第40話 感想のこと

 先日、詩の朗読を聴きに行きました。そこで初めて、現代詩の洗礼、みたいなものを受けたのです。洗礼と言うと大げさなんだろうけど、私にとっては、なかなか大変であったのです。平たく言えば「難解であった」。つまり、理解出来なくて、しかもちょっと反発したいような気分になった。


 ちゅうことで、主催者の日疋士郎ひびきしろう氏に色々「現代詩、難しくて分かんなかったです」「現代詩って、なんですか」などと食い下がる。めんどくさい観客ですよ、あたしゃ。


 そんなショッキングな詩を朗読した平川綾真智ひらかわあやまち氏の、他の文章を読むために「現代詩手帖・12月号」を購入。2860円(配送料別)也。


 それにしても、なんだろう。多様性、というのは、たぶん理屈では無いのだ。実践なんだろう、と思う。つまり、お互いに存在を「認める(高飛車だなあ)」のみならず、交流する苦痛も敢えて受ける。苦痛などと言うと、アレなんですが……じっさいもんだい、あるじゃないですか。ある種の苦痛というものが。自分の感性と違う何かを見た際の、ショックというものが。


 で、自分の感性と違うものに接した際の、ある種の「不快感」をどうするか。そのまま「私を不快に感じさせた相手」にそれをぶつけるのは、動物的反応ですね。悪くは無いが、問題はある。たぶん、確実に、喧嘩になるから。

 そもそも、私が感じた不快感の正体は何なのか。嫉妬か、劣等感か。そこいらへんがハッキリしないまま、相手に「不快だ」と投げつけていいのだろうか。だめだろうな、そんな事して恥かくのは、たぶん怒ってる方であって、怒られた方じゃあない。大抵の場合。


 というわけで私は、安易に、他人の作品に対する感想において「良くない点」を書かないのです。いや、書けないのです。良い点は、出し惜しみぜずに出します。しかし、何か引っ掛かるもの、悪い点というのは大体、自分の問題でもある場合があって……

 例えば、小学生の子供の日記に、本気でダメ出し、しますかね。しないでしょう。しかし、ガチで上手い文章を書く小学生の日記を見たら、どうか。重箱の隅を突っつくような、指摘をし始めないだろうか、私は。

 ここいらへんが、自分の問題、というものだと思うのです。


 対抗意識なんだろう。たぶん、敵対心・不快感の正体は。書いてある内容とか、そういうのはあんまり、関係無い。そういうのは(ときには巧妙に)後付けされた理屈にすぎない。何に対し、対抗意識を感じるか。それは、自分自身の問題。


 それ以外のは……大体、聞き流せちゃうんですよね。「ああ、そうなの」って。


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