第15話 本多弥八郎正信
本多弥八郎正信は、自分の事を知恵者だと思っている。
少なくとも自分が今まで出会った者たち、見知った人々の中で、自分が一番賢いと思っている。
家中では石川与七郎数正が、切れ者の知恵者で通っており、主君松平元康に色々と献策したり、助言をしたりしているようだが、正信はさしたる人物だと思ったことはない。
しかし正信にも不安はある。
三河の者は知恵を尊ばない、むしろ無知を誇る。
知恵とは卑怯と同じと、考える者が多い。
一族の本多作左衛門重次は、
「知恵者など、腸の腐った様な者」
と言っている。
重次は三河者の見本の様な男、三河の人間は大体、重次と同じように思っている。
三河者が愚かなのは構わない。
しかしその三河者の中で賢い自分など、井の中の蛙なのではないだろうか?
日ノ本を見渡せば、正信程度の者など、知恵者でもなんでも無いのではないだろうか?
その事が正信は不安であった。
知りたい。
自分が知恵者なのか、それともただの井の中の蛙なのか。
試してみたい。
自分が思いつく策や考えが、的外れで何の意味もないものなのか、それとも考えた通りに上手くいくのか。
確かめたい。
自分の中にあるこの何かが、才覚なのか、ただの取るに足らない妄想なのか。
それが出来るのであれば、全てを捨てて良いと、正信は思っている。
妻がいて、子がいる、親兄弟もいる。
そんなものいつでも捨てられる。
何の興味も無い。
その自分の何かを確かめる事が出来るのなら、命すらいらない。
ただ自分の中にある何か、考え続ける何か、思考する何かを、何であるか知りたい、確かめたい、世に解き放ってみたい。
それだけを思いながら、二十七年、正信は生きてきた。
誰でも変えがきく人生だった。
妻の夫は正信でなくても良い、息子の父も正信でなくて良い。
夫として、父として、子として兄として生きてきたが、演じているだけだった。
求められる夫という役を、父という役をそっなく演じるだけだった。
正信にとって、それは何の意味も無い行為だった。
何故なら他の誰かで、変えがきくからだ。
何故なら正信の、心の底から湧き上がる何かを、使い必要が全く無いからだ。
こんな誰でも良い人生を、変えがきく人生を、自分の中にある何かを使わずに、人生を終えるのだろうか?
そう思いながら、その辛さに耐えながら、正信は二十七年生きてきた。
そんなある日、一族の本多広考がやって来た。
主君元康が、鷹を手に入れたので、鷹匠として出仕するようにとの命だった。
正信は鷹を扱うのが上手かった。
と言うよりは、正信は器用で、下手なもの出来ないものなど、何も無かった。
ただ迷惑だった。
鷹を扱うのは上手いが、別にそれが好きと言うことはない。
だが一族の重鎮の命、仕方なく、鷹匠の役目を引き受けた。
そうして鷹狩りをする元康に付き添い、領内に出掛けた。
そこで正信は奇妙なものを目にする。
主君元康が、鷹狩りをそっちのけで、川の幅を確認したり、どの位で丘まで走れるかを調べたりしていた。
まさかと思い、何をしているのか元康に尋ねた。
元康の答えは、戦さの時のため、地形を調べていると言うものだった。
ほぉ、と正信は感心した、それは正信も重要なことだと思い、何度も調べていることだったからだ。
正信自身、三河の地形は完璧に頭の中に入っている。
ただ正信が感心したのは、元康に対してではない、元康のそれは受け売りで、元康にそうするよう言ったのは、尾張の織田信長であるらしい。
流石は信長と、正信は思った。
正信も織田信長という男に、一目は置いている、桶狭間の戦さも、運ではないと見ている。
その信長に言われ、地形を調べている主君元康に、正信は言った。
「では殿はいずれ、東海一円、そして東国、更に天下の隅々まで、鷹狩りせねばなりませぬなぁ」
半分はおべんちゃらだ、しかし正信は心の中で、目のいるのが元康ではなく信長だと思いながら、思わず口にしたのだ。
だが現実に目の前にいるのは、信長ではなく元康だ。
元康はそんなもの望まないと言った、自分は三河半国で充分だと言った。
分かっていたことだが、正信は急速に白けた。
主君元康は凡庸だ、天下を望むわけでも無い、父祖から受け継いだ三河半国を守れればそれど良いのだ。
つまらぬ男だと正信は思い、そんな男に仕えている自分の不幸を呪った。
自分には確かに何かがある、しかしそれを示す相手がいない。
これでは自分の中にある何かを、確かめる術はないでは無いか。
正信がそうやって、嫌気がさしながら、それでも鷹の世話をして家に戻ると、母と妻、そして弟が額を寄せて、何やら相談している。
「どうした?」
正信が尋ねると、
「兄上、実は・・・・・・」
と弟の三弥左衛門正重が話す。
本多の一族は熱心は門徒の者ばかりだ、しかしその宗門を改めろと、一族の重鎮、重次が言って来たというのである。
「作左どのは門徒を辞めたのか?」
「そのようで・・・・・・」
正信の問いに、正重が頷く。
ふぅん、と正信は顎に手をやる。
正信が世の中で一番嫌いな男、本多作左衛門重次は熱心な門徒だ。
それが宗門を改めるとは、どういう事か、正信には直ぐに察しが付いた。
大方、石川数正の入れ知恵だろうと思い、くだらぬと心の中で呟いた。
「どうしよう、兄者・・・・」
困惑した顔で、弟正重が尋ねてくる。
正信はこの弟も嫌いだ、正しく言えば蔑んでいる。
理由は知恵がないからだ、全く物を考えようとしないからだ。
重次と同じような三河人で、物を考えるよりも体を動かすことを尊ぶ者だからだ。
「好きにすれば良いだろう」
正信は吐き捨てる。
「好きにって・・・・・それは」
重次が眉を寄せる。
「おれは改めぬぞ」
そう妻と母に向かっている。
熱心な門徒である二人は、喜色を浮かべる、
「だけど・・・・・」
重次は戸惑いながら呟く。
七つ年下の正重は、身体が大きく、槍の腕前も中々もものだ。
命じられれば何者も恐れず戦うし、何物にも怯まない。
しかし物を決める力がない、命じられなければ何も出来ない。
それは何も考えないからだ。
考えないから、命じられた事しか出来ないのだ。
つまらぬ弟だ。
主人も、その主人の知恵袋も、一族の重鎮も、そして弟も、周りの人間全てが愚かで、全員つまらぬ奴らだ。
良い機会だ。
正信は数正が何を考えているか分かる、門徒に一揆を起こさせ殲滅する気だ。
そっちがその気なら、こっちもつまらぬ奴らを、皆殺しにするだけだ。
そう正信は決めた。
正信の読み通り、元康は門徒の討伐を開始しする。
まずは三河の本願寺派の本拠地、本證寺に逃げた罪人を無理矢理捕らえて処刑した。
見え見えの手だが、本證寺の住職、空誓はその手に乗り、元康を弾劾し、各寺に檄を飛ばして一揆を起こした。
しかし浄土宗や高田派は同調せず、松平家中の侍達の多くも、宗旨を変えて、一揆には加わらなかった。
そんな中、正信は一揆に加わった。
「ほ、本気か兄者?」
重次は驚いていた、当然だ、正信が浄土の教えに何の興味もない事を、知っているからだ。
熱心な門徒である母や妻は喜んだ、重次も仕方なく一揆に加担する。
正信には勝算がある、だがその為にはまず、一揆勢で実権を握らなければならない。
門徒勢を指揮している人物は二人いる。
本證寺の住職空誓と酒井家の長老、酒井将監忠尚だ。
どんなに鋭い牙を持とうが、強い毒を持とうが、頭が二つある蛇は死ぬ、
まして空誓と忠尚には、牙も無ければ毒も無い。
二人とも三河を門徒の支配する国にしたかったが、一揆を起こして元康を討ち取る気はなかった。
あくまで一揆は脅しであり、他派の寺院や、門徒の侍達の協力を得て、元康を屈服させるきだった。
しかし元康は討伐に移り、他派の寺院や侍たち協力しない。
二人とも進退窮まっていた。
そんな相手を操ることは、造作も無いことだった。
不安を煽り、互いの責任にさせて、疑心暗鬼に陥らせる。
二人には身を隠してそれぞれ、空誓は本願寺派の本拠地大坂石山御坊に、忠尚には駿府に、落ち延びるよう進めた。
直ぐに二人はこの話に飛びつく、周りの者を残して雲隠れする。
そうなれば思惑通り、正信は実権を握ることが出来た。
空誓、酒井忠尚の二人に取り入ろうとしていた時、正信は二人の人物を得た。
一人は門徒の僧宗哲、もう一人は酒井家の家臣、加藤教明である。
二人とも愚かである事を誇る三河人らしく無く、考える事を当たり前だと思っている。
特に宗哲はかなりの切れ者だ。
地侍、板倉家の次男だが、兄が家督を継いだため、僧籍に入っている。
二十一とまだ若いが、物事を善悪で考えず、理か非かで考える事が男だ。
そういう意味では加藤教明の方は、切れ者と言うよりは、三河人らしくなく、まともな人間、或いは、三河人が嫌う尾張者の様な考えをする男である。
損得勘定に長け、計算高い、忠義や信心、面子と言うものよりも、勝つには如何するか、得をするには如何するかを、優先するの事の出来る男だ。
この二人が正信の策、正信という存在を認め、協力をしてきた。
正信は家中で無名の男だ、そして此処で名を上げたい訳では無い、だからあくまで隠れることにした。
宗哲に言い、空誓の指示だと、命令を出し、教明に侍達に協力するよう働きかけさせた。
実権を握れば、後は戦さに勝つだけだ。
それは正信にとって、造作も無いことだ。
元康は鷹狩りをしながら、地形を見ていた。
その時、正信は絶えず後ろにいた。
元康が何を考えていたか、どの様な作戦を立てていたか、後ろからジッと見ていたのだ。
どこでどの様な待ち伏せをするか、奇襲をかけるか、夜襲を行うか、正信には全て読める。
裏をかく事など、簡単な事だ。
次々と待ち伏せを見破り奇襲をし、奇襲を読んで待ち伏せをした。
各地で勝利を収めたが、ここで問題が起こる。
何度か正信は、元康を討ち取る機会を得た。
手勢に上手い具合に待ち伏せさせ、元康を討ち取る好機を作った。
しかし兵が躊躇い、元康を取り逃がしたのだ。
松平の家臣達で、元康を裏切り、一揆に加担した者は何人も居る。
主だった者で夏目吉信や内藤清長、渡辺守綱、蜂屋貞次などだ。
彼らは寺や一族のしがらみで仕方なく一揆に加担したが、元康に刃を向けるのには、抵抗があるのだ。
まして討ち取るとなると出来ないのである。
正信からすれば呆れる話だ。
元康を討ち取ることが出来ないのなら、初めから一揆に加わるなと思うのである。
こういう理にあわない事をするので、正信は三河者が嫌いなのだ。
だが嫌っていても、これでは拉致があかない。
元康を討ち取らなければ、どれほど敵を破っても戦さには勝てない。
如何するか?
考えるまでも無い、三河の者が使えないのなら、三河の者で無い者を使えば良い。
正信は宗哲に、大坂の空誓のもとに行き、雑賀の鉄砲衆を連れてくるよう命じた。
紀伊の国、雑賀の里の地侍は、鉄砲の扱いに長けており、また銭を払えば雇い入れる事も出来ると言う。
彼らは熱心な門徒であるから、空誓が頼めば、かなりの手練れが雇えるはずだ。
「上手くいきますかな」
太い眉を寄せて宗哲が問う。
ふっ、と笑い正信が答える。
「上手くいくさ」
空誓は、本願寺派の中興の祖である蓮如の孫だ。
それが空誓の全てだ。
他人もそして空誓自身も、その事以外、考えもしない。
しかし大坂に行けば話は変わってくる。
大阪の石山御坊には蓮如の嫡流が居る。
三河にいれば、蓮如の孫として絶対な地位と自信を持つ空誓に取って、自らが何者であるかと言う事そのものが、大坂に居れば揺らいでしまう。
そうなれば三河に戻りたくなるはずだし、その為であれば何でもするはずだ。
空誓は承知し、宗哲は雑賀の鉄砲撃ちを連れて来る事になった。
そんな時、加藤教明がやって来た。
「厄介な事になった」
教明が言うには、酒井忠尚の家臣の、榊原康政という若者と、大須賀康高という男が、元康の方に奔ったと言う。
「構わぬ」
正信が答える。
「しかし彼奴ら、岡崎への奇襲の事、知っておるぞ」
「だから構わぬと、言っておるのだ」
静かに正信が言うと、察しが付いたらしく、ニヤリと教明が笑う。
鉄砲撃ちが来れば、全て揃う。
正信は目を細め、はるか遠くにある、岡崎の城に、そしてそこに居るであろう、松平元康を思う。
仕えるに値しない、つまらない男だ。
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