第2話 モズの子

「面を上がられよ」

そう言われて竹千代は、ゆっくり顔を上げる。

そこには立派な身なりをした男が、ニコニコと微笑んでいた。

「竹千代どのは幾つになられる?」

パチンと一つ扇子を鳴らすと、穏やか声で男は尋ねる。

「八つにございます」

頭を下げて竹千代が答える。

「ほぉ八つか、しっかりしておるのぉ」

少し高く、綺麗な声で男は言う。

ありがとうございます、と言って再び竹千代は顔を少しだけ上げて、相手を見る。

手足が短く胴が太い、その太い胴の上に白くて丸い大きな顔が乗る。

これが駿府の御屋形さま・・・・・・・・。

竹千代は意外な気がした。

駿府の御屋形さま、今川治部大輔義元は立派な侍で、皆が従う優れた大将だ。

だからもっと強そうで、恐ろしい顔をしていると思っていた。

これ、と義元が手を上げる、小姓が小皿が乗った台を運んで来る。

「京から取り寄せた菓子じゃ」

竹千代が見たこともないような紅白の菓子が、皿の上に置かれている。

義元の方を見ると、優しげな顔で、ニコニコと微笑んでいる。

「さぁ、食べられよ」

頭を下げ竹千代は、白い菓子を少しだけ口に入れる、冷たく甘い乾いた菓子だ。

「どうじゃ?美味いか?」

「はい、とってもおいしゅう御座います」

半分だけ食べた菓子を皿に戻し、竹千代は答える、正直なところ、全く未知の味で、緊張もあり、美味しいかどうかなどよく分からない。

そうか、そうか、と機嫌良さげに義元は言う。

「わしはな・・・・・・」

パチンと一つ扇子を鳴らし、義元は話す。

「竹千代どのの父君に、竹千代どのを是非、よろしくと言われてな」

父のことを言われ、竹千代は目が熱くなる、しかしそれを義元に見られては無礼であると思い、顔を伏せる。

「父君に会いたいか?」

義元は優しく問う。

いえ、と竹千代は顔を上げて、気丈に答える。

「そうか、そうか竹千代どのは強い若子じゃのぉ」

目を細めて穏やかな顔で、義元は話を戻す。

「くれぐれもお願いしますと、父君に頼まれたのでな」

「はい」

「竹千代どの、困ったことが何でも言ってくれ」

ハハッ、と頭を下げ、有難うございます、と竹千代は義元に礼を言う。

御屋形さまは御優しく、素晴らしい御方だ、と心の底から竹千代は義元に頭を下げた。

「菓子が残っておるぞ、食べられよ」

「あ、はい」

菓子に伸ばした手を途中で止め、竹千代は義元に目を向ける。

「あ、あの」

「なんじゃ?」

ニコニコと微笑み、義元が尋ねる。

「御屋形さまに、お願いが御座います」

「ほぉ、申してみよ」

ハッ、とその場で伏して竹千代は言う。

「竹千代は、御屋形さまの元で武芸の稽古や、学問がしとうございます」

ほぉ、と義元は声を上げる、バッと顔を上げ義元をしっかり見て竹千代は告げる。

「武芸や学問を修練し、立派な侍になり、御屋形さまのお役に立ちとう御座います」

クリリとした丸い目を大きく見開き義元は、驚いた顔で脇を見る、そこには大きな頭と広い肩幅の老僧が一人、座っている。

この謁見の広間には、義元とこの老僧、それに竹千代と先程菓子を運んだ小性が居るだけだ。

「そうか、そうか、そうか」

老僧から視線を竹千代に戻し、義元は満面の笑みで竹千代を見つめる。

「竹千代どのは頼もしいのぉ」

ほほほほほぉ、と義元は扇子で口元を隠しながら笑う。

「立派な侍になって、わしの役に立ってくれるか?」

「は、はい」

上ずった声で竹千代が返事をすると、そうか、そうか、と義元は頷き、また老僧の方を見る。

「竹千代どの、こちらは太原雪斎和尚と申されてな、幼き日、わしに学問を授けてくれたお方じゃ」

老僧、太原雪斎は手を合わせ、ゆっくり頭を下げる、竹千代も頭を下げる。

「この和尚が駿府に、臨済寺をお開きになった」

ジッと鋭い目で、雪斎は竹千代を見つめる。

「竹千代どのように、学問をしたいという者は、そこに集まっておる」

雪斎の視線にドキドキしながら竹千代は、義元の話をしっかり聞く。

「臨済寺に行き、学問に精進されるがよかろう」

「あ、ありがとうございます」

竹千代はその場に伏して、大きな声で返事をする。

ふむふむ、と呟き、パチンと一つ義元は扇子を鳴らす。

「立派な侍になり、わしの役に立ってくれよ」

ハハッ、と竹千代は心の底から答える。




今川義元が、退がって良いぞ、と言うと、松平の人質は、失礼いたします、と言って広間を出て行く。

「・・・・・・・・・」

松平の人質が出て行くと、義元はそれまでの笑顔を消し、冷めた表情で目を細める。

「菓子より学問がしたいそうじゃ、可愛げの無いガキじゃのぉ」

そう言って、松平の人質が忘れていった菓子を摘み、口に入れる。

落雁という菓子だ、一度蒸した米の粉を干して、水飴を加えて練り、再び乾燥させたものである。

この日保ちのする菓子を、義元は京から多く取り寄せ、国衆地侍の人質の少年たちが来た時、必ず与えている。

少年らは皆、父親から、義元に対し粗相の無いようにと、厳しく言われている、その事で緊張し、硬くなっているところに、笑顔で菓子を与えれば、必ず心が掴める。

義元はこの人質の少年たちを、いずれ自分に絶対的に忠実な馬廻り衆にしていくつもりだ。

その為に、完璧に心を掴み、心酔させるようにしている。

「子供なら、もっと菓子で喜べ」

落雁は口が乾く、義元は茶を飲む。

「・・・・・・・・」

「どうされた・師父」

義元は、幼き頃からの師である太原雪斎を、師父と呼んでいる、その師父雪斎が、ニヤリと微笑みながら、松平の人質が去って行った方を見つめている。

「顎が・・・・・・」

自らの顔の下の方を、クルクルと指で回しながら示し、雪斎は告げる。

「よう張っております」

大きな顔を、雪斎は義元の方に向ける。

「あれは、よい侍になりますよ」

ほぉぉっ、と義元は声を上げる。

「祖父のようにか?」

義元は松平の人質の少年の、祖父を思い出しながら呟く。

「狼の子も、躾ければ立派な忠犬になります」

師父雪斎の言葉に、フッ、と笑い、パチンと扇子を鳴らす。

「なら、しっかり躾けてくだされ」





駿府の町の一角に、竹千代は屋敷を与えられた。

尾張にいたとき閉じ込められていた屋敷より、かなり大きく、なにより綺麗だ。

この屋敷に竹千代は、酒井小五郎忠次、高力与左衛門清長ら家中の若い侍、それと平岩七之助、天野又五郎ら同じ年頃の小姓たちと暮らすことになった。

駿河の国は暖かく、人々も穏やかであった、三河者のように頑固で朴訥でも無ければ、尾張の人間のように才知に長け、荒々しくもなかった。

その上、駿府の町は綺麗で、物が溢れ、人々が行き交う、賑やかな町だ。

この町を見ているだけでも、義元が優れた大将だと、竹千代には思えた。

屋敷で身の周りの事が落ち着くと、竹千代は早速、臨済寺に向かうことにする。

寺には竹千代だけ無く、七之助と又五郎も共に学ぶ事を許された。

行ってみるとそこには竹千代だけで無く、他の国衆地侍の子供達、それに今川家譜代の家臣の子供たちも、同じように学問を学んでいた。

とは言え、雪斎和尚から直接、教えを受けるわけではない、和尚の高弟である僧たちから、学問を教わるのだ。

先ずは読み書きを習い、次に論語、詩経などの、四書五経の音読である、それを皆、寺で机を並べて、一生懸命学んでいく。

怠ける者は殆どいない、皆、頑張って勉強し、義元に認められ、今川家で高い地位に就きたいのだ。

今川は昨今の乱世が生んだ出来星大名ではない、足利公方家の一門だ。

当然、その重臣に求められるのは、武勇以上に、教養や礼儀作法である、幕府や朝廷からも使者が来るという、その時に無学で無教養だと応接役を任されることはない。

だから皆、必死に勉学に励んでいる。

竹千代もそうだ。

臨済寺に毎日通い、一生懸命、勉学に励んでいる。

そんな或る日、竹千代が屋敷に戻ろうとすると、数人の年嵩の少年たちに呼び止められた。

「おい、おまえ、三河の竹千代だな」

先頭に立つ団子鼻の少年が、ニヤニヤ笑いながら近づいてくる。

「どなたで御座いますか?」

竹千代が答える前に、七之助が前に出る。

平岩七之助は、竹千代と同い年の太い眉をした少年だ、いつも竹千代の側に控えている。

「おまえに聞いておらぬわ」

そう言っていきなり、団子鼻は七之助を殴りつける、アッと思い、竹千代と又五郎は身構える。

「龍王丸さまがお呼びじゃ」

団子鼻がそう言おうと、竹千代は身体が硬くなる。

「龍王丸さまが・・・・・・ですか?」

そうじゃ、と団子鼻は頷く。

殴りつけられ倒れていた七之助を、又五郎が助け起す、二人は竹千代の方を見て黙って頷く。

「こっちに来い」

そう言って団子鼻は寺の奥の方に進んでいく、仕方なく竹千代もそれに従う。

臨済寺の奥には竹藪があり、その中を進むと開けた場所があった。

そこに七、八の少年たちがいる。

「おまえが、竹千代か?」

少年たちの中心に、岩に腰掛けている太った少年がいた、どうやら龍王丸らしい。

「はい、竹千代にございます」

竹千代は深く頭を下げた。

龍王丸は、今川義元の嫡子である、年は竹千代より五歳上だ。

父親似の白く丸い顔と、短い手足の龍王丸は、絹の鞠を弄びながら、竹千代を冷めた目で眺める。

「おまえ、蹴鞠は出来るか?」

「・・・・・出来ませぬ」

頭を下げたまま、竹千代は答える。

「なんだ、蹴鞠も出来ぬのか」

少し高い声で、馬鹿にしたように龍王丸は言う。

「では、わしが教えてやろう」

「ありがとうございます」

そう言って竹千代が顔を上げようとすると、いきなり鞠が飛んで来て顔に当たる。

グッと鼻を押さえて竹千代は蹲る、周りからクスクスと忍笑いが聞こえた。

「なにをしておるか」

龍王丸は笑いながら言う。

「鞠を顔で受けるでない、足で受けよ」

その言葉に、竹千代の頭が熱くなる、一瞬、相手を睨みつけそうになる。

短気はダメじゃ、頑固もならぬ。

吉法師の言葉が、竹千代の心を冷ましてくれた。

「申し訳ございませぬ」

団子鼻が鞠を龍王丸に渡す。

「では、もう一度いくぞ」

はい、と言って竹千代は構える。

その時、小石が飛んで来て、竹千代の肩に当たる。

一瞬、石の飛んで来た方を見てしまい、横顔にまた鞠が当たる。

「何をしておるか、顔で受けるなと言うたであろう」

今度は忍笑いではなく、声を出して龍王丸の取り巻きたちが笑う。

申し訳ありませぬ、と竹千代は頭を下げる。

その後も龍王丸は取り巻きを使い、邪魔をしながら竹千代の顔や肩に鞠をぶつけてからかった。

後ろにいた七之助が割って入ろうとするのを、又五郎が止めた、竹千代はそれを見て、黙って頷く。

そうしてしばらく龍王丸は、竹千代をからかっていたが、竹千代が特に反抗もせず、ただただ打たれ続けるので、飽きてしまったらしい。

「もうよい」

鞠を団子鼻に渡しながら、龍王丸が冷めた口調で言う。

「おまえには、蹴鞠の才がない、教えても無駄じゃ」

「申し訳ありませぬ」

「さっきから、そればっかりじゃな」

頭を下げる竹千代に、龍王丸が告げる。

「まったく、つまらぬ奴じゃ」

ゆくぞ、と言って龍王丸は去っていく、取り巻きたちも、後に続く。

「竹千代さま」

龍王丸が去ると、七之助と又五郎が急いで竹千代の元にやって来る。

「このようなこと許せませぬ、すぐに雪斎和尚か、御屋形さまに訴えましょう」

「よい」

顔を真っ赤にして言う七之助を、静かに竹千代は制す。

「しかし・・・・・・」

「わしなら平気じゃ」

袖や袴の汚れを払ってくれる又五郎を止めて、竹千代は屋敷に戻る。




その後も何度か、龍王丸は竹千代を呼び出し、意地悪をした。

しかし竹千代が抵抗もせず、ただただ謝るだけなので、終いには飽きて呼び出さなくなった。

龍王丸は他の国衆地侍の子供らにも同じことをやっていた、やられるのが嫌なら、取り巻きになるしかなかった。

しかし竹千代も他の子らも、あまり取り巻きにならなかった。

それよりも勉強をして、義元に認められることの方が大事だったからだ。

そんな或る日、また団子鼻が竹千代を呼び出しに来た、向かった先は、今川館である。

門に入り中に進むと、人の気配があまりしない、聞いた話では、義元は戦に出ているらしい。

中庭に進むと、国衆地侍、そして今川譜代家臣たちの子供らが集められている。

何が始まるのだろうと皆、顔を見合わせていると、大人を一人引き連れて、龍王丸が現れた。

あっ、と皆、息をのむ、龍王丸に従っている男の腕に、立派な鷹が載っているからだ。

土色の羽に白い胸、羽の端は金色に輝いている。

そしてその目、まさに射るようなという言葉通りの、鋭い目をしていた。

龍王丸は右手に薄桃色の籠手をつけ、籠手を鷹に近づける、男が少し腕を動かすと、鷹が龍王丸の籠手にのる。

どうだとばかりに、龍王丸は鷹をのせた腕を、子供らに見せる、皆、おおっ、と歓声を上げる。

「どうじゃ、すごいであろう」

「はい、龍王丸さま」

「素晴らしき鷹に御座います」

皆が口々に鷹を褒める、そうだろうそうだろう、と龍王丸は満面の笑みだ。

竹千代も食い入るように鷹を見つめた。

気高く、勇ましく、なにより美しい、その鷹に竹千代は魅入っていた。

「奥州より取り寄せた、特別な鷹じゃ」

龍王丸の言葉は、まったく竹千代の耳には入らない、ただただその鷹を凝視している。

得意満面の龍王丸は、その竹千代の凝視に気がつく。

「竹千代」

「・・・・・・・・・」

「竹千代」

「あ、はい」

鷹に魅入っていて、龍王丸の声に気がつかなかった竹千代は、慌てて返事をする。

「そんなに、この鷹が良いか?」

「はい、素晴らしきモノに御座います」

「そうか、そんなに気に入ったか」

ニヤニヤ微笑みながら、龍王丸は竹千代の方を見る。

「そんなに気に入ったのならば、特別に触らしてやっても良いぞ」

「ま、まことですか?」

「ああ、まことじゃ」

震える声で竹千代が尋ねると、機嫌良く龍王丸は答える。

「近う寄れ」

ははっ、と返事をして、竹千代は龍王丸に近づく。

クッと鷹が竹千代の方を向く、その鋭い眼に一瞬怯むが、龍王丸の方を見ると、ゆっくり頷くので、静かに手を伸ばす。

恐る恐る鷹の羽に触れる、鷹は大人しく、竹千代が触っても、特に何の反応もしない。

「どうじゃ、竹千代」

魅入って鷹を撫でている竹千代に、龍王丸の声は聞こえない。

「竹千代」

大きな龍王丸の声に、ハッと我に帰り、申し訳ございませぬ、と頭を下げる。

「おまえ、それほど鷹が気に入ったか?」

「あ、はい」

「そうか、そうか」

目を細め龍王丸は、ニタニタ微笑んでいる、明らかに意地悪を思い付いた顔だ。

「わしは沢山、鷹を持っておるでな」

龍王丸は鷹を、後ろの男に渡す。

「おまえがどうしても欲しいというのであれば、考えてやってもよいぞ」

「滅相もございませぬ」

慌てて、竹千代は頭を下げる。

「畏れ多いことに御座います」

「欲しゅうないのか?」

低い声で龍王丸が尋ねる。

勿論、竹千代も鷹は欲しい、しかしそんな事言い出せば、どんな意地悪をされるか分かったものではない。

だがしかし、欲しくない、と言えば、それはそれで、龍王丸は機嫌を損ね、目を付けられて毎日、虐められる。

「欲しゅうございます」

迷ったが、こう言った方が良いと思い、竹千代は頼む。

「ならばもっと、頭を下げぬか」

団子鼻が龍王丸に青竹を渡す、その青竹で、龍王丸は竹千代の肩をピシッと叩く。

皆が見ている、七之助や又五郎だけでない、他の子供らも、静かに竹千代を見ている。

「鷹が欲しゅう御座います、龍王丸さま」

その場に跪き、額を地面に付けて、竹千代は懇願する。

「それほど、欲しいか?」

伏せている竹千代の頭に、龍王丸の足が乗る。

竹千代の頭がカッと熱くなる。

短気はダメだ、頑固もな。

吉法師の顔と言葉を思い出し、竹千代はなんとか我慢する。

「お願いします、龍王丸さま」

震えを抑えて竹千代は、地面に伏せたまま声を上げる。

「そうか、そうか」

満足気な龍王丸の声が響く、竹千代の頭から龍王丸の足が離れる。

「そこまで言われたら、仕方がないのぉ」

藤六、と龍王丸は団子鼻を呼ぶ、竹千代が顔を上げると、団子鼻の藤六が小さな鳥の入った駕籠を持ってくる。

「これは鷹の雛じゃ」

ニヤニヤ笑いながら、龍王丸は竹千代を見下ろす。

「竹千代、特別におまえにやろう」

ありがとう御座います、と竹千代は再び、額を地面に付けて礼を言う。

団子鼻の藤六が、竹千代の前に駕籠を置く。

又五郎が進み出て、駕籠を受け取ろうとする。

おい、と龍王丸が声を上げると、藤六が又五郎を殴る。

「誰がおまえに、触って良いと言った」

藤六が又五郎を怒鳴りつける、又五郎はその場に伏して、申し訳ありませぬ、と謝る。

「竹千代、わしはおまえにこの雛を与える」

「はい」

「主人であるわしが与えたものだ、くれぐれも世話を、家臣に押し付けるでないぞ」

ハハッ、と竹千代は頭を下げる。

それを見て、龍王丸は満足し、満面の笑みで他の子供らを見回す。

皆、それぞれ複雑な表情をしながら、少し顔を伏せている。

「わしは心が広いし、気前の良い主人じゃ」

龍王丸の高い声が響く。

「竹千代のように、わしに従順であれば、皆に望みの物を与えてやろう」

青竹で、ペシペシと肩を叩きながら、龍王丸が皆の前を歩く。

「これからも、今川に、そしてわしに忠義を尽くすように」

ハハッ、と子供らが返事をする、うむ、と満足して龍王丸は頷く。




龍王丸に言われたとおり、竹千代はその日から、雛の世話を自ら行った。

雛の餌にする為、野山に虫を取りに行こうとすると、七之助と又五郎が、代わりに捕りにいくと言ったが、竹千代は自ら捕りに行った。

野山を駆け回っている時、何度も吉法師の事を思い出した。

そう言えば、兄上にも悪戯されたな、と心の中で呟いた。

竹千代が歩いていると、吉法師が背中に毛虫を入れたことがあった。

思い出していても、不思議と厭な気持ちにならなかった。

全てが楽しく、輝いていた、また尾張に戻りたい。

兄上に会いたい。

そんな事を考えながら、虫を捕った。

ふと振り返ると、七之助と又五郎が何時も付いて来た。

「虫はわし一人で捕る」

竹千代がそう言うと、又五郎が前に出た。

「我らは、竹千代さまを守るために、此処にいます」

厚い瞼をした又五郎が、そう答えた、七之助も頷いている。

好きに致せ、と言って竹千代は虫捕りを続けた。

その内、見ているだけではつまらなくなったのか、七之助は自らも捕り始めた。

又五郎は、あそこに居ます、と言うだけで、自らは捕らない。

そうやって三人で野山を駆け回ると、だんだん楽しくなって来た。



或る日、虫捕りを終え、屋敷に帰ると、高力与左衛門清長が出迎えてくれた。

「若、鶴之助が参っております」

清長は竹千代より十三年上で、駿府に来ている三河の者のなかでは、酒井小五郎忠次に次いで、二番目に年嵩だ。

細い目をして地蔵の様な顔をしている。

「分かった、餌やりをしておるので、庭に来るように言え」

ハッ、と答えて清長が去って行く。

七之助と又五郎を連れて、竹千代は庭で雛に餌をやる。

「竹千代さま」

しばらくすると、鳥居鶴之助がやって来た。

鶴之助は竹千代より三つ年上で、首と手足が長く、まさに鶴之助という感じだ。

竹千代はよく知らないが、鳥居の家は渡り衆と呼ばれる者たちを束ねる家で、旅に出て遠くまでよく行くらしい。

「お久しぶりでございます」

鶴之助が膝をつき、その長い首を曲げて挨拶する。

「三河は変わりないか?」

「はい、皆、元気にやっております」

「そうか・・・・・」

竹千代はある事を口にしようとしたが、迷って止めた。

「あの・・・・竹千代さま」

後ろに控える七之助が、竹千代を呼ぶ。

「なんじゃ?」

「父と母への文を、持って来てもよろしいでしょうか?」

鶴之助は駿府と三河を行き来する、文を渡せば届けくれるのだ。

「構わぬ、取りに行け」

竹千代が言うと、二人は、ありがとうございます、と言って去って行く。

二人が去った後、竹千代は鶴之助の方を向き、持っていた虫籠を渡す。

「鶴之助、鷹の餌やりをする、それを持って此処で待っておれ」

「鷹でございますか?」

「ああ、そうだ」

無理して竹千代は、微笑んだ。

「龍王丸さまがくさだれたのじゃ」

「それは、ようございましたな」

鶴之助が笑顔で応じる、渡された時の龍王丸の意地悪を思い出したが、無理に笑顔を続けて、竹千代は頷く。

竹千代は部屋に行き鳥籠を持って、庭に戻ってくる。

「これじゃ」

鳥籠を鶴之助に見せる。

「ん?」

鶴之助は頭を何度も傾けながら、雛を凝視する。

「・・・・・・・竹千代さま」

眉を寄せ、顔をしかめ鶴之助が言う。

「これは、鷹の雛ではありませぬ」

「なんじゃと?」

顔を駕籠から離し、竹千代の方を向いて、鶴之助が告げる。

「これは百舌鳥にございます」

「モズ・・・・・・」

「はい、百舌鳥に間違いございませぬ」

鶴之助の言葉に、竹千代は表情を硬くした。

そういうことか、と内心思ったのだ。

雛を渡されから数日、龍王丸が竹千代を呼び出し、

「雛は順調に、鷹に育っておるか?」

と聞いて来たのだ。

はい、と竹千代は答えたが、その言い方、そしてその笑みを見ていると、明らかに龍王丸は何かを企んでいた。

その理由が、これということだ。

しかし竹千代は構わなかった。

「よい」

竹千代は鶴之助から目をそらし、鳥籠を見る。

「これは鷹じゃ」

「いえ、ですから・・・・・・・」

「龍王丸さまが、鷹じゃと、鷹の雛じゃといった」

「・・・・・・・」

「だからこれは鷹なんじゃ」

一つには、そんな事で文句を言って龍王丸を怒らせれば、またなにか意地悪をされるかもしれない。

それにもう一つ。

竹千代は立派な侍になりたい。

侍において最も大切なことは何か?

武勇や教養、品格よりも大切なのは、忠義であると竹千代は思う。

主君の言うことは絶対だ。

龍王丸は今川に義元の嫡子であり、次期今川の当主だ。

竹千代にとってはいずれ主人になる御方だ。

その龍王丸が白と言えば白、黒と言えば黒。

鷹と言えば、鷹なのだ。

「これは鷹じゃ、鷹の雛じゃ、それで良い」

そう言うと竹千代は鶴之助に視線を戻し、虫籠をから餌を出す様、目で指示する。

「・・・・・・・・・」

黙って険しい表情をしていた鶴之助は、いきなり虫籠をすて、鳥籠を掴む。

「竹千代さま、これは百舌鳥に御座います」

「だから鷹だと言うておろうが」

「いえ、百舌鳥です」

「龍王丸さまが・・・・・」

「それでも百舌鳥です」

強い口調で、鶴之助が言う。

「竹千代さま、たとえ龍王丸さまが、主人が何といようと間違っている事は、間違っておるのです」

「なんだと?」

強い口調で竹千代も言い返す、しかし鶴之助は止めない。

「主人が鹿を馬と言い、それを、はい馬です、と答えるのは、馬鹿にござる」

「ば、馬鹿だと」

「そんなもの忠義ではござらぬ、阿りでござる」

「黙れ」

竹千代は鶴之助に飛び掛かる、鶴之助はその場に倒れ、鳥籠が壊れる。

あっ、と言う間に雛が駕籠から逃げて、庭の松の木に止まる。

「捕まえろ」

竹千代は鶴之助に命じる、しかし鶴之助は黙って立ったまま動かない。

そのまま、雛は松の上から、何度か竹千代たちを見た後、飛んでいく。

「鶴之助」

怒りに震えて竹千代は、鶴之助を睨みつける。

いつの間にか戻ってきた七之助と又五郎が、何事かと顔を見合わせいる。

「なぜ、逃した?」

竹千代は鶴之助を怒鳴りつける。

「あれは百舌鳥ございます、だから逃げたのです」

静かな声で鶴之助が告げる。

確かにその通りだ、鷹の雛ではなく、百舌鳥のそれも成鳥なのだろう。

「そんな事は、どうでもよい」

竹千代は腕を振り回し 地団駄を踏む。

「龍王丸さまが・・・・・」

「竹千代さまは」

竹千代の言葉を遮り、鶴之助が強い口調で言う。

「いずれ我らの主人になるお方・・・・・・」

グッと強い視線で、鶴之助は竹千代を見つめる。

「そのお方が、百舌鳥を鷹だと偽ったり、誰かに阿ったりしては駄目なのです」

その言葉に、竹千代はカッとなる。

「黙れ」

そう言って、竹千代は鶴之助に殴りかかる。

「竹千代さま」

七之助と又五郎が、竹千代を抑える。

「だまれ、だまれ、だまれ、だまれ」

声が枯れるまで、竹千代は叫ぶ。

「わしが、偽りを言っておるだと、わしが阿っておるだと」

ゼイゼイと息をしながら、竹千代は言う。

「では、お前だどうだ?」

竹千代が鶴之助を指差す。

「お前など、怠け者の役立たずではないか」

「拙者何も、怠けてなどおりませぬ」

「黙れ」

ひときわ大きな竹千代の怒号が飛ぶ。

「何事だ?」

酒井小五郎忠次と高力与左衛門清長が、騒ぎを聞いて現れる。

「竹千代さま、何事でございます」

忠次は目が離れ、かわずの様な顔をしている。

「此奴が雛を逃した」

竹千代が怒鳴る。

「龍王丸さまからいただいた、雛を逃した」

「まことか、鶴之助?」

忠次が鶴之助に問う。

「あれは、鷹の雛ではございませぬ、百舌鳥ございます」

「黙れ、役立たず」

竹千代が暴れる、必死に七之助が止める。

「拙者の何が、役立たずでございますか?」

「父上の文は、なぜ来ぬ」

一段と大きく高い声で、竹千代が叫ぶ。

「何度も何度も、父上に文を書いた、返事をくださる様に何度も書いた」

七之助や又五郎と同じ様に、竹千代も文を書き、それを父に届ける様、鶴之助に渡している。

「なのにお前は、一度も父上の返事を持って来ぬ」

「・・・・・・・・・・」

表情のない顔で、黙って鶴之助は竹千代の言葉を聞く。

「ただの一度も・・・・・」

疲れて、悲しくて竹千代の声が小さくなる。

「父上の文を持って来ぬ」

忠次と清長も表情のない顔で、竹千代を見つめる。

「なぜ父上の文を持って来ぬ?」

目を瞑り顔を伏せている鶴之助に、竹千代は問う。

「なぜ一度も、持って来ぬ?」

「・・・・・・・・・・」

鶴之助はなにも答えない。

「この怠け者の役立たずめ」

何も答えない鶴之助から目をそらし、竹千代は七之助と又五郎に放すよう命じる。

「・・・・・拙者は」

竹千代が乱れた衣服を直していると、鶴之助が呟く。

「怠け者ではございませぬ」

なんだと、と言って、竹千代は鶴之助の方を再び見る。

「文が届かぬのは、お殿さまが」

「 鶴之助」

忠次の厳しい声が、鶴之助の言葉を遮る。

「なんじゃ?」

竹千代が問う。

「なんでもございませぬ、竹千代さま」

忠次が竹千代と鶴之助の間に入る。

「なんじゃ?父上がなんじゃ?」

「竹千代さま」

鶴之助に近づこうとする竹千代を、忠次が抑える。

「お殿さまは・・・・・・」

「言うてはならぬ」

「申せ」

忠次が遮るのを、竹千代が止める。

「・・・・・小五郎どの」

清長が忠次の肩を掴み、首を振る。

「お殿さまは、お亡くなりになりました」

鶴之助が顔を伏せて告げる。

「・・・・・・・・」

竹千代は放心する、鶴之助が何を言っているのか、まったく理解できなかったのだ。

「・・・・・なぜ、父上は文を返してくださらぬのじゃ?」

「ですから・・・・・」

意味が分からず、竹千代は呟く、鶴之助が震えながら答える。

「お殿さまは、亡くなっておるのです」

「ああっ、あああっ、ああああっ」

竹千代は身をよじる、ゼイゼイと息をする。

「竹千代さま」

「触るな」

忠次の手を、竹千代は払いのける。

「死んだ、父上が、死んだ」

父の優しく穏やかな顔を、竹千代は思い浮かべる。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ」

震えながら竹千代は絶叫する。

「嘘だ」

忠次の顔を見る、目を閉じ顔を伏せている。

「嘘だ」

清長の方を見る、細い目で、ジッと竹千代を見つめ、ただ黙っている。

「嘘だ」

七之助と又五郎の方を見る、彼らも知らなかったらしく、放心している。

「父上が死ぬわけがない」

竹千代は、鶴之助に視線を戻す。

「・・・・・まことにございます」

「嘘だ」

「竹千代さま」

鶴之助がしっかりとした眼差しで、竹千代を見る。

「まことにございます」

「嘘だ」

竹千代はその場に倒れる。

「なぜ、父上が死なねばならぬ」

理解できなかった、父が死ぬなどあり得ぬことだ。

「父上はどうして、死んだ?」

忠次に向かって竹千代は叫ぶ。

「それは・・・・・」

目を開き、忠次は意を決する。

「家中の岩松八弥という者が、乱心しお殿さまをいきなり刺したと・・・・」

「・・・・・・あっ、あああっ」

竹千代は息ができなくなる。

父が事もあろうに、家臣に殺されたというのである。

「竹千代さま」

息ができず喘いでいる竹千代を、七之助が助けようと駆け寄る。

しかしその手を竹千代は払いのける。

「嘘だ・・・・嘘だ」

そう呟きながら、竹千代の意識は薄れていく。




その後、竹千代は数日間寝込んだ。

戦から戻った今川義元が医者を寄越してくれた。

本来なら感激するところだが、今の竹千代には何も感じることが出来ない。

父が死んだ。

優しく、大好きだった父が死んだ。

駿府にいるのは、立派な侍になる為だ。

何故立派な侍になるのか?

そう父が望んだからだ、父と約束したからだ。

その父がもういない。

何の為に駿府居るのか、何の為に立派な侍になるのか。

竹千代には、もう全てがどうでもよくなった。

「若さま」

医者が去り、数日後、高力清長が寝所に来た。

「少しは、お食べください」

側に置いてある七之助が持って来た粥を、清長は見る、竹千代は全く手をつけていない。

「・・・・・・・」

竹千代は何も答えない、ただボォっと何もない宙を見ている。

「臨済寺の方から、また学問をしに来るようにと、使いが来ました」

清長の言葉は、もはや竹千代にはどうでも良い話だ。

「若さま・・・・・」

細い目を清長は少しだけ開く。

「お殿さまが、お父上さまが、もっとも望まれたことは、最期の望まれたことは、若さまが立派な侍になることです」

低く、しっかりした声で、清長は言う。

「その望み、叶えることが、何よりも供養になります」

グッと竹千代は手を握りしめる。

「若さまが立派な侍になれば、お父上さまは草葉の陰でお喜びになりましょう」

うっううっ、と竹千代は顔を伏せ唸る。



数日後、竹千代は臨済寺に向かった。

辛かった苦しかった。

それでも清長の言う通りだと思った。

父上との、大好きだった父上との約束なのだ。

立派な侍になる。

それだけを考え、臨済寺に向かった。

「おい、竹千代」

講義を終え、屋敷に帰ろうとした時、団子鼻の藤六が声をかけてきた。

黙って前に出ようとする七之助を、竹千代は止める。

「なんですか?」

「龍王丸さまがお呼びだ」

当然だ、それ以外の理由で藤六が竹千代に声を掛けるわけがない。

仕方なく、わかりました、と答え、寺の奥の竹藪に進む。

「待っておったぞ」

竹藪の中の開けたところ、そこにある岩に龍王丸は腰掛けていた、周りに七、八人、取り巻きがいる。

「お久しぶりです」

竹千代が頭を下げる。

「病であったらしいな」

「はい」

「もう、よいのか?」

「おかげさまをもちまして」

ニヤニヤ微笑みながら、龍王丸が尋ねてくる、竹千代は硬い表情で応じる。

「ところで竹千代」

「はい」

「わしの与えた鷹の雛は、げんきにしておるか?」

当然、その話だろうと、竹千代は覚悟していた。

覚悟はしていたが、どうすることもできない、ただ黙るしかない。

「黙っておっても、無駄じゃぞ」

龍王丸は、顎で団子鼻をさす。

「藤六の屋敷は、お前の処の裏手じゃな」

確かにその通りだ、団子鼻の藤六の家は、竹千代の裏手だ。

「数日前に、わしが与えた鷹の雛が、藤六の屋敷に入ってきたそうじゃ」

尊大に胸を張りながら、藤六は頷く。

「これはどういうことじゃ?竹千代」

謝るしかない、どうせ許されるとは思わないが、何度か殴られ、折檻すれば龍王丸も満足するだろう、そう思い、竹千代が頭を下げようとする。

するとその前に、七之助が飛び出す。

「申し訳ございませぬ、我らの不手際で、逃してしまいました」

七之助が、額を地に付け土下座をする。

ふん、と一つ鼻を鳴らし、龍王丸は藤六の方を見る。

「無礼者め」

藤六は伏せている七之助の襟を掴み、無理矢理起こすと、殴りつける。

「また者のくせに、龍王丸さまに口をきくなど、身の程を知れ」

数度殴ると藤六は、七之助を投げ飛ばす。

「申し訳ございませぬ」

投げ飛ばされた七之助は、その場に伏せて、更に謝る。

「おい、竹千代」

目を細めて龍王丸が尋ねる。

「そやつが申すことは、まことか?」

「申し訳ございませぬ」

竹千代はその場に伏して謝る。

龍王丸はゆっくり近づくと、手にしている青竹で、ピシャリと竹千代の背中を叩く。

「わしはおまえに命じたな」

ピシャリとまた、背を叩かれる。

「世話は家臣に任せ、おのれでしろと」

はい、と竹千代は謝る。

心の中で、七之助も余計な事をと思う、七之助にすれば竹千代を庇ったつもりだろうが、火に油を注ぐだけだ。

「なぜ、わしの命じたことを守らぬ?」

「申し訳ございませぬ」

ピシャリと今度は首筋を叩かれる。

「なんじゃ、耳が聞こえぬのか?」

龍王丸は屈んで、竹千代の耳元で言う。

「わしは、なぜ命令を守らぬのか、と訊いておるのじゃ?」

「申し訳ございませぬ」

竹千代はただただ謝るしか出来ないし、謝るしかする気もなかった。

辛かった、苦しかった。

それでも父を失った時の辛さに比べれば、何のことはない。

手や背を踏まれ、青竹で全身を叩かれた、それに対し、竹千代はただただ、申し訳ございませぬ、を繰り返すだけだ。

バッと龍王丸が地面を蹴る、砂が舞い顔にかかる。

「申し訳ございませぬ」

「・・・・・まったく」

ただただ謝るだけの竹千代に、龍王丸は飽きたのか、折檻を止める。

「三河の者つかえぬのぉ」

やっと終わったと、竹千代は安堵する。

「だから父親も、謀叛にあって死ぬのじゃ」

その時、竹千代の中で、何かが壊れた、何かが、音を立てて崩れ落ちた。

「もうよいわ」

龍王丸は、その場を去ろうとする。

「・・・・あれは・・・・」

「・・・・うん?」

竹千代の呟きに、龍王丸は足を止めて振り返る。

「鷹の雛ではありませぬ」

「なんじゃと?」

絞り出すように竹千代は声を上げる。

「百舌鳥でございます」

「な、なっ」

顔を上げ、竹千代は龍王丸をカッと睨む。

「あれは鷹ではありませぬ」

大きな声でハッキリと告げる。

「百舌鳥に御座います」

「な、何じゃと?」

顔を真っ赤にして龍王丸が、竹千代を睨み返す。

「竹千代、貴様」

「龍王丸さまが何と言われようと、あれは百舌鳥にございます」

竹千代の大声に、周囲の取り巻きたちも驚いて目を見張っている。

「ああ、そうじゃ、あれは百舌鳥じゃ」

甲高い声を上げ、龍王丸は竹千代に近づく。

「おまえのような、父なし児には、鷹なぞ勿体ない、百舌鳥で充分じゃ」

龍王丸は竹千代を見下ろす、竹千代は黙って龍王丸を睨みつける。

「なんじゃ、その目は」

ピシッと龍王丸は青竹で、竹千代の頬を打つ。

「主人であるわしに、その目はなんじゃ」

そう言って、もう一度龍王丸は青竹で竹千代を打とうとする、しかしそれを竹千代はパッと掴む。

「放さぬか」

必死に龍王丸は青竹を引っ張るが、竹千代はギュッと握りしめて、放さない。

「何をしておる、取り押さえろ」

龍王丸が取り巻きたちに命じる、慌てて彼らは、竹千代を抑えつける。

「まったく、とんでもない無礼者じゃ」

怒り狂った龍王丸が、差している小太刀に手をやる。

「手討ちにしてくれる」

えっ、と皆が驚く、取り巻きたちの抑える力も弱くなり、竹千代は逃げようと暴れる。

「しっかり、抑えぬか」

龍王丸に言われ、取り巻きたちは竹千代力一杯抑えつける。

小太刀を龍王丸が抜く、刃に反射した光が竹千代の目に入る。

頭に上っていた血が引き、全身が冷たくなる。

「竹千代さま」

七之助が竹千代を助けるため、駆け寄ろうとしたが、団子鼻の藤六に羽交い締めにされる。

「はぁはぁ、覚悟せい」

息を荒げながら龍王丸が言う。

顔を抑えられているので、竹千代には地面しか見えない。

クッと目を瞑る。

吉法師の姿が浮かぶ。

必ずわしが助けてやる。

吉法師の言葉が浮かぶ。

助けて下さい、助けて下さい、兄上。

竹千代は、心の底から吉法師を呼んだ。

「死ね」

その時。

「喝」

大きく低い重い声が辺りに響く。

あっ、と皆が声を上げる、取り巻きたちの力が緩み、竹千代は顔を上げる。

竹藪の入り口の方に、太原雪斎和尚が立っていた。

後ろに又五郎がいる、どうやら、又五郎が呼んできたらしい。

「これは、なんの騒ぎでございますか龍王丸さま」

ゆっくり雪斎は龍王丸に近づく。

「これは・・・・・」

雪斎から視線を逸らし、龍王丸は下を向く。

「此奴がわしに無礼を働いたので、手討ちに致すのじゃ」

小さな声で、龍王丸が言う。

「ほぉ、無礼ですか・・・・」

雪斎は、静かに問う。

「どのような無礼ですかな?」

「それは・・・・・・」

更に龍王丸の声が小さくなる。

「わしが与えた、鷹・・・・いや百舌鳥を竹千代が逃したのじゃ」

ハハハハハッと雪斎は笑う。

「これは異な事を仰る」

静かに雪斎は竹千代の方を見る。

「与えたのであれば、それは竹千代殿の物にござろう、それをどうしようと、竹千代殿の勝手でございましょう」

視線を龍王丸に戻し、違いますかな、と雪斎は言う。

「わしが与えたのじゃ」

カッとなって龍王丸の大声を上げる。

「主人であるわしが・・・・・」

言いかけて龍王丸は、雪斎の冷めた眼光に怯んで止める。

「・・・・・・・何度も申し上げておる事ですが」

雪斎は手を差し出す。

「竹千代殿も、他の子らも龍王丸さまの家臣では御座いませぬ」

龍王丸は、雪斎の差し出す手を無視する。

「皆、それぞれの父君が、御屋形様の徳を慕い、威に伏して、自ら主従を誓い、その証として、大事な嫡子を、御屋形様の元に送るのです」

そう言うと雪斎は、龍王丸の手から小太刀を奪い取る、龍王丸も抵抗はしない。

「皆、御屋形様を信じておるから、嫡子を送るのです」

雪斎は竹千代を抑えつけている取り巻きたちを見る、皆、慌てて竹千代を放す。

「その竹千代殿の傷つけるということは、諸将の御屋形様に対する信頼を傷つけるということであり、今川の家名を傷つけるということです」

竹千代は立ち上がり、雪斎と龍王丸を見つめる。

「お分りいただけましたかな?」

雪斎がそう言うと、クッと顔を上げ、龍王丸は雪斎を睨む。

「竹千代殿を、そして他の皆を従わせたいのであれば、御屋形様のように、徳を積み、威を備え、皆が従いたいと思うような御方になるよう、精進なされませ」

ギギギギッと歯軋りしていた龍王丸が、叫ぶ。

「そんなに私は、愚かで御座いますか?」

顔を真っ赤にして、龍王丸は叫び続ける。

「父上に比べ、そんなに私は愚かな息子ですか?」

その龍王丸の叫びを、静かな表情で雪斎は応じる。

「世の中、賢き者も愚かな者もおりませぬ」

雪斎は龍王丸の肩に優しく手を置く。

「己の意思で、正き行いをする者と、愚かな行いをする者がいるだけです」

そのこ居る子供らを見回し、雪斎は告げる。

「そして知恵とは、その行いが正しいか愚かか、見極める力に御座います」

雪斎は龍王丸に顔を近づける。

「お分りいただけましたか?」

グググッと小さく唸っていたが、龍王丸は雪斎の手を払いのけ、行くぞ、と言ってその場を去る。

取り巻きたちが、慌てて後を追う。

「まったく・・・・・・困った御方だ」

雪斎はそう呟いた後、竹千代の方を向く。

「少し、お話しいたしましょう」




「どうぞ」

雪斎は竹千代を自室に招き、茶を振る舞った。

「ありがとうございます」

竹千代は頭を下げて、茶を啜る。

苦い。

「竹千代殿は・・・・・・」

竹千代が茶の苦味に顔をしかめていると、雪斎が穏やかに喋る。

「辛抱強うございますなぁ」

えっ、と竹千代は首をかしげる。

「龍王丸さまに、何かされた他の者たちは皆、すぐに拙僧か御屋形様に言ってきます」

「あ、はぁ」

「それなのに竹千代殿は、何も言わず、ずっと耐えておられた」

ニコニコと微笑みながら、雪斎は言う。

「約束・・・・したので」

何故か思わず、竹千代は呟く。

「誰とでございますかな?」

「あ・・・・・・」

答えるべきか少し悩む、しかし雪斎の笑顔の前では、何故か自然と喋ってしまう。

「尾張の吉法師どのに御座います」

「尾張・・・・・・・」

雪斎が目を細める、あ、はい、と言って竹千代は思わず顔を伏せる。

言ってはいけない事なのだろうか?

迷ったが、再び雪斎が笑顔になって問うてくる。

「尾張の吉法師どのというのは、どの様な御仁でございますかな?」

それは・・・・・・と言って竹千代が、吉法師の話をし始める。

尾張を離れて、もう一年以上経つ、それに竹千代は話が上手くない。

話があっちに行ったりこっちに行ったりしながら、兎に角喋った。

途中何度か、吉法師の事を思わず兄上と、呼んでいたが、雪斎がニコニコ微笑みながら聴いているので、構わず続けた。

「吉法師どのは、自分を大将だと言っておりました、大将だから皆が従うと」

「ほぉ、皆は従っておりましたか?」

「はい、兄上が歩けば、皆が集まり、付いて行きました」

久し振りに吉法師の話をしていると、竹千代は嬉しくなった。

「なるほど吉法師どのは、まことに大した大将にござるな」

そう雪斎が言った時、竹千代は父のことを思い出した。

家臣に殺された父。

父上は、立派な大将ではなかったのか、立派な侍ではなかったのか。

「竹千代どの・・・・?」

暗い気持ちになり、竹千代が黙っていると、雪斎が声をかけてくる。

「あ、あの・・・・」

声を震わせ、竹千代は問う。

「どうすれば、御屋形様のような、立派な大将になれるのですか?」

「・・・・・・・・・」

しばらく竹千代を見つめた後、雪斎はふと庭の方を眺める。

そして静かに語り始める。

「御屋形様は、今川の嫡子ではございませんだした」

えっと竹千代は驚く。

「先々代御当主の五番目のお子であり、四つの時に仏門に入り、その後拙僧と共に京に上り、五山で御仏の教えを学んでありました」

「ま、まことにですか?」

「ええ」

竹千代には信じられなかった、今川義元は天下にその名が知れ渡っている大将であり、東海の国衆地侍は皆付き随っている駿府の御屋形様だ。

その義元が嫡子ではなく、その上、幼き日、僧であったなど思いもしなかったのである。

てっきり、元々今川の当主となる者として、幼き日より立派な大将になる修練を、積んでいたのだと思っていた。

「その後、家督を継がれた兄上が亡くなられ、他の御兄弟と家督を争い、家中の支持を得て、御当主になられたのです」

はぁ、と竹千代は呟き、コクリと頷く。

義元が仏門に入ったのは四つの時だと言う、ならば竹千代が父と別れた時より、二つも小さいわけだ。

父と別れた時、竹千代は寂しくて辛くて、どうしようもなかった、それなのに、それ以上の辛さを義元は味わっているのだ。

優しく微笑みかけ、菓子を与えてくれた義元のことを思い出し、竹千代は胸が熱くなった。

「幼き日、寺で過ごされた御屋形様は、何よりも律儀である事を心掛けておられました」

「律儀・・・・・・」

竹千代が繰り返すと、雪斎が頷く。

「他人を裏切らず、他人を欺かないということです」

静かに雪斎は呼びかける。

「竹千代どの」

ジッと雪斎は竹千代を見つめる。

「世の中とは、人の世でござる」

黙って竹千代も雪斎を見つめる。

「人の世とは人と人とが、関わることによって出来上がっているのです」

はい、と竹千代は頷く。

「その人と人とが関わってい出来上がっている世で、最も大切なことが、人に信じられるということでござる」

だからこそ、と言って雪斎は目を閉じる。

「律儀に生き、人に信頼されることが・・・・・」

ゆっくりと雪斎は目を開く。

「立派な侍になるのに、最も大切なことでござる」

竹千代は大きく目を開け、雪斎を見る。

雪斎は頷き、告げる。

「立派な侍になりたいのであれば、律儀に生きなされ」

「はい」

心の底から竹千代は返事をした。




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