第8話 大樹寺

「い、いま、なんと申した・・・・・・・・?」

震える声で元康は、配下の伊賀者、服部半蔵保長に尋ねる。

スッと顔を上げ、保長は切れ長の三白眼を細めて、淡々と答える。

「今川のお屋形さま、桶狭間山にて、討ち死になされました」

「ま、まことか・・・・・・・」

側にいた石川数正が、思わず声を上げた。

ここは大高城の一室。それほど広くない室内には、元康と家老の酒井忠次、近習の平岩親吉、天野康景、そして数正と報告に来た保長の六人がいる。

数正の言葉に、静かに保長は頷く。

まこと・・・・・なのか。

声に出さず、数正は心の中で呟く。

しかしその意味するところが、よくわからないでいた。

「あ・・・・・ああっ・・・・」

言葉にならない不快な呻き声が響く。

殿、と忠次が呼びかける声がするので、数正はそれが、主人元康の発しているいものだと気づく。

「しっかりなさいませ、殿」

忠次が元康の肩を掴み揺する。

「あ、ああっ、ああ」

ガクガクと頷き、元康が返事をする。

「・・・・・・そ、そうだな」

ようやく元康が返事をする。

「ま、先ずは城の守りを固め」

ふらふらした足取りと視線で、元康が言う。

「それから、よ、与七郎」

「はっ、はい」

名を呼ばれ、数正が返事をする。

「おまえは沓掛の城に行き、御屋形さまに報告を・・・・・」

「と、殿」

「な、なんじゃ?」

驚いた顔で元康はこちらを見る。

「殿、御屋形さまは討ち死になされて・・・・」

「そ、そうだっ・・・」

そう言うと、元康はくるりと振り向き、またふらふらと歩く。

「で、では駿府に行って、御屋形さまに報告せねば」

「殿」

忠次が低い声を上げる。

「御屋形さまは、討ち死になされたのです」

「・・・・・だからそれを、御屋形さまに報告せねば」

元康は頭を両手で挟む。

「殿」

忠次が立ち上がり、元康の背後に立ち、静かに告げる。

「今川の御屋形さまは、討ち死にされたのです」

「・・・・・・」

元康がゆっくり振り返る。

「もう何処にも、いらっしゃらないのです」

その言葉に、元康の目が大きく開かれる。

「あ、あっ、あああああっ」

息が出来ないのか、口を大きく開け元康は喘ぐ。

「殿」

平岩親吉が駆け寄ろうとするが、その手を元康が払いのける。

「殿」

忠次が呼びかけ、今度は天野康景が近づこうとする。

「ああああっ、ああああっあああああああっ」

そう叫びながら、元康は暴れ出す。

「殿を抑えろ」

忠次が命じる、しかし元康は腰の太刀を鞘ごと抜き、それを振り回し誰も近づけない。

あっ、と声を上げ、数正も駆け寄ろうとする。その視界の端で黒い影が動く。

「御免」

その黒い影、服部保長が元康の背後に回り込み、手刀で首筋を打つ。

うっ、と呻き元康がその場に倒れそうになる、それを保長は支える。

「おい、半蔵」

「ただの当て身です、気を失っておられるだけです」

数正の抗議に、淡々と保長は答える。

「だが、お前・・・・・」

「よくやった、半蔵」

忠次が数正の言葉を遮る。

保長は頭を下げ、ゆっくり元康を座らせる。

「如何致しましょう?」

元康のそばに座り、天野康景が忠次と数正の方を見る。

「そ、そうだな・・・・・・」

何も浮かばず数正は、言葉に詰まる。

「先ずは殿を安全な場所にお連れしろ」

忠次が淡々と命じる。

「そうですな、それが先ず第一です」

数正は頷く。

ここは尾張の大高城、敵が一気に襲いかかってくれば、ひとたまりも無い。

「七之助」

「は、はい」

「お前はすぐに駕籠の用意を致せ」

上擦った声で親吉は、はい、と返事をする。

「他の者に訊かれたら、今川の御屋形さまが、殿の働きを大変喜び、お召しになったので、急ぎ殿は今川の本陣に向かう事になった、そう答えろ」

ははっ、と答えながらガクガクと親吉は首を振る。

「分かったか?」

ギョロリとした目で、忠次が親吉を見る。

「はい」

硬い表情で親吉は応じる。

「ではわしが言ったことを、繰り返してみろ」

忠次の命に、息を一つ大きく吐き、親吉が答える。

「今川の御屋形さまが、殿の此度の働きを大変御喜びになり、直ぐにお召しになったので、急ぎ今川の本陣に向かう事になりました」

一気に淀みなく喋る親吉に、うむ、と頷き、忠次が肩を掴む。

「そうじゃ、誰に会ってもその様に答え」

「承知しました」

親吉が急いで部屋を出て行く。

「三郎兵衛」

「はい」

今度は康景を呼んだ。

「お前は与左衛門を呼んで来い」

「承知」

「他の者に気づかれるな」

ははっと答えて、康景は部屋を出て行く。

「取り敢えずは・・・・・・」

数正がゆっくり問いかける。

「岡崎の城に向かいますか?」

いや、と忠次は首を振る。

「岡崎の城には今川の奉行がおる」

「確かに・・・・・」

朝比奈泰能亡き後、岡崎城には山田景隆という奉行が入っている。

「これからどうなるかわからぬ・・・・・・」

スッと顔を数正の方に向け、低い声で忠次が告げる。

「駿府の者たちと、無用な諍いは起こしたく無い」

「それは・・・・・・」

忠次の険しい表情を見て、数正は黙る。

「わしは取り敢えず、殿を大樹寺にお連れする」

「では・・・拙者は・・・」

「お主は岡崎の城の様子を、見て参れ」

「承知しました」

数正は頷く。

そこへ康景が、高力与左衛門清長を連れて来る。

「与左衛門、実はな・・・・・・・」

忠次は清長に、掻い摘んで事情を説明する。

一瞬、清長はその細い目を大きく開くが、その後いつもの地蔵顔に戻り、何も言わず話を聞く。

「お主は此処に残ってくれ」

承知、と短く清長は答える。

尾張にあるこの大高城に残るという事は、織田勢に攻められた時の、捨て石になると言う事だ。

忠次はそれを迷い無く清長に頼み、清長もそれを黙って受ける。

「拙者も残ります」

二人のやり取りを傍から見ていた康景が、声を上げる。

「だめだ」

康景の申し出を、清長は一蹴する。

「お主は直ぐに顔に出る、残れば他の者に気づかれる」

厚い瞼の表情の変わらぬ顔で、清長は淡々と告げる。

「・・・・分かりました」

仕方なく康景が頷く。

「お主の仕事は殿の側にいて、殿を守る事だ」

淡々と清長は続ける。

「為すべきことを成せ」

その清長の言葉に、康景は顔を上げ、承知しました、と答える。

そこへ親吉が戻って来る。

「駕籠の用意が出来ました」

忠次が親吉の方を向く。

「殿を誰にも見られず、駕籠まで運べるか?」

「あ・・・・いえ・・・その」

親吉は言葉に詰まる。

「半蔵」

「はっ」

忠次は振り返り保長の方に向く。

「お主が先に立ち、人払いをしておけ」

「承知」

音もなく立ち上がり、保長は部屋を出る。

「七之助、三郎兵衛、後について殿を駕籠にお運びしろ」

ははっ、と答え、二人は元康を抱えて保長の後に続く。

それを見届けると忠次は、清長の方を見て、一つ頷く、清長もゆっくり頷き返す。

「ゆくぞ」

そう言って忠次は部屋を出る、数正もそれに続く。


それにしても・・・・・・・。

「どうした?」

後ろに付いて歩く数正が、苦笑しているのに気づき、忠次は振り返る。

「いえ・・・・・」

ニヤリと笑い数正が答える。

「拙者、小五郎どのがこの様に、テキパキと喋り手配りするのを、初めて見ましたので・・・」

「黙れ」

ムスッとした顔で前を向き、ズンズンと忠次は歩く。

「もっと日頃からそうやって、殿をお助けしては如何です?」

続いて歩きながら数正が問う。

「それでは殿のためにならぬ」

振り返らずに忠次が告げる。

なるほど、と数正は頷く。

「しかし・・・・・」

と、話題を変える。

「まさか今川の御屋形さまが・・・・この様な事に・・・」

うむ、と静かに忠次が応じる。

「・・・・・小五郎どのは、あまり驚いていない様ですが・・・・」

先ほどから思っていた事を、数正は口にする。

「そんな事は無い・・・・・勿論、そんな事は無いが」

少し黙った後、忠次が続ける。

「この様な事になるのではないか、とはな」

「予期しておられたと・・・・・?」

いや、と忠次は首を振る。

「此度の戦さがこうなるとは、当然、思っておらなんだ」

だが・・・・・と言うと少し黙って、言葉を考えながら忠次は言う。

「今川の御屋形さまはなんと言うか、脇が甘いと言うか、足元が疎かと言うか」

「そう・・・・ですか?」

「大きなお方であり、優れた器量も才覚もお持ちであったが、うむ」

一人で頷き忠次は、話を続ける。

「雪斎和尚や先代の朝比奈殿がおられた時は良かったが、今の松井殿では・・・・・」

「そうですな、悪い方ではございませぬが」

「ああ」

忠次の言いたい事は、数正にも分かる。

家柄にしろ器量にしろ義元は、非の打ち所がない君主だ。

寛容だが甘いわけではない、元康の初陣の相手であった寺部城の鈴木重辰などの様な、織田との内通の疑いがあった者は容赦なく処罰している。

だがそれでも、どちらかといえば恐ろしいというより、度量の大きい君主だ

大家の名君で猜疑心は強くない。家臣を信じ、その働きを認めることの出来る器量がある。

だから元康を始め家臣たちは、此度の戦さ、手柄を立てようと必死になる。

手柄を上げれば、外様でも認めてもらえる、現に松井宗信は遠江の国衆で、父の代から今川に仕えているのに、義元の認められ側近になっている。

だが義元のその寛容さが、やはり家中に緩みを生んでいる様にも思えた。

忠次の言う通り、太原雪斎や朝比奈泰能がいた頃は、彼らが睨みを利かせていた為、それほど問題ではなかったが、松井宗信が側近になってから、確かに緩みが強くなった。

それでその緩みをつかれた、足元を掬われたのだ。

義元が討ち取られた理由は数正には分からない、だが戦が始まる前から、今川勢は勝ちを疑っていなかった。

数正だってそうだ。

勿論、戦さは勝算があってやるものだが、勝つのが当たり前で、どうやって手柄を立てるかを考えてばかりいた。

雪斎や泰能がいれば、こんな浮かれて戦さをしてはいなかっただろう。

「主人が・・・・・・」

歩きながら忠次が呟く。

「大局を見て動くのは構わん、むしろ足元ばかり気にするよりは、よほどましだ」

ならば・・・・と止まらずに忠次は話を続ける。

「家臣がしっかりと、その足元を見ておらねばならぬ」

「そうですな」

数正は頷く。

義元ほどの君主がいながら、それを家臣が支えきれなかった。

君主が切れ者である必要はないし、細かい事まで気にする必要もない。

忠次の言う通り、大局を見て決断を下せば良い。

家臣の働きを認め、その働きに合った恩賞を与えれば良い。

そうやって君主が君主としての働きを出来るよう、家臣の中の側近や重臣たちは、君主の足元をしっかりと見ておかなければならない。

「我らがしっかりと、殿の足元を見ておきましょう」

元康は義元と比べれば遥かに凡庸だ、その足元を自分達がしっかりと支えなければならないと、数正は思った。

「よい」

忠次が低い声で言う。

えっ?と数正は戸惑う。

「殿の足元は、わしが何時もで見ておる」

数正の方を一切見ず、前を歩きながら忠次は告げる。

「お主は知恵を絞れ、策を練れ」

淡々とした口調で、忠次は続ける。

「お主にはその才がある、それが務めだ」

忠次の後ろ姿を数正は見つめる、恐らくはいつもの様にムスッとした顔をしているのだろう。

苦笑して数正は、

「承知しました」

と答える。





暗い闇の中。

薄っすらと人影が見える。

人影が白く浮き上がる。

茶筅髷に、袖を千切った湯帷子、それに朱塗りの鞘。

白く美しい顔がこちらを向く。

ゆっくりと人影は近づく。

「必ずわしが、助けてやる」

人影はそう告げると、スッと離れていく。

「兄上」

叫んだが声は届かない、人影そのまま去って行く。

それを追おうと、一歩踏み出そうとする。

「次郎三郎」

背後から誰かが呼ぶ。

「御屋形さま」

振り返り返事をする。

ニコニコと微笑む、手足の短い品の良い男がこちらを見つめている。

「期待しておるぞ、次郎三郎」

「はい、御屋形さま、必ずやご期待に応え、手柄を上げてみせます」

その場に跪き、声を上げる。

「必ずわしが、助けてやる」

背後から声がする。

「兄上」

振り返り呼びかける。

「期待しておるぞ」

再び前から声がする。

「わしが助けてやる」

前を向こうとすると、背後から声がする。

「期待しておるぞ」

「わしが助けてやる」

前後から交互に、何度も声がする。

ああっ、と声を上げ、頭をぐるぐる回す。

その時、二つの声が突然止まる。

「今川の御屋形さま、桶狭間山にて討ち死にされました」

低い声が響く。

ああっ、と戸惑い顔を上げる。

「期待しておるぞ、次郎三郎」

今まではっきり聞こえた声が、小さく遠のいていく。

「御屋形さま」

大きな声で呼びかける。

何かが身体を包み込む。

はっ、と声を上げる。

闇が身体を包み、背後からギュッと抱きしめてくる。

耳元で甲高い声が告げる。

「お前の為に、わしが殺してやった」

あ、あああっ、あああああああああっ

身体の芯が軋む 、その音が呻き声になって口から漏れる。

「あああああああっ」

叫び声をあげ、元康は身体を起こす。

「はぁはぁはぁはぁ」

荒く息をする。

ここは・・・・・・。

少し落ち着いて、辺りを見回す。

薄暗く、少しほこり臭い、見覚えの無い部屋だ。

「ああっ、はぁ」

大きく息を一つ吐く。

両手で顔を覆い、記憶を辿る。

大高の城、尾張との戦さ、長い槍、鉄砲、そして・・・・・・・。

「今川の御屋形さま、桶狭間山にて討ち死にされました」

頭の中で保長の言葉が響く。

「・・・・・・・・」

顔を覆う手をどける。

目の前にこの世が存在する、夢では無い。

「必ずわしがお前を助けてやる」

その言葉が、また頭の中に入り込んでこようとする。

ぶんぶんと頭を振り、追い払う。

はっ、と息を吐く。

鎧は脱いでいる、薄い布団の上に寝かされていたが、掛け布団はない。

近くを見る。

枕元に太刀が置かれている。

その太刀に手を伸ばす。

「・・・・・・・・」

抜いてその刃をジッと見つめる。

五条義助の名刀、今川義元が元服の祝いにくれたものだ。

「御屋形さま・・・・・」

元康は腹を出す。

「次郎三郎、今お側に参ります」

刃をゆっくり腹の方に向ける。

「殿・・・・・・・」

声がする、顔を向けると、僧が一人立っている。

見覚えのある僧だ。

誰だったか?

ああ、そうだ、大樹寺の住職だ。

元康は思い出す、確か登誉天室という名だ。

ならば此処は大樹寺か、と気づく。

それは良い、腹を切った後の手間が省ける。

そう思いながら、刃を腹に近づける。

「お待ちくだされ」

そう言って天室は駆け寄る。

「何をなされておられる」

「はなせ」

天室が太刀を掴もうとする、それを元康は振り払う。

「腹を切るのよ」

「なんと馬鹿なまねを」

「馬鹿、馬鹿・・・・・・」

元康の手から力が抜ける。

「そうじゃ、わしは・・・・・・わしは・・・・大馬鹿者じゃ」

「殿・・・・・」

太刀を奪い、背後に置くと静かに声をかける。

「勝った負けたは兵家の常に御座います」

元康の肩にそっと天室は手を置く。

「一々腹を切っておれば、そのうち侍など皆、居なくなってしまいます」

「そうではない」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、元康は言う。

「そうではないのだ・・・・・・・」

ボソボソとゆっくり、静かに元康は喋る。

尾張での人質生活、そこで会った吉法師の事、別れの言葉、駿府での日々、主君今川義元の恩、そして桶狭間からの報告。

「わしは・・・・・わしは・・・・」

「殿、落ち着かれませ」

天室はそっと言う。

「何も殿の所為ではありませぬ」

元康の肩から手を離し、天室は続ける。

「拙僧、世俗の事はよく知りませぬが、そんな拙僧でも分かります」

顔を近づけ、天室が告げる。

「織田殿が今川の守護さまを討ったのは、己の身を守る為に御座います」

「そんな事わかっておる」

元康は大声を上げる。

「そんなことわかっておるが・・・・・・それでも・・・・・わしは、わしは」

声を絞り出しながら、元康は呻く。

「殿・・・・・・・」

静かに天室は言う。

「厭離穢土、この世はままならないものにございます、仕方がないのです」

「・・・・・・・それが」

元康は顔を上げる。

「それが門徒の教えか?」

「殿?」

明らかに元康が怒りの顔を見せているので、天室は戸惑う。

「そうやって、その言葉で領民から作物を、根こそぎ取り上げておるのか?」

「殿、何を仰られておるのです」

天室は困惑顔で応じる。

「確かに寄進は受けておりますが、根こそぎ奪ってなどおりませぬ」

「黙れ」

元康は怒りを覚える、動揺し己を見失っている心の隙に、天室が入り込もうとしているように感じたのだ。

「人々が自らの意思で寄進しておるもの以外、拙僧は何も受け取ってなどおりませぬ」

「では、何故民は飢えておる?」

「それは・・・・・」

「地獄に落ちると脅して、無理矢理奪っておるのだろう」

「そのような事・・・・・」

「坊主の中には、屋敷を構え、妾を囲っておる者もいると聴くぞ」

元康の非難を、天室は黙って聞いた。

睨みつける元康の目を、ジッと天室は受け止めた。

「殿・・・・・・」

少し間を置き、天室は口を開く。

「拙僧も昔、殿と同じように、己の命を断とうとした事があります」

静かにゆっくりと、一言一言噛み締めて、天室は告げる。

「三河の地は戦さで荒れ果て、人々は嘆き悲しみながら暮らしている、その悲しみをなんとかしたい、御仏の慈悲の力で何とか救いたい、そう思い、上方にのぼり、大きな寺院入り、修行に励みました」

しかし・・・・・と辛そうに、天室は続ける。

「殿の仰る通り、大寺院の高僧たちは、欲に溺れ、銭を集め、堕落しておりました」

その時の事を思い出しているのか、天室は目を閉じ、ゆっくり話を続ける。

「彼らの権力争い、銭集めを目にし、その人々を師と呼び、教えを受けねばならないとなった時、拙僧はこの世の何処にも救いなどない、そう思い、絶望し、命を絶つ事も考えました」

元康は天室を眺めながら思った、確かに天室は痩せており、その着ている物も質素だ。

領民の作物を、無理矢理取り上げている様には見えない。

「しかしある日、気がついたのです」

天室は目を開ける。

「絶望するのは拙僧に心があるからだと、それが仏性なのだと」

「絶望する事が・・・・・・苦しむ事が仏性なのか?」

はい、と天室は頷く。

しかし元康はおかしいと思う、仏道で言う悟りとは、苦しみや悲しみから離れる事、執着をなくす事、それが解脱で、それが悟りのはずだ。

それなのに絶望する事が、仏性などと言うことはあり得ない。

「全てのものに、仏性は宿っておるのです」

「悲しみにもか、絶望にもか」

違う、と元康は首を振る。

「こんな悲しい事に、こんな辛い事に、意味があるというのか?」

「意味などありませぬ」

突き放す様に、天室は告げる。

「生きる事に、意味も価値も無いのです」

淡々と、だがしっかりとした口調で、天室は続ける。

「生きることは、ただ生きておれば良いのです」

「ただ生きる・・・・・・ただ生きる」

元康は目を見開き、言葉を繰り返す。

「この世の全てに仏性は宿っております、ですからただ生きておると言う事は、それはこの世に生かされておると言う事なのです」

「生きて・・・・・生かされている」

天室は頷く。

「ですから、意味も価値も無く、ただ生きれば、ただこの世に生かされておれば良いのです」

「生かされる・・・・・生きて、生かされる」

元康は一度目を閉じる。

そして首を振る。

「だが和尚、わしはどうすれば良い?どう生きれば良いのじゃ?」

「・・・・・・・それは殿が決める事にございます」

淡々と天室は告げる。

「・・・・・それは・・・・そうじゃが」

「拙僧は・・・・」

元康が困惑していると、天室は話を続ける。

「都で絶望し、それでも生きようと思い、三河に戻ってきました・・・・・」

ゆっくりと天室は両手を広げ、それをジッと見つめる。

「その後、ただただこの両手で救えるものを、救おうと決めました」

元康は天室をジッと見つめる。

「全ては救えぬ、その事は諦め、大寺院の高僧たちは腐敗している、その事も放っておき、ただただ己が両手で出来る事をやっていこうと、そう決めたのです」

天室は元康の方を見る、静かな眼差しで見つめる。

「人は己が出来る事しか出来ません、だから出来る事だけやれば良いのです」

「出来る事だけ・・・・・・・」

「はい」

天室は頷く。

「生きると言う事は、出来る事を出来る分だけやる、それだけの事に御座います」

広げた手を天室は閉じる。

「それに価値があるか、意味があるか、他人はどうか、正しいか正しく無いか、そんな事は関係なく、ただ出来る事を為せば良いのです」

元康は手を広げ、それをジッと見る。

「殿は、殿の出来る事を、為せば良いのです」

「わしの・・・・出来ること」

手を広げたり閉じたりしながら元康は呟く、天室が頷く。

出来る事・・・・・・。

手を閉じ、目を閉じる。

そんな事一つしかない。

律義。

己にはそれしかない。

「・・・・・・・和尚」

元康は目を開け、天室を見る。

「拙者、生きて、出来る事をやって来ます」

「・・・・・・そうなされませ」

天室はゆっくり合掌して頷く。



「城は空だったか・・・・・・」

忠次の呟きに、数正は頷く。

「殿・・・・・・」

親吉が声を上げる、篝火の焚かれた境内に、元康が現れる。

「皆・・・・・・・」

家臣たちを見回し、元康は頭を下げる。

「取り乱して、すまぬかった」

「そのような、殿・・・・・・・」

親吉と康景が近づき声をかけようとすると、その前に忠次が立つ。

「殿、君主たるもの、家臣の前で軽々しく頭を下げてはなりませぬ」

「・・・・・・・そうだな、すまぬ、いや分かった」

忠次の言葉に応じ、元康は頷く。

「殿」

今度は数正が前に出る。

「先ほど岡崎の城を見て参りましたが、城代の山田殿は、既に駿府に引き揚げたように御座いまする」

そうか、と頷き、元康は周りを見回す。

「此処に居るのはこれだけか?他の者はどうした?」

そこに居るのは、忠次と数正、そして親吉と康景、それに保長だけだ。

「まだ大高の城に残っております」

「大丈夫なのか?」

大高は敵地の尾張、此処は三河の大樹寺、元康は他の者が心配になった。

「御安心を、実は・・・・・」

数正がその細い顎を引き、後ろにいる保長を見る。

「半蔵が申しますに、織田勢は兵を引いたように御座います」

「馬鹿な・・・・・・」

元康は保長の方を見る。

「まことか、半蔵?」

「はい」

跪いている保長は、顔を上げて答える。

「四方に手の者を放ちましたが、織田勢は何処にもおりませぬ」

「・・・・・信じられぬ」

元康は首を捻る。

敵の総大将を討ち取ったのだ、当然その居城まで攻めるのが常道だ。

ましてあの吉法師こと信長、元康が知る限り、慎重に行動するだとか、躊躇するだとかはありえぬ。

「おそらく敵に、余力がないのではありませぬか?」

首を捻る元康に、数正が答える。

「今川の内応調略が進んでおり、織田の三郎に味方する者が、少なかったのではないでしょうか」

確かに数正の言うことは一理ある。

戦さの前の駿府で評定で、松井宗信が尾張の地侍が、多くこちらに寝返るだろうと言っていた。

それなら信長に、攻め込むほどの軍勢は無い事になる。

「しかし・・・・なぁ」

一理はあるが腑に落ち無い。

こちらは総大将である義元が討たれているのだ、寝返るつもりだった連中も、寝返りをやめただろう。

「それと・・・・・」

考え込んでいる元康に、数正は話を続ける。

「尾張を空にして攻めてくれば、北の美濃攻めて来るかもしれませぬ」

「うんん、美濃か・・・・」

それは確かに考えられる、と元康は思った。

尾張の織田と美濃の斎藤は、先代の頃からの宿敵である。

一時、美濃斎藤家の先代、山城守利政の娘と、信長の婚儀により和睦していたが、利政が倅の謀叛に遭い討ち死にすると、再び、両者は敵対するようになった。

「北への備えのために、こちらに攻めて来ぬというのか?」

「おそらくは・・・・・」

元康の言葉に、数正は頷く。

確かにそうだが、それでもこの好機を逃す信長とは思えない。

やはり元康は納得できないでいる

「与七郎」

何時ものムスッとした顔で、忠次が声を上げる。

「戦さの話は後でよい、それより目の前の事だ」

「そうですね、申し訳ありませぬ」

苦笑しながら数正は、頭を下げる。

その二人のやり取りが、元康には奇妙に見えた。

それほど何時も、仲が良いと言うわけでは無い様に思っていたからだ。

「殿」

忠次が元康を見る、うむ、と元康は頷き、家臣たちを見る。

「尾張勢は周りにおらぬのだな」

はい、と跪く保長が答える。

「岡崎の城は空だな」

はい、間違いございませぬ、と数正が答える。

「では与七郎、お前は大高の城に戻り、皆に岡崎に向かうよう言って参れ」

「承知しました」

数正は頭を下げる。

「半蔵、引き続き手の者に四方を見張らせ、何かあったら直ぐに知らせい」

「承知」

保長が頭を下げる。

「残りの者はわしと共に、岡崎の城に向かうぞ」

「承知致しました」

親吉が答え、康景も、ははっ、と返事をする、忠次だけはムスッとした顔で、黙ったまま、少し頭を下げるだけだ。

元康は天を見上げる、東の空が明るくなって来ている、もうすぐ夜が明ける。

視線を家臣たちに戻して、元康は力強く宣言する。

「準備が整い次第、今川の御屋形さまの仇を討つため、尾張に攻め込む」






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