第4話 墓参り

顔をゆっくり上げる。

「うむ、立派であるぞ」

主君今川義元の言葉に、はっ、と返事をする

「わしの元の一字を与える、今日よりお主は、松平次郎三郎元康じゃ」

「ありがたき幸せ」

心の底から、そう返事をする。

十四歳の春、竹千代改め、松平次郎三郎元康は、大きな声で宣言する。

「この名に恥じぬよう、粉骨砕身、今川の御家の為、働くしだいに御座います」

「おおっ、よう言うた」

ははっ、と元康は頭を下げる。

「秋には我が姪、瀬名と祝言となろう」

ニコニコ微笑みながら、義元は言う。

「これでお主も我が一族、頼りにしておるぞ」

「勿体なき御言葉」

恐縮して元康は身を固くする。

「瀬名はなぁ、色が白うてかわゆいぞぉ」

ニタニタ頬を緩めて義元が言う言葉に困り、竹千代はただただ頭を下げる。

とはいえ、感激に打ち震えている。

別に瀬名が美しいと言われているから、それが嬉しいわけではない。

今川の一門衆に加われる事が、ただただ名誉なのだ。

それは元康の立場からすれば、破格の事といってもよい。

元康は今川に従う国衆の中で、有力とは言い難い、どちらかといえば微妙な立場だ。

松平家は、三河松平郷を発祥とし、田畑を切り開き、他の国衆地侍と戦さをしたり縁組みをしたりして、中三河、西三河に勢力を張る豪族となった。

三河では有力な豪族とは言え、所詮は、氏素性の確かでない一族だ。

それに元康の安祥松平家は、別に宗家ではない。

五十年ほど前、義元の父、今川氏親の命で、のちに小田原北条氏の祖となる伊勢盛時が、三河に攻めてきた。

それを元康の高祖父、長親が打ち破り、一躍武名を上げた。

それにより、庶家であった安祥松平家が、松平一族の惣領になったのだ。

長親の孫で、元康の祖父である清康は、中三河、西三河だけでなく、三河全土を切り従えていたが、その清康は二十五の若さで亡くなってしまう。

一代で勢力が大きくなると、当然、その人物が亡くなれば、まして若くて亡くなれば、その後は、混乱し、衰退するものだ。

現に清康の子で、元康の父である広忠は、大叔父に領地を奪われそうになった。

広忠は義元を頼りに、何とか領地を取り返すが、父清康同様、二十四の若さで亡くなる。

そうなれば当然、清康が切り従えた三河全土どころか、中三河と西三河も本来であれば危うい。

元康の手になど残らず、親族、或いは他の松平家、他の国衆、下手をすれば譜代の家臣に奪われても仕方がない。

そういう立場であった。

だがその領地を、義元が元康の後見人として、奉行を派遣して守ってくれたのだ。

それもただの奉行ではない、今川家で太原雪斎に次ぐ重臣である朝比奈備中守泰能を送ったのだ。

これでは誰も手出しはできない。

父を失い、領地も維持できないような、捨て子同然の元康に対して、その領地を守ってくれるどころか、一族に加えてくれるなど、破格の厚遇だ。

今川の為に、御屋形さまの為に死のう。

そう元康は心の中で誓っていると、小姓が進み出て、元康の前に何か置く。

「元服に祝いじゃ」

はっ、と返事をして顔を上げると、そこに太刀が一振り置いてある。

「お主は、やっとう(剣術)が好きじゃからのぉ、嶋田の五条義助に打たせた逸品じゃ、大事に使え」

五条義助は備前菊一文字派の流れをくむ、今川家お抱えの刀工である。

「か、かたじけのう、ございます」

元康は床に額を擦り付け、震えながら感謝の言葉を述べる。

どうする?

迷ってしまう。

ここまでして頂いて、言っていいのか?

だが、そう決めてきたのだ。

「御屋形さま」

意を決し、元康が口を開く。

「うん、どうした?」

「お願いしたき儀がございます」

「なんじゃ?申してみい」

元康は顔を上げる。

脇息にもたれている義元は、笑顔で機嫌も良さそうだ。

バッと頭を下げて、元康は頼み込む。

「是非一度、三河に戻り、父の墓参りがしとう御座います」

ずっと考えていたことだ、ずっと望んでいたことだ。

そしてずっと我慢していたことだ。

本当なら、もっと立派な侍になって父の墓前に報告すべきであろう。

しかし父に会いたい。

勿論、三河に行ったところで、既に父はいない。

それでも父を感じたい。

どうしても一度、父を思いたいのだ。

「ふうぅぅぅむ」

先程までと違い、重く低い声が義元から発しられる。

「そうかぁ・・・・・墓参りか・・・・」

パチン、パチンと何度も扇子を鳴らす音がきこえる。

「そうじゃのうぉ」

御気分を害されたか、そう元康は思い、背骨が氷のようになり、全身が冷えていく。

「今、次郎三郎が三河に行くのは、あまり良いことだとは思わぬがのう」

どうしよう、取り消すべきか?

「あ・・・・っ・・・あっ」

喉がカラカラになり、声が出ない。

ふむ、と呟き、脇息にもたれている義元が身体を動かすのが、元康に聞こえる。

ゴクリと唾を飲む。

願いを取り下げようと、元康は申し訳ありませぬと口を開きかけた。

「分かった」

義元の少し高い声が響く。

えっ、と元康は顔を上げる。

「三河に行くことを許そう」

「あ、ありがとうございまする」

急いでもう一度、元康は頭を下げる。

「うむ、まぁ、次郎三郎も良い機会じゃ」

冷めた声で、淡々と義元は告げる。

「世の中というもの知っておくのも、よいかもしれぬ」

言葉の意味が分からず、元康は顔を上げる。

そこには何時もの、優しい義元の顔があるだけだ。




元康は三河に行けることになった。

平岩七之助、天野又五郎、そして高力与左衛門清長を連れていくことにした。

また案内役として鳥居鶴之助が、三河から迎えに来た。

鶴之助は駿府に来た時、元服した。

それも義元から一字貰い、彦右衛門元忠となった。

これには元康も驚いた。

元忠は元康の家臣、義元から見れば陪臣にあたる、それに一字を与えるなど、考えられない事である。

菅沼の竹千代のような国衆の子や、岡部半弥のような譜代の家臣ですら、なかなか貰えないのに、陪臣の元忠が貰えるなど、聞いたことがない。

元忠が渡り衆の者だからという事を、清長が言っていたが、それだけで貰えるものなのかと、元康は首を傾げる。

兎にも角にも、一字を貰った元忠の案内で、元康一行は三河岡崎に向う。

「これが、我が故郷・・・・・」

三河地を踏み、家康は呟く。

六歳の時、駿府に向かうところを、千貫で尾張に売られそこで二年、その後、駿府に移って六年、八年ぶりの故郷だ。

馬に乗り、ゆっくりと道を進む。

まったく記憶にないわけではない、豊かな緑、矢作川の青、おぼろげながら憶えている。

しかし・・・・・・。

「貧しいなぁ・・・・・」

周りの者に気づかれぬよう、小さな声で呟く。

田畑でせっせと働いている領民を見ても、あまり整備されていない道を見ても、集落の家々を見ても、駿府の街を見慣れている元康には、鄙びた貧しい処としか感じない。

そんな故郷を眺めながら、少し哀しい気持ちになって元康が馬を進めていると、道の先で七、八人の侍たちが待ち構えている。

そのうちの二人が、こちらに近づいてくる。

「本田肥後守忠真にございます」

「大久保七郎右衛門忠世にございます、お帰りなさいませ、殿」

二人が頭を下げると、後ろにいる者も、一斉に頭を下げる。

「うむ、出迎えご苦労」

元康が声を掛けると、忠真が馬の轡を取る。

二人とも二十代半ばのようだ。

本田忠真は藍色の粗末な小袖を着て、洗いざらしの袴を履いている、大き目、大きなくちをしており、肩幅のガッチリしている如何にも骨太な武者に見えた。

「ここからは我らが案内します」

大久保忠世はそう言うと、元康の側に寄る。

忠世の方は薄茶色の小袖を着ているが、こちらの方も粗末で、袴も洗いざらしだ。

ただ顔は張った額と顎をしており、着ている物は粗末でもなかなかの武者面をしている。

「このまま、お城に向かわれますか?」

「いや」

忠世の問いに、元康は首を振る。

「まずはなによりも、父上のもとに向かいたい」

「はっ、では大樹寺の方に」

「頼む」



大樹寺は松平家の菩提寺で、父の広忠を含め、代々の当主が眠っている。

「父上・・・・・・・」

墓の前に立ち、元康はジッと目を閉じる。

帰って参りました・・・・・。

心の中で静かに呟く。

父の最後の姿、最後の言葉を思い出す。

「立派な侍になれ」

はい、必ずなります。

心の中で元康は答える。

「律儀に生きられよ」

太原雪斎の言葉を思い出す。

立派な侍になるのに必要なこと、それは律儀だ。

それをいつも、元康は心掛けている。

「命を惜しむな、名こそ惜しめ」

主君今川義元の言葉だ。

御屋形さまのもと、必ず立派な侍になります、父上。

雲ひとつ無い五月晴れの下、元康は父の墓に誓う。

「・・・・ゆくか・・・・」

振り返り元康は、家臣たちに言う、はい、と彼らは返事をする。

大樹寺を出て、岡崎の城に向かう。

「貧しい・・・・だが・・・」

父の墓前に立ち、決意をあらたにした元康には、故郷が先程と少し違って見えた。

たしかに駿河に比べれば、貧しいし鄙びている、しかし自然が豊かで心が和む。

それに人だ。

元康一行が進むと、領民たちは畑仕事の手を止め、一行に手を合わせている。

ブツブツと何か呟いているので、なんだろうと?耳を傾けてよく聴くと、南無阿弥陀仏と念仏を唱えているのだ。

それを聞いて、元康は感動する。

三河の者は貧しいかもしれない、それでも朴訥でとても信心深い。

愛すべき民だ。

この者たちを、守っていこう。

そう思いながら、元康は城への道を進む。

そうして大きな松が見え、その下を通っていると、ポタポタと元康の手や顔に何かがかかる。

はて、雨か?先ほどまであんなに晴れておったのに、と元康は上を見る、すると少年が一人、松の上から小便をかけてきている。

「うわっぁあああ」

慌てて馬を走らせる、遠くの方で、わぁぁああ、と声がする、少年が数人、走り去って行く。

「このわっぱ」

七之助が松の木を登って、少年を捕らえようとする、しかしヒラリと少年は松から降りて、それをかわす。

「まて」

又五郎が下で待ち構え、手を伸ばす、少年はスルリとそれもかわす。

「捕まえた」

先回りしていた元忠の長い手が、少年を掴む。

放せ、放せ、と少年が暴れる。

十ぐらいであろうか、大きな目をした少年である

「放してやれ、子供の悪戯じゃ」

清長が差し出した布で、小袖を拭きながら元康が言う。

先ほど逃げた子供らと、悪戯を思い付いたのだろう。

「お前・・・・・鍋之助」

少年の顔を見て、本多忠真が声をあげ駆け寄る。

「知っておる者か」

「申し訳ございませぬ、我が甥にございます」

忠真は甥の頭を掴む。

「お殿さまになんということを、謝らぬか」

そう言って、無理矢理頭を下げさそうとするが、少年は頑として頭を下げない。

よい、と言って、元康は止めさせる。

「鍋之助とやら、悪戯も大概にしておけ」

元康は鷹揚に声を掛ける。

相手は自分より四つか五つほど下だろうか、その為むしろ、元康を大人の態度にさせた。

「わしは本多の惣領、本多鍋之助じゃ」

黒々とした大きな目で、キッと元康を睨み、鍋之助少年は大きな声で告げる。

「松平の不甲斐ないお殿さまには、仕えとうない」

「なんと言うことを」

叔父の忠真が、慌ててその口を塞ごうとする。

待て、と言って元康はそれを制す。

馬上よりジッと鍋之助を見つめる。

「わしはそれ程、不甲斐ない主人か?」

静かに元康は問う。

「わしら三河の者は、みな飢えておるわ」

声を張り上げ、鍋之助が告げる。

「それもこれも、みな松平のお殿さまがだらしないからじゃ」

顔を真っ赤にして少年は叫ぶ。

「松平のお殿さまがだらしないから、三河の者は、尾張に負け」駿河者に使われて、飢えておるのじゃ」

えっ?と元康は戸惑う。

「米も麦も、尾張に奪われ、駿河者に取られて、木の皮、草の根を食うしかないのじゃ」

鍋之助少年の言葉を聞き、そんな事になっておるのかと元康は愕然とする。

「それもこれも、松平のお殿さまが弱くてだらしないからじゃ」

カッと元康を睨み、鍋之助が叫ぶ。

「わしは、本多鍋之助」

少年の声は、この世の隅々まで響くほど大きな声だ。

「いずれ天下無双の侍になる」

何の迷いもなく、鍋之助少年は、堂々と宣言した。

その言葉に元康は衝撃を受ける。

「天下無双の侍に、弱い主人は要らぬ」

「こら、なんと言うことを・・・・・」

忠真が、鍋之助を黙らせようとする。

「待て」

元康は馬から降り、鍋之助に近づく。

「そうか、お前は天下無双を目指しておるのか」

「そうじゃ」男の子に生まれたなら、侍に生まれたなら、当然じゃ」

叔父に押さえつけられながら、鍋之助はそれでも堂々としている。

「わしは不甲斐ない主人か・・・・・」

元康は静かに言う。

「わしは情けない主人か・・・・・・」

目を瞑り、鍋之助、と少年を呼ぶ。

「わしは不甲斐ない、情けない、弱い主人かもしれぬ」

パッと目を開き、鍋之助を、そして忠真や他の家臣を見る。

「だがいずれ、必ずお前らが認めるような、誇れるような大将になってみせる」

強い口調でハッキリと、元康は告げる。

「天下無双を目指すお前が認める、立派な大将にわしは必ずなる」

ジッと元康は鍋之助を見る、鍋之助も元康を見返す。

しばし見合っていたが、ふん、と言って鍋之助が口を開く。

「そんな言葉、当てになるか」

「鍋之助」

忠真が、甥の頭を抑える。

「よいと言うておろうが」

元康は二人から離れ、馬に乗る。

「肥後、甥を放してやれ」

「しかし・・・・・・・承知しました」

忠真は甥を放す。

「城への道案内は、七郎右衛門に任す、お前は甥を連れて帰れ」

「ですが・・・・・分かりました、失礼致します」

そう告げると、甥を引きずる様にして、忠真は去っていく。

「七郎右衛門・・・・・」

「はっ」

元康は振り返り、忠世に問う。

「先ほどの話、本当か?」

「・・・・・・あっ・・その・・・」

眉を寄せ忠世は戸惑う。

「・・・・・貧しく、その日の暮らしに困っている者が殆どなのは、まことでございます」

静かに忠世は告げる。

「それは・・・・・・その、あの者が申す通り、今川の取り立てが厳しいのか?」

「それは・・・・・」

忠世は、迷い言葉を探しているようだ。

「・・・・・・そう申す者が多いのは・・・・・まことにございます」

かなり歯切れの悪い言葉だ。

元康は駿府から来た自分に、忠世が遠陵しているのかと思った。

たしかに彼らの生活は苦しそうだ。

忠世の大久保家と言えば、安祥以来の譜代と呼ばれる、松平家中の重臣の一族だ、忠世自体は当主ではないが、当主の従兄弟との事。

そんな者が、八年ぶりに帰ってくる主君を迎えるのに、あまりにも見窄らしい格好だ。

それだけ貧しいと言う事だろう。

だがしかし、元康にはどうしても信じられない。

三河に奉行としてやって来ているのは、今川の重臣、朝比奈泰能だ。

義元の信任も厚い人物だと聞く。

そんな人物が、酷い統治をするのか?

元康には信じられない。

「世の中というものを知っておくのも、よいかもしれぬ」

義元の言葉を、突然、元康は思い出す。

「急ぎ城に行き、朝比奈殿に会ってみよう」

元康はそう告げて、城へ向かう。



「ようこそ参られました」

朝比奈備中守泰能はゆっくりと頭を下げる。

ジッと元康は相手を見つめる。

泰能は五十過ぎ、白髪頭の見るからに貫禄のある人物だ。

この御仁がそれほど無体に、領民から税を搾り取っているのか?

元康は腑に落ちなかった。

ましてそんな人物が、義元の信頼を勝ち得て、今川の重臣になれるのか?

どうしても納得が出来なかった。

「いま本丸の方は修繕しておりまして、申し訳ござらぬが、こちらの二の丸の方でお休み下さい」

静かで丁寧な、そして重く低い口調で泰能は告げる。

とてもこの御仁が、と元康は内心、首をかしげるが、それでも自らの領地、領民、そして家中の者たちの為、問い質そう、そう決心する。

「それではささやかですが、宴の用意をしておりますので・・・・・」

「備中守どの」

泰能の言葉を遮り、元康が声を上げる。

「少しお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

腰を浮かしかけた泰能が、座り直し、

「ええ、かまいませぬ」

と答える。

「ここへ来る前、領内を見て回ったのですが・・・・・」

「はい」

「家中の者、そして領民は、みな貧しく、困窮に喘いでおりました」

静かな目で、ジッと泰能は元康を見つめる。

「見ればボロをまとい、聴けば木の皮や草の根を喰うておるとか」

「・・・・・・・・」

「少し、税や賦役が厳しいのではありませぬか?」

「それは・・・・・」

ジッと元康を見つめながら、泰能はゆっくりと問う。

「我ら今川が、不当に年貢を取り立てていると、仰りたいのですか?」

「いえ・・・それは」

勿論、そんな事はないと元康は思う。

駿河は温暖で実り多き国だ、その上、駿府の町は、諸国の物品と人で溢れている。

そんな豊かな国を持つ今川が、わざわざ貧しい三河から奪っているなどとは、考えられない。

「ではそれがしが不正を働き、私腹を肥やしていると、仰りたいので?」

静かにゆっくりとだが、重く低い声で、泰能は問うてくる。

その貫禄に、十四歳の元康はたじろいでしまう。

「分かりました」

そう言うと、後ろに控える家臣に、

「帳面を持って参れ」

と泰能は命じる。

家臣が出て行く。

「・・・・・・・・・」

「腰の物・・・・・・」

しばしの間の後、泰能は口を開く。

「良い太刀でございますな」

はぁ、と答え、元康は脇に置いてある太刀を、前に出し泰能に見せる。

「御屋形さまに元服の祝いにと・・・・・」

「それはようございましたな」

静かな落ち着いた口調で、泰能は言う。

「何か御礼の品を・・・・・」

「勿論にござる」

高い声を出して、元康が答える。

「御屋形さまさ京の雅な物が、お好み・・・・ですから何か・・・・香木か、蒔絵か、何かそのような物を・・・・」

「それはよい、お心遣いです」

話の意図が読めず、元康はジッと泰能を見つめる。

「しかし・・・・」

鋭い目で見ながら、泰能は続ける。

「それ程の太刀の、返礼の品ともなれば、それなりの高価な物を用意せねばなりませぬ」

「え、ええ」

「それに松平殿は、御屋形さまに名も頂き、その上、関口の姫さまを娶り、一門衆になられるとか」

関口の姫とは、義元の姪、瀬名のことである。

「松平殿」

「はい」

「世の中に、金のなる木はありませぬ」

泰能の言っている意味が分からず、はぁ?と元康は首を捻る。

「返礼の為、高価な品を用意するにも、今川一門に加わり、それに恥じぬ容儀を整えるにも、全て銭がかかります」

元康は固まり、返事ができない。

「その銭は、何処から用立てるのでござるか?」

「そ、それは・・・・・」

「お手前の、その小袖も、袴も、足袋も、みな、三河の領民の年貢で用意したものでござる」

元康は言葉を失う。

確かにその通りだ。

そしてそんな事、考えたこともなかった。

駿府で元康は、なに不自由なくとまではいかないが、それでもそれなりの生活をしている。

それに近頃は今川の一門衆になるのだからと、それなりの身形をするよう心掛けている。

その時に、全く銭の事など考えたことが無かった。

泰能にすれば、己の事を棚に上げて、なにを言っておるというところだろう。

しかし元康にも反論はある。

確かに倹約しているとは言い難いが、それでも放蕩しているわけではない。

駿府でそれなりの生活を元康がしているからと言って、領民が木の皮を食っているというのは、納得できない。

そうこうしていると、泰能の家来が戻ってくる。

「どうぞ、ご確認を」

そう言って元康の前に帳面を置く、パラパラとめくってみるが、全く分からない。

「後で後家来と供に、蔵に行って帳面と合わせてみてください」

泰能が淡々と言う。

「城の修繕や、道や水路の整備、そういった必要なもの以外に、何も取り立ててはおりませぬ」

背筋を伸ばし胸を張り、堂々と朝比奈泰能は告げる。

「拙者、何も己に恥じる事はしておりませぬ」

その態度を見れば、言葉に嘘がないのは確かだろう。

「帳面に不審なところあれば、どうぞ御屋形さまに訴えられい」

「しかし・・・・・・」

それでも元康は、言い返す。

「領内を見回った時、確かに皆、飢えておりました」

「それは」

一度、大きな声を出し、不快そうな顔をすると、泰能は声を低くして、吐き捨てるように告げる。

「門徒だからでござろう」

「もん・・・・と?」

元康が繰り返すと、泰能は頷く。

「本願寺の檀家の事を、門徒と言うのです」

「はぁ・・・・・」

「三河の者は、その門徒が多ござる」

「それが・・・・」

それがいったい、なんだと言うのだ?と元康は思った。

「門徒供は、もし年貢に我らが五分取れば、残りの五分を寺に寄進するのです」

「え?」

元康は目を見開く。

「我らが三分の年貢を取れば、残りの七分を寺に寄進し、自らは木の皮、草の根を喰っておるのです」

「いや・・・・あの・・・」

戸惑いながら、元康は尋ねる。

「なぜそんな事をするのでござるか?」

「そのような事、拙者に訊かれても、困り申す」

泰能は顔をしかめる。

「それこそ、門徒だからとしか答えようが御座らぬ」

「っ・・・・あっ・・・・はぁ」

言葉にならない呻き声を、元康は上げる。

「松平どの」

一転して 穏やかな口調で、泰能が呼びかける。

「今後、お手前を、それに三河の領国を、御屋形さまがどうされるおつもりなのか、拙者には分かりませぬ」

ゆっくりと静かに泰能は続ける。

「ただ、三河は難しき国にござる」

「むずかしき・・・・」

元康が繰り返すと、コクリと頷く。

「内には門徒、そして外には・・・・・」

鋭い目で、武骨な老人は告げる。

「尾張の織田がおります」

「おわりの・・・・おだ」

元康はそう呟いた時、鍋之助が、尾張に奪われている、と言ったのを思い出す。

そして尾張の織田と言えば・・・・・・。

「尾張は守護の斯波家が力を失い、奉行の織田一族が主家を壟断しております」

元康の動揺をよそに、泰能は話を続ける。

「その奉行の織田家が代替わりをして、若い当主がなかなかに厄介で」

「え・・・っあ」

代替わりという事は・・・・・。

元康は息をのむ。

「此奴が三河で、度々刈田狼藉をおこなうのでござる」

刈田狼藉とは、収穫前の他国に攻め入り、その国の米や麦を勝手に刈り取り奪っていくというものだ。

「そのせいで三河の収穫は、減る一方でござる」

「あ、あの・・・・・」

「なにか?」

「その・・・織田の当主というのは、何という名で?」

「三郎でござる」

「三郎・・・・」

「ええ、代々織田の当主は三郎という名でござる」

「・・・・えっと、その」

迷いながら、元康が尋ねる。

「幼名はなんと?」

「ようみょう?」

泰能は眉を寄せて、首を捻る。

「さぁ・・・なんともうしておったか、分かりませぬなぁ」

「そうですか・・・・・」

元康が顔を伏せ呟く。

「如何かされましたか?」

不審げに泰能が尋ねてくる。

「いえ、その・・・・・昔、織田の若君はうつけであると、聞いたことがありまして・・・・・」

ああっ、と泰能は頷く。

「たしかに今の当主は、そのうつけの若君でござるよ」

あっ・・・・・と呟き、元康は、吉法師の姿を思い浮かべる。

「しかしただのうつけではござらぬ」

泰能は顔をしかめる。

「厄介なうつけでござる」

そう言うと、泰能は元康から顔をそらし、遠くを見る。

「先代の織田三郎は、虎のような男でござった」

「虎・・・・・・・」

一度だけ会った、痩せて眼光の鋭い男を、元康は思い出す。

「さよう・・・・・・策を練り、ジッと身を潜め、此処一番というところで、一気呵成に攻めてくる、そう言う男でござった」

泰能の声は、手強い相手だったが、それなりの敬意のようなものを払っているように感じられた。

「しかし倅の方は・・・・・・」

明らかに不快げに、顔を歪める。

「鼬のような男にござる」

「いたち・・・・・・」

吉法師の姿を元康は思い浮かべる。

「ええ、兎に角よく動く男で、銭で街にいる浪人どもを集め、年に何度も刈田狼藉を仕掛けてくるのでござる」

はぁ、と呟き元康は、幼き日の尾張での日々を思い出す。

吉法師が歩けば、いつも周囲の村から子供らが集まってきた。

「こちらが陣触れだし地侍を集めて、備えに向かう頃には、狼藉を終えて、尾張に戻っておるのでござる」

「な、なんと・・・・・」

はい、と泰能は頷く。

「三河の衆が貧しいのは、尾張の三郎の刈田狼藉に遭い、残った物も寺に渡すからにござる」

泰能の言葉を聞きながら、元康は愕然とする。

「・・・・・・・・まぁ、かような話はこのくらいにして・・・・・」

顔を伏せている元康に、泰能は静かに言う。

「拙者、宴の用意をしてきますので、しばしお待ちを」

朝比奈泰能は立ち上がり、部下を連れて部屋を出て行く。

元康は、ジッと握りしめた両手を見つめる。

二つの敵・・・・・・。

右手を見ながら、領内を回っていた時みかけた、領民を思い出す。

皆、貧しく見窄らしかったが、信心深く、善良そうに見えた。

「・・・・・門徒・・・・・・」

手を合わせ念仏を唱えていた領民たちが、なにか得体の知れない。薄気味悪い者たちに思えた。

そして・・・・・・。

「尾張の・・・・・・織田・・・・三郎」

左手を見ながら、吉法師の姿を、そして別れの時の言葉を思い出す。

「必ずわしが助けてやる」

「・・・・・・・・」

ゆっくり顔を上げ、目を閉じる。

心の中で、ハッキリと己の敵を思い浮かべる。

「・・・・・・彦右衛門」

「はっ」

目を開け後ろを振り返ると、高力与左衛門清長と鳥居彦右衛門元忠が控えている。




「厭離穢土欣求浄土、この世は穢れ、真の救いは浄土にのみある」

薄暗い寺の本堂に、百人近い人が集まり、手を合わせ念仏を唱えている。

「世の支配者たちは、戦さを行い、皆の作物を奪っていく」

中心にいる住職が大きな声で説法を続ける。

「彼らに正しさはない、彼らに救いはない」

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と周りの人々は、ただただ念仏を唱える。

「まことの救いは、御仏だけだ、御仏に全てを捧げよ」

握り拳を突き上げ、住職は絶叫する。

それを静かな目で、本多肥後守忠真は見つめる。



「肥後どの」

寺での集まりを終え、帰路につこうとする忠真に、誰かが声をかけてきた。

「ああっ、五郎左どの」

振り返るとそこに居たのは、大須賀五郎左衛門康高だ。

「お殿さまがお帰りになったとか・・・・・・」

ええっと忠真は応じる。

大須賀康高は三十路過ぎの穏やかな男だ、家禄が低く、主君元康の出迎えの加わることが出来なかった。

康高の着ている物は継ぎ接ぎだらけだ、とてもではないが帰国した若き主君を迎える役は務まらない。

かく言う忠真も、亡き兄の一張羅を借りて元康を出迎えた。

「お殿さまは、どの様な御方でした?」

「はい、聡明で、気概にあり、何よりも慈悲深く、度量の大きなお方でございました」

「おお、それはそれは」

康高は手を合わせ喜んだ。

貧しい地侍の康高にすれば、主君元康の存在だけが、穢土、汚れたこの世の、唯一の生きる希望なのだ。

「なによりの事でござる」

「・・・・・・五郎左どの」

両手を合わせて岡崎の城の方を拝んでいる康高に、忠真は低い声で話す。

「近頃、住職さまの説法が、だんだんとその・・・・・・・」

慎重に忠真は言葉を選ぶ。

「過激になったと言うか、なんというか、今日もその、領主に対する・・・・・・」

「肥後どの」

低く小さな、それでいて鋭い声で、康高は忠真の名を呼ぶ、そして左右に首を振る。

忠真が周りを見ると、門徒たちがジロリと忠真の方を見ている。

「ああっ・・・・・・勿論今日も、素晴らしいご説法でした」

その言葉に、康高は穏やかな顔に戻り、ゆっくり頷く。

それでは、と言って康高が去って行く。

忠真も家に向かう。

「肥後どの」

呼びかけられたので振り向くと、鳥居彦右衛門元忠が近づいてくる。




暗い闇の中、ジッと一点を見つめる。

どれだけ時が経ったか分からない。

どちらにしろ今夜はここで夜を明かすのだ、構いはしない。

「鍋之助」

外から声がする、叔父の声だ、大っ嫌いな叔父の忠真の声だ。

鍋之助は答えない。

真っ暗な蔵の中だ。

普通の子なら闇に怯え、出してくれと泣くだろう。

しかし鍋之助は闇を恐れない、何も恐れない。

「鍋之助」

返事をしない甥に、再び忠真が呼びかける。

「お殿さまより頂き物がある、お前にとわざわざ団子を下された」

闇の中で鍋之助は、元康の顔を思い浮かべる。

耳の大きな変な顔だ。

「お前があんな馬鹿なまねをしたのに、お殿さまはお前を許し、心配して団子を下さったのだぞ」

ふん、と鼻を鍋之助は鳴らす。

「いりませぬ」

「な、なんだと?」

「そのような物、わしはいりませぬ」

大きな声で鍋之助は叔父に告げる。

「わしは天下無双の侍になる、本多の棟梁、鍋之助でござる」

闇を中、一点を見つめ、鍋之助は声を上げる。

「弱いお殿さまの物など、頂きませぬ」

「もうよい、そこで一晩、反省していろ」

そう言って叔父は去って行く。

「・・・・・・・・」

鍋之助は、またしばらく闇を見つめている。

すると、蔵の奥の方の壁を、ドンドンと叩く音がする。

奥に進み、笊をどかせ、葛籠を動かすと、壁に人の拳くらいの大きさの、穴が開いている。

「鍋之助、起きておるか」

「おお亀丸、起きておるぞ」

穴から、幼馴染の亀丸の声がする。

「亀丸、腹が減った」

「ああっ、だろうと思った」

穴から焼いた川魚が、にゅっと出てくる。

「おおっ、助かった」

鍋之助は魚を受け取り、むしゃむしゃと食べ始める。

「わしは天下無双の侍を目指しておるのじゃ、こんなところで飢えてなどおれぬ」

「ははははっ、そうじゃない、鍋之助」

外から亀丸の陽気な声が聞こえてくる。


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