第7話 今川義元

「よいしょと」

重い身体を用意された畳の上に置く。

「御屋形さま」

松井五郎八郎宗信の呼び掛けに、なんじゃ?と今川義元は返事をする。

「土地の庄屋どもが、御屋形さまに献上したき物があると・・・・」

「そうか」

身体を揺らし、首を回し、肩を揉みながら義元は答える。

しばらくすると、農民たちがぞろぞろと入って来た。

「おとのさま」

一同ひれ伏し、代表の老人が声を上げる。

「大勝利、おめでとうございます」

老人が後ろを向き顎で指示すると、若い男が二人前に出てくる

「こちらが祝いの品です」

酒樽と笊に盛られた米が差し出される。

黙って頷き義元は、宗信の方を見る。

「御屋形さまは、みな大義であったとお褒めだ」

宗信がそう告げると、ははっ、と老人が頭を下げて返事をする。

「謀叛人織田三郎を討ち、その方らが安心して暮らせるよう、御屋形さまが守って下さる」

「勿体なきことにございます」

「退がってよい」

ははっ、と答えて男たちが退がる。

「・・・・・・・・」

最後尾にいた男が、振り返り義元の方を見る、もちろん義元は、何も言わず、表情も変えず、男の方を見ることも無い。

おい、と老人が声をかけると、男は慌てて何度も頭を下げて、その場を去る。

奴らに、守護も国主も、謀叛人も関係あるまい・・・・・・。

去って行く泥だらけの農民たちを眺めながら、義元は心の中で呟く。

関係ない、ただ勝つ方に付くだけだ、もし織田が勝てば、織田の方に祝いに行く。

こちらもそれで良い、勝てば良いだけだからだ。

ふぅ、と息を吐き、首を動かす。

今朝早く、沓掛城から出た義元は数刻前、この見晴らしの良い桶狭間山に陣に着いた。

この山から、西に行くとすぐ大高城があり、周囲に丸根と鷲巣の砦がある、北の少し離れた所に鳴海城があり、その周囲には丹下、善照寺、中嶋の砦がある

既に朝比奈泰朝が鷲巣砦を落とした、丸根砦の方も、松平元康と鵜殿長照が攻め立て、陥落まじかである。

「暑い、蒸すな」

鎧の上から襟を広げ、扇子で風を送る。

「もう皐月でございますからな・・・・・・」

横で宗信が空を見上げて呟く。

「一雨・・・・・・・きそうじゃな」

同じように空を見上げて、義元も呟く。

「そうでございますな」

晴れてはいるが、南西の方から黒い雲が広がってくる。

「すこしわしは、休んでおる」

「はっ」

頷き宗信は、小姓に脇息を持って来させる。

その時、馬廻り衆の若い家臣が走りこんでくる。

「申し上げます、丸根砦、陥落いたしまた、また中嶋砦より敵勢が攻撃を仕掛けて来ましたが、岡部丹波殿がこれを撃退致しました」

ご苦労、と言って宗信が退がらせる。

小姓が持って来た脇息に、義元は頭を乗せ、横になる。

「では四方に軍を進め、こちらに付く者を降らせろ」

ははっ、と宗信は頭を下げる。

日和見を決めている者が意外と多く、思ったほど直ぐにこちらに馳せ参じてこない。

むっ、と唸り、義元は手で日差しを遮ろうとする。

宗信が手で小姓に合図を送り、朱色の大きな傘を義元の上に広げさせる。

「丸根が落ちれば、此処は安全だ」

「そうですな」

「半分ぐらい、送っても良いぞ」

「ははっ」

本陣の兵六千ほど居るが、暇を持て余している。

ああっと大きな欠伸を、義元は一つする。

「わしは少し寝る、なんかあったら起こせ」

はい、と返事をして宗信は出て行こうとする。

「いや」

義元は寝返りを打つ。

「なんかあっても起こすな」

苦笑しながら、承知しました、と宗信は答え、去って行く。

義元は目を瞑り、ふん、と息を一つ吐き、ブチっと鼻毛を抜く、ふっとそれを飛ばし、ポリポリと尻を掻く。

くくくっ、と小さく苦笑する。

もし師父が生きていれば、戦さ場でのこの振る舞いを見て、なんと言うか・・・・・・。

心の中でそう呟き、袂にあった数珠を取り出す。

太原雪斎の数珠だ。

もう五年か・・・・・・。

数珠の玉を一つ一つ触りながら、義元は思う。

未だに雪斎の死が、自分の中でよく分からない時がある。

ずっと一緒にいた。

それが義元にとっての雪斎である。

いるのが当たり前だった。

どこかで同じ日に死ぬのではとすら、思っていた事もあった。

無論、雪斎は義元より二十も上なのである、普通に考えれば、雪斎の方が先に死ぬ、その方が当たり前の事だ。

しかし四歳の時に寺に入れられ、その時から側にいる雪斎を、いつも眼に映る当たり前のものだと思っていた。

数珠の玉を一つ一つ触りながら、出会った頃の雪斎を思い出し、義元は笑う。

その頃から老けていた、良く言えば貫禄があったとも言えるが、今思えば二十半ばのはずだが、四、五十に見えた。

その後もあまり変わらず、終生、四、五十の見た目をしていた。

雪斎の事を思い出した、そして雪斎の事を思い出すと、必ず義元自身の事も思い出す。

何故なら何時も雪斎と一緒にいたからだ。

共に京に上り、五山の建仁寺で学び、妙心寺に移った。

父と長兄が亡くなると、駿河に戻り、すぐ上の兄と家督を争い、今川の当主となった。

当主になってしばらくした頃、雪斎はあの話をした。

その時の話を、今でもはっきりと憶えている。

「この日ノ本には、三つの力があります」

大きな頭の、大きな顔の、大きな口の、それでいて大きく無い声で、淡々と雪斎は告げる。

「一つは天子、公卿の持つ、血統の力、もう一つは武家の持つ弓馬の力、そして最後が寺社の持つ信心の力にございます」

太原雪斎という男を他の者は、無口とまではいかないが、多弁とは思っていない。

しかし義元の二人の時は、雪斎はよく喋る。

「このうち、寺社の力が最も強うございます」

多弁ではあるが早口では無い、その語り口は滔々という感じだ。

「寺社にあるのは、信仰の力と・・・・・・」

「銭の力だな」

雪斎と二人の時、義元は聞き役が多いが、それでも分かっているというのを見せるため、たまに口を挟む。

答えに満足し、雪斎をゆっくり頷く。

まだ梅岳承芳と呼ばれていた義元は、京に上り、五山の寺を訪れた時、その伽藍の壮麗さに圧倒された。

そしてその壮麗さを生み出す仕組みを、少しずつ雪斎に教わった。

大きな寺は、その信者の寄進寄付で成り立っている。

しかしそれだけでは無い。

寄付された銭を、民、百姓、町人に貸し付け、その利鞘で稼いでいるのである。

特に百姓に種籾を貸し、それで収穫の時に何倍も取り立てる私出挙は悪辣で、返せぬと土地や人を奪っていく。

彼らはそれを御仏の意思と言い、浄財と呼び、正しき事だとしているのだ。

承芳こと義元も、その仕組みを知り、寺の外に屋敷を構え、妾を囲う高僧たちを見ると、吐き気を覚えた。

或いは建仁寺や妙心寺で学んだのは、御仏の道ではなく、生の人間の欲だったかもしれない。

「何故、寺社に銭の力が集まると思われますか?」

「銭が唐土のものだからでござろう」

義元の答えに微笑み、雪斎は満足気に頷く。

日ノ本に出回る銭は、唐土の銭だ。

何故唐土の銭が日ノ本に出回るかと言うと、持って来る者がいるからだ。

そしてそれが大きな寺の僧なのだ。

唐土の明王家は、他国の者の自由な商いを禁じている、交易は商いではなく国が臣下の礼をとる朝貢しか認めていない。

その朝貢も、船の数など厳しい制限がある。

その中で僧の留学は、比較的許可が下りやすい。

だから大寺院が船を出す時、ついでに交易を行うのだ。

そのとき彼らが、一番多く日ノ本に持ち帰るのが、唐土の銭なのである。

だから寺社が、銭の力を握っているのである。

「唐土の銭だから、寺社に銭が、銭の力があつまる」

「たしかに・・・・」

「そしてそれはどうする事も出来ぬ」

義元も高僧の腐敗や堕落は、見ていて不快だった。

そういう仕組みである以上、どうする事も出来ない。

大寺院で虚飾に塗れ、色欲に溺れる高僧達がいた、しかし彼らは僧全体から見れば一握りだ。

多くの僧、特に若い僧は、そうした腐敗を憎み糾弾していた。

しかしどうにもならなかった。

何故か?

腐敗が仕組みそのものだったからだ。

寺院が銭を生む仕組み、そのものだったからだ。

たとえ若い僧が腐敗した高僧を追い出しても、大寺院という大きな集団を維持していく時、そこには銭を必要とし、銭を生まなければならなくなる。

そうなれば、新たな僧が、銭を稼ぎ、酒を呑み、女を抱くだけである。

悪い奴がいるのではない。

その仕組みそのものが、悪であり、欲なのだ。

そしてそれには、誰にも勝てない。

仕組みは世の中の一部であり、世の中そのものに勝てる者などいないのだ。

だから誰もに、当然一国の主である義元にも、どうにも出来ない話なのだ。

それに今はもう駿河だ、寺社の力は雪斎が握っている、都の僧の腐敗など関係ない。

「そんな事考えていても、仕方がない」

義元がそう宣言すると、雪斎はくくくっと笑う。

「間違っておると?」

「間違ってはおりませぬ」

ゆっくりと雪斎は首を振る。

「いま、この駿河で承芳さまは三つの力、血統、弓馬、銭の全てを手に入れております」

二人の時、雪斎は御屋形さまとは呼ばず、昔の僧の時の名で、義元を呼ぶ。

「ならこの駿河は、そして隣国遠江は、承芳さまの世でございます」

確かに雪斎の言う通り、国主としての血筋、守護としての軍勢で義元は駿河遠江の支配者だ。

その上、寺社勢力は雪斎が抑えているので、完璧な意味で、この二国の主人なのだ。

「うむ、そうだな・・・・・」

「ならその事を、もっと活かすべきではないでしょうか?」

「活かす・・・・・?」

義元は眉を寄せる。

「遠江のとなり、三河では女子が多いと言います」

意味が分からず義元は、ジッと不敵に笑う雪斎を見つめる。

「それは綿花の産地で、木綿を沢山つくっておるからです」

「それで?」

「その先にある尾張には、常滑、瀬戸があります」

「瀬戸物か・・・・・・」

頭の中で地図を描きながら、義元は応じる。

「それらの地を得て、その産物を駿府に集め、東国に売って回るのです」

なるほど、と義元は頷く。

それなら確かに、銭がうまれ、国が豊かになる。

「しかし面倒が一つ・・・・・」

「うん?」

「三河は門徒が強く、また尾張の南とその隣の伊勢の北の方も、門徒どもが根を張っております」

うむ、と義元は唸る。

世に門徒ほど厄介なものは無い。

彼らは浄土のみを信じ、現世の全てのもの、国主の権力だとか、銭だとかはまったく信じないのだ。

その統治は難しい、下手を打てば一揆を起こし暴れまわる、加賀国などそれで守護を追い出し、門徒どもの支配する国になっている。

「厄介な・・・・・」

「慎重に門徒どもを切り崩すしか、ありますまい」

顎に手をやり、義元は考えた。

銭は寺社に集まる、しかしそれを嫌っている憎んでいる清廉潔白な僧も少なくない。

彼らを使い、門徒達を懐柔することは難しくないだろう。

「悪くない・・・・・悪くない、策ですな」

義元はそう呟いたが、本当は悪くないどころか、今川の当主となった義元の、間違いなく進むべき道だろう。

「しかしその策には、一つ、いや二つ厄介ごとがあります」

「はい」

静かに雪斎が頷く、勿論、雪斎が分かっていないわけがない。

「甲斐の虎と相模の獅子はどうする?」

確かに、と言って微笑みながら雪斎はゆっくり頭を下げる。

「その二人の厄介ものをどうにかすれば、殿の東海支配は盤石のものとなりましょう」

その日から二十年かけ雪斎は、甲斐の武田と相模の北条との盟約を確立させた。

そのすぐ後、精魂尽きたのか、雪斎は冥府に旅立った。

師父が示してくれた道を、迷い無く進むだけだ。

雪斎が亡くなった時、義元はそう心に決めた。

三河の傘下に収めた、そして今、尾張に向かっている。

この二つを手に入れて、その統治を完璧にし、門徒を切り崩していく。

東海の富は駿府に集まり、そして・・・・・。

夢うつつに微睡みながら、義元は数珠を弄ぶ。

今はその先のこと、雪斎が示した道の先を、義元は見ている。

駿府に集まった富を使い、上方にいる公卿や高僧たちを数多く招いているのだ。

都の香りを少しずつ、駿河に移しているのである。

京の都は荒廃しきっている、公方と管領が争い、更にその混乱のなか、管領の家宰が力を得て、管領を襲い、公方を都から追い落としたと聞く。

もしこのまま戦乱が続き、足利の直系が絶えれば・・・・・・。

夢の中で、義元は微笑む。

今川家には家伝がある、足利家が絶えれば、吉良家が継ぎ、吉良家が絶えれば今川家が継ぐと言うものだ。

勿論、都の公方や管領、その家宰の者などは、そんな家伝、聞いたことは無いわ、と言うだろう。

だが、義元には力がある、彼らより力がある。

なら押し通る事が出来る。

駿府公方、今川幕府。

悪くない、悪くない。

尾張を落とせば、それ以上、上方に近づく気ない。

どうこう言って武士の本場は東国だ、御所にするなら東国が良い。

東国に、駿府にあらたな武士の都を築く。

ポツポツと雨は降って来たらしい。

夢の中で義元は考える。

都の公方が絶えなくても良い、公方が都を追われ、義元の威名慕い駿府に来れば、氏真を公方の養子にすれば良い。

義元には上洛する気は無い。

上洛して管領や朝廷、それに大寺院とやりあうなど、馬鹿馬鹿しいからである。

先年、父の氏親が作った家中の法度、仮名目録に義元は条項を追加した。

それは項目は、当主の権威を高め、領地を他の者、寺社や朝廷、そして幕府から切り離すというものだった。

まさにこの東海に、今川幕府を作るための基礎となるものだ。

今川幕府、これこそが義元の野望だ。

この事を、義元は誰にも言っていない。

師父雪斎にも言わなかった。

ただ雪斎なら気づいてもおかしくなかった。

雪斎は何も言わなかった。

呆れていたのかもしれない。

或いは・・・・・・・・。

雪斎の数珠を義元は摘む。

認めていたのかもしれない。

雨あしが強くなって来た、わぁわぁと兵士たちが騒いでいる。

「うるさいなぁ」

いい気持ちで寝て、夢の中で野望を妄想していた義元は、眉を寄せ呟く。

まだ目は開けない。

「まったく、五郎八郎の奴め」

雪斎亡き後、義元は遠江の国衆、松井五郎八郎宗信を側に置いている。

父の代から今川に仕えているとはいえ、朝比奈や岡部の様に先祖代々の譜代と言うわけでは無い。

側に置いたのは抜擢だ。

なぜ抜擢したかといえば、馬が合うからだ。

勿論、宗信は優秀だし忠実だ、しかしそれだけなら、他にも人はいる。

だから側に置いたのは、側に置いてしまうのは、やはりどうも馬が合うからだ、義元の考えを察するだけで無く、気に入りそうな事を先回りでするのだ。

かゆいところに手が届く、そうなると、やはり側に置いてしまう。

しかし雪斎や朝比奈泰能の様な貫禄はない、人物としての重みがない。

譜代の家臣でない宗信を、義元が気に入り側に置けば、成り上がり者め、君側の奸め、と思う者が当然いる。

そういう者に対し、宗信は必要以上に腰を低くする。

義元の寵を借り、威張り散らしわけではなく、逆に腰を低くするのだ。

そういう心配りを義元は気に入っているのだが、いかんせんそれでは家中で恐れられない。

雪斎や朝比奈泰能、特に泰能の持っていた、他の者が怖れて萎縮するような、重み貫禄が宗信にはない。

喧騒がどんどん大きくなる。

「まったく、もぉ」

義元は目を開け、身体を起こす。

その時、丁度、宗信が駆け込んでくる。

「うるさい、何をやっておるか、静かにさせい」

大声を義元が上げる。

が、真っ青な顔をした宗信は、全く義元の命を聞いていない。

「御屋形さま、敵襲にございます」

「てきしゅう?」

言葉の意味が分からず、義元が繰り返す。

なにを言っておるのじゃ、お前・・・・・・・・。

そう言おうとして、義元は腕を動かす。

「あっ・・・・・・」

さして力を入れたわけでもないのに、雪斎の形見の数珠の糸が切れて、球が義元の手をすべり落ちる。

それを見て突然、義元は雪斎の最後の言葉を思い出す。

「織田の倅の三郎・・・・・・信長にはお気をつけください、あの者は幼き日より、師が付いております、その者は・・・・・・・あの妙心寺の沢彦宗恩に御座います」

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