になり、元康の元に身を寄せている。

叔父ではあるが、元康と年は変わらず、若い貞次とも歳が近い為、親しくしていた。

「藤十郎さま、ご覚悟」

貞次の激しい突きを、忠重が槍でなんとか払う。

やぁ、と忠重も突きを繰り出すが、なんの、と貞次も槍で受け止める。

鉄砲の音に驚き、腰が引けている農民たちに代わり、地侍が出てくる。

数は百人にも満たないだろう。指揮を執っているのは夏目次郎左衛門吉信の様だ、いけ、と声を上げている。

吉信の方を元康が見る、目が合う、吉信は顔を伏せる。

そこへ米津三十郎常春と小太夫政信が、吉信に向かう。

常春が低い声で、吉信に何か告げている、遠いので元康には聞こえない。

家中でも同じ年頃の古強者者同士、何か言葉をかけたのであろう。暗い表情の吉信は、黙って槍を構える、米津兄弟も静かに応じる。

「父上」

元康の近くで誰かが叫ぶ。

見ると内藤家長が弓を構えている。

矢の向かう先を見てみると、入道頭の老人が、同じように弓を構えている。

「金一郎、父に弓を向けるか」

老人、家長の父親、内藤清長は怒鳴る。

「父上こそ、殿に弓を向けられるのですか」

家長が怒鳴り返す、グッと清長は呻く。

元康が目を向けると、こちらも顔を逸らす。

「殿、お退がりお」

 使番の酒井与九郎重勝が、家康を庇う。

 高木長次郎広正が、槍を構え重勝に相対す。

「もういい、止めろ、止めてくれ」

思わずそう元康は呟いてしまった。

身勝手だと思う、それは重々承知だ。

この戦さは元康が始めたものだ、元康が数正の意見を聞き入れ、門徒を挑発して起こした戦さだ。

だがそれでも家中の者同士、仲間同士、そして親兄弟で争う姿を見た時、心の底から、元康は止めてくれと思った。

「殿」

大きな声が戦さ場に響く。

見ると鳥居元忠が走って来る。

「雑賀の鉄砲撃ちが、殿を狙っております」

え?と元康は戸惑う、言っている意味がよく分からなかったからだ。

その時、パァンと銃声が響く。

そのほんの少し前、

「危ない」

と叫び、側にいた天野康景が元康に覆い被さった。

「あそこだ」

阿部正勝の声が響く、康景の肩越しに元康は、少し離れた丘の上に、片膝をつき銃を構える男を見つける。


「待て」

元忠が鉄砲撃ちに駆け寄る、相手は立ち上がり、その場から逃げようとする。

その動きが止まる、元忠の後ろにいる服部弥五郎が何か投げて、鉄砲撃ちの動きを止めたのだ。

あああっと叫びながら、元忠は鉄砲撃ちに組み付く。

揉み合いになった元忠は、相手の腕に鉄の棒が刺さっているのに気付く、弥五郎が放った棒手裏剣だ。

元忠はそれをグッと押す。

うぐぐっと呻き声を上げ、鉄砲撃ちは鉄砲を手放し、元忠から離れる。

はぁはぁと息を吐き、二人は睨み合う。

元忠は相手がかなり若く、自分の弟の忠広より若い事に気がつく。

くそっ、と声を漏らして、鉄砲撃ちの若者は走り去っていく。

追おうかと思ったが、元忠はそれよりも、主君元康の事が気にかかり、そちらに向かう。


「三郎兵衛、しっかりせい」

自分を庇って出来た、天野三郎兵衛康景の背中の傷を元康は押さえる。

傷はかなり深いらしく、血が止まらない、康景は返事をしない。

「殿」

誰かが元康に呼びかける。

誰かは分からない、自分の側に付いた者か、一揆に与した者か。

もう元康にはどうでも良い事だ。

「もうよい、もう沢山じゃ」

元康が大声を上げる、その声に敵味方問わず動きが止まる。

「なぜ同じ家中の者で争う」

そう呟くと元康は、夏目次郎左衛門吉信に顔を向ける。

「次郎左、御仏はまことにわしを殺せと命じたか?」

元康が叫ぶ。

「味方同士、同じ家中の者で、親兄弟で、殺し合うように、まことに御仏は言ったのか?」

声を枯らして元康が問う。

一揆に与した家臣が、そして元康の方に付いた家臣も、みな黙って項垂れる。

「殿の言葉に答えてみろ、この卑怯者どもめ」

皆が黙っている中、天地が破れるほどの大音声で、重次が吠える。

「謀叛を起こしておきながら、殿を討つ度胸もなく、他国の鉄砲撃ちを雇い、影から殿のお命を狙うなど、言語道断」

ぐわっと仁王立ちで、重次は門徒勢を睨む。

「他国の鉄砲撃ちなど、我らは知り申さぬ」

鉢屋貞次が声を上げるが、鳥居元忠が重次の隣に駆け寄り、皆に見えるよう鉄砲を掲げる。

「これこそ動かぬ証拠、お前らが卑怯者だという証じゃ」

ガンと槍の石突きで大地を突き、重次が雄叫びを上げる。

「お前らなんぞ三河武士の恥じゃ、この本多作左衛門重次が成敗してやる」

重次の迫力に押され、門徒方の侍たちは黙ってしまう。

「退け・・・・・退け」

夏目吉信がそう言うと、門徒方の侍たちは少しずつ退いいく。

侍たちが退けば、農民も僧侶たちもそれに続いて退いていく。

「殿・・・・・」

最後に一人残った夏目吉信が、暗い表情で元康に呼びかける。

「雑賀の鉄砲撃ちのこと、我らはまことに知りませぬ、その事だけは信じて頂きとうございます」

「何を言うか」

重次が言い返そうとするのを、元康が手で制す。

「分かった信じよう」

「・・・・・かたじけのう御座います」

そう言って頭を下げて、夏目吉信は去って行く。

「・・・・・・・・」

去って行く門徒たちを、自分の家臣たちを、元康は静かに見送る。




「くそっ、あの白ぽちゃ於亀め」

走りながら渡辺半蔵守綱は吐き捨てる。

本多平八郎忠勝に背中から地面に叩きつけられたが、背骨が折れたわけでもなく、特に手傷は負っていない。

しかし大事な槍を手放してしまい、取り戻そうとしたが、榊原康政に阻まれてしまったのだ。

はぁはぁと息を上げながら、林の中を走っていると、ニュッと守綱の目の前に大きな人影が現れる。

相手を見て、チッと守綱は舌打ちする。

立ち塞がったのは、家中で一番の巨漢、大久保治郎右衛門忠佐だ。

忠佐は腕や足に手傷を負っているようだが、こちらは武器がない、相手をして手間取っていれば、誰かが駆けつけてくるかもしれない。

ここは逃げの一手だ。

そう思い守綱は、相手の隙を伺う。

「・・・・・・・・」

忠佐は守綱の方を見ていない、その後ろを見ている。

そして顎で、その後ろを指す。

恐る恐る守綱が後ろを振り返ると、忠佐の兄である、家中きっての猛者、大久保七郎右衛門忠世が、腕組みをして立っている。

「まだやるか?半蔵」

忠世の言葉に、

「まさか・・・・ご冗談を」

と言って守綱は手をあげる。

腕組みを解き、ゆっくりと忠世は守綱に近づく。

グッと守綱の肩を掴み、脛を蹴り、膝立ちにさせると、忠世は耳元で呟く。

「弥八郎はどこだ?」

「・・・・・・・・」

守綱が何も答えないでいると、肩を掴んだ手に力を入れていく。

「これほどの事が出来る者、三河中を探しても彼奴だけだ」

恐ろしいほどの力で、忠世は守綱の肩を掴む。

「奴は何どこだ?」

「・・・・・し、知りませんよ」

顔を歪めながら守綱が答える。

「三弥に訊けばいいでしょう・・・・・あいつが弟なんだから」

「あいつが弟を信用してい事ぐらい、とうに知っておる」

「おれも別に、信用されてませんから」

肩の痛みに耐えながら、守綱は早口で答える。

「本当に知らないですよ・・・・・・がぁっ」

指がかなり深くまで食い込んでいく。

ジッと忠世は守綱の顔を見つめていたが、ようやく手を離す。

「縛っておけ」

弟忠佐にそう命ずると、守綱に背を向け、忠世が歩き出す。

巨漢の忠佐が、無理矢理守綱の顔を地面に押さえつけ、腕を縛って行く。




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