第9話 帰城

岡崎の城に戻ってきた。

感慨も一入、と言う事は無かった。

尾張や駿府での人質生活が長かったため、あまり愛おしい我が家という想いが、元康には浮かんでこなかった。

それに今は目の前のことだ。

石川数正と鳥居元忠に案内され、墓参りの時は入れなかった本丸に進む。

確りした瓦葺きの建物で、質素ながらも何処か、強さと品を感じる。

朝比奈備中どのが、普請されたのか・・・・・・・。

柱や梁を見ながら、記憶にある老武者の姿を思い浮かべる。


「殿、こちらへ」

元忠が案内する奥の部屋に、元康は入る。

城主の部屋だろうがこちらも質素で、目立つ調度品などは無い。

「しばらくこちらでお休みください、今、皆を広間に集めております、支度が整い次第、お呼びいたします」

そう言って数正と元忠は退がる。

側に居るのはいつもの様に、平岩親吉、天野康景、そして阿部正勝の三人だ。

「少し・・・・・・」

三人の顔を見回し、元康が告げる。

「一人にしてくれ」

「あ、はい」

返事をしたが、親吉は戸惑っている。

その親吉の肩を康景が叩き、黙って頷く。

「承知しました、外で控えております」

そう言うと親吉は外に出る、康景も一礼しそれに続く、正勝はいつの間にか、外に出ている。


一人になると、目を瞑って座る。

父の事を考えた。

元康にとっては強く優しい偉大な父だったが、領主としては多難な人生だった。

早くに父を亡くし、叔父に領地を奪われそうになり、竹千代こと息子の元康を人質に出し、なんとか今川の後ろ盾を得て、ようやく領地を取り戻し、これからというところで謀叛に遭い命を落としている。

父を殺めたのは、近習の岩松八弥という男だ。

理由は分からない。義元は信長の父、織田信秀の謀だと言っていた。

元康もその噂は耳にしている。しかし真相は分からない。

祖父の清康も、家臣の謀叛に遭い、命を落としている。

こちらの方は確実に、信秀の謀だったらしい。

祖父を殺めたのは阿部正豊という男だ。

松平譜代の家臣阿部家の当主だ。元康と共に駿府に付き従った正勝は分家で、再従兄弟に当たるらしい。

その正豊だが、清康が信秀との戦さをしている時、父の定吉が信秀と内通しているという噂が流れ、それを清康が信じ、定吉正豊親子を処刑しようとしているという話を耳にしたのだ。

これは全くの出鱈目だったらしく、疑われた定吉はすぐに二心がない事を誓った誓紙を差し出したのだ。

清康もそれで二人を信じたらしいのだが、疑われたままだと思った正豊が清康を刺し殺したのである。

正豊が清康を刺すように仕向けたのは、信秀ではないが、定吉正豊親子が内通しているという噂を流したのは信秀である。そういう意味では信秀の謀だ。

元康の父広忠は定吉を特別に許し、その後定吉は広忠のもとで手柄を上げる。

定吉は庶子がいたにもかかわらず、後継とはせず、結局阿部家は遠縁の正勝の父、正宣が継ぐことになる。


「・・・・・・・・」

目を開ける。

祖父は二十五で、父は二十四で亡くなった。

元康はいま、十八である。

大樹寺の登誉天室は、生きろ、ただ生きろ、と言ったが、元康はそれほど長く生きる自信はない。

三十まで生きれれば、御の字だし、四十まで生きれれば行幸だろう。

身体には気をつけよう・・・・・・まぁ、謀叛に遭えば、一緒か・・・・・・。

心の中で呟く。

正直なところ謀叛と言うのが、よく分からない。

数正や元忠、親吉、康景と言った連中が、自分を裏切るとは思えない。

正勝は何を考えているか分からないが、それでも裏切るとは考えられない。

ただ駿府に共に居た者たちはよいが、三河に居た者たちは、信用できないとまでは言わないが、やはりよく分からない。

取り敢えず、彼らの心を掴むことが大切だ。

義元のことを思い出す。

家臣たちに、今川のために働けば、必ずその奉公には報いると言っていたし、本当に報いていた。

そうやっていかねばならない、自分も家臣を抱える身、主君として為すべきことを成そう。

元康はそう心の中で決心する。

「殿」

外から声がする。

「皆が集まっております」

うむ、と答えて、元康は部屋を出る。




広間に入ると元康は進み、上座に座る。

殿、殿、と家臣たちが元康を呼ぶ、それに黙って頷き一同を見回す。

一番前の右にはムスッとした顔の酒井忠次が座り、左には微笑む石川家成が座る。

その後は、忠次の隣に本多作左衛門重次、家成の隣には数正など、主だった者たちが続く。

それらの次に控えるのは、夏目次郎左衛門吉信、米津三十郎常春などの家中では軽輩の者たち、そして渡辺半蔵守綱や鉢屋半之丞貞次ら若い衆が並ぶ。

元康は今回、出来るだけ家中の者を集め、彼らに今後のことを直接伝えようと思い、皆を呼んだのだ。

その為、広間には五十人以上が入り、ごった返している。

城に入れたのが嬉しいのか、キョロキョロ眺め回している者も居るし、今川の代官がいないのを不審に思い、警戒している者も居る。

「おい、作座」

家臣たちを見回していた元康は、思わず重次に目を止め、声をかける。

重次の顔の右半分に布が巻かれ、その目の位置が血で染みている、おそらく鉄砲の弾がかすったのだろう。

「大丈夫か?その目」

はははっ、と笑い、重次が答える。

「この程度のかすり傷、なんと言うことはありませぬ」

片目を失ってかすり傷なら、お前はどうすれば大怪我になるのじゃ。

元気に笑う重次を見ながら、元康は呆れる。

次に重次の隣の、本多肥後守忠真に目をやる。

「肥後、お前の甥はどうした?」

はぁ・・・・・と少し言いにくそうに、忠真は答える。

「家で寝ております」

「なんだ、寝込んでおるのか?」

さすがに初陣だ、十三の少年には色々と辛かったのであろう。

そう思って元康が尋ねると、いえ、と忠真は首を振る。

「戦さが終わったのなら、帰って寝ると・・・・・・」

「なんじゃそりゃ・・・・・」

再び元康は呆れる。

普通、初めて戦に出て、命のやり取りに接すれば、皆堪えるものだ、まして忠勝は十三歳。

それが全く堪えていないとは・・・・・・。

「ははっ、お前の甥は大物じゃな、そのうち真に天下無双になるぞ」

「ああっ、いえ、申し訳御座いませぬ」

元康の言葉に、忠真は謝る。

「ただ騒ぎ回って疲れて寝ておるだけで御座います、ようは子供なのです」

重次が隣で不快そうに吐き捨てる。

「ああ、そうだな」

元康は適当に答える。

「殿」

数正が声をかけてくる、うむ、と元康は返事をする。

「皆、此度の戦さ、まことに大義であった」

元康が大きな声で、家臣一同に告げる。それまでざわざわと喋っていた家臣たちは黙って、元康の方を見る。

「見事な戦さぶり、わしは皆を誇りに思う」

家臣たちを見回し、元康が続ける。

「これからも皆のその武勇で、わしを支えていってくれ」

大久保忠世らを始め、何人かの家臣は、ははっ、と言って頭を下げる。それを見て遅れて下げる者もいる。だが忠次はいつもの様にムスッしたままだし、家成もいつもの様に微笑んでいるだけだ。

家臣たちはバラバラに、元康の言葉に応える。

さて・・・・・と言って元康は話を続ける。

「皆に知らせねばならぬ事がある」

少し間を置いて、元康は告げる。

「わしらが大高の城を守っている時、今川の御屋形さま・・・・・治部大輔さまが、桶狭間山にて・・・・・・」

グッと腹に力を込めて、元康は言う。

「討ち死になされた」

ああっ、とか、おおっ、など家臣たちは声を上げてる。

その後、皆、

「まことに?」

 とか、

「噂は本当だったのか」

 とか、ざわざわと騒ぎ始める。

「静かにいたせ」

忠次が皆を叱ると、騒ぎは収まる。

「わしは此度・・・・・」

静かになった家臣たちを見回し、元康が宣言する。

「今川の御屋形さまの仇を討つ為、尾張に攻め込む」

おおっ、と家臣たちの間から声が上がり、また皆ざわざわと騒ぐ。

「今川の御屋形の為と言うのは気に入りませぬが、尾張者を討てるなら真に結構」

重次が大きな声を上げる。

「腕がなるな」

「おおっ」

守綱や貞次など若い連中も声を上げる。

しかしそれを、ふん、と重次が鼻で笑う。

「ヒヨッコどもが、大口を叩くな」

「何を言われる、作左どの」

「そうじゃ怪我人は引っ込んでおれ」

「なんじゃと」

重次は立ち上がり守綱たちを睨む、守綱たちも構える、

「止めぬか、作左」

忠次が重次の袖を引く。

「お前ら静かにせい、殿の御前じゃ」

吉信が守綱たちを叱る。

渋々双方、引き下がる。

「よし、ではまず与七郎」

元康が呼ぶと、はっ、と数正が返事をする。

「お前は直ぐに駿府に向かい、今川の彦五郎さまに、我らが岡崎をまもり、織田勢を東には一歩も行かせませぬ、と言うて参れ」

「承知しました」

「そして弔い合戦の折には、先鋒は是非、この次郎三郎に御命じ下さい、と願いしてこい」

「分かりました」

数正は頭を下げる。

「次に小五郎」

はっ、と忠次が返事をする。

「お前は皆を引き連れ、三河領内を見て回れ」

「承知」

「おそらく野伏せりや乱取り者が出ておるだろう」

「ええ・・・・・」

静かに忠次は答える。

「三河の者だろうと尾張の者だろうと構わぬ、乱暴狼藉を働いていおる者は、全て捕らえろ」

「ははっ」

「ただ駿府に戻ろうとしている今川衆で、食い物に困っている者、怪我を負っている者はこの城連れてこい」

「分かりました」

忠次は頭を下げる。

「大高の城に入れた兵糧は、こちらに戻したな?」

高力与左衛門清長に問うと、抜かりなく、と少し頭を下げて清長が答える。

うむ、と頷き元康は、家成の方を向く。

「日向守」

「はっ」

「お前は城内に者たちを使い炊き出しを行い、先ほど言った、逃げて来る今川衆に飯を与え、傷の手当てをしてやれ」

「承知しました」

ゆっくりと優雅な仕草で、家成が頭を下げる。

「ところで・・・・・・」

元康は家臣たちを見回す。

「右衛門は如何した?」

鳥居右衛門元忠の姿が見えない。

「蔵の方で、兵糧の確認をしております」

高力清長の答えに、元康が頷く。

それでは皆、取りかかれ、と元康が言おうとした時、一人の小姓が広間に入って来る。

内藤弥次右衛門清長の息子で、金一郎という者だ。

あの強弓の内藤正成は、長清の甥、それも弟の息子にあたる。

しかし金一郎が清長が老いてから子であるから、金一郎と正成は従兄弟になるが、金一郎は十四、正成は三十路半ばである。

「申し上げます」

その場に伏せて、金一郎が告げる。

「服部殿の手の者が今戻り、急ぎご報告したき事があるそうです」

末席に座る服部半蔵保長が、よろしいですか?と尋ねてくる、うむ、かまわぬ、と元康が頷く。

金一郎が横を向き、こちらへ、と言うと、全身泥だらけで、年も男か女かも分からない、ほっかむりをした者が進み出て、元康に一礼した後、保長の方に向かう。

手の者が耳打ちし、何かを告げているが、保長は無表情のまま頷きもせず、黙って聴く。

しばらくすると泥だらけの者は、保長から離れ元康に一礼して去っていく。

「半蔵、何があった?」

はっ、と返事をして、保長が末席から進み出る。

「殿と同じく先鋒を任されておられた、朝比奈備中守さまが、殿を務められ、尾張勢を打ち払い、その麾下におられた岡部丹波守さまが、刈谷城を攻め落とし、その城と引き換えに、治部大輔さまの首級を、取り返したそうにございます」

「ま、まことか・・・・・・」

元康は驚いて声を上げる、家臣たちもざわざわと騒ぎ始める。

はい、と返事をして保長は頭を下げる。

ふむ、と元康は頷く。

とても信じられる話ではない、総大将を討たれた負け戦で、逆に城を攻め落とすなど聞いたこともない。

岡部丹波守元信と言えば、元康の友人、岡部正綱の叔父である。

常日頃、正綱は、

「叔父より強い者など、この世にいない」

と自慢していた。

確かに元信は、主君義元も、家中の者も認める今川一の猛者だ。

しかしこれほどの働きをするとは、信じられない。

だが同時に腑に落ちる事もある。

何故織田勢が攻めてこないのか?

この事を元康は奇妙に思い、数正と話した。

数正はおそらく余力が無いからだと言っていたが、信長という男を知る元康は、どこか納得が出来なかったのだ。

だがこれで納得出来る。

正信が織田の攻撃を、防いだからだ。

「それで・・・・・・」

元康は保長に尋ねる。

「朝比奈どのと、岡部どのは無事か?」

「はい、ただ同じく残られた井伊信濃守さまが、討ち死にされたそうに御座います」

「そうか・・・・・」

元康は頷く。

井伊信濃守直盛と言う男を、元康はさして知らない。出陣の前に顔を合わせただけだ。

温厚そうな人物に見えた。

元康は目を閉じる。

戦さなのだ、乱世なのだ、仕方がない。

「それで・・・・・」

目を開けて、元康は再び保長に問う。

「朝比奈どのたちは、もう戻られたのか?こちらに寄って貰えぬのか?」

「既に遠江まで、引いておられるそうです」

「そうか・・・・・」

元康は顎を撫でる、取り敢えず義元の首級は取り戻せた。しかし勿論、それで弔い合戦をしなくてよくなったわけでは無い。

「半蔵、お前は手の者たちの所に行き、更に詳しく聴いて参れ」

「承知」

保長は音を立てず、広間を出て行く。

「では、他の者、取りかかれ」

そう元康が言おうと、家臣たちは、はっ、と返事をして立ち上がろうとする、

「殿」

その時、広間に鳥居元忠が入って来た。

「おお、右衛門、兵糧の確認は終わったか」

「はい、それで・・・・・」

「なんじゃ?」

元忠の息が荒い、急いでやって来たようだ。

「父上たちが、お話があるそうです」

「父上・・・・・たち?」

元康が眉を寄せると、元忠が頷き、後ろを向く。

廊下から五人の男たちが、広間に入って来る。そして並んで座る。

中央にいる男は、元康も知っている。元忠の父、鳥居伊賀守忠吉だ。

息子と同じように手足が長く、首も鶴のように長い、違うのは顔も痩せて長い事だ。

左右にいる四人は見覚えはない。

が、

忠次が「叔父御」と呼び、

家成が「父上」と呼び、

重次が「彦三郎どの」と呼び、

忠世が「叔父上」と呼んだので、察しがついた。

忠次が叔父御と呼ぶのであれば、右端の男は酒井将監忠尚であろう。

年は四十過ぎ、顔は忠次と似て目が離れている。違うのは顔中に疣があるところだ。

さしずめ忠次がヒキガエルなら、忠尚はイボガエルというところだ。

忠吉と忠尚の間にいるのは、家成が父上と呼ぶのだから、父親の石川安芸守清兼であろう。

息子と同じ様に、色白で品の良い顔立ちをしている、ただ小太りの息子と違い痩せているため、どちらかというと、孫の数正に似ている。

忠吉に左に居る男、重次が彦三郎どのと呼んだところを見ると、多分、本多彦三郎広考だろう。

現れた五人の中で一人だけ若く、他の者が四十過ぎ、五十過ぎなのに、三十半ばだ、従兄弟である重次より若く見えるくらいである。

本多の者らしく目鼻立ちのしっかりした大きな顔で、肩幅もあり、重次よりも忠真に似ている。

左の端にいる大久保忠世が叔父上と呼んだ男は、おそらく大久保新八郎忠俊であろう。

他の者が息子や甥と似ているのに、忠世と忠俊はあまり似ていない。

大柄で彫りが深い顔をしている忠世に対し、忠俊は小太りで顔立ちも温和だ。

五人は、鳥居、酒井、石川、本多、大久保の長老たちである。

元康の松平家は、安城松平家と言い、元康は松平家としては九代目だが、安城松平家としては六代目当主になる。

その安城以来の譜代の家臣が七家存在する。鳥居家を除く四家はその安城以来の譜代の七家で、残りの、阿部、青山、植村は、分裂衰退している。

鳥居家は忠吉が、元康の祖父清康が本拠地を岡崎に移してから、仕える様になった新参の家だ。だが清康そして広忠が忠吉を信頼し、宿老に任命している。

言わば五人は、今、安城松平家を支えている、五家の長老たちである。

その五人が並んで元康の前に進み出る。誰がどれと言うわけではないが、ふと、七福神を元康は連想した。もっとも五人だし、弁天はいない。

「殿、御帰還、まことにおめでとう御座います」

一同を代表して忠吉が挨拶をする。

「爺も元気そうでなによりだ」

表情を硬くして元康は応じる。

松平を支える譜代の長老たちと言っても、彼らもそれぞれの一族を抱える者たちだ。

彼らは元康を、そして松平家を絶対の君主だと思っていない。元康が頼みにたる君主でないと分かれば、あっさり見捨てて、他の松平の一族、あるいは他の領主に仕える。

場合よっては自分たちが取って代わるという事だってあり得る。

その事を元康は数正から、何度も忠告されている。

その数正の方を見ると、不審げに祖父の方を見つめている。

忠真や忠世も困惑した顔で、長老たちを見ている、ただ忠次だけはいつもと同じように、ムスッとした顰めっ面だ。

「殿」

忠吉が微笑みながら元康に告げる。

「是非、お見せしたいものですがあります」

「見せたい・・・・・・・・もの?」





「こちらです」

忠吉たち長老連中に連れられ、元康は城を出る。

一行は忠吉たち五人と、それに元忠、元康が続き、その後ろに親吉、康景が控える。

「ここは・・・・・・」

城のすぐ外にある、雑木林の中、炭焼き小屋の様に見える建物に、忠吉らは元康を連れて来た。

「爺、なんじゃ此処は?見せたいものとはなんじゃ?」

「まぁまぁ。すぐに分かります」

元康が何度問うても、忠吉は微笑んでそう答えるだけだ。

他の四人のうち、若い広考だけは硬い表情だが、後の三人は忠吉の様に微笑んでいる。

気味が悪い・・・・。

害意がある様には見えないが、それでも不気味だ。

「どうぞ」

広考が小屋の戸を開く。

顔をしかめて、元康は中に入る。

「これは・・・・・・」

小屋の中には甕が、ところ狭しと積まれている。

「なんじゃ?」

元康が振り向いて問うと、忠吉が微笑みながら、

「開けてみてください」

と答える。

取り敢えず元康は、近くにある甕を持ってみる。

重い。

その人の胴ほどの甕は、ずっしりと重く、とても一人で動かせるものではない。

「殿、我らが」

親吉と康景が進み出て、甕を運び出す。

元康も小屋の外に出て、甕の封を解いて開ける。

「こ、これは・・・・・」

元康は目を見開き、言葉を失う。

バッと忠吉の方を見ると、宿老は微笑みながら頷く。

甕の中には銭が入っていた。それも中いっぱいにである。

「爺、この壺全部か?ここにある壺全部にか?全部に銭が入っているのか?」

大声を上げて元康が尋ねると、忠吉は、はい、そうで御座います、と静かに答える。

信じられないほどの銭だ。

小屋はそれほど大きくないが、それでも全部が銭となれば、米百俵、いやその何倍もの米が買える銭がある様に、元康には思えた。

「我らが少しずつ、この日の為に貯めてきた銭で御座います」

忠吉の言葉に元康はハッとする。

三河の者たちは、みな貧しくひもじい暮らしてをしていたと思っていたが、裏ではこれほどの蓄えをしていたのだ。

「爺」

「はい」

元康は忠吉の方をジッと見つめる。

「そちらの忠義、まことに天晴れ」

「お褒めに預かり、恐悦至極にございます」

忠吉以下長老たちが、頭を下げる。

「この銭、大事に使わせてもらうぞ」

「ははっ」

「これだけの銭があれば・・・・・」

元康は小屋の壷を見回して告げる。

「御屋形さまの弔い合戦、必ずや成し遂げることができよう」

「・・・・・・・・・」

石川清兼と大久保忠俊が、元康の言葉にキョトンとし、顔を見合わせる。

そしてその後、クスクスと笑う。

「なんじゃ?」

「殿・・・・・」

忠吉が答える。

「それがしが昔、殿のお父上に、駿府の今川家を頼る様にと助言致しました」

淡々と忠吉が続ける。

「それは今川の当主、治部大輔さまが稀代の英傑だっからです」

「・・・・・・・」

元康は忠吉の微笑む顔を、黙って見つめる。

言いたい事は分かる、跡を継ぐ彦五郎氏真では、頼りにならないと言いたいのだろう。

「それに・・・・・」

清兼が口を挟む。

「跡を継いだ今川の新しい御当主さまは、殿の事をあまり気に入ってはいらっしゃらないとか・・・・・・」

品の良い笑みを浮かべながら、清兼が言う。

「それは・・・・・」

言いかけて元康は黙る。

その通りだからだ。

だが・・・・・。

「ではどうする?」

長老たちを見回し、元康は口調を強いくする。

「今川と手を切れば、東の今川、西の織田に挟み撃ちだぞ」

はははははっ、と大きな口を開けて酒井忠尚が笑う。

「何がおかしい?」

キッと元康が睨むと、申し訳御座いませぬ、と頭を下げながら忠尚が近づく。

「殿には強い味方が居ります」

「味方・・・・・?」

眉を寄せ元康は忠尚を見ると、ゆっくり忠尚が頷く。

「ええ、御仏という、頼もしい味方がついております」

こいつ・・・・・。

忠尚のイボガエル面を見ながら、元康は心の中で吐き捨てる。

門徒か。





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