第5話 対決 桶狭間 上

全員が頭を下げている。

「皆、おもてをあげよ」

広間に入り、上座に腰を下ろすと、今川義元はそう告げる。

家臣一同が一斉に顔を上げ、義元の方を見る。

「先年・・・・・」

よく通る少し高い声で、ゆっくりと義元は、居並ぶ譜代家臣、そして自分に忠誠を誓う、遠江、三河の国衆地侍に語り始める。

「尾張の守護、斯波治部大輔どのが、国を追われた」

家臣たちは黙って、義元の方を見つめる。

「やったのは、織田の三郎である」

強い口調で義元は言う。

「奴は守護代の家人、奉行であるのに、その父の代から主家を壟断、専横をしておったが、此度のことは、言語道断、許すまじき暴挙である」

少しずつ、義元の声が熱を帯びる。

「よって此度、足利家の一門衆であるわしは、謀叛人織田三郎を討伐いたす」

主人の宣言に、家臣一同、黙って頭を下げる。

「今までも尾張とは度々、小競り合いを続けていたが、此度はわし自らが出向き、織田の一党を殲滅いたす」

黙って聴いている家臣一同に、大きな声で義元は宣言する。

「これは、足利の世を乱す謀叛人を討伐する戦さ、正義の戦さである、皆もその事、心して臨むように」

皆、黙って動かず、主人義元の言葉を全身で聞いている様だ。

それを見て義元は頷くと、左右に居並ぶ家臣のうち、左の列の四番目に座る者に目をやる。

「左衛門佐」

呼ばれたその家臣、松井左衛門佐宗信は進み出て、義元の左前に座り、一同に向く。

「それでは此度の戦さの大計を申し上げます」

そう宗信が大きな声で言うと、小姓が二人、大きな地図を宗信の前においく。

「謀叛人織田三郎が家督を継ぐと、それに反対した鳴海城主、山口左馬助殿が、我らに誼を通じてこられた」

宗信は肉の厚い顔をした四十半ば過ぎの男で、遠江国衆であるが、太原雪斎、朝比奈泰能亡き後、義元の第一の側近となっている。

「左馬助殿は、鳴海、大高の城にそれぞれ兵を入れ、我らの先駆けとなっておりましたが、三郎めはそれに対し、鳴海には丹下、善照寺、それに中嶋に付け城を築き、大高に対しては、丸根、鷲津の付け城を築いております」

広げた地図で指し示しながら、宗信は説明を続ける。

「これに対し当家は、鳴海城に岡部丹波守殿、大高城には鵜殿長門守殿を派遣しております」

そこで・・・・・・と宗信は顔を上げて、一同を見る。

「先ずは先陣を二名送り、それぞれの城に向かい、丹波守殿、長門守殿と合流し、鳴海と大高の守りを万全とします」

地図で鳴海、大高を示した後、宗信は駿府を指し、そこから西にゆっくり動かす。

「そして御屋形さまに、満を持して出陣して頂き・・・・」

宗信の指が、遠江、三河を超えて、尾張に向かう。

「一気に敵の本拠地、清洲を目指します」

清洲を指し示しながら、宗信が告げる。

「三郎めは、少し前まで、弟と家督を争っておりました」

地図から顔を上げて、宗信は言う。

「従う兵は、二千かそこら、あるいはもっと少ないかもしれませぬ」

宗信は淡々と続ける

「また荷ノ上の服部党も、我らに従うと言ってきております」

服部党とは尾張弥富の土豪で、水軍衆だ。

「尾張に軍を進めれば、更にこちらにつくものも増えるでしょう」

一同を見回し、宗信は告げる。

「御屋形さまが率いる本隊が六千、それに先鋒、後詰めを合わせれば、今川だけで一万二千、そこにこちらに与しようとする尾張の者を合わせれば、おそらく二万は下りませぬ」

低く落ち着いた声だが、力強く宗信は訴える。

「たった二千の織田など、敵では御座いませぬ」

策も謀もない、ただ多くの者の支持を取り付け、多兵で寡兵を撃つ、王者の戦さだ。

「それでは陣立てを申し上げます」

小姓らに地図を片付けさせて。宗信は言う。

「先ずは先陣として鳴海城に向かわれるのは・・・・・・」

家臣一同息を飲む。

先鋒は武門の誉れだ、先鋒として戦場に赴けば、一番槍、一番首を上げ、最も手柄を上げることができる。

その上、此度の戦さでは、義元の本隊が尾張に着けば、敵は殆どこちらに下り、後は城を囲むだけ、手柄の立てようがない。

そうなれば何時も以上に、この先陣は重要になる。

「朝比奈備中守殿」

はっ、と返事をして朝比奈備中守泰朝が前に出る。

まぁ、当然だろう、と皆が思う。

朝比奈泰朝は、重臣だった泰能の嫡子で、歳は二十二、自他共に認める、これからの今川を背負ってたつ人物だ。

「では次に、小高に向かわれるのは・・・・・」

誰だ?と皆、思う。

泰朝が選ばれるのは当然として、後一人となると一体?

皆、自分ではないかと、期待しながら待つ。

「松平次郎三郎殿」

えっ?と皆が驚く、なかには、えっ、と声を出した者までいた。

何より名を呼ばれた松平次郎三郎元康自身が、まさか選ばれると思っていないので、驚いて返事を出来ないでいる。

「次郎三郎殿」

元康が返事をしないので、宗信が再び名を呼ぶ。

「あ、はい」

慌てて返事をして、元康が前に出る。

「朝比奈備中守、松平次郎三郎、両名を先陣に命じる」

前に出た二人に対し、義元が改めて命じる。

二人とも、ハハッ、と頭を下げる。

それまで静かだった家臣たちが、ヒソヒソと囁き合っている。

「ち、父上」

左側に並ぶ家臣の一番前に座る、今川彦五郎氏真が思わず声を上げる。

ジロリと義元が息子を見る。

慌てて、御屋形さま。と氏真は言い直す。

「備中守はともかく、次郎三郎は若輩者、それに今川譜代の者でありませぬ、それに先陣を任せるとは、如何なものかと」

甲高い声で、氏真は一気に訴える。

「彦五郎」

冷たい目で義元は息子を見る。

「わしがいつ、わしの決めた陣立てに、お前が意見を言うように命じた」

「あ、いえ・・・・・」

言葉を詰まらせ、氏真は下を向く。

まったく、と義元は呆れる。

歯向かうのは良い、不快だが、許してやる、だが言い出したのなら、睨まれたくらいで、すぐに引っ込めるな。

息子の惰弱さに、義元は情けなくなる。

「次郎三郎は若輩だが、その家臣、三河衆は精強で、尾張の土地にも明るい」

氏真を放っておき、家臣一同に義元は告げる。

「それに次郎三郎は、我が姪を娶りし、我が甥、先鋒を任せるに、なんの不足も無い」

家臣一同、黙って顔を伏せる。

チラリと氏真を一瞥すると、顔を伏せ、小さく震えている。

「次郎三郎」

息子から視線を外し、正面に座る元康を見る。

「お主の父、そして祖父は、家臣の謀叛に遭い命を落とした」

淡々と義元は告げる。

「しかしそれは、先代の織田三郎の差し金だと言われておる」

「えっ?」

元康は顔を上げ、目を見開く。

「織田の家はお主の仇、見事仇討ちを果たしてこい」

「は、ははっ」

震える声で元康が答える。

「期待しておるぞ、次郎三郎」

そう言うと義元は、宗信の方を見る。

「両名とも、下がられい」

宗信の言葉に、朝比奈泰朝、松平元康は下がる。

「では、続いて、本陣の備え・・・・・・」

その後、宗信は家中の者の名を呼んでいき、義元の本陣、後詰め、荷駄隊、そして駿府での留守役が決まっていく。

「・・・・・・以上でござる」

そう締めると、松井宗信は一礼して席に戻る。

「此度の戦さの後、ここにいる我が弟、左馬助が尾張守護を継ぐこととなった」

義元は右側の一番前に座る弟、今川左馬助氏豊の方を見て、一同に告げる。

「左馬助は斯波の姫を娶っておるし、この事は治部大輔殿も了承済みだ」

氏豊はゆっくり頭を下げた。

兄の義元に似て色白の丸顔で、兄と同じ手足の短い寸胴の身体をしている。

「既に都の公方さまにも、許しは得ておる」

一同を見回し、少し間を置いて義元はゆっくり告げる。

「そしてこれを機に、わしは家督を倅、彦五郎に譲り、隠居、出家しようと考えておる」

ザワザワと、家臣たちが騒ぐ。

しかし重臣たちには、既に話が伝わっていたのか、騒いでいるのは末席の者たちだけだ。

「彦五郎」

「ははっ」

名を呼ばれ、氏真が前に出る。

「此度の戦さの間、留守をお前に任せる」

「はははっ、お任せを」

少し上ずった声で、氏真は応じる。

「・・・・・・・・彦五郎」

「はっ」

「戦さが終われば、家督を譲ると言うたがな」

冷めた声で義元は続ける。

「もし此度。留守中なんぞ不備があれば、隠居は取りやめ、お前に家督は譲らぬ」

「ははっ、勿論この彦五郎、気を引き締めて、留守役、務めさせて頂きます」

甲高い声で氏真は答える。

「・・・・・・・彦五郎」

パチンと扇子を鳴らし、低い声で義元は告げる。

「わしには倅はお前しかおらぬ」

「はい」

「だが、後継は別にお前だけでは無い」

「は、はい」

声を震わせ氏真が答える。

「もし此度の留守中、不備どころか失態があれば、家督はお前の代わりに、ここにいる左馬助に継がせる」

はっ、と声を上げ、氏真は父義元を、そして叔父氏豊を見る。

どうしていいかわからず、氏豊は困惑して苦笑いをする。

「あるいは、北条から助五郎めを呼び戻してもよい

「あ、いえ・・・・それは」

「そうならぬように、気をつけておけ」

「は、ははっ」

氏真は深く頭を下げる。

それを少し眺めた後、義元は家臣たちの方を見る。

「先程、左衛門佐が申した通り、こちらは二万、相手は二千、そうなるであろう」

淡々と義元は告げる。

「尾張の者が我らに着くは、我らに理があるからじゃ、義あるからじゃ」

家臣たちは静かに、義元を見る。

「先も申したが、これは正義の戦さである、皆、そのこと心して臨むように」

ははっ、と家臣一同、返事をする。




元康は興奮している。

無理もない、まさか自分が先鋒を任されるとは思ってもいなかったからだ。

可愛がられているとは思った、目を掛けて貰っているとも思っていた。

しかし信頼や信用のようのものは、特に無いと思っていた。

だが、先鋒を命じられた。

やるぞ、やるぞ、やるぞ。

手を握りしめて、元康は心の中で呟く。

ここで手柄を立てるのじゃ、御屋形さまがわざわざ下さった、機会、無駄にしてはならぬ。

「松平殿」

声をかけられ振り返る。

「あ、朝比奈殿」

そこには朝比奈泰朝が立っていた。

父上の泰能は、元康が墓参りで三河に帰った時、岡崎の城の城代をしていた。

去年駿府に戻り、ほどなく病に倒れ亡くなった。

今の岡崎の城代は、山田景隆という人物が務めている。

泰朝は父に似て彫りの深い顔立ちだ、元康があった頃の泰能ほど貫禄はまだ無いが、それでも鋭い目は人としての強さを感じる。

「先陣の役目、共に頑張りましょう」

「こ、こちらこそ」

元康は恐縮するが、泰朝は強い眼差しで見つめてくる。

「御屋形さまも申しておりましたが、松平殿の家臣、三河衆は勇猛果敢であるし、尾張の土地にも明るいとか」

「あ。いえ」

「なにかの時は、頼りに致しますので、宜しくお願いします」

「いや、そんな、拙者の方こそ若輩者、朝比奈殿に助けを求める事になるかもしれませぬ」

ははははっ、と泰朝は剛毅に笑う。

「では、何かの時は、お互い助け合っていきましょう」

泰朝の言う、頼りに致すというのは、社交辞令だろう、その目には自信と気概が溢れている。

間違いなく泰朝は、次代の今川を背負って立つ将なのだ、その事を自分でも強く思っているのだろう。

「備中守殿」

初老の温和な顔した人物が、声を掛けて来た。

「これは、信濃守殿」

泰朝が頭を下げる、元康も続く。

「これは松平殿」

男は、元康に丁寧に頭を下げる。

遠江の国人、井伊信濃守直盛である。

温厚そうな人物だが、なかなかの戦巧者という話で、織田との戦さも何度か経験していると聴く。

若く、尾張の地にも暗い泰朝のため、義元が副将として付けた男だ。

「申し訳ござらぬ、松平殿」

ニコニコと微笑みながら直盛は、元康に告げる。

「備中守殿をお借りしても、よろしいですかな?」

「はい、勿論です」

元康がそう答えると、それではまた、と言って二人は去って行く。

「次郎三郎どの」

声をかけれら振り向くと、二人の若者が近づいてくる。

「次郎右衛門どの、新八郎どの」

岡部半弥こと岡部次郎右衛門正綱と、菅沼の竹千代こと菅沼新八郎定盈である。

二人とも元服を済ませ、家督を継いでいる。

「いやしかし、先陣を命じられるとは・・・・・・」

目を見開き、鼻を膨らませ定盈が言う。

「わしも信じられぬ」

定盈の言葉に、元康が頷く。

「いやいや」

正綱が首を振る。

「初陣での次郎三郎どのの働きを、御屋形さまが認めておられたと言う事だ」

「いや・・・・それは・・・・」

元康は否定しようとするが、あるいはそう言う事なのかもしれないと思い、内心嬉しくなる。

二年前、三河の寺部城主、鈴木重辰が織田に内通した。

義元の命を受け、元康が攻め込んだのだが、これが元康の初陣であった。

寺部城は堅城でも無いし、相手は小勢、それに織田から援軍が来たわけでも無い。

だが元康は張り切り、勇猛果敢に攻め立てたのだ。

戦が終わり駿府に戻ってくると、義元は、よくやった、と褒めてくれて、褒美に甲冑を与えてくれたのだ。

「先陣を賜ったのは、あくまでわしが三河の者で、家臣に尾張の土地に明るい者が多いからじゃ」

内心で良い気分にっていたが、元康は謙遜する。

「いやいや、次郎三郎どの才を買っての事じゃ」

ニコニコ微笑みながら、定盈は言う。

「わしは駿府で留守番じゃし、新八郎どのは荷駄隊」

「ずいぶん差をつけられたな」

二人が顔を見合わせ、沈んだ声で呟く。

いやいや、と言って、困って元康が手を振ると、二人がニヤリと笑い、元康の方を見る。

「今に見ておられい」

「次の戦さでは、必ず手柄を立てて、次郎三郎どのに追いつき、追い越して見せるわ」

二人の言葉を聞き、

「ああっ、共に頑張ろう」

と元康が答える。

「おおっ、そう言えば」

ニコリと微笑み、正綱が言う。

「尾張に着いたら、叔父上に宜しく伝えておいて下され」

「ああ、承知した」

既に鳴海城に入っている、岡部丹波守こと、岡部五郎兵衛元信は、正綱の叔父である。

元信は今川一の闘将で、部屋住みの次男坊でありながら、その武功により義元から元の一字を与えられている。

「まぁ、叔父上がおれば、どんな戦さも勝ち戦よ」

誇らしげに言う正綱に、元康と定盈は苦笑する。

正綱にとって叔父は、自慢の叔父であり、憧れの叔父だ。

戦さで方々に赴いているため、元康も定盈も会ったことはないが、その話は何時も聴かされる。

「この世で叔父上より強い者などおりはせぬ、北条の地黄八幡とて、叔父上を見たら尻尾を巻いて逃げ出すよ」

そう何時も自慢しているのだ。

「そう言えば・・・・・」

いつもの正綱の叔父自慢が始まっては面倒と、定盈が話を変える。

「先ほどの彦五郎さまは・・・・・・」

「おい、新八郎どの」

「まだ何も言うておるまい」

窘めてくる正綱を、定盈は笑顔でかわす。

「だがあれではな・・・・・・今川の御家も、先が思いやられるわ」

「新八郎どの」

今度は元康が止める。

「しかし本当に、御屋形さまが小田原から、助五郎さまを呼び戻して下されば良いのに・・・・」

三人が仲良くしていた助五郎は、北条から姉が来て、氏真の妻となると、小田原に戻った。

最後は、別れを惜しんで泣いていた。

「そう言うわけにもいくまい」

定盈の言葉を、正綱が否定する。

「あのように御屋形さまが仰ったのは、あくまで彦五郎さまに当主として、しっかりしていただくため」

元康も頷く。

「彦五郎さまが当主になられる事は変わらぬ、お主も心の入れ替えて、彦五郎さまに忠節を尽くせ」

「わしはよい、わしはよいが・・・・・」

定盈は元康の方を見る。

「わしは、わしの方が彦五郎さまを嫌うておるだけ、彦五郎さまはわしの事など、なんとも思うておらぬよ、しかし次郎三郎どのは・・・・」

そう言って定盈は、少し顎を上げる。

「彦五郎さまの方が次郎三郎どのを嫌うておられる」

おい、と正綱が止める。

たしかに事実だ、父、義元に気に入られている元康の事を、氏真は嫌っている。

「構わぬよ」

穏やかに元康は答える。

「どれほど彦五郎さまがわしを嫌うても、此度の戦さで手柄を立てて、次の戦さでも立てて、そして・・・・・・・」

強い眼差しで元康は二人を見る。

「わしが今川の御家に、無くてはならぬ者なればよい、そうすればどれほど彦五郎さまがわしを嫌うても、わしは構わぬ」

力強い元康の言葉に、うむ、と正綱が頷き、そうだな、と定盈も応じる。

「ならばこそ此度の戦さは、まことに大事」

「なに、心配する事もなかろう」

定盈が微笑む。

「尾張者といえば戦さ下手で有名、卑怯でずる賢く、卑劣な謀しか・・・・」

言いかけて、定盈が止める。

「その・・・・・そう言う意味では無く」

らしくなく、歯切れが悪くなる。

「いや、よいよ」

元康が手を振る。

「御屋形さまが仰っていた事、父上の話、何度か耳にしておったのじゃ」

五年前墓参りに行った時、朝比奈泰能から始めてその話を聞き、その後、家臣たちに聞いてみると、確かにそう言う噂があるらしい、と言う事だった。

しかし今日、義元の口から出た以上、それは元康にとって真実となる。

「わしは侍じゃ」

元康は静かに告げる。

「侍でいる以上、親の仇が居るのは珍しいことでは無い」

一度だけ見た、吉法師の父親の顔を思い出す、老いて疲れていた男だ。

「ましてその仇を、戦さで討てるのであれば、これほど良きことはない」

強い口調で告げる元康に、ああ、そうだな、と正綱が応じる。

「おお、そのとおりじゃ、逆賊織田の三郎めを討ち取ろう」

無理に大きな声を出し、定盈が言う。

「そうじゃな、世を乱す謀叛人、そして我が父の仇の倅、織田の三郎を、必ず討ち取ってみせる」

その言葉を口にした時、元康の心は身体と相反し、急に冷たくなっていく。




「必ずわしがお前を助けてやる」

忘れる事ができぬ、あの言葉、あの姿。

白い顔、通った鼻筋、赤く美しい唇、それに甲高い声。

自分を弟と言ってくれた。

「兄上・・・・・・・」

閉じていた目を開く、ジッと腕を組んで元康は動かない。

その言葉に何度も救われた、どんなに辛いことがあっても、助けてくれると言うその言葉が、元康の支えであった。

だが・・・・・・・・。

「次郎三郎、期待しておるぞ」

義元の言葉を思い出す。

主君である義元の恩は、一生尽くしても返せぬほどのものだ。

親を失い、棄て児同然の自分を守り育ててくれた、一門衆にまでしてくれた。

そうだ、と元康は前を見る。

自分は今川の一門、足利公方にもつながる、今川の一門。

世を乱す、逆賊織田三郎を討つんだ。

「必ずわしが・・・・」

頭の中で聴こえてくる吉法師の声を、頭を振って元康は搔き消す。

「殿」

呼び掛けれて、元康は意識を目の前に事に向ける。

「よろしいですか?」

「うむ、よいぞ」

陣幕の外から、若い家臣が三人入ってくる。

平岩七之助親吉、又五郎こと天野三郎兵衛康景、徳千代こと阿部善九郎正勝の三人だ。

親吉は子供の頃と変わらず太い眉だ、一方、小太りだった康景は痩せて頬も痩け、髭など生やしている。

正勝は相変わらず無口で無表情、何を考えているのか全く分からない。

「おおっ、見事な鎧で御座いますな」

親吉がそう言うと、康景も頷く。

元康が着けている鎧は、初陣の時の褒美として、義元から頂いたものだ。

金箔をふんだんに使って、その上金漆で仕上げられた、金陀美具足だ、今川家ほどの財力が無ければ、作れない物だ。

「少し・・・・派手すぎぬか」

「そんな事はございませぬ」

「そうか・・・・・」

康景はそう言うが、正直元康は、義元から頂いた物だから、仕方なくと言うところがある。

「わしはもう少し、質素な物の方が・・・・・少なくとも、皆の前では・・・・」

「大丈夫です、殿」

親吉が安心させようと、力強く言う。

五年前の墓参りから戻った後、元康は倹約に努めるようにしている。

そうする事により、家臣の暮らしを少しでも楽にしたいからだ。

勿論、そんな事をしたところで、朝比奈泰能に言わせれば、門徒だから寺に寄進するだけかもしれないか、元康にはそれしか出来ない。

義元に謁見する時や、評定の時など、目上の人に会う時以外は、洗いざらしの小袖や袴を着け、継ぎ接ぎだらけの足袋を履き、褌はいつも汚れが目立たない薄黄色にしている。

その元康からすれば、この鎧は派手で高価すぎる、とは言え、義元からの頂き物、着けねば不敬に当たる。

まぁ、仕方ないと自分に言い聞かせ、

「では、行くぞ」

と三人に言う。

元康は先ず、西三河の知立に陣を構えた、知立神社の神職永見家は今川に属しているため、此処を拠点にして、大高城に赴くつもりだ。

陣内を元康が進むと、兵たちが、お殿さま、と言って頭を下げてくる、それに、ご苦労、と言って、元康は声を掛けていく。

昨日、岡崎の城に着いた時、既に陣触れが出ており、四百余の兵たちが集まっていた。

これが我が手勢・・・・・・。

改めて元康は自分の家臣、将兵を見た。

駿府で今川譜代の将兵を見慣れている元康には、身に付けている物は貧相だし、数も少ない。

それでも自分の手勢である、自分の命に従い、自分の為に戦う将兵である。

元康は、一人一人の名乗りを聞き、その顔を確かめ、声をかけていった。

中には手を合わせ、南無阿弥陀仏と念仏を唱える者も居たが、あまり気にせぬようにした。

その将兵を率い、今朝早く、この知立の陣にやって来た。

陣の奥に進む。

そこには軍議のため、家臣の中の主だった者が、集まっている。

元康が進むと、その主だった家臣たちが頭を下げてくる。

軍議の席の一番奥の床机に、元康は腰を下ろす。

付き従っていた、康景と正勝はそれぞれ自分の席に着き、親吉は元康の背後に控える

「皆、おもてを上げい」

そう元康が言うと左右に居並ぶ家臣が、一斉に顔を上げた、その顔を一人一人確認する。

右の一番初めに座るのは、筆頭家老の酒井小五郎忠次である。

駿府に付き従った者の中で一番年嵩で、三十路半ばだ。

潰れた蛙の様に目が離れており、何時も不機嫌そうな顔をして、あまり喋らない。

忠次の隣に座るのは、本多作左衛門重次と言う者だ。

歳は忠次と同じくらいの三十路半ばだが、十は老けて見える。

目鼻立ちのはっきりしている、いかにも頑固者の三河人と言う感じの男だ。

元康も昨日初めて会ったが、事前に鳥居彦右衛門元忠に、

「作左どのは三河者の見本のような御仁、口が悪く、開けば文句ばかりおっしゃいます」

と聞かされている。

ですが・・・・・・と元忠は付け足す。

「見本のような御仁だからこそ、家臣、領民に信望があり、また作左どのが申すことが、家臣、領民の思っている事だ考えられた方が、よろしいかと思われます」

門徒なのか?と問おうかと、元康は思ったが、止めておいた。

重次の隣に座るのは、元康が墓参りで三河に戻った際、出迎えた本多肥後守忠真と大久保七郎右衛門忠世である。

五年ぶりに会うが、両名とも変わらず、いかにも骨太な、しっかりした武者で、着ているものは見窄らしいが、戦場にいると頼もしく見える。

目鼻が大きく、顔立ちがハッキリしているのは、本多の血筋なのかと、忠真と重次を眺めながら思う。

そう言えば、あの小便をかけてきた忠真の甥も、そう言う顔だったと。元康はふと思い出す。

忠世の隣、右側の末席に座るのは、何時も無口で無表情の阿部善九郎正勝である。

相変わらず何を考えているのか、まったく元康には分からない。

目を右から左に向ける。

左の列の初めと二番手には、石川日向守家成と石川与七郎数正が座っている。

二人とも色の白い品の良い顔立ちでよく似ている、歳も家成が一つ若いだけの二十半ばで、背丈も同じくらいだ。

ただ若い家成の方が叔父にあたり、石川の当主だ。

皆が見窄らしい鎧兜の中、家成だけが、それなりのものを着けている。

数正の方は、駿府にも共に従っていたから、元康とすれば親しいし、どんな男か分かっている、知恵者で、困った時、色々と策を考えてくれる。

目が合い、家成がゆっくり頭を下げる、顔は似ているが、数正が痩せているのに、家成は丸い顔をしている。

温厚な当主と切れ者の甥という感じだ。

数正の隣に座るのは、鳥居彦右衛門元忠だ。

ここに居る主だった家臣は、元康に従い駿府にいた者たちと、三河に残った者たちに分かれる、この痩せて手足と首の長い二十歳の若者は、駿府と三河を行き来していた為、どちらとも親しく、どちらの事も詳しい。

昨日、家臣のことは全て元忠から、説明を受けた。

全員は勿論、憶えきれなかったが、主だった者は何とか頭に入れた。

元忠の隣に座るのは、高力与左衛門清長と天野三郎兵衛康景だ。

清長は厚い瞼をした地蔵の様な顔をして、静かに座っている。

隣にいる康景は硬い表情をしている、元康が目を向けても気がついていない。

無理も無いな、と元康は思う。

天野康景と平岩親吉は、何時も元康の側にいて、最も信用している家臣だ。

真面目で不器用な親吉に対し、器用で機転が利く康景だが、流石に大きな戦さの前、緊張しているらしい。

左の末席に控えるのは、服部半蔵保長である。

三白眼の鋭い目をした、四十過ぎの男である。

保長は元々、伊賀地侍、俗に言う伊賀の忍びで、初めは元康の祖父清康に、銭で何度か雇われていたらしい。

忍びの者は、銭を貰い仕事をして、それが終わればそれまでで、その後は、場合によれば敵になる事もあるという様なら連中だ。

しかし清康は保長を気に入り、何度か銭で雇った後、三河に屋敷を与え、召し抱えたのである。

本来であれば、主だった者が集まる軍議の席に、加われるほどの身分でも無い新参者だ。

それでも元忠と数正が、

「半蔵は役に立つ男です」

と言うので、特別に軍議に呼んでいるのだ。

保長は他の者と違い、兜鎧を着けず、猟師の様に皮袴を穿いている、また、一人床机を使わず、地面に片膝を立てて座っている。

「皆、よう集まった」

家臣、一人一人の顔を見ながら、元康は口を開く。

「此度、尾張に攻め込み、謀叛人織田三郎を討ち取り・・・・・・」

ジッと皆が元康の方を見る、元康は強い口調で告げる。

「永きにわたる尾張の織田との争いに、決着をつける」

おおっ、と声が漏れる。

「腕が鳴りますなぁ」

忠世が言うと、隣の忠真が頷く。

「忌々しい尾張の連中を、一人残らず討ち取ってやるわ」

口を大きく開き、重次が吠える。

意気軒昂な家臣たちを見て、うむ、と元康が頷く。

「ところで・・・・・・・」

少し高く澄んだ、穏やかな声が響く。

「此度の戦さが終われば、今川の御屋形さまは隠居なされるとか・・・・・」

家成が声同様の穏やかな顔で、元康に話しかける。

「そうなれば、はてさて、岡崎の城はどうなるのでしょうか?」

お待ちを、と数正が家成に言う。

「戦さの前に終わった後の話など、如何かと・・・・」

「しかし与七郎、戦さと言うても、今川の本隊が来れば、終わりであろう?そうなればその後の事と言うても・・・・・・」

二人のやり取りは、どこか不自然で芝居がかっている。

おそらく数正の入れ知恵で、当主である家成に、元康に尋ねるよう仕向けたのだ。

「日向守、その事、心配には及ばぬ」

「それでは、これを機に・・・・」

うむ、と頷き元康は、家臣を見回す。

「岡崎の城は、我らの物にと願いでるつもりだ」

おおっ、と家臣たちから喜びの声が上がる。

元康はそのつもりでいる、元々今川の奉行が置かれているのは、織田への備えの為と、元康が幼かったからだ。

織田が滅び、元康が元服しているのだから、返還は叶うと思う。

勿論、この戦さで手柄を上げねばならない。

「これはめでたい、これでやっとあの忌々しい今川の奉行たちも失せるわけだ」

大きな声を上げて、重次が笑う。

「それでは殿は、この戦さが終われば、お城に入られるわけですな」

いや、と重次の言葉に元康は首を振る。

「わしは今川の御屋形さまの義理の甥、駿府に戻り今川の一門衆として、新たに家督を継がれる今川の彦五郎さまの、支えにならねばならぬ」

なんと、と重次は吠える。

「では殿は、三河に戻られぬと?」

「そうじゃ」

「もう殿は、三河の者ではないと?」

さっきまでの上機嫌が嘘のように、重次は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「作左、落ち着け」

「何を言われる、小五郎殿」

宥める忠次に、重次が噛み付く。

「作左衛門」

出来るだけ穏やかに、元康は重次に言う。

「別にわしは、駿河人間になったわけではない、あくまで三河の松平次郎三郎じゃ」

不満顔で睨んでくる重次から視線を外し、元康は家臣一同を見まわす。

「足利公方家の御一門であり、三河守護である今川の御屋形さまに従うのは、三河の国衆として当然のことじゃ」

強い口調で家臣一同に告げる。

「で、あるから、戦さが終われば、わしは駿府に戻るが、岡崎の城は・・・・・・」

そう言って元康は、目を忠次に向ける。

「小五郎」

はっ、小さく短な声で忠次が応える。

「そして彦五郎」

今度は家成の方を向き、声をかける。

はい、と穏やかに家成が応じる。

「二人には城代として、入って貰うつもりだ」

お任せを、と家成が答えた、多分、元康のこの言葉を、数正は家臣一同に聴かせたかったのだろう。

忠次の方は、黙って頷くだけだ。

「しかしそれも、戦さが終わった後の話、今は目の前に戦さに、心を一つにいたせ」

そう元康が告げると、皆が、はっ、と答える。

だが重次だけは不機嫌面で答えない。

「作左」

忠次が重次の膝を叩く。

「お主ら駿府に行った連中は、今川の奉行どもの事を何も知らぬから、そんな平気でいられるのじゃ」

その重次の言葉に元康は腹が立った。

どうせ寺に全部寄進しておるのだろう、そう心の中で言い、重次を睨む。

「いい加減に致せ」

忠次が強い口調で言う、重次も仕方なしという感じで顔を背ける。

どうやら文句ばかり言う重次も、忠次には従うらしい。

それを見ていて元康は、ある事に気がついた。

六歳の時に三河を離れ、八歳から十年、元康は駿府にいる。

元康にとって三河はそれほど馴染みがないし、三河の家臣はそれほど親しくない。

同じ年頃で駿府に付き従って来た、平岩親吉や天野康景もそうだろう。

しかし酒井忠次や高力清長は二十歳過ぎまで三河に居たし、石川数正も十七、八まで居たのだ。

彼らは三河の者を知っているし、親しくもあるのだろう。

なんとなく、駿府組と三河組というように分けて、三河組より駿府組の方が、信頼出来ると思っていたが、そんな事は家臣たちからすれば、元康の考え過ぎだと思われるのかもしれない。

重次はまだ文句がありそうだったが、忠次に抑えられているので、とりあえず静かにしている。

それを見て元康は、後ろに控える親吉の方を見る。

親吉は頷き、地図を取りに向かう。

「それではこれより、此度の戦さの手配を・・・・・・」

そう元康が皆に告げようとした時、陣幕の外で大きな声がする。

止めい、だとか、邪魔だ、とか何やら兵たちが喧嘩をしているようだ。

「おい、誰ぞ止めて来い」

そう元康が命じると、長清が、承知、と言って立ち上がり、隣に座る康景を見る、ははっ、と言って立ち上がり、二人で陣幕の外に出ようとする。

「我らも」

そう言って、忠真と忠世も立ち上がる。

その時、黒い大きな影が、中に入って来た。

「お前・・・・・・鍋之助」

忠真が声を上げる。

黒い影は、そのままズンズン前に進み、元康の前で跪く。

「お前、あの時の・・・・・・・・・」

「本多鍋之助、参陣致しました」

元康を無視して黒い影、本多鍋之助は大声で名乗った。

その顔を見ると、確かに五年前、元康に小便を掛けた、忠真の甥だ。

しかし・・・・・・・。

「お前・・・・・・大きゅうなったなぁ」

その身体を眺めて、元康は声を漏らす。

鍋之の背丈は、元康や親吉などより頭一個分近く高い、流石に大柄の忠真や忠世ほどでは無いが、それでも長身の元忠と同じくらいだ。

「おい鍋之助、何をしておるか」

重次が当然のように、声を上げる。

「何が参陣じゃ、元服前の十三のワッパが」

えっ、と元康はその重次の言葉に驚く。

「お前・・・・・・・十三なのか?」

顔は確かに幼さが残るが、身体は間違いなく大人だ、何より今、十三なら、五年前、小便をかけて来た時、元康は十くらいだと思っていたが、七つか八つという事になる。

「わしは本多の棟梁じゃ」

目を見開き元康が驚いていると、鍋之助はその身体同様の大きな声を上げる。

「松平のお殿さまが戦さをするなら、馳せ参じねばならぬ」

「何が棟梁じゃ、ワッパが、とっと帰れ」

「うるさい作左爺」

「だれが爺じゃ」

重次が鍋之に掴みかかろうとする、止めぬか、と忠次がそれを抑える。

鍋之助、帰らぬか、と忠真が甥を立たせて、外に出そうとするが、嫌じゃ、と言って鍋之助は動かない。

「いい加減にせんか」

元康が大声を上げる。

はぁ、とひとつため息を吐き、元康は鍋之助を眺める。

「鍋之助・・・・・・」

「はっ」

「お前、わしのようなだらしのない大将には仕えとうないと、言っておったではないか」

「殿、拙者考えを改めました」

鍋之助はニコリと笑う、その笑顔は間違いなく十三の少年の顔だ。

「ほぉ」

「殿がだらしが無いのであれば、拙者が果敢に戦い、守って差し上げればよろしいと」

「・・・・・・・・」

「むしろ不甲斐ない大将の方が、守りがいがあって良いくらいだと」

「・・・・・・・っああっ、そうか」

あまりにも正々堂々、正面から不甲斐ないと言われて、元康もいっそ清々しくすらなった。

が。

「こ、この大戯けが」

火を吹くような、重次の怒号が飛ぶ。

「殿に何という口をきいておるか、不甲斐ない方が良いとはなんじゃ鍋之助、そこになおれ、手討ちにしてくれるわ」

「うるさい、作左爺、やれるものなら、やってみい」

重次が鍋之助に飛びかかろうとする、それを必死に忠真が抑える。

「作左どの、落ち着かれい、殿の御前です」

「うるさい、関係あるか」

真っ赤になって重次が吠える。

「いつも申しておろうが、この悪ガキを寺に入れ、お前が当主になれと」

「作左どの、この様な場でその話は・・・・・・」

必死に忠真が重次を抑える、重次はそれを振りほどき、鍋之助に飛びかかろうとする、鍋之助は重次に身構える。

「止めぬか」

元康が大声を上げるが、重次も鍋之助も止まらない。

反対の席で、家成がニヤニヤと騒動を愉快そうに眺めている。

他の者は、どうしたものかと、腰を浮かしかけて止まっている。

「いい加減にせぬか」

雷の様な声が響く。

忠次が重次のの腕をつかみ、その場に組み伏せる。

「・・・・・・・」

ギッと忠次は鍋之助を睨みつける、さすがの腕白小僧も静かになる。

「おお、怖っ」

呟く家成の方に、忠次が目を向ける、慌てて家成は口を噤み横を向く。

「もうよい」

元康が言うと、忠次が組み伏せていた重次を放す、鍋之助をひと睨みして重次が席につく。

「鍋之助」

元康が静かに呼ぶ。

「作左衛門の申すとおり、元服前の者を戦さには連れて行けぬ」

「なんと」

鍋之助が何か言おうとするが、その前に元康が告げる。

「だからこの場で、お前を元服させる」

「と、殿」

重次が声を上げたが、作左、と言って忠次が黙らせる。

「肥後、お前の家では当主は、何と名乗っておる?」

「平八郎でございます」

そうかと、忠真に頷き元康は、鍋之助を見る。

「では鍋之助、今日からお主は、本多平八郎・・・・・・」

元康は再び、忠真の方を見る。

「諱には、何と言う字を入れておる?」

「忠の字にございます」

そう言って忠真は、忠の字を指で書く。

「では、忠の字と、わしの康の字を与えて、本多平八郎忠康と・・・・・・」

「殿」

元康の言葉を遮り、鍋之助は大声を上げる。

「名は、是非に勝の一字にしてくだされ」

「はぁ・・・・・・?」

呆気にとられる元康を他所に、鍋之助は堂々と告げる。

「拙者、天下無双の侍を目指しております」

「あ・・・・うん・・・・」

とりあえず元康は頷く。

「勝って、勝って、勝ち続けたいので、名には勝の一字を入れてたいのでござる」

胸を張って十三歳の鍋之助は言う。

「康では弱すぎます」

「・・・・・っ・・・・っぁ・・・・」

ニコニコ微笑みながら言う鍋之助の言葉に、元康は口を開けて、声にならない音を漏らす。

「こ、こ、こ」

重次が顔を真っ赤にして、額に青筋を立てる。

「この、大馬鹿者が」

先ほどの忠次を超える大声を、重次が上げる。

「殿がくださると言うのに、いらぬとは何事じゃ」

「いらぬから、いらぬと言うたのじゃ」

「黙れ、鍋之助」

「うるさい、作左爺、わしはもう鍋之助ではない、平八郎じゃ」

「止めんか」

元康が怒鳴ると、忠真に羽交い締めにされている重次が、ぐぐっ、と唸って座る。

「もう分かった、鍋之助、今日からお前は、本多平八郎忠勝じゃ、それで良いな?」

「忠勝・・・・ただかつ・・・・ただ、勝つ」

満面の笑みを鍋之助こと、本多平八郎忠勝は浮かべる。

「良い名でございます」

それはそうだろう、おまえが決めたのだからな、そう心の中で呟きながら、元康はため息を吐き、忠勝に命じる。

「叔父の隣に座り、静かにしておれ」

はい、と元気よく返事をして忠勝は忠真の隣に向かう。

仕方なく忠世が立って席を譲り、その忠世に床机を譲って、正勝が対面の保長の様に、地面に片膝を付いて腰を下ろす。

どこまで話した・・・・?

元康は分からなくなり、親吉の方を見る、親吉は地図を持ったまま、その場に立ち尽くしている。

そう言えば、差配はまだ何も言っていない。

地図を持っている来るよう、元康は無言で頷く。

松平家と元康の行く末を決める大戦さである、事前に元康は、何度も軍議の練習を親吉と康景を相手に行った。

本多作左衛門重次という男が口うるさい、という話を元忠から聞いていたので、文句を言われぬ様に、淀みなく軍議を進められる様に練習したのだ。

楽しそうに微笑んでいる忠勝を、チラリと元康は見る。

此奴のせいで、全部ぶち壊しだ。

腹が立ったが、心を入れ替え、元康は低い声で皆に告げる。

「よいか」

親吉が地図を元康の前に広げた。

三河と尾張、ここ知立や鳴海、大高、そして丸根や鷲巣の位置が簡単に描かれている。

「鵜殿長門守どのが守っておる大高の城に向かうのが、まず最初の我らの任務じゃ」

大高の城を元康が指し棒でさす。

「城に入った後は、長門守どのと共に、丸根、鷲巣の両付け城を攻める」

丸根、鷲巣を示しながら元康は続ける。

「二つの付け城が落ちれば、長門守どのは御屋形さまの本隊と合流されるため、大高の城を出られる」

元康は顔を上げ一同をみる、皆、真剣に話を聞いてくれている。

「大高の城は我らだけで守り、その後、御屋形さまの本隊が来れば、我らも合流し、織田の居城、清洲を目指す」

力強く元康が言うと、ははっ、と皆が答える。

うむ、と元康は頷き、更に話を続ける。

「事前に長門守どのより、兵糧が乏しいとの知らせを受けた」

そこで・・・・と元康は家臣たちを見回す。

「先ず、兵糧を運び込む事にする」

えっ、と皆が驚く、当然だ、普通に考えれば、兎に角城に入り、鵜殿長門守長照の軍勢合流し、丸根、鷲巣の両砦を陥とし、その後、兵糧を運び込む方が、確実だ。

「ただしこの部隊は囮だ」

「おとり・・・・・?」

康景が声を上げる、芝居だ、事前に元康がこう言えば、こう言うと決めておいたのだ。

「そうだ、兵糧を運ぼうとする荷駄隊を、城に近づけ、丸根、鷲巣の兵を誘き出す」

地図で示しながら、元康は言う。

「そして伏せていた兵で、それを叩く」

パン、と指し棒で地図を叩く。

「おおっ」

数正が声を上げる。

「その後、まことの荷駄隊で兵糧を運び込む」

地図で荷駄隊の動きをさす。

「見事な策にございますな」

穏やかな声で家成が言うと、まこと、まこと、と数正が頷く。

元康は呆れる、何故なら策を考えたのは数正だからだ。

勿論、他の者に漏らしておらず、元康の手柄にしているが、家成に褒める様に言っているのだろう。

策には感心するが、このお芝居には呆れてしまう。

ともあれ、作戦の差配だ。

「鳥居彦右衛門」

「はっ」

「お前は囮の荷駄隊を率いてもらう」

承知、と元忠が頭を下げる、渡り衆を束ねる元忠は、荷駄の手配に慣れている、囮でも本物の様に見せることが出来るだろう。

「石川日向守」

「はい」

「お前にはまことの荷駄隊の方を任せる」

お任せあれ、と家成はゆっくり頭を下げる。

「高力与左衛門」

「はっ」

元康は名を呼び、清長の方を見る、清長も元康の方に向く。

「お前は彦五郎に付いて、荷駄隊の指揮を手伝ってやれ」

黙って清長は頭を下げる。

お大尽の家成には部隊を指揮する事は出来ない、実質的には清長が指揮する事になるだろう。

ただ石川の当主である家成が無役というのは、数正としてはまずいので、無理矢理の配置だ。

「それから服部半蔵」

はっ、と末席に控える伊賀者が前に出て、元康の正面に跪く。

「お主は手の者を四方に放ち、織田方の動きを逐一知らせてくれ」

「承知」

そう言って保長は元の場所に戻る。

元康は何も言わなかったが、保長は既に一仕事終えている。

数正に命じられ、こちらが兵糧を運び込もうとしているという噂を、織田方に流しているのだ。

報告は聞いていないが、どうやら上手くいっているらしい。

「与七郎」

「はっ」

「お前は一度岡崎の城に戻り、御屋形さまの本隊が滞りなく進んでいるか、確認を取ってくれ」

「承知致しました」

数正は頭そ下げる。

戦さの事も大切だが、義元の事、今川の他の家臣たちのと友好関係も、元康には大切な事だ。

景隆には昨日会ったが、前任の朝比奈泰能に比べ、貫禄の無い人物だった。

奉行としては優秀な様だが、武将としてはあまり頼りにはならなさそうだった。

そんな景隆の所に重次の様な連中を送れば、悶着を起こすかもしれない。

その為、数正を送るのだ。

「残りの者はわしと共に、伏兵として囮の荷駄に、織田方が喰らい付いたら、そこを叩く」

「おおっ、腕が・・・・」

「腕が鳴るわ」

重次が言いかけた言葉を先に忠勝が言う、重次がキッと忠勝を睨むが、忠勝はフンと他所を向く。

「では皆の者・・・・・・」

一同を見回し、元康が告げる。

「敵は守護の斯波家を追い出した、謀叛人織田三郎である」

元康は駿府で義元が家臣一同に告げた言葉を、同じ様に自分の家臣たちに告げる。

「これは足利の世を乱す謀叛人を討伐する、正義の戦さである」

大きな声で元康は熱弁をふるう。

義元が喋っていた時は、家臣一同が黙って聞いていた、しかし元康の前にいる三河の者たちは全く違う。

忠次はムスッとした顔で目を閉じたままだし、対面の家成は眠いのか欠伸を噛み殺している、忠世と康景それに数正はかろうじて真面目に聞いてくれているが、忠勝は今にも走り出しそうな顔つきで、当然まったく話など聞いていない、それを見て重次が今にも怒鳴り声を上げそうだし、二人に挟まれている忠真は、心配そうに交互に二人を見る、末席に控える正勝と保長は無表情で、何を考えているのか全く分からない。

はぁ、と内心ため息を吐きながら元康は、それでも親吉と康景と練習した最後の台詞を言う。

「尾張との永きに渡る諍いに決着をつける時、皆の者いざ出陣じゃ」

おおっ、と忠勝が誰よりも速く声を上げる、それも、元康が、決着をつける時、と言った後に、大声をあげた。

そのせいで後の元康の台詞は搔き消えるし、他の者もどう返事をしていいのか分からず、ばらばらに、おおっと返事をする。

こりゃ、鍋之助、と重次が忠勝を怒り、なんじゃ、作左爺、と早速二人は喧嘩を始める、それを忠真が止め、くくくっと家成が笑う。

よく見ると、もう仕事に取り掛かっているのか、保長はいない。

一世一代の大戦さなのに、締まらぬ出陣じゃ、と心の中で呟きながら、元康は立ち上がる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る