支持者が居る人からの評価や感想というのは、ある意味怖いものがあります。
その人の言葉を指標とする支持者からの、集団による評価を受けてしまうこともあり得るということですから。
ただひとりからの言葉でさえ、時にキツいものですから、複数からの同じ言葉というのは考えたくもない事だと思います。
周りも、その流れに逆らうのは難しいですね。手を差しのべたくても、何とかしたくても出来ない。とても苦しく感じます。
影響力を持つ人は、無意識にでも感情を律することを覚えなければならない。少しだけそんなことを考えさせられました。
以前は、ネットの言葉は風に流すだけといったように考えていたのですけれど、
でも、消さない限り留まり続けるのですね。それに消したからといって本当に消えるものでもない。
自分のようなものの些末な言葉でも目にする人は居て、それが自分に返ってきたり、他人へ使われたりするのを見て、これは難しいと思いました。
言葉の使い方は考えなければいけないですね。物書きならなおさらですね。
作者からの返信
みなはらさん、読んでくださってありがとうございます!
そうですね、感情を律するというのは、周囲に対する影響力が大きい人ほど実践しないと……そういえば、皇族の方達って、カメラの前ではいつも笑顔ですよね、女性週刊誌で毎回ネタにされてるけど。記者に対して「お前、どこの週刊誌だ!」とかやってるの、見た事無いですもんね。よく考えたら凄い事だと思いますよ。
間違わない人間はいないと思うんですが、たまには考え直したり、振り返ってみたりする事も、必要かなあと思います。「自分はこうだ!」って、主張しつつも、「だけどそうかなあ」って感じで。
そういえば、エッセイ書くときは断定する言い方に、わざとしているのですよ。そうしないと、何言いたいのか分かんない文章になってしまうから。その分、感想欄でフォローするという。なので、反対意見はどんどん来て欲しいんですが、人が一生懸命書いてるのに茶化すような事書かれたりすると、イラっとして辛辣になる事もあったり(;^ω^) まだまだだなあと思います。
ネット小説の大半はアマチュアが書いたものですからねー。
好き嫌いを言うのはともかく、ね。
勉強は文庫本、暇潰しはネット小説、そんな感じですよ。僕は。
言うほど読んどらんけど。
一人の人間の言うことを真に受けて、自分で考えようとしないまさしくゾンビな奴が取り巻きとかになるんでしょうなぁ……。
信者と呼ばれる理由もなんか分かるわ。
まぁ、ゾンビな奴らはどこにでもいますね。
というか、みんなそんなもんだよ。
自分で物事を考えるって難しいから、楽な方に流れていってしまってる。
なんか話がズレてる気がする。
作者からの返信
ネコさん、読んでくださってありがとうございます!
たぶん、発信者は軽い気持ちでコメントしたんでしょうが、影響力があったのは否定できないと思いました。だからといって、誰が悪いって話ではないのですが、芥川龍之介の、「蜘蛛の糸」が思い浮かんだのです。
自分で考えないっていうのは、楽なのだと思います。疲れていると、楽をしたくて思考停止するので、なるべく疲れた状態を維持しないように、休息や楽しみが大事だなあと思います。
ネット小説は、無料の娯楽ですから、読む方は最高の暇つぶしを気楽に楽しめばいいのであって、作者に細かく注文をするのは、やめといたほうがいいなあと思いました。もしも批判をするのが趣味の人がいるならば、売れてる作家を相手に「買ったけど、楽しめなかった!」と、消費者として訴えればいいのだと思います。そんな風に思うくらい、何か心に引っかかる出来事でした。
編集済
蜘蛛の糸を掴んでいる時には振り返ってはいけない。
ふと、カンタダは芥川自身の投影でもあったのかも知れない、と思いました。創作地獄で藻掻き苦しむ亡者が見出したアイデア。縋り書き進めながら、ふとした亡者同士の会話で、或いは創作地獄を見渡した時に、この糸を見出し縋り付いているのは自分1人では無いと気付いた。気付いてしまった。
業深
【追記】お釈迦様は「創作神」の例えか、はたまた亡者たる自分を客観視する別の自分自身か。
作者からの返信
ROKUOさん、読んでくださってありがとうございます!
創作地獄、なるほど。昨今の創作界隈覗いて見てると、そういう風にも考えられますよね。何ていうか、書き続けること自体は特に「評価」されてなくても出来るのだけど、糸に掴まって、先頭を登っている時にふと下を見たら、っていう。そういう時に感じた、率直な本心というか。それを、書かずにはいられなかったのか。でも、それを書けるのは凄いですよね。そもそも、そういう気持ちを掴んで、文字にした上に物語にしてしまうという。お釈迦様が出てきたのは、せめてもの救いというか、持って行き場の無い苦しみを、自ら救うためなのか。