第24話 物語は作者にとって

 エッセイ、詩、ボヤキ、物語。書くことに関してつらつら考えるに、こう思う。

・エッセイ……意思表示。世に問うための手段。

・詩……感情・情緒の表現。

・ボヤキ……詩以前の愚痴。

・物語……生涯の友にもなりうる何か。書いてる最中はそれが何なのか気が付かない。


 ふと孤独に潰されそうになって読み返すのは自作だったりする。読み慣れた、好きな作家の自叙伝的小説すら読む気が起きないような時がある。そんな時は難しい言葉とか鼓舞するような言葉が入ってこない。素晴らしい表現や上手い話が全く響かないしどうにもダメな時というのがある。テンポよく読める簡単な言葉の羅列が目の前で滑っていくようなそんな日。詩ではだめだ、感情がついてこない。エッセイは尚更だめ、ああいうのは読み返すと自己嫌悪にしかならない。ボヤキなんか言ってる本人すら五秒後にはどうでも良くなる代物で……物語なのだ、やっぱり。


 何でそうなるのか、理由はよく分からない。ただ、自分の物語に向かって語りかけたり書き換えたり、それは作者にしかできない事だと思う。

 例えば未完の物語を残して作者がこの世を去った場合、よくあるのは「適格」とみなされた他作者がその物語を引き継ぐ事があるが、もはやそれは二次創作なんだろうと思う。例え引き継いだ人物がどれだけ上手く書いたとしてもだ。


 文章は、上手く書ければそれでいいのかというと、上手いに越したことは無いと思うけどそれだけだと何か、味気ない。少なくとも私にはそう思える。


 ある物書きの文章がおかしいという事で何か色々言われていて、相談を受けた事がある。一体どこがどうおかしいのか、感想を求められるたびに読み、率直に感想を告げた事もあるが、それ以前の感情として、悲しいというか、苦しくなった。一体、どういう経緯があって人の文章を一方的に価値無しと言えるのか。


 例えば、コンビニの揚げ物売り場。人気の商品はよく売れるから沢山発注され、実際あっという間に売り場から無くなる。売れ筋商品はそうして、定番化する。いや、売る前からそういう位置づけで商品名を決められ、そうなるべくしてそうなっているものがある。

 では、その他の商品はどうかというと、売り場の彩りなのだ。一定数を売り切ったら、新商品と入れ替わる。その商品のファンが「もうあの味無いんですか」と言ったところで、「すいません、もう無くなりました」と言うしかない。

 では、売れなくて毎日廃棄になっているような商品は、何なのだろう。企画者の悪ノリが過ぎた産物か。「何かこれ絶対ダメなやつだ」、そう言われながら、売り手として妙に記憶に残るのはこういう売れない商品。シーズンが一周して再登場したら「まただよ」と言いつつ面白がるのだ。酷いのになると、パッケージだけ入れ替えた別商品になっていたりするのには呆れるが、そういう「ゆるさ」が面白いのだ。


 物語というのも、発表の場に並んでみたらそういう面があるように思う。そして私は、売れ残って廃棄になっている商品に対し「価値無し」とは思わないのだ。ただ、ああ、売れ残ったなあ、人気が無いんだね、悲しいけどまあしょうがないか、だって不味いもんなあ、と思うのだ。事実として「美味しくない」とは思うけど、価値が無いとまでは思わない。なぜって、それが情緒だから。


 悲しい事だが、世の中の流れというのがあって、役に立たなければ価値が無い、劣っているのは良くない、というある種の何だろうなあ……あんまりこういう話はしたくないのだが……一つ言えるのは、人間を工業製品のように扱うのは間違っていると思う。いや、人間以外のもの全てに対して、どうでもいい扱いをするのは良くない事なのだ。まあ、こういう事を考え始めると生きているのが嫌になってしまうので、この辺でやめておこう。とりあえず、物語というのはある一面だけでは判断できない、思ったよりも複雑な代物であるという事を言いたかった。作者が誰であっても、何者で無くても。

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