第35話 我が名において言うに

 私なりの、物書きというものについて語ろうと思う。なぜかというと、そういう気分だからだ。

 まず初めに言えるのは、創造主としての物書き。ある物語や文章に関して、生殺与奪せいさつよだつの権限……というか、実際に、消すのも書きかえる事も可能なのは、作者しかいない。これは、単純にして明白な事実でしかない。従って、ある物語に関して作者は、創造主であるといえる。


 作者を創造主に例えたのは、旧約聖書の「ノアの箱舟」のエピソードに由来する。あの話は分かりやすい。創造主が、自分が作ったものを見て後悔し、全てを滅ぼす決意をするあたりが。物書きの中には、何度も世界を滅ぼした、という者も少なからずいるだろう。

 だけどまあ、なんだろなあ。殺すには惜しい存在といいますか、そういうのは、生きる事になる。またはどの作品においても、何度も蘇えらせられる。というか、滅ぼせないのかなあ。そのあたりは、作者によって、好みが分かれるんだろう。それが、作風というもんなんだろう。


 あるテーマをしつこいくらいに書くとき、それは作者のこだわりなんだろうと思う。そのこだわりは、作者自身をうんざりさせる事もあるんだろう。違うものを書こうとしても、何かしらそのこだわりが出てくる。それを見て他の物書きは「また同じような事書いて」などと、思うかもしれない。少なくとも私は、そんな風に感じる事もある。一瞬。

 ある作者の、次から次へとひねり出される小説の一話目から三話目くらいを読み終え「ハンコみたいに同じテンプレが使いまわされているなあ、こりゃあマンネリだな」とか思うのはまあ、普通の、読み方なんだろう。しかし、創造主としての物書き、という事情を汲むに、まあ、仕方が無いんだろう、と思う。


 変な話だけど、作者なんてただの人間だ。食べたり住んだり、生活というものがある。霞を食ったりしていない。ましてや、物語の中に、いたりしない。現実に生きている。


 とある残虐描写が激しい物語の作者は、どこかの飲食店で今日もお運びさんをやっていて……「動物を食べるのは残酷だ」という理由から肉を食べる事が出来ない、ヴィ-ガンかもしれない。もしくは、エロ描写でどこかの小説投稿サイトを追い出された変態作者がいたとして、その人は実は、フツーの小学生だった、とか。

 色んな想像をしてみるに、読者は物語に一喜一憂して楽しむ分には構わないんだけど、作者に「これはあんた酷いんじゃないのか」などと、言うのは野暮に思う。


 あとは、なんだろなあ。書いたものに関して、何か言われた時……わざわざ言う事でも無いと思っていたんだけど、そうだな。

 私の場合なんですがね。他人の事みたいに思う。「へえ」って。だけど、読者の感想にそんな対応してたら、社会不適応者のように言われるじゃないですか。何か。他の、そういう物書き見てても、そういう……


 いいと思うんですけどね、社会不適応とみなされる、作者って。民主主義といいますか、多数決の世の中ですよ。日本社会で生きていると、そうなんですよ。物書きというか、クリエイターだと思われる人の集まりですら、そういう傾向がある。これは、息苦しいです。ただでさえあちこちでいじめられて追い出されてきた人というのは、周囲に合わせるとか、何のために書いてるのか分かんなくなるでしょ。

 いいんじゃないですかね、こだわりが強いというか、空気読めないの。私はそういうの好きだなあ。善とか悪とかそういうもんで、縛り上げるのは惜しいと思う。


 だけど、一個だけ言わなくちゃならない事がある。これが肝心なんだ。物語に、作者なんていないんだ。読者の肝が冷えるようなホラーや体験談を、忙しい生活の中、隙間時間を使って書き終えた後、煎餅食ってから赤ん坊のオムツ替えて、深夜帰宅した旦那に「飯はまだか」などと言われ叩き起こされている、ヨレヨレの女がいたとして。そんな作者に「この展開はどうか」「あなた、頭おかしいですよ、こんな事書いて」とか言う奴はまあ、控えめに言ってだな。クソッタレだな、って、思うね。私は。それだけだなあ、今言いたい事って。


 

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