第10話 手切れ
「少し痩せたか?」
エラの張った菅沼新八郎定盈の顔を見て、元康が言うと定盈は、はははははっ、と何時もの様に笑顔を見せる。
「そうですかな、そうですなぁ」
「ああっ」
「・・・・・・・・」
しばし二人は黙る。
「無事で・・・・・・良かった」
元康の言葉に、ゆっくりと定盈は頭を下げる。
「まことに、かたじけない」
「何を言う」
元康は首を振る。
「我らは友垣では無いか」
「・・・・・・次郎三郎どの」
顔を上げた定盈は、ジッと元康を見る。
「我らは、もう友垣では御座らぬ」
「何を言うか、新八郎どの」
「わしは既に死んだ身、それをお手前は拾ってくれた」
「それは・・・・・いや、それこそ・・」
友垣だからだ、と元康が言おうとするのを、定盈は遮る。
「次郎三郎どの・・・・・・いえ、殿」
バッと定盈は頭を下げる。
「この拾って頂いたこの命、もう殿の物に御座います」
「な、なにを・・・・・」
「出来るなら、家臣の端に加えて頂きたい」
そして、と定盈がバッと顔を上げる。
「もし聞き届けて頂けるのなら、駿府に一矢、報わせて頂きたい」
「それは・・・・」
元康は言葉に詰まる。
ジッと定盈は元康見つめる。
思わず元康は目を逸らす。
ここは岡崎城の元康の部屋、左右には酒井忠次と石川数正が座っている。
忠次は何時ものムスッとした顔で、数正は眉を寄せた戸惑った顔だ。
チラリと定盈の後ろを見る、大きな顔の男が少し頭を下げている。
定盈の従兄弟の、西郷新九郎清員である。
「・・・・・・・今は取り敢えず」
元康は定盈に近寄り、その肩に手を置く。
「少し休まれい」
「・・・・・・承知しました」
定盈は頭を下げて、清員と一緒に部屋を出て行く。
「殿・・・・・・」
数正が声を上げる。
「言うな」
「しかし・・・・・」
「分かっておる」
元康は語気を強める。
「分かっておるから、今は何も言うな」
そう言うと元康は腕を組み、目を閉じる。
桶狭間の戦いの後、元康は岡崎の城に入り、その守備を固めた。
譜代の長老たちには、今川と手を切れと言われたが、元康はその事には何も答えず、領内を固め、織田方の刈谷城の水野家と小競り合いを続けている。
そして今川氏真に弔い合戦を行うよう説得するため、石川数正を駿府に送った。
しかし帰って来た数正の第一声は、
「思ったよりも、かなり酷う御座います」
だった。
駿府に着いた数正がまず目にしたのは、町の混乱ぶりだった。
国主である義元を討ち取り、織田勢がその勢いのまま、駿府に攻め込んでくると言う噂が流れ、皆、親類縁者を頼り、小田原を始めとする他国に逃げようしているのだ。
無理も無い。
駿府の町はここ百年程、今川の御家騒動で戦になった事はあるが、他国に攻められたことなどないからである。
町の者は、他国の者に攻められると言うことが、どう言うことか分からないし、どうして良いかも分からないのだ。
だからただ、大騒ぎして逃げるしか無いのだ。
そんな町を抜け今川館に向かうと、その混乱は町の比では無かった。
当主の義元だけでなく、松井宗信や久野元宗、一宮宗是ら主だった重臣ら討ち取られた為、騒ぎを収められる者がいなかったのである。
「尾張勢が攻めて来る」
「既に遠江は落ちた」
そんな話をあちこちでしながら、家臣たちが走り回っていた。
数正は元康の伝言を、新たな当主である氏真に伝えようとしたが、その様な有様で、誰に言えば取り次いで貰えるのか、全く分から無い。
取り敢えず元康の舅である関口親永に会って、取り次ぎを頼んでみるとこにした。
「さ、さようか」
色白で品の良い顔をした親永は、蚊の鳴くような声で返事をした。
これは駄目だな。
何日も寝ていないのであろう、疲労の色が濃い親永の顔を眺めながら、数正は諦める。
親永は義元の妹を娶り、また関口家自体も今川の分家で、今川一門衆として重きをなしている。
しかし温厚な人物で、政には一切関与していない親永は、今川衆として一門では重きをなしているが、家中ではそれほど重きをなしてはいない。
ましてこの様な非常時、全くの無力だ。
親永に見切りをつけた数正は、元康の友人である岡部次郎右衛門正綱を頼る事にした。
「そうか、分かった」
会って元康の言葉を伝えると、正綱は力強く頷く。
「朝比奈どのに頼んでみる、必ずや上総介さまにお伝えする」
上総佐とは氏真の官位である。
「ははっ、かたじけのう御座います」
頭を下げて数正は、松平の屋敷に戻る。
「与七郎どの」
戻ると、数正と共に駿府に来た鳥居元忠が、待ち構えていた。
「関口さまが、お呼びですか御座います」
「そうか」
数正は関口家に向かう。
「御屋形さまが、直ぐに次郎三郎どのに駿府に戻るようにと、お達しじゃ」
現れた親永は、前置きもなくそう告げる。
「いえ、しかし・・・・・・」
数正は顔を歪める。
「いま我が殿が岡崎を離れますと、織田勢が三河を抜け、駿府まで攻め込んで来ますぞ」
話を大袈裟にして、数正は言う。
実際は、織田方の刈谷城の水野家と、小競り合いをしているだけだ。
無論、元康が岡崎を離れれば、水野が岡崎を取り、その後、三河遠江の国衆たちが織田に靡く事は充分に考えられる。
しかし織田の本隊が駿府まで攻め込んでくると言う事は、今の所有り得ない。
だがここは少し親永に、脅しをかけておこうと数正は考えた。
「まことによろしいのですね?」
「・・・・・・わしは、ただ彦五郎さまの言葉を、伝えただけじゃ」
数正が睨むと、親永は怯えて、顔を背ける。
さすがに主君の舅だし、あまり怯えさせて不興を買うのもどうかと思い、分かりました、と 数正は返事をする。
「それで関口さま・・・・・・・殿の申し出、上総介さまにお伝えして頂けたのでしょうか?」
「うむ・・・・・・・」
親永は顔を背けたまま、小さな声で呟く。
この御仁、言っていないな。
数正は察する。
まぁ、仕方ないな、と諦める。
「分かりました」
ジッと親永を見つめ、数正は告げる。
「上総介さまのお言葉、確かに殿にお伝えします」
そう言って数正は、関口邸を後にする。
翌日、一度岡崎に戻るため、数正が支度をしていると、慌てた様子で岡部正綱がやって来た。
「次郎三郎どのは、駿府に戻ると?」
「はい、上総介さまの命だそうです」
正綱は顔を近づ数正に、低い声で告げる。
「よいか、次郎三郎どのに伝えられい」
強い眼差しで正綱は数正を見る。
「決して駿府に戻ってはならぬと」
数正はゴクリと唾を飲む。
元々、数正は元康を駿府に連れて来るつもりはない、当分の間は岡崎で様子を見るつもりだった。
しかし正綱の表情を見る限り、数正が思った以上に、今川の混乱は酷いもののようだ
「分かりました」
数正は頷く、正綱も黙って頷く。
数正は岡崎に戻り、駿府の混乱を元康に報告する。
半月ほどして、鳥居元忠も戻ってくる。
「かなり酷い事になりました・・・・・・」
硬い表情で、元忠はそう告げる。
義元の死後、今川の家督は当然、嫡子彦五郎氏真が継ぐ。
氏真が幸運だったのは、家督を争うを兄弟がいなかった事だ。
そして氏真にとって不幸だったのは、その父、義元が英傑であった事だ。
義元の力で治められていた今川家、そしてその領地である駿河、遠江、三河は当然、混乱してしまう。
この混乱をどう収めるか?。
ここである人物が動く、義元の母であり、氏真の祖母である、寿桂尼である。
寿桂尼には実績があった。
彼女はその夫である氏親、そして長子である氏輝が相次いで亡くなった時、僧であった次子、栴岳承芳を還俗させ、側室の子と争い、勝って家督を継がせたのだ。
そしてその栴岳承芳こと、若き義元の後見役となり、今川を繁栄へと導いたのだ。
それで今回も同じ事を、寿桂尼は思ったのだ。
自ら後見役となり、今川の混乱を収めようと。
寿桂尼にとって、氏真は孫だし、その妻も外孫だ
彼女とすれば、絶対に守らなければならない家族なのである。
寿桂尼はここで、かつての成功を繰り返そうとする。。
かつて義元の時、その守役であった、太原雪斎を重用し政治を任せたのだ。
同じように氏真の守役、三浦備前守正俊に政治を任せたのだ。
これは悪手としか言いようが無い。
正俊と雪斎では人物としての、才覚も格も違いすぎる。
義元が正俊を氏真の守役に命じたのは、家督争いの時に、自分に付いたからである、謂わば恩賞人事だ。
別にその才覚を買ったわけではない。
その正俊が氏真と寿桂尼の信を得て、実権を握る。
「動揺を鎮めるため、強く出るべきです」
そう氏真に進言し、氏真も同意する。
取り合えず織田は攻めて来ない様子、その事が二人を強気にさせた。
三河遠江の国衆地侍の動きが気になるため、彼らに人質を出すよう命じたのだ。
これには当然、国衆たちが反発した。
彼らは皆、義元の時代、自ら望んで人質を出し従属を誓ったのだ。
それなのに氏真の方から、人質を出せと言って来ている、その上、既に出している者に対し、もっと出せと言ったのだ。
反発は国衆だけで無い、譜代の家臣たちからも出た。
「先ずは尾張を攻め、先代御屋形さまの仇討ちをすべきです」
「曽我兄弟の頃より、仇討ちは武士の務めで御座います」
そう朝比奈泰朝、小原鎮実ら、家中の若手の武将らが訴えたが、氏真と正俊は受け容れない。
むしろ彼らに、反発する国衆、遠江の井伊直親、東三河の菅沼定盈の討伐を命じる。
仕方なしに、泰朝は直親を討ち取り、鎮実は定盈の篭る野田城を攻める。
居城を攻められた定盈は、叔父の西郷正勝を頼って落ち延びた。
その居城五本松城が攻められ、正勝とその嫡子元正は討ち死に、定盈と正勝の次子の清員は、三河、松平元康を頼って落ち延びたのだ。
「・・・・・・・」
元康はジッと目を閉じ黙っている。
謀叛人である定盈を匿えば、元康も同罪とされる。
ただでさえ氏真が駿府に戻って来いと言っているのを、織田を食い止めるためと言って拒んでいるのだ、もう許されないだろう。
そうなれば今川は兵を送ってくるはずだ、朝比奈泰朝か小原鎮実か、或いは両者か。
いやそれより前に、元康は妻子を駿府に置いて来ている。
妻の瀬名は大丈夫だろう。
氏真はこの従姉妹を、本当の妹の様に可愛がっていた。
元康に嫁ぐと決まった時も、
「次郎三郎などにやらずとも良いのに」
と文句を言っていた程だ。
おそらく元康が謀叛となれば、舅の関口親永から、離縁してくれと言ってくるだろうし、元康もそれは受け容れるつもりだ。
元康の母もそうだった。
母の於大は刈谷水野家の娘で、元康が三歳の時、父広忠が今川に付き、母於大の兄、水野信元が織田に付いたため、離縁される事となった。
同じ事が自分と瀬名の間にも起きるであろうことは、覚悟している。
辛いのは二人の子供のことだ。
嫡子竹千代と娘お亀、竹千代は桶狭間の戦さの前の年に生まれ、お亀は戦さの二ヶ月後に生まれている。
元康はお亀をまだ見たことも無いのだ。
もし元康が裏切れば、二人がどうなるか分からない。
お亀は許して貰えるかもしれない、氏真は瀬名の事は可愛がっていたし、親永とも仲が良かった。
だが竹千代は・・・・・・・。
いや、と元康は首を振る。
或いは今の氏真は、お亀すら許さないかもしれない。
菅沼定盈たち東三河の国衆たちが裏切った時、氏真は人質たちを皆殺しにしたのだ、それも残酷にも串刺しの刑にしてである。
定盈が一矢報いたと言ったのも、この件だ。
この処刑の報せが届いた時、元康はまさかと思った。
確かに氏真は、子供の時、皆に意地悪な事をしていたが、それでもそこまで残虐な男ではなかったし、物事を強行する人間では無かった。
それがただ殺すだけでなく、串刺しにしたのだ。
信じられなかったが、事実だ。
それを知って元康は、竹千代とお亀も助からぬのではと、思い始めた。
では駿府に戻るか?
それこそ氏真に何をされるか分からない。
元康は氏真に嫌われている。
周知の事だし、何より元康自身が身に染みて知っている。
以前は無理矢理隠居させられ、息子に家督を継がされるくらいかと思っていたが、今は確実に処刑されるだろうと思っている。
戦さで死ぬならまだ良い、名誉の為、本領安堵の為、死ねるのなら、武士の本望だ。
しかしこんなよく分からない、氏真が我を失っているから殺されると言うなら、絶対に嫌だ。
だが子供たちのこと、それに松平の御家の行く末を考えると、どうする事が良い事なのか、全く分からない。
ただ一つ確かな事は、このまま何もしなければ、子供は処刑され、今川と織田に攻められ、松平は滅ぶと言う事だ。
「殿」
声を掛けられ元康は目を開ける。
数正がこちらを見ている、向かいに座る忠次は目を閉じたままだ。
「殿は気に入らぬかもしれませぬし、何より上手くいかぬかもそれませぬ、が」
ズズッと数正が近寄る。
「拙者に策があります」
「何者だ」
城に続く坂道を登ってくる一団に、門番は問う。
「失礼致す」
一団の先頭の男が進み出て笠を取る。
「先日、使者を送りました、松平の者です」
「ああ、それでは・・・・」
「はい」
笠を取った男、石川数正は頭を下げる。
「おおっ、よう来た、待ちわびておったぞ」
上ノ郷城主、鵜殿長照は、広間に家臣を集め、数正とその共の者二人、松平の使者を迎い入れた。
「遅くなってしまって、申し訳ございませぬ」
数正が頭を下げると、いや、よいよい、と機嫌よく長照は、手を振って答える。
「いや、まこと助かった」
はぁ、と一つ息を吐き、長照が続ける。
「ほれ、あの国衆たちの謀叛の後、ここで見張っておれと言われたが、兵糧も武器も難渋しておったのじゃ」
「元々この兵糧や武器は大高に入れて置いた物・・・・・・・」
伏せていた数正は、顔を上げて品の良い笑みを浮かべる。
「言ってしまえば、元々鵜殿さまの物に御座います」
「はははっ、そう言って貰えると助かるわ」
機嫌良さげに長照が笑うと、
「それで鵜殿さま・・・・・・」
と言って数正が、座ったままズイと上座の長照に近づく。
「先日、使者を送って申し上げた件・・・・・・・」
「う、うん」
長照の顔が途端に曇る。
「是非にお願い致します」
「そうは言うがな・・・・・・・」
顔を数正から逸らし、長照が呟く。
「我が主人、松平次郎三郎は、先代義元公より、格別目を掛けて頂きました」
数正は姿勢を正し、大きな声で告げる。
「その恩人である方の、仇を討ちたいので御座います」
「わしとて・・・・・」
長照が眉を寄せる。
「出来る事なら、どうにかしたい」
「でしたら是非」
数正は頭を下げる。
「鵜殿さまより御屋形さまにお口添えを」
うぅぅむ、と長照が唸る。
まぁ、恐らく無理だろうと数正は思う。
長照の母は義元の妹で、氏真とは従兄弟になる。
その為、今川家中ではそれなりの重きもなしていた。
しかし氏真の守役三浦正俊が実権を握る今の家中では、決して有力者とは言えない。
むしろ不安定な三河の監視を命ぜられ、駿府から遠ざけられているとも言える。
「殿」
末席の方から大きな声が上がる。
「石川殿の仰ること、まことにもっとも、今こそ御屋形さまに御出馬を・・・・・」
「黙れ」
口を挟んで来た若い家臣を、長照は叱責する。
「・・・・・」
数正は頭を下げたまま、少し顔を後ろに向ける、目の端に服部半蔵保長が映る。
半蔵の申す通りであったな。
心の中で数正は呟く。
鵜殿家中の、特に若い家臣たちは、主人の弱腰に批判的らしい。
彼らの中には、元康が周辺に触れ回っている義元の弔い合戦に、賛同している者が多いという事だ。
チラリと長照の顔を見る、眉を寄せ困惑している。
他家の、それも松平の者の前で、家臣が反抗し、それも元康が訴えている義元の弔い合戦に賛同しているのだ。
バツも悪いだろうし、不快でもあろう。
「分かりました」
顔を上げ、数正は告げる。
「その一件は置いておきまして、鵜殿さまには別の件でお願いがありまして・・・・・」
「別の・・・・件?」
ええっ、と数正は明るい声で笑顔を見せる。
なんじゃ?と長照は不審そうに数正に答える。
「戦さが出来ぬなら、我ら、尾張に謀を仕掛けようと思いまして・・・・・」
「謀?それでわしに手を貸せと?」
「いえいえ、勿論、我ら松平の者だけで行います」
数正は手を振って答える。
「ただ我が主人が、駿府から来られた鵜殿さまだけには、話を通しておけと・・・・・」
うむ、と頷き、長照は顎に手をやる。
数正は長照の心の内を読み解く。
家中に不和があり、周囲の国衆はいつ謀叛を起こすか分からない、その中で松平と敵対するのは避けたい。
だが元康と仲良くするのも躊躇う。
元康は今川義元の寵臣だった、先代の寵臣は当代に嫌われる、よくある事だ。
氏真は元康を嫌っている、その嫌われている元康と仲良くするのは避けたい。
兵糧や武器は受け取った、取り敢えずこれが無いと、領地を維持できないからだ。
弔い合戦の話は、今の駿府の状況を考えれば無理だろう。
だが謀を許可するぐらいなら・・・・・・・。
「次郎三郎どのは律儀だな」
長照はニヤリと笑って答える。
数正の読み通りだ。
「どの様な策じゃ?申せ」
「それは・・・・・・」
グルリと数正は、鵜殿家臣一同を見回す。
「謀ですので、出来れば鵜殿さまだけに申し上げたいのですが・・・・・」
「なんだと、我らが信用できぬと申されるのか」
数正の言葉に、長照の家臣が声を上げる。
「よい」
長照がそれを制す。
「石川どの・・・・・近う」
上座から長照が手招きをする、数正が中腰になり近づく。
「実は・・・・・・」
長照のすぐ側に来た数正は、耳元で囁く。
「申し訳、御座いませぬ」
そう言うと、長照の襟を掴み引き寄せる。
「な、なんじゃ?」
声を上げる長照の首筋に、腰から抜きはなった脇差の刃を当てる。
「新六郎、半蔵」
数正が呼び掛けると、従者の二人、植村新六郎栄政と服部半蔵保長が立ち上がる。
「貴様ら、どう言うつもりじゃ?」
鵜殿家中の者たちも、一斉に立ち上がり、数正らに襲いかかろうとする。
ダン、と栄政が大きな音を立てて床を踏む、その音に鵜殿家臣達の動きが止まる。
栄政は松平家中一の剛の者である。
ただ身体が大きく力だ強いだけでは無い、命知らずで、命じられればどんな死地にも迷わず飛び込む胆力がある。
栄政がジッと鵜殿家臣たちを睨む、その肝のすわった目を見て鵜殿家臣たち怯む。
作戦通りだ、と思いながら数正は鵜殿家臣たちを眺める。
家中に不和がある、こう言う場合、普通、若い連中が命を捨てて飛びかかるものだ。
しかし彼らには長照に対し不満があるため、躊躇って動かない。
そうして鵜殿家臣たちが動かないでいる少しの隙に、保長は懐から小さな笛を取り出し、ピィイイイイと鳴らす。
「な、なにをした?」
真っ青になった長照が問うて来るが、数正は笑みを浮かべたまま何も答えず、長照を広間の外に連れ出そうとする。
「離せ」
「お静かに」
抵抗する長照の耳元で、数正は静かに告げる。
「動かれますと、手元が狂います」
首筋に当てた刃をゆっくり動かす。
ぐっと唸り、長照は抵抗を止める。
城の中庭出ると、松平の家臣たちが武器を構えて立っている。
数正は兵糧と武器を持って来ると言って、十台の荷車を率いて上ノ郷城に入ったが、兵糧と武器が入っていたのは最初の三台だけで、残りには兵を隠していたのだ。
「貴様、謀ったな」
長照が唸ると、数正はニッと笑って、長照を保長に引き渡す。
なんとかなった、と数正は胸を撫で下ろす。
荒事は苦手だ。
この作戦がもし失敗するとすれば、それは間違いなく数正が長照を捕まえて、この中庭まで連れてくる時だろうと思っていた。
それが上手くいった、これで問題は無い。
「ち、父上」
少年の叫び声が聞こえる、来たかと数正は顔を向ける。
保長によく似た三白眼の若者が、少年を二人抱えてやって来た。
「貴様、息子らを離せ」
青い顔をして長照が絶叫する。
「鵜殿さまには、是非、我らのお頼みを聞いて頂きたいのです」
「分かった、聞く、駿府に戻り彦五郎さまに、弔い合戦の件、必ず口添えする、だから息子を離せ」
「もうそれは良いのです」
保長に取り抑えられたまま、早口で長照は言う、だが数正は首を振る。
「我らも駿府には人を送っております」
「・・・・はぁ?」
長照は戸惑う。
「駿府が、今川の御家が、いまどの様になっているか、上総介さまがどの様なお気持ちか、全て了承しております」
「で、では、なんだ?」
震えながら長照が問う。
その時、
「父上」
と幼い長照のむすこが叫ぶ。
「貴様、若さまを離せ」
鵜殿家臣の若い侍、先ほど主人の弱腰を責めていた者が、若君を助けようと向かって来る。
その前を、松平家中、若手随一の槍使い渡辺半蔵守綱が進み出て、槍を向ける。
グッと、鵜殿の若い侍は唸って身構える。
フッと、守綱は不敵な笑みを浮かべる。
「鵜殿さま、ご子息は大事ですか?」
「当たり前だ」
数正の問いに、長照が叫ぶ。
勿論、存じてますよ、と数正は心の中で呟く。
事前に鳥居元忠に調べさせた事だが、長照は子煩悩で、本来は息子を駿府に人質として置いておかなければならなかったのに、氏真に頼み込んで、三河に連れて来たのである。
それが仇になりましたな・・・・・。
そう心の中で呟き、別のことを長照に告げる。
「我が主人も同じで御座います」
「なに?」
「駿府に居られる当家の若君を、岡崎に連れて来たい」
ニコリと数正は微笑む。
「上総介さまにそのお許しを頂けるよう、鵜殿さまに骨を折って頂きたのです」
「そ、そんなこと出来るわけなかろう」
長照が叫ぶ。
当然だろう。
松平家は三河で一番大きな国衆だ、それに元康が寝返っていないから、遠江、駿河に織田が攻めてこないと、駿府にいる者たちは思っている。
そんな元康の人質を返すわけがない。
「無理に決まっている」
「そこを鵜殿さまの御力で・・・・・」
「無理じゃ」
大声をだし、長照は首を振る。
そうですか、と冷めた声で数正は言うと、長照の息子を抱える三白眼の若者に目をやる。
若者は長照の息子を一人、年嵩の方を近くにいる松平の者に引き渡す。
そしてゆっくり長照の前に進み出て、少年の小さな手を持ち上げる。
「な、何をするつもりだ?」
「・・・・・・・・」
三白眼の若者は何も答えず、そのぶきみな鋭い目で長照を見つめる。
「貴様、息子を離せ」
長照の叫びを無視して、若者は少年の小さな指を摘む。
「ち、ちっ、ちう」
少年は五、六歳だろうか、父上と言おうとしたのであろうが、恐怖で言葉にならない。
「止めろ」
長照が叫ぶ、若者は無表情のまま、少年の小さな指をへし折る。
「ぁぁぁぁぁぁっ」
少年の声にならない叫びが響く。
「卑劣な」
鵜殿家臣の若い侍が斬りかかる、守綱が槍で払い、石突きで突き倒す。
倒れて、グッと呻く相手に、
「おれもそう思うよ」
と守綱が呟く。
数正も同意見だ。
策を考えたのは数正自身だが、自分でも卑劣だと思う。
当然、元康もいい顔をしなかった。
しかし若君を救う為と説得した。
数正は策を練るだけでいい、自ら出向く必要は、そこまで無かった。
勿論、数正は駿府にいた時、取り次ぎ役や使いに赴く事も多かったので、長照とは顔見知りだ。
だから数正が赴いた方が、長照に信用されると言えばそうだが、それでも荒事が苦手な事を考えると、失敗る事もあり得るので、自ら出向かなかった方が良かった。
しかし敢えて出た。
自分が考えた策である以上、汚れるべきだったし、そうする事で元康も納得してくれる。
ゆっくりと三白眼の若者の腕が、少年の細い首にかかる。
「分かった、分かった、言う通りにする」
長照は泣き叫ぶ。
「だから息子に何もするな」
ゆっくり長照に近づき、数正は笑顔で告げる。
「まことに有難うございます、鵜殿さま」
数正は保長に目をやる、保長は頷き、長照を解放する。
「勿論、鵜殿さまを信じてはおるのですが、一応、ご子息はこちらで預からせて頂きます」
松平の一行は、少しづつ城門の方に向かう。
「貴様」
鵜殿家中の家老と思しき男が、長照を抱きかかえながら叫ぶ。
「当家の若者と交換という事に、致しましょう」
父上、と長照の息子の年嵩の方が叫ぶ、幼い方は恐怖か痛みの為か何も言えなくなっている。
長照の方も肩を落とし、呆けている。
「それでは、失礼いたします」
そう告げて、数正と松平一行は、長照の息子二人を連れて去って行く。
「ようやってくれた」
数正の肩を叩き、元康は褒める。
ははっ、と数正は頭を下げた。
初めこの、騙し討ちのうえ子供を人質に取る策を、元康は拒んだ。
出来ぬ、と言って数正を退げた後、酒井忠次が口を開いた。
「菅沼どのを匿えば、今川とは手切れ、そうなれば殿は今川の将では無く、松平の当主として生きねばなりませぬ」
静かに淡々と、忠次は告げる。
「将と主君の違いは、命じられるのではなく、自ら決める事です」
「しかし・・・・・」
元康は言い返そうとする、あまりにも卑劣な策だ。
「策を取り上げるかどうかは、殿がお決めになれば良いのです」
忠次が元康の方を見ない。
「お嫌なら止めればよいだけに御座います」
元康は忠次の顔をじっと見る。
「それでどの様な事になろうと、それが殿の、そして松平家の命運に御座います」
忠次が元康の方を静かに見る。
その目を元康も見つめる。
分かっている。
戦乱の世だ、綺麗事ではすまぬ。
元康はただ律儀に生きたい、律儀だけで生きたい。
だがそれは今川の将であるのなら、可能であった。
義元が決めた事に従うだけだったからだ。
しかしもう義元はいない、氏真は自分のことを嫌っている。
氏真に処刑されるのが嫌なら、君主になり、自ら決めるしかない。
そして道は綺麗で平坦なものだけでは無い。
険しく、また手を汚さねばならなくなる。
「分かった」
元康は数正を呼び、策を認めた。
卑劣な策でもあるし、上手くいくかどうか分からなかったが、策は嵌り、息子の竹千代、そして娘のお亀も取り返す事が出来た。
「まことでかした」
やはり子供が、特に娘が取り返す事が出来たのは嬉しい。
「その上、奥まで」
子供二人だけでは無く、数正は妻の瀬名も連れて来たのだ。
瀬名はさすがに無理だろうと思っていた。
離縁する事になるだろうと諦めていたし、仕方なしと受け入れていたのだ。
しかしその妻まで連れて来たのだ。
でかした、と元康が何度も褒めていると、いえ、と数正が眉を寄せ首を振る。
「実は関口さまが、奥方さまをどうしても連れて行けと・・・・・」
「舅どのが?」
元康も首を捻る。
はい、と数正は答えるが、こちらも首を捻っている。
数日後、駿府から報せが届き、元康は仰天する。
「ま、まことか?」
「はい」
鳥居元忠が目を見開き、元康をジッと見る。
「そうな・・・・・馬鹿な」
元康は口を開け、何も無い宙を見る。
元忠がもたらした報せは、今川の当主氏真が、叔父の関口親永を処刑したと言うものだ。
理由は、婿である元康が謀叛を起こしたからと言う事だ。
元康には信じられなかった、
親永は今川の重鎮だったが、政には口を出さない温厚な人物だった。
よく皆の前で氏真が義元に叱られている時、
「まぁまぁ御屋形さま、その辺りで・・・・・」
と言って、氏真を庇っていた。
氏真にとって親永は、自分に甘い優しい叔父だったはず。
それを殺めた・・・・。
元康には信じられなかった。
しかしあるいは、それだけ駿府、それに氏真の周囲、そして氏真自身が混乱していると言う事だろうか。
グッと元康は目を閉じ、親永の事を考えた。
温厚で頼りない舅だった、しかし瀬名を元康に預けたと言うことは、何かを察し、このまま駿府にいれば、娘も危ういと思ったのだろう。
そして元康を信じて託したのだ。
うく、と頷き、元康は目を開ける。
「分かった」
前に座る元忠に、ご苦労だった、と声をかける。
ははっ、と元忠は答える。
「しかし・・・・・・・」
元康は腕を組む。
「奥に何と言うか・・・・・・・」
そう元康が呟くと、
「あ、あの・・・・・・」
と元忠が声を上げる。
「何じゃ?」
「いえ、その・・・・・」
言いにくそうに、元忠が言う。
「奥方さまはもう存じておられます」
「・・・・・はぁ?」
意味が分からず、元康は素っ頓狂な声を上げる。
「ですから、もう奥方まさはご承知で・・・・・・」
「お、おまえ・・・・・」
元康は元忠を指差す。
「わしに言う前に、奥に言ったのか?」
「いえ、拙者が言ったのでは無く」
慌てて元忠は手と首を振る。
「その・・・・・駿府でこの報せを拙者に教えて下さったのは、関口家の侍女の方で・・・・・」
うん、と元康は頷く。
「その方が、奥方さまに報せたいと・・・・その・・・岡崎まで連れて行ってくれと・・・・」
「それで連れて来たのか?」
はい、と元忠が頷く。
元康は呆れる。
鳥居家は、三河の矢作川を本拠地にして東海の水運を取り仕切る、渡り衆の棟梁の家だ。
そのため元忠は、頑固で無骨者揃いの三河衆の中で珍しく、目端が効いて損得勘定に長けている男だ
しかし情に脆く、人して甘い所がある。
おそらくその侍女に頼み込まれて、断りきれなかったのだろう。
「まったく・・・・」
元康は、申し訳ありませぬ、と頭を下げる元忠を見ながら、ため息を吐く。
「奥方さまが、今は誰にもお会いしたくないと・・・・・・・」
「誰にもと言うのは、亭主であるわしにもか?」
元康が大声を上げると、申し訳御座いません、と侍女は頭を下げる。
その侍女を元康は知っている。
色が黒く大柄で、醜女のその娘を、色が白く器量好しの瀬名は、妹の様に可愛がっていたのだ。
瀬名がおこちゃと呼んでいたが、本当の名前は知らない。
だがその醜女のおこちゃは、瀬名に対して犬の様に忠実だ。
申し訳御座いません、本当に申し訳御座いません、と言って頭を下げるが、頑として元康を通そうとはしない。
「分かった、もう良い」
元康は妻に会うのを諦める。
腹が立ったが、仕方ないとも思える。
氏真は瀬名を妹の様に可愛がっていたが、瀬名の方も氏真を兄の様に慕っていた所がある。
その氏真に父を処刑されたのだ、瀬名とすれば信じられないであろう。
おそらくこの侍女ではなく他の者が報せて来たなら、瀬名は信じなかったかもしれない。
しばし大柄の侍女を眺めながら、元康はそんな事を考える。
「奥を頼む」
元康がそう言うと、はい、と大女のおこちゃは頭を下げる。
「何かあれば、いつでも言うて来い」
そう言って元康は自分の部屋に戻ろうとする。
「あ、あの・・・・・」
おこちゃが声を上げる。
「なんじゃ?」
「いえ、その・・・・・・」
大きな体を小さくして、おこちゃは言い難そうにしている。
「何かあるなら、言うてみぃ」
「はい、あの・・・・おひいさまが・・・いえ、奥方さまが、その城の方とあまり顔を会わしたくないので、その・・・・・城の外にお屋敷を建てて欲しいと・・・・・」
元康はカッとなる。
そんなにわしと顔を合わすのが嫌か、ならば離縁してやる、そうなれば困るのは、行くところが無い、そっちだぞ。
そう怒鳴り込んで言ってやろうかと元康は思ったが、この侍女が絶対に瀬名の処には行かせないだろう。
それに舅の親永の事もある。
元康と瀬名の夫婦は、初めからまったく上手くいっていなかった。
瀬名は駿府でも評判の美人で、今川の若い家臣たちの間では、憧れの姫君だった。
いずれは何処かの国主に嫁ぐか、都から公達を呼んで嫁がせるかだろうと、噂になっていたし、瀬名もそのつもりだったらしい。
しかし義元が、お気に入りの家臣であった元康に嫁がせたのだ。
いかに義元のお気に入りと言っても、元康はただの国衆である、瀬名は散々ごねたらしいが、親永が説得し、渋々嫁いだのだ。
婚儀の日、親永が、
「娘は勝ち気なところもありますが、根は優しい子です、どうぞ大事にしてやってください」
と言われた。
その事を思い出す、その時の親永の優しい笑顔を思い出す。
その親永に託されたのだ、
それを思い出し、元康は息を一つ吐く。
「分かった、屋敷を用意しよう」
有り難う御座います、有り難う御座います、と醜女のおこちゃが、大きな体を曲げて、何度も礼を言う。
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