第16話 喧噪の予感
「先輩、もうお昼過ぎてますよ。そろそろご飯食べませんか?」
「え?」
――西暦2019年、4月16日。午後0時26分。
会計ソフトに送られてきた請求書の金額を入力していた私は、隣で電卓を叩いていた紬ちゃんにそう声を掛けられた。
目の前の作業に集中していた私は、時計の針がとっくに12時を回っていることに気が付かなかった。
周囲を見渡すと、自分の机に弁当を広げて食べている社員もいれば、席を立って3階の食堂へと向かう社員もいる。
そう言えば、今日は弁当じゃなくて食堂で食べるってセイヤに行ってきたんだった。それを思い出したと同時に、お腹がぐうと鳴った。
「ごめんごめん。気が付かなかったよ」
「先輩、すっごい集中してましたもんね」
「なにぶん数が多かったし、それに間違えられないからね。それじゃあ、今日は食堂いこっか」
私達は2人揃って席を立つと、経理室を出て階段を上がる。エレベーターもあるのだけれど、この時間帯は非常に混むし時間がかかるので、私たちはいつも階段を上って食堂に向かっている。
以前は試しにと思ってエレベーターを使ってみたけど、時間は掛かるしぎゅうぎゅう詰めになるし昼休憩の時間が減るしで散々だった。
おのれちくしょうめ。社会人の貴重な休憩時間を奪いやがってからに。
それ以来、私たちはお昼時のエレベーターは使用しないと心に決めているのだ。
ふと、気になって紬ちゃんを見上げる。
以前は気になっていた白髪交じりだった茶髪も、今ではすっかり元通りだ。あれほど病的だった肌の白さも今は落ち着いている。けれども、肌の透明感が増したように思えて、私はそれが気にかかる。
まるで。——そう、まるで、セイヤの肌にそっくりなように思えて。
私の視線に気が付いたのか、紬ちゃんがくるりと振り返ると、頬を膨らませた。
「むー。先輩、何見てるんですか?」
「う、ごめんね。いやその、紬ちゃん元気になったなって」
「元気になった? 私が?」
「うん。少し前に会社に来た時、肌も白いし髪も白髪が多かったから。体調崩したんじゃないかって心配してたんだよ」
そういうと、紬ちゃんはあー、と小さく呟くとばつが悪そうに視線を宙に彷徨わせる。
けれども、ぱっと笑顔になると、事も無げに私にこう言った。
「あ、生理です」
「止めなさいよこんな場所で言うの。絶対に違うでしょ。ちょっと川口、こっち振り向かないの。岸辺さん、口笛吹かないっ!」
結局私は私は階段を上りながら、紬ちゃんを叱りつつ男性陣に怒り、女性陣には苦笑いされる羽目になった。
おのれ、ちくしょうめえっ!
食堂はそれなりに賑わっていた。入り口に入ってすぐ、電子掲示板にはメニューと値段が表示されている。
今日の日替わりメニューは鰆の照り焼き定食と、チキンカツ煮定食。しかし、チキンカツ煮定食には赤い文字で『Sold Out』の文字が。
その下に表示されている春の桜エビを使ったかき揚げ蕎麦とどちらを取るべきか悩んでいると、紬ちゃんはもう何を食べるか決めたらしく、すいすいと進んでいく。
(んー……、どちらを取るべきか)
鰆も桜エビも今が旬。どちらも絶対に美味しいこと間違いない。うんうんと頭を悩ませること1分。私は鰆の照り焼き定食を選んだ。
トレーを取り、ご飯とお味噌汁を自分でよそってから、鰆の照り焼きを貰いに行く。小鉢とコーヒーコーナーでカフェラテを搔っ攫い、会計に進む。
社員証を翳して数秒。電子音と共に、決済完了しましたとアナウンスが流れる。
意気揚々と紬ちゃんが待っている席に向かうと、何やら不穏な雰囲気が漂っている。
はて、と思いながら紬ちゃんの隣を見ると、そこにはなんと私の片思いの相手である秋山征也さんと上司だという間島さんが座っていた。
「せ、せせせいやさん!? どうしたんですか?」
「ごめん、驚かせちゃったかな。でも、偶には一緒に食事でもどうかなと思ってね」
征也さんは眉尻を下げて申し訳なさそうにそう言ったが、しかしそれでも席を立つ気配を見せない。間島さんは面白そうに2人を眺めていて、止める気配を見せない。
隣の紬ちゃんを見ると、不機嫌まっしぐらな顔を隠しもせず、肘をついて征也さんを睨みつけていた。
「えっと、紬ちゃん? これはいったいどういう……?」
「聞いた通りですよ、先輩。
「そんなに不貞腐れた顔をするなよ。偶にはいいだろ?」
「良くないよ。せっかく先輩とお昼ご飯食べられるのに、なんであなたが混じってくるねん。しばき倒すぞ」
「しばき倒すて。あのなぁ、俺だって偶には誰かと食べたい時だってあるんだぞ」
おお、あの征也さんに媚び諂いもせず、真っ直ぐに意見をぶつけている。
そっと周囲を伺うと、苦笑する人や目を白黒させる人の他、明らかに嫉妬した
「まあ、驚くのも無理ないよね。でもね、営業部ではこの2人の関係性ばれてるんだよ」
「間島さん、お疲れ様です。そうなんですか?」
「うん。紬さんが入社した時、征也君とばったり会ってね。営業部のフロアで大喧嘩」
「……あー。そういえば」
そういえばそうだった。確かに、紬ちゃんは営業志望だったんだっけ。
入社して1年経ってから経理課に配属になったから、2人の関係は紬ちゃん経由でしか聞いてないんだよね。
何かと理由を付けて突っかかる紬ちゃんと、軽くいなしながら時折鋭い反論をぶつける征也さん。あーだこーだと言い合いを続ける両者は、傍から見ればじゃれつく恋人のようにも見えて。
微笑ましい気持ちになると同時に、胸にちくりと痛みが奔る。今、紬ちゃんの隣に居るのが私だったら、どれ程良かっただろうと。
(——バカバカしい)
昏い感情を真っ向から否定した私はその時、家で一人寂しくご飯を食べているであろうセイヤの事が頭に浮かんだ。
彼は今頃、何を食べているんだろう。
ベーコンと卵を使ったホットサンドだろうか?
それとも、最近ハマったというフィッシュアンドチップスだろうか?
彼の事だ。きっとまた通販番組を見ながら、気になった商品の構造や機能を自分が納得するまで調べ尽くすんだろうな。その容易に想像できた情景に頬が緩んだその時。
ふと、私はある事に気が付いて征也さんの顔を見つめた。
そう。征也さんにどこか似通った、セイヤの顔を。
厄災のアトリア まほろば @ich5da1huku
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