こんばんわ、きのこさん。
自分が物語を書くときでしょうか。
このきのこさんの文章を読ませていただきながら思ったのは、
やはり最低限書きながら考えているのは、自分自身が面白いとかの感情を解放できる、或いは欠けているものを埋めることのできる、
なんというか、自分自身の価値観に根ざすものを書いているのだと思うのですね。
ほかの人が共感してくれたり、楽しんでくれるなら、それも嬉しいし自分も楽しい。
だから、読んでくれる人がいれば、楽しんでくれるかなと考えて書いたりもします。
それは凄く楽しいことです(笑)
でも、そこから自分の価値観を除くことはできないのですね。それをすると自分が書いている物語では無くなってしまいますので。
自分が書く必要が無くなってしまうのです。
価値観は人それぞれですから、物語も千差万別で良いのかなと。アマチュア、趣味の作品であればです。
プロは、
他人に読んでいただくことを前提とした、お金を払っていただくものなら、また少し変わるのかなとも思えるのですね。
対価を払っていただく職人としての物語であるなら、時に個性、個人の価値観を殺して書く場合もあるかもしれません。
まあプロなら、その価値観を書いた上で面白く読ませるだろうと思っていますが(苦笑)
趣味の物語なら、ほんと、自分だけの興味、面白さで書けば十分なのかなとも考えることもあります。
読み手を自分一人だけとするなら、それでも構わないのかなと。
自分は本を、物語を読むのが好きなのですね。
もしも、ある物語が自分の欠けた穴を埋めてくれて、自分自身の思うことを、余すところ無く語ってくれる物語であるなら、そんな物語にに出会えたのなら、
自分は下手くそな物語など書かないで、その物語を繰り返し読み返しながら過ごしていると思います。
書くことは楽しいから、何かを書いているかもしれませんが、物語は書かないでしょう。
その物語がひとつあればいい。
でもたぶん、そんな物語は現実には無いし、実際に出会っていませんからね(笑)
だから自分で書くのかなと。
ちょっとそんなふうに思ったのですよ。
結局、自分が本当の意味で読みたい物語は、自分自身が読みたいと思うことを表現しながら、自分自身で書いてあげなければいけないのかなとね。
失礼しました。
長々と、ちょっと熱く語ってしまいました(苦笑)
作者からの返信
みなはらさん、読んでくださってありがとうございます!
何かちょっと近頃、ボヤキたくなる事があったもんでついこんな「書くことについて」って話をしてしまったんですが、まあ自分で言っててあんまりいいとは思えないという(;^ω^)
現実問題として、物語は生きていくのに必要かといったら、浅い意味では要らないと思うのです。特に書く事は。なぜかというと、優れた書き手を探してその人が書いたものを読んだ方がいいと思うからです。その方がよほど、自分で書くよりは楽だし。
だけど何で書くのかといえば、何でだろう。自分なりの「Final」を見たいからなのかもしれない。みなはらさんで言うところの「自分が本当の意味で読みたい物語」。
編集済
物語はただの捌け口。自慰行為ですね。
だから完結したあとにちょっとした燃えつきがあるのですよ。賢者タイムみたいに。
そういえば最近賢者タイムが酷くなって、ちょっと辛いです。一時間ぐらい虚無ってる。
でもやらないとダメなんですよね。彼女がいるから余計に……やりたい……。
生産性もなにもないのに、ただやりたいからやる。
辛くても面倒くさくても、他にどんなくだらないデメリットがあってもやる。
やっぱ僕の思う小説って、自慰行為だなぁ、と……。
それ以下でもそれ以上でもない。
詩やエッセイも同じですよ。
僕、Twitter始めてからその辺書かなくなりましたもん。
吐き出す方法が変わったら、すぐにやめちゃう。
物語は多分小説という捌け口しかないから、今後も続けていくだろうけど……。
作者からの返信
神谷そらさん、読んでくださってありがとうございます!
完結後の燃え尽きですかー。あると思いますよ、なんか。
自慰っていうのは、うん。一年前とか二年前のもの読み返すと、何でこんな仕上がりかなあ、っていうのはありますね。何かやっちゃった、っていう。ボヤキなどは、ほぼはけ口ですね。やった五秒後にはどうでもいいものになっている。
彼女がいるとそんな感じですか。若いと余計にそうなのかなあ。女性視点だと、「何で毎回やるんかな、まあいいけど」とか思っちゃうときもあるんですが。いや、何の話だ(;^ω^)