第12話 清洲同盟

元康は歴史が好きだ。

好きな歴史上の人物は本朝では源頼朝、唐土では漢の高祖劉邦、そして唐の太宗李世民である。

時間があれば、剣術の稽古をしているか、歴史の書を読んでいる。

その日も朝起きて、剣術の稽古をし、食事の後、後漢書に目を通していた。

話が漢の武将、班超のところに差し掛かった時、慌てた様子で、平岩親吉が部屋に入って来た。

「と、殿」

「なんじゃ?騒々しい」

「あ、はい」

親吉は息を整える。

「尾張から使者が来ました」

「尾張から?」

元康は眉を寄せる。

尾張の織田とは、直接戦さはしていない。

しかし旧主今川義元の仇を討つと、元康は周辺に宣言しているし、織田に与している刈谷の水野家とは、始終小競り合い繰り返している。

「如何いたしましょう?」

「う、うむ・・・・・とりあえず広間に通せ、小五郎らも呼んでおけ」

少し考え元康が命じると、はっ、と答えて親吉が立ち去ろうとする。

「まて、先に与七郎をここに呼べ」

元康が続けて命じると、ははっ、ただちに、と言って親吉は走り去って行く。

「尾張からの・・・・・使者」

呟いて元康は本を閉じる。


ほどなくして石川与七郎数正があらわれる。

「殿」

数正の表情は硬い。

「どう思う?」

元康が問うと、興奮しているのか、少し早口で数正は答える。

「おそらく織田は、美濃への侵攻に力を入れたいのでしょう」

「うむ」

信長は今川の当主義元を討った。

本来であればその勢いのまま、駿府まで攻め込むはずだ。

確かに岡部元信が一矢は報いたし、元康が岡崎を守っている。

それでも勢いは織田にあり、今川は大混乱している、侵攻は不可能ではない。

それなのに信長が本腰を入れて東に軍を向けないのは、何故かは分からないが、信長の狙いが美濃にあるからだろう。

「その為に、東の備えが欲しいのでしょう」

「では此度の使者は?」

「我らと水野の、和睦の仲介のでないかと」

うむ、と元康は頷く。

そ言うことなら、松平にとっても渡りに船だ。

菅沼定盈ら東三河の国衆たちを匿ったため、今川氏真から謀叛人として追討すると宣言されている。

東と西、両面に敵を持つことは、なんとしても避けたい。

「殿、相手も思惑があってのこと」

元康の心の内を読んでか、数正は話を続ける。

「足下を見られぬよう、ここは強気に出るのが良いかと思います」

「・・・・・強気か」

元康が言うと、数正は頷く。

今川と手切れになった以上、松平とすれば水野との和睦は喉から手が出るほど欲しい。

しかしそれをあまり見せると、相手にどのような無理難題を言われるか分からない。

「確かに・・・・・そうだな」

「先ずは、水野から人質を取りましょう」

具体的な策を、数正は語る。

「人質・・・・・・?」

「はい、殿の母上様で御座います」

「母上を取るのか?」

元康は顔をしかめる。

幼き日に生き別れになった母に対し、どう言う感情を持って良いのか、よく分からない。

妙な言い方だが、どう接して良いのか分からないし、どんな顔をすれば良いのか分からないのである。

「別に母上でなくても、良くないか・・・・・?」

「殿」

小さな声で呟く元康に、鋭い声を数正は発する。

「取り敢えずの要求でござる」

「うむ」

「それでこちらからは、当家石川の日向守どの嫡子、彦五郎どのが良いかと思います」

「日向守の・・・・彼奴が応じるか?」

石川日向守家成の、呑気なお大尽顔を元康は思い浮かべる。

「拙者が、説得いたします」

「うん、だが・・・・」

「安心を」

不安そうな顔をする元康に、数正は自信ありげに告げる。

「日向守どの母上は、殿の母君の妹」

「確かにそうだな」

「水野の籐七郎どのにとっても、妹の孫、粗略には致さぬはずです」

そうだな、と元康は頷く。

水野の籐七郎とは、刈谷水野家の当主信元の事である。

元康の母と家成の母は、その信元の妹なのだ。

「それに彦五郎どのは、父親に似ずしっかり者です」

「分かった、ではそうしよう」

元康は納得する。

信元の取ってみれば、妹と、別の妹の孫を取り換えるという話だが、松平と水野の当主という話では、松平は当主の母を得て、こちらは家臣の息子を差し出す。

体面の上で言えば、こちらの方が上の和睦である。

「話を詰めていけば、変更をありましょうが・・・・・」

数正はジッと強い眼差しで、元康に告げる。

「あくまで強気でいきましょう」

「うん、分かった」

元康も顔を厳しくする。

「強気で」

「はい」

ふん、と一つ大きく元康は息を吐き、立ち上がる。

「行くか」

腹に力を入れ、使者の待つ広間に向かう。




広間に着くと、既に主だった家臣たちが席に着き、元康を待っている。

尾張から使者二人も、広間の中央で顔を伏せて座っている。

強気にと呟き、出来るだけ胸を張り、ズンズンと足音をさせて、元康は上座に座る。

「面を上げられい」

元康の側に控える親吉が告げると、はっ、と答えて使者は顔を上げる。

「名乗られよ」

「織田上総守信長が家臣、池田紀伊守恒興に御座います」

その顔を見て元康は、おや、と思う。

池田恒興は、二十半ば過ぎ、四角い顔にギョロリとした目をした、どこか蝗を思わせる顔をしている。

まさか・・・・・・・。

元康の幼い記憶に何か触れた。

「同じく、滝川彦右衛門一益で御座います」

もう一人の男が、続けて名乗った。

こちらの男は、大きな目が離れており、額が広く顎が細い、どこか蟷螂を思わせる。

蝗と蟷螂が並んで頭を下げる。

「織田殿から、和睦の申し出とか?」

「はい」

恒興が静かに答える。

「それで如何なる話か?」

身を反り、出来るだけ尊大に見せて元康は問う。

「先ずは婚儀を結びたいと、我が主人は申しております」

「婚儀?」

元康は首を捻る。

和睦をするのに婚儀を結ぶというのは、よくあることだ。

しかし松平と争っている水野は、当主が叔父甥の関係である。

それで更に婚姻を結ぶというのだろうか?

「してどの様な?」

「我が織田家の姫を、松平様の御子息に嫁がせたいと、主人上総介は申しております」

「・・・・・・はぁ?」

意味が分からず、元康は声を上げる。

「今、何と言われた?」

「松平さまの御子息に、当家の姫君を嫁がせたいと、主人上総介は申しております」

「・・・・・・・」

元康は目を丸くする、家臣たちも同じで、皆、驚いている。

「織田殿は・・・・・娘御をくれるのか?」

「はい」

「我が倅に?」

「はい」

淡々と恒興は答える。

「勿論、今すぐと言うわけではありませぬ、あくまでその約束を結ぶというだけに御座います」

それは当然だ。

元康の息子、代々松平家の嫡子の幼名はそうなのだが、竹千代は当年、三つ、嫁を貰っても困る。

しかし・・・・・・・。

「いや、あの、その」

元康は言葉に詰まる。

桶狭間の戦さは今川と織田が戦ったもの、その後も、今川方の松平と織田方の水野が小競り合いを続けている。

今川と織田が同格とは言い難いが、それでも松平と水野に比べれば、織田は格上だ。

集められる兵も、松平や水野は数百、織田は数千になるだろう。

和議も、松平と水野の争いを、水野の上にいる織田が仲介する、そういうものだと思っていたのだ。

それが松平と織田の婚姻、それも織田が娘を差し出すという。

娘を差し出すとは、人質を出すという事だ、普通、戦さに負けた方が和睦の時、出すもの。

それは織田は出すと言っている。

それも格下の松平に。

全く意味が分からず戸惑っている元康に、恒興は話を続ける。

「それと水野家から、松平様の御母堂様を帰すよう、手筈を整えます」

「母上を返してくれるのか?」

上ずった声で元康が問うと、はい、と静かに恒興は答える。

「して、こちらは?」

「はぁ?」

元康の問いに、恒興は目を細める。

「いや、織田殿は娘御を倅にくださり、母上も返してくださるのであろう?こちらはどの様にすれば?」

「いえ、別に」

「べ・・・つに・・・とは?」

静かに淡々と恒興は告げる。

「別に何もして頂く必要は御座いませぬ」

「し、しかし・・・・・・」

動揺する元康に、恒興は続ける。

「姫君を送るのは、こちらの要望で御座います、また御母堂様にお帰り頂くのは、和議が成り、戦さが無くなったのだから、当然の事だと我が主人は申しております」

「当然の・・・・・こと」

元康は呟く。

「それから・・・・・・」

まだあるのか・・・・・・・?

唖然としながら元康は、無表情の恒興を見つめる。

「友好の証として、鉄砲を百丁、松平様にお贈りします」

「て、鉄砲を、くれるのか?」

元康はその場にひっくり返りそうになる。

駿府と手切れになり。さてどの様に今川と戦うか?と頭を抱えていた。

数正や鳥居元忠らと話し合い、城に籠って戦うしかないという事になった。

それで鉄砲が欲しいと思い元忠に、父親の忠吉が貯めていた銭を使い、鉄砲を買ってくるように命じた。

しかし上手くいかなかった。

「やはり、かなり値がはるのか?」

そう元康が尋ねると、元忠は首を振った。

「それもありますが、鉄砲は物自体が珍しく、南蛮人か、彼らと取引している豪商に伝がないと、手に入らないのです」

その希少な鉄砲をくれる、それも百丁もである。

既に破格の条件どころか、常軌を逸している。

「それと・・・・・」

恒興はさらに続けるが、元康は驚きすぎて言葉が出ない、口を開け、呆けて頷くだけだ。

「鉄砲は扱いが難しいので、ここに居る滝川彦右衛門が指南いたします」

そんなんだ、鉄砲は手に入れれば、直ぐに使えるものではないのかと、 そんな事も知らない自分と、それを親切に教えてくれる相手に、呆れかえり、何がなんだか分からなくなり、元康は、ははははっ、と乾いた笑い声を上げる。

「こちらの要件は以上で御座います」

言い終え、恒興は頭を下げる。

「・・・・・・・」

元康は家臣を見回す、みな驚いて目が点になっている。

違うのは、いつもと同じ様にムスッとした顔の酒井忠次と、話の意味がよく分からないのか、先ほどから何度も欠伸をしている本多忠勝だけである。

数正に目をやる、驚いて目を見開いていた。

無理もない、おそらく相手はこちらの足下を見てくるだろうと言っていたのに、それがこちらに有利な条件どころか、こちらが分かっていなかった鉄砲の使い方まで教えてくれると言うのだ。

驚くなと言うのが無理だ。

「あの・・・・・」

驚いている家臣の中で、いち早く我に帰ったのか、高力清長が口を開く。

「そこまでした頂いて、こちらの方は何を致せば・・・・・・・」

「とくに何も・・・・・・・」

無表情で恒興は、大仏顔の清長を見る。

「ただ・・・・・」

「ただ?」

恒興は元康の方に向き直る。

「諸処の話を詰めるため、松平さまには是非一度、尾張に来ていただきとう御座います」

「・・・・・・・・」

一瞬の沈黙の後、

「ふざけるな」

左目に眼帯をしている、本多作左衛門重次が、大声を上げる。

「ようやく化けの皮が剥がれたな尾張者め、ようは美味い餌で殿を尾張に誘い出し、騙し討ちにするともりであろう」

「作左、落ち着け」

重次の袖を、忠次が引く。

「そのような事はありませぬ」

「信じられるか」

淡々と言う恒興の言葉を、重次の怒号が一蹴する。

「まぁ、待たれい」

反対側に座る清長も、重次を諌めて、恒興に尋ねる。

「殿を尾張に向かわせるのなら、当然その間、誰方か人質を当家に置いて、頂けるので御座いましょうなぁ?」

はい、と恒興は頷き、隣に座る滝川一益に目をやる。

「これなる滝川彦右衛門が、三河に残ります」

「・・・・・失礼ですが・・・・」

清長は鈍い表情の大仏顔を、終始ニコニコ微笑んでいる蟷螂顔の一益に向ける。

「拙者、滝川どののお名前を耳にいたことが御座らぬ、織田家譜代の方では無いのではありませぬか?」

「はい拙者、当代さまに召し抱えられた者です」

「それではその・・・・・・奥方が上総介どのの妹君がなにかで、御一門の方でございますか?」

「いえいえ拙者の家内は、ここに居る池田どのの従姉妹でございます」

手を振り、笑顔で一益は答える。

「・・・・・・まことに失礼ですが、織田どのにお仕えなさる前、何をしておられたのですか?」

少し眉を寄せ清長が問うと、ははははっと笑い声を上げ、一益が答える。

「拙者、上総介さまに召し抱えられる前は、諸国を歩く浪人でございました」

「・・・・・・・・・」

その一益の答えに、清長も他の家臣たちも固まる。

「ふ、ふ、ふざけるなぁああああああ」

立ち上がり、城が傾くほどの大声を、重次があげる。

「浪人ものだと?そんな者が人質になるか、お前を見殺しにして、殿を騙し討ちにすればすむではないか」

「はははははっ、そうですな」

「何がおかしい?叩き斬ってやる」

笑いながら応じる一益に、重次が怒りを爆発させる。

「作左、やめい」

「作左どの、落ち着かれませ」

忠次が諌め、本多忠真と大久保忠世が重次を押さえつける。

「この小賢しい尾張者が」

忠真と忠世に押さえつけられながら、重次は叫ぶ。

「拙者、甲賀の者でござる」

笑いながら手を振り、一益が答えるが、重次は聞いていない。

「止めぬか」

元康が大声を上げた、忠真と忠世が無理矢理、重次を座らせる。

「家臣の無礼、まことに申し訳ない」

そう元康が謝るが、恒興は大して気にした様子も無く、いえ、と静かに答える。

「少し考えたいので、返事はしばし待っていただけますかな?」

元康がそう告げると、承知しました、と恒興が頭を下げる。

「善九郎」

末席に座る。阿部善九郎正勝を、元康は呼ぶ。

「お二人を客間へ」

無表情の正勝は、はっ、と答え、恒興たちを、こちらへ、と案内する。

「・・・・・・・・」

二人が去った後、元康は家臣たちを見回す。

「皆、いかが思う・・・・・・」

「思うもなにも、ありませぬ」

元康が言い終わらないうちに、重次が立ち上がり吠える。

「あの様な話、聞く必要などござらぬ、二人を斬って捨て、首を尾張に送りつけ、そのまま攻め込むだけにございます」

「たわけた事を申すな」

重次の暴言を、元康は制す。

「殿・・・・・・・」

やっと落ち着いたのか、いつもの冷静な顔つきで、数正が声を上げる。

「使者を斬るなどもってのほかですが、それでも拙者、不本意ながら作左どの言う通り、あの様な話は聞く必要無いかと思われます」

「不本意とはなんだ、こっちの台詞じゃ」

重次が不満を漏らすが、無視して数正は話を続ける。

「しかし水野との和睦は行うべきです、ここは拙者が先に申した・・・・・・」

「和睦など必要ない」

「しかし作左どの」

数正は冷めた目で、重次を見る。

「我らは今川と手切れをしておるのです、これで織田とも争えば、東西から攻め込まれます」

「構わぬ、受けてたてば良い」

重次胸を張る。

「いま、岡崎の城は我らのものなのだ、ここに籠り、今川であろうが織田であろうが迎え撃ち、三河武士の底力を見せてやるのじゃ」

「それで勝てるとお思いか?」

呆れた口調で、数正が問う。

「勝てる負けるの話ではない」

「負ければ御家は滅びるのです」

「何を与七郎、小賢しい」

重次が激昂する。

よく見ると、重次の隣に座っている忠真や忠世は、強い視線で数正を見ている、おそらく重次と同じ気持ちなのだろう。

それに対し、数正の隣に座る天野康景は、数正と同じように冷めた視線だ、多分数正と同じ考えなのだろう。

その後も、重次と数正の言い合いが続く、それは武将派と奉行組、三河に居た者と元康と共に駿府に行った者の違いの様に、元康には思えた。

元康は横を見る、何時ものようにムスッとした顔で、忠次が座っている。

何か言うてみいと心の中で筆頭家老に怒るが、何も言わず目も合わせようとしない。

反対側を向くと、石川家成が目を細めて、数正と重次の言い合いを眺めている。

おそらく家成にすればどうでも良いことなのだろう、もし戦さになり負けそうになれば、母を頼って刈谷の水野家に逃げるつもりなのだと、元康は思う。

そんな顔をしておるが、数正はお前の息子を、人質に出す気だったのだぞ、と目で家成に告げるが、勿論、気付かず、微笑みながら成り行きを見守っている。

「もうよい、止めい」

元康は大声をあげ、数正と重次の言い争いを止める。

「わしは・・・・・勝負に出ようと思う」

はぁ?と数正が声を上げる。

他の者も意味がわからない顔で、元康を見つめている。

「尾張に行こうと思う」

「何を仰います、殿」

「罠に決まっております」

それまで言い争いをしていた数正と重次が、声を揃えて反対する。

「確かにそうかもしれぬ」

元康は頷き、しかし、なぁ、与七郎、と数正の方を見る。

「お前の言う通り、織田は今、美濃と戦さをしておる、ならば東の我らとは和睦をしたいはずじゃ」

「殿、おそらく織田は、駿府の混乱を知り、美濃攻めを止め、東に兵を向ける気なのだと思います」

「そうかもしれぬが、それなら別つにただ攻めれば良かろう」

元康は数正の顔を見る、眉を寄せて困惑している。

「我らは今、駿府からの援軍は無い、城に籠もったところで、何処からも後詰めはないのじゃ」

「それは・・・・・」

「それこそお前の申しておった通り、こちらの足下を見て、取り引きすれば良いではないか」

うっ、と数正は言葉に詰まっている。

「殿、それは尾張の者がずる賢く、卑怯な手が得意だからです」

重次が大声を上げる。

「奴らは腰抜けで、何時も正面からは攻めて来ませぬ、卑劣な策を使ってくるのです」

「そうかもしれぬが・・・・・・・」

「先々代の善徳院さまの、奴らの策略に遭い、命を落とされました」

作左、お前・・・・・それをよく、わしに言うなぁ、と元康は心の中で呆れる。

善徳院とは元康の祖父、清康の戒名だ。

家中では、元康の父と祖父が謀叛で亡くなったことは、禁句である。

元康も聴きたくないし、家臣たちも自分たちの同僚が起こしたことなので、あまり触れたがらない。

しかし重次には関係ないらしく、真正面から元康に言ってくる。

全く・・・・と内心呆れながら、元康は口を開く。

「それをしたのは、織田の先代であろう」

「尾張者には、違いありませぬ」

重次の尾張嫌いに、元康は呆れ返る。

「作左、それこそ尾張の者がずる賢いなら、あんな浪人者など人質にするまい」

「それは・・・・・・・」

「嘘でも重臣の子だとか、一門の娘だとか、そういう者を連れてくるだろう」

「確かに、そうですが・・・・」

流石の重次も言葉に詰まる。

それに・・・・・と心の中で元康は呟く。

家臣たちには言えないが、やはり元康は、あの池田恒興という男の、ギョロリとした目が気になる。

記憶の奥底にある少年と、どうしても重なってしまうのだ。

それにもう一人の滝川一益も、引っかかる。

こちらの顔は記憶にない、記憶にあるもう一つの顔は、色白でヒョロリとした少年だ。

その少年と、三十路過ぎの一益では年も合わない気がする。

だが一益は微笑んでいた、それが気になるのだ。

その微笑みは明らかに、何かを懐かしんでいる微笑みだった。

元康を見て、懐かしんでいる微笑みだった。

こちらは憶えていないが、向こうは元康を憶えている、その微笑みを、元康はそう感じ取ったのだ。

だからここか・・・・・・・。

「わしはやはり、勝負に出たい」

ジッと家臣一同を見回し、元康は宣言する。

「虎穴に入らずんば虎子を得ずじゃ、わしは尾張に向かう」

元康のその強い言葉に、家臣たちは黙る。

皆、賛同はしていないが、主人の強い意志には従うようだ。

「ならば」

重次が一番に声をあげる。

「拙者が尾張まで、お供に致します」

「だめじゃ」

「何故でございます?」

間髪入れずに却下する元康に、重次が食い下がる。

「お前など連れて行けば、まとまる話もまとまらぬ、いや、まとまらぬどころか、壊れるだけじゃ」

「何を言われますか」

抗議の声をあげる重次を無視して、数正らの方に顔を向ける。

「与七郎、与左衛門、それに三郎兵衛、そなたらが供をせい」

「承知しました」

数正、清長、康景の三人が頭を下げる。

評定を見る限り、この三人は和睦には反対でない。

それにやはり交渉ごとには、数正の弁が必要だと思う。

「殿」

それまで静かだった、本多平八郎忠勝が声を上げる。

「平八郎、お前は連れて行かぬからな」

顔を顰め低い声で元康は告げる。

忠勝など重次と同じ、あるいはそれ以上に騒動をおこすだけだ。

「いえ、そうではありませぬ」

ニコニコと微笑みながら、力強く忠勝は言う。

「殿にご安心くだされ、と申し上げたいのです」

「安心?」

元康は眉を寄せる。

「はっ、殿が尾張で騙し討ちに遭っても、それがしが直ぐに槍持ち、尾張に攻め込み、仇を討ちますので、どうぞ安心して向かわれませ」

十五の平八郎少年は、自分の思いつきが、よほど良いことだと思ったのか、さも得意げな顔で告げる。

「・・・・・・・・・」

周りの者は皆、呆れ返って言葉も出ない。

「こ、こ、この、」

そんな中、当然のように重次が、顔を真っ赤にして湯気を上げながら、一つ目で忠勝を睨みつける。

「この大馬鹿者が、なに縁起でもないこと吐かしておるか」

「うるさい作爺」

当然、忠勝は言い返す。

「作爺も、騙し討ちに遭うと言っておったではないか」

「わしは遭わぬよう、お供をしてお守りいたしますと言っておるのじゃ、お前のように遭えばよいなどと言っておらぬわ」

「誰も遭えばよいなどと言っておらぬわ、耳が遠なったか作爺」

なんじゃと、と重次が摑みかかる、やるか、と忠勝が迎え撃とうとする。

「止めぬか」

元康が怒鳴るが、二人はかまわず取っ組み合いを始める。

おい、作左を止めろ、と元康は忠次の方を見るが、忠次はムスッとした顔を、ヒョイっと背ける。

この筆頭家老は重次を止められる数少ない人物だ。

しかし元康が見るところ、戦さ場や他国の使者が来ている時などは諌めるが、平時で身内の家臣たちの前では、諫めようとしない。

お前なぁ・・・・・と元康が忠次を睨んでいると、クスクスと笑う声が聞こえる。

振り向くと、石川の当主家成が、本多の喧嘩を楽しそうに眺めている。

なに笑っておる、と元康が怒って睨むと、おっと、と家成が顔を背ける。

お前、笑っておるが、与七郎はお前の息子を質に出す気だったのだぞ、と元康は言いかたが、睨みつけるだけにした。

「いい加減にせい」

元康はもう一度大声を上げる。

忠世に押さえつけられた重次と、忠真と植村栄政に押さえつけられた忠勝が引き離され、ようやく喧嘩が終わる。

「平八郎、わしが騙し討ちに遭ったら、仇討ちを頼むな」

呆れながら元康が言うと、はい、と笑顔で忠勝が応じる。

「な、なにを申されます、殿」

「作左、もうなにも言うな」

何か言おうとする重次を、元康が制す。

「・・・・・・・・さて」

少し間を置き、元康が家臣一同に告げる。

「わしは尾張に向かう、みな、留守を頼むぞ」

ははっ、と忠次と家成が頭を下げ、他の者もそれに続く。



「殿」

評定を終え、広間を出る元康に、平岩親吉が駆け寄ってくる。

「尾張には是非、拙者もお連れ下さい」

「七之助・・・・・」

「殿の向かわれるところは、何処であろうと拙者の行く場所に御座います」

その場に膝をつき、親吉は頭を下げる。

「・・・・・・・」

元康は周りにいた数正や康景に、先に行くよう合図する。

「駄目だ、七之助」

「殿」

驚いた表情で、親吉は顔を上げる。

「お前には岡崎に残ってもらう」

「お願い致します、是非ともお供を」

再び親吉は頭を下げる。

「七之助・・・・・」

元康も膝をつき、親吉の肩に手をやる。

「お前には、倅の守り役を頼みたい」

「若さまの・・・・・・・」

再び驚いて顔を上げる親吉に、ゆっくり元康は頷く。

「わしはお前を・・・・・家臣の中で、お前を最も信用している」

「殿・・・・・・」

「幼き日より何時も、わしの側におり、わしに従い、何度もわしを助けてくれた」

「そのような事、当たり前にございます」

何時ものように真面目な顔で告げる親吉に、元康はフッと微笑む。

「そんなおまえだからこそ、最も大切な倅の守り役を頼みたいのじゃ」

「しかし・・・・・・」

「頼む」

元康が頭を下げると、うっ、と親吉は呟く。

「わしは今の駿府の混乱を見て、倅の守り役がどれほど大切か、その事を考えさせられた」

「ならば拙者には荷が重すぎます」

「そんなことはない」

ゆっくり元康は首を振る。

「お前は誰よりも真面目で、信用できる」

「殿・・・・・」

「頼む」

親吉の両肩を、元康はグッと掴む。

「・・・・承知しました」

「うむ」

元康は頷いて立ち上がり、親吉も立ち上がらせる。

「くれぐれも倅を、今川の彦五郎さまの様にはするなよ」

「はい」

「わしに噛み付くぐらいの、腕白で気概のある倅にしてくれ」

「承知しました」

力強い眼差しで、親吉は答える。

「若さまを、殿に逆らうぐらいの、気骨のある立派な三河武士に育ててみせます」

「ああ、そうせい、そうしてくれ」

元康も力強く応える。



「三郎兵衛」

廊下を歩きながら石川数正が呼ぶ、はい、と天野康景が返事をする。

「植村新六郎と服部の半蔵を呼んでおけ」

「承知」

「殿はああ仰っておられたが、やはり織田は信用できぬ」

足を止め数正は、康景の方に向く。

「いざとなれば新六郎を捨て駒にして、半蔵に殿を落ち延びさせる」

「はい」

「お前も覚悟は決めておけ」

「・・・・・承知」

うむ、と頷き数正は、また歩き始める。





この様な処であったか・・・・・・・。

清洲の街を、馬で進みながら元康は思う。

街道の要所である清洲は、人が行き交い、様々な物が運ばれて、家々が立ち並び、物売りの声が飛び交う。

駿府は華やかで綺麗な街だが、清洲は活気に溢れている。

十五年前、元康がまだ竹千代であった頃、六歳から八歳まで確かにこの街にいた。

この道をいつも走っていた・・・・・・。

通りの家々や、木々、遠くに見える山の稜線、川の流れ、なんとなく記憶にある。

池田恒興たち尾張使者が先頭を進み、領民たちに道を開けさせる。

領民たちは左右に分かれ、元康一行を眺めている。

馬上から元康は清洲の人々を眺める。

信心深い門徒の農民が多い岡崎と違い、好奇心旺盛な職人か、抜け目のなさそうな商人が大半の様だ。

「おい、あれだあれだ」

遠くで男の声がする、何気無く、元康はそちらを向く。

小さな娘を肩に乗せたその男は、元康と目が合うと、ニッと笑う。

前歯の抜けたその男を見たとき、元康は、あっ、と声をあげた。。

男の隣に別の男がやって来る、額の広い男だ。

ああそうだ、と言って男は頷く、もう一人、また一人、男たちが集まり、元康を見て、頷く。

どの顔にも見憶えがあった。

「殿、どうかなされましたか?」

声をあげたので、側に控えている康景が尋ねてくる。

「いや、大丈夫だ」

そう答えて元康は、もう一度、男たちの方を見る。

皆、ニコニコとこちらを見ている。

相手はこの町の庶民で、こちらは隣国の領主。

言葉をかける事も、会釈する事も出来ない。

ただ元康は少しだけ微笑みかける。

名も知らない男たちに。

「・・・・・・・・・・・」

ここに居た。

男たちの前を通り過ぎた時、元康は改めてそう思った。

幼き日、間違いなく自分はここに居た。

馬を進めながら、元康は前を向く。

ここに居たのだ、あの人と一緒に・・・・・・。

ゆっくりと織田三郎信長の待つ、清洲城に向かう。



こんな場所であったか・・・・・・。

元康は清洲城を目にして、心の中で呟く。

さすがに遠駿三、三ヶ国の国主である今川の居城に比べれば小さいが、それでも岡崎に比べれば大きく立派な城だ。

「こちらへ」

恒興に導かれ、立派な正門から入り、元康たちは下馬する。

城の雑人たちが集まり、馬を受け取り厩に連れて行く。

元康が数正の方を見る、数正は頷き、雑人たちの方を見る、元康も視線を追うと、服部半蔵保長が、雑人たちについて行っている。

その時、どたどたと足音をさせ、長身の男がこちらに走って来る。

「あ、あ、あ、ああ」

顔の長いその男は、元康の顔を見て興奮している。

「本当に竹千代どのじゃ」

ははははっ、と大きな声で笑い、男は元康の肩を叩く。

「あ、ああ」

「憶えておらぬか?ほれ、犬千代じゃ」

「犬千代どので・・・・ございますか」

「そうじゃ、そうじゃ、犬千代じゃ」

そう言いながら何度も肩を叩く。

「懐かしいのぉ」

「お懐かしゅうございます」

「それにしても・・・・・」

元康の顔をマジマジと眺めながら、犬千代は言う。

「変っておらぬのぉ、そのお顔」

はははははっ、と犬千代は笑う。

あ、いや、と元康が言葉に困っていると、おい、と言って恒興が犬千代に近づく。

「無礼であろう、又左」

「又左?」

恒興の言葉を元康が繰り返す。

「おおっ、元服して今のわしは、前田又左衛門利家じゃ」

ニコニコと犬千代こと、又左衛門利家は名乗る。

「口の利き方を改めぬか」

恒興が利家を咎める。

「もう竹千代どのではない、三河松平次郎三郎さまだ」

「ふん、竹千代どのは竹千代どのでは無いか、まったく、このクソ真面目が」

利家が恒興に言い返す。

「竹千代どのが来ると言うから、殿はわざわざ顔見知りのお前を遣わし、わしをこうして呼んだのではないか」

「やはり・・・・・」

その利家の言葉を聞き、元康は恒興の方を見る。

「勝三郎どのでございましたか・・・・」

元康が言うと、恒興はゆっくり頭を下げる。

「なんじゃこいつ、やはり言うておらぬかったのか」

まったく、と呟き、利家は元康の方を向く。

「こやつは相変わらず、融通がきかぬクソ真面目なのですよ」

黙れ、と言って恒興は、利家の腕を掴み、ねじ上げる。

「痛い、やめぬか」

利家が暴れるが、そのまま背後に回り、頭も掴み、無理矢理下げさせる。

「こやつが無礼を働き、まことに申し訳ございませぬ」

「あ、いや・・・・・」

元康が言葉に詰まっていると、今度は数正たちの方に向かう。

「平に、ご容赦を」

「あ、はぁ・・・・・」

突然のことに、数正たちは唖然としている。

「いい加減に放せ」

利家が暴れて、恒興の手を振りほどく。

「我が殿がお待ちです、こちらへ」

そう言って恒興は、淡々と元康を城内に案内する。

ふん、と鼻を鳴らし、利家が先に行く。

元康はしばし呆気に取られたが、昔となにも変わらぬ二人が可笑しくて、おもわず笑いながら、城内に入って行く。




「滝川の彦右衛門どのを憶えておられたか?」

廊下を歩きながら、利家が尋ねてくるので、いえ、と元康は首を振る。

心の中では、やはり顔見知りだったのかと思う。

「昔、殿が沼に人喰いの大蛇が居ると言って、皆で探しに行ったことがあったで御座ろう」

ああ、はい、と元康は頷く。

その話自体は憶えていない、しかし吉法師という少年が、とにかく珍しいもの好きで、いつも妙な話を見つけては、自分たちを連れ回していたのは憶えている。

「そこで佐々の兄貴に、捕らえられそうになって、その時助けてくれたのが、彦右衛門どのじゃ」

「ああ・・・・・なんとなく」

一応、元康はそう言ったが、正直、全く憶えていない、ただ使者として来た一益の、妙な微笑みには納得がいった。

「まぁ・・・・・・佐々の兄貴も、桶狭間の戦さで、亡くなってしもうたがのう・・・」

その佐々という人物と親しかったのか、利家は寂しそうに言う。

元康とすれば、そうですか、としか言いようがない。

「・・・・・・・・ところで」

会話が少し止まったので、辺りを見回し、さっきから気になっている事を、元康は口にする。

「あまり人が居ないようですが・・・・・・」

清洲の大きな城は、あまり人がおらず、閑散としている。

「ああ、それは・・・・」

表情を明るく戻して、利家が答える。

「殿が美濃攻めに本腰を入れるので、皆、犬山に移ったのよ」

利家の言葉に、ああ、なるほど、と答えると、先に歩く恒興が振り返り、ギョロ目で利家を睨む。

「おい、なんでもかんでもぺらぺら喋るな、バカ左」

「誰がバカ左」

数正らをチラリと見た後、利家に視線を戻し、淡々と恒興が言う。

「他家の方々の前で、ぺらぺら何でも喋る馬鹿者だから、バカの又左衛門でバカ左と言ったのじゃ」

「うるさい、何度もバカバカ言うな」

恒興に言い返した後、利家は元康に近づく。

「我らと竹千代どのは手を組むのじゃ、別に良いでは無いか」

なぁ、と利家は元康の顔を見て頷く、はははhっ、と元康は愛想笑いをする。

チラリと家臣たちを見ると、高力清長は何時もの表情が分らない大仏顔だが、数正と康景はどう言う顔して良いのか分らず、困惑しているようだ。

「ここからは・・・・・・」

本丸を進み、奥御殿の手前で、恒興は振り返って告げる。

「松平さまおひとりで、お願いいたします」

「はぁ?」

「御家中の方々は、こちらでお待ちください」

「何を言っておられる」

恒興の言葉に、数正は大声を上げる。

「我が主人の命で」

「馬鹿な事を、殿おひとりで行かせるわけがあるまい」

数正が恒興に詰め寄る、言い分、ごもっとも、とでも言うように、恒興は頭を下げる。

「よい」

元康が声を上げて、数正を止める。

「殿、しかし」

「よい、大丈夫じゃ」

そう言って元康は数正に近づき、耳元で呟く。

「多分、大丈夫じゃ」

「ですが・・・・・」

「あと、半蔵も退がらせろ」

姿は見えないが、おそらく近くに服部保長がいるはずだ。

元康とすれば、信長と会っている姿を、できれば家臣たちに見せたくなかった。

「新六郎、おまえもよい」

無言で元康について来ようとする、植村栄政にも退がるように命じる。

無表情でしばし元康を見つめた栄政は、黙ってそのまま動かなくなる。

「では、こちらへ」

恒興に案内され、元康は先に進む。

「・・・・・・・」

少し廊下を進んだところで、ふと、元康は足を止める。

「如何した?竹千代どの」

利家が振り返り、元康に尋ねる。

・・・・・・ここだ、間違いない。

元康は利家に答えす、ジッと辺りを眺める。

目を閉じる、そうすると吉法師の声が聞こえてくる。

「必ずわしがお前を助けてやる」

この場所だ、この場所で確かに・・・・・。

「竹千代どの」

利家が呼びかけてくる、目を開き、ああ、申し訳ない、と元康は答える。

先に進み、広間に入る。

それでは、と言って恒興と利家が退がる。

広間を見回す。

ここも憶えている。

上座に男が座っていた、信長の父親だ。

あの御仁は本当に、父の仇だったのだろうか?

そんな事を考えていると、ダッダッダと足音が聞こえてくる、元康はその場に伏せた。

誰かが広間に入って来た。

「面を上げられよ」

甲高い声が響く、はっ、と答えてゆっくりと元康は顔を上げる。

「・・・・・・・っ」

驚いて息が止まりそうになる。

顔を上げるとすぐ目の前に、白い顔が現れたからだ。

上座に座っているとばかり思っていた相手が、目の前でしゃがんで、ジッとこちら見つめている。

「あ、ああっ」

言葉に詰まっていると、相手は顔を上げ、ヒャッヒャッヒャッと甲高い声で笑う。

「まことに竹千代じゃ」

笑いながら白い顔の男はそう言う。

「しかしお前・・・・・・・」

ようやく笑いが止まり、男は元康の顔をジッと見る。

「又左の言う通りじゃのう」

そう言うと男は、元康の頬をムニュッと摘む。

「顔、全く変わらぬな」

ヒャッヒャッヒャッと再び男は笑い始める。

元康はムッとする。

名乗っていないがこの男が、間違いなく吉法師、信長であろう。

元康は二十一になる。

尾張に居たころ七つくらいだった、そのとき吉法師は十四、五のはずだから、いま信長は三十路手前という事になるはずだ。

しかし白く鼻筋の通った、その美しい顔は、十四、五の時と何も変わらない。

さすがにあの頃のように、茶筅髷で袖無しの帷子に袴も履かずなどと言うことは無いが、その行動も笑い声も、みなあの頃のままだ。

いつまでも笑い続ける信長に、兄上も変わっておりませぬ、と言おうと、

「あ・・・・・」

と口を開きかける。

その時、バッと信長は元康を抱きしめる。

「必ず助けてやると、言うたであろう」

耳元で信長がそう告げる、元康の顔が真っ赤になり腰が抜ける。

ふっ、と鼻で笑い、信長は元康から離れ、上座に座る。

「お前、仇討ちのために、わしを攻めるそうじゃな」

「そ、それは・・・・・」

いきなりの言葉に、元康は窮する。

「今川の嫁を貰っておるのじゃ、仕方ないのぉ」

ニヤニヤ笑いながら、信長は言う。

「しかし肝心の今川の彦五郎が、動かぬのであろう」

さも楽しそうに、信長は続ける。

「それにお前、今川の謀叛人を庇って、手切れになったそうじゃな」

「あ、いや・・・・・・」

なんでも自分のことを知っている信長に、元康は慌てる。

隣国の領主のことなのだから、知ってて当たり前かとも思うのだが、しかし自分だから気に掛けていてくれたのかもしれないとも、考えてしまう。

「変わらぬな、お前は」

はははっと笑い、信長は元康を見る。

「・・・・・・・」

黙って元康も信長を見る。

「わしも仇討ちに大忙しよ」

ニヤリと笑い、その白く綺麗な首を撫でながら信長がは言う。

「美濃の蝮の娘を、嫁に貰ったからな」

信長の正室は、美濃の斎藤山城守利政の娘だ。

利政は隠居し、剃髪して道三と号していたのだが、その悪辣な手腕により蝮の道三と呼ばれていた。

しかし息子の謀叛に遭い、討ち取られている。

「あ、はぁ・・・・・」

「竹千代、わしと組め」

「え?」

いきなりの言葉に元康は戸惑う。

「わしは美濃を攻める、お前は駿府から三河を守れ」

「そ、その・・・・・・」

「守りきれぬようならすぐわしに言え、いつでも助けてやる」

ニッと笑い、なんでも無いことのように信長は言う。

「あ、は、はい」

「話は終わりじゃ」

そう言うと信長は、バッと立ち上がる。

「野駆けに行くぞ」

えっ?と元康は声を上げる。

クイっと信長は元康に顔を向ける。

「なんじゃ、馬に乗れぬのか?」

「い、いえ」

元康は慌てて首を振る。

「なら、さっさとこい」

そう言うと、ダッダッダッと足音をさせ、信長は部屋を出ようとする。

障子をパッと勢い良く開けると、そこに恒興と利家が座っている。

「行くぞ、竹千代」

「はい、兄上」

思わず元康は返事をしてしまう。

あの頃のように。





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