第9話 それは、予期せぬ邂逅
話をしよう。
例えば、あるアニメやゲームで恋人になりたい! 結婚したい! と、思える押しキャラが居たとする。もしも、そんな存在が唐突に目の前に現れたら、皆はどうするだろうか。きっと、絶叫したり固まったり、もしくはうれし涙を流したりと反応は様々だろう。
私? 決まっている。白目を剥いて口を開ける。これ以外にない。
何故、こんな例え話をしたのか。それは、ほんの数時間前に体験した、現実離れしすぎた出来事が関係している。
西暦2019年。4月3日。午前9時41分。
私は、住んでいるマンションから車で10分ほど離れた場所にあるスーパーマーケット『かしわばら』の、精肉コーナーに居た。
といっても、お目当ては、お肉ではない。その隣にある、卵が陳列された棚である。10個入りMサイズの卵パックが、なんと今日だけ102円に値引きされているのだ。しかも、お1人様2パックも!
卵は冷蔵庫に1パックまるごと残ってはいるのだが、使う料理はそれなりに多い。同居する人間もいる事だし、あるに越したことは無いだろう。
乗るしかない、このビッグチャンス。
タイムセールは45分からだから、もう少しだけ余裕があるのだけれど。私の周囲には、血眼で棚を睨みつける奥様達の姿が。
(あんた、若いんだから譲りなさいよっ!)
(おばさんこそ、譲りなさいよっ。若くないくせに、出しゃばらないで!)
(だれが若くないですって! 心は10代なんだからっ)
(ちくわぶ大納言)
(何が10代よ! 肌のハリとか髪の艶とか、私の方が断然上なんだから!)
(ちょっ、誰よ今の!?)
……ほうら見ろ、
奥の倉庫から出てきた若い店員さんなんて、生まれたての小鹿みたいに足を震わせている。
まあ、商品が繊細だから、取り合いになるなんて事態は無いと思うけど、それでも怖いものは仕方が無いよね。
若い店員さんは時計をチラリと確認すると、首からぶら下げたメガホンを口元までもっていき、声を張り上げてタイムセールの開始を告げた。
「えー。只今より、タイムセールを開始します。本日の商品は卵1パック102円。お1人様2パックまでとさせて頂きます」
只今より、の声が聞こえた途端、私は日頃から鍛えた脚力を駆使して卵の並んだ棚へと駆け寄る。そうして、互いにけん制し合って出遅れた奥様方より一歩先んじてお宝をゲットすることに成功した。
思いがけない収穫を手にした私は、意気揚々と当初の目的でもある野菜コーナーへと足を運ぶ。キャベツが1玉65円、人参4本入りが58円、もやしが1袋2円など、生産者の方々が不安になるぐらいの価格になっている野菜がてんこ盛りに置かれている。
こちらはまるで戦場のような有様になっているが、私はひらりひらりと避けながら目的の野菜を手に入れる。
人参、玉ねぎ、じゃが芋、アスパラガス、ほうれん草、もやし、大葉、etc。ちょうど1週間で使い切れそうな量の野菜をカゴにいれると、次はパンコーナーへ。
自家製のバターロールパンが、60個入り500円というのだから、これを手に入れないわけにはいかない。冷凍しておけば小腹が空いた時のおやつになるし、いざという時の食料にもなる。
幸い、最後の1袋が残っていたので、誰かに見つかる前にとこっそりカゴに入れた。
「ん、こんなもんかな。後は、醤油をと味噌を買って……っと!」
すっかり重くなったカゴを手にセルフレジへ向かおうとした矢先、不意に足が滑ってよろけた。
何事かと思って足元を覗いてみれば、床が少しだけ濡れていた。きっと、店員さんがマメに掃除をしてくれている証拠なんだろうけど、今は少しだけ恨めしい。
そうこうしているうちに体はどんどん傾いていく。何とか体勢を立て直そうと踏ん張ったけれど、片手に重いカゴを持っているせいで重心の安定しない体はどうにも抑えが利かなかった。
悲鳴を上げる間も無くて、私は来たる衝撃に備えて目を瞑った。けれども、いくら待っても痛みがやってこない。
恐る恐る目を開けると、真っ白いパーカーを羽織った長身の人が私の左腕をむんずと掴んでいた。
「……だいじょうぶか?」
「え。あ、ありがとうございます」
少しばかり高い、男性の声。なんとなく、セイヤに似ていた。
男の人はぐいと力を入れて私を引っ張り上げる。すらりとした外見とは裏腹に、込められた力は思った以上に強くて、そのギャップに驚く。
「すいません、助かりました」
「……」
「えっと、あのー?」
男の人は押し黙ったまま、私を見つめている。何か、気に障るようなことでもしてしまったのだろうか?
フードに隠れている所為で表情を窺い知ることは出来ないのが、余計に不安を煽る。
「あの――」
「……"
「え?」
それは、突然だった。
男の人が小声で何かの呪文を唱えた瞬間、周囲を行きかう人の動きがゆっくりになった。それと同時に世界からどんどん色が抜けていき、ピタリと静止すると同時に灰色の世界へと変貌した。
玩具を手にした子供も、カートを押すお爺さんも、お会計の列に並んで腕時計を見るスーツ姿の男の人も、みんな止まったまま動かない。
その異常な光景に、背筋が凍る。まるで、まるで、私以外の人間が魔法にでも掛かったみたいだ。
「おい」
「っ!」
急に聞こえた声に、びくりと体を震わせる。
そうだった。この現象を引き起こした張本人が、目の前にいるんだ。
私は震えそうになる足を気合で抑え込み、男と対峙する。
「な、なにか?」
「そう怯えるな。別に取って食おうって訳ではない」
「こんな状況にしておいて、よくそんな事が言えますね」
私の虚勢を知ってか知らずか、男は小さく鼻で笑うと手を頭に持っていく。
「貴女には、聞きたいことがあるだけだ」
「き、きじょ? 随分と畏まった物言いをしますね」
「アトリアという男を知っているか」
そう言ってフードを外した男は、今を時めくあの大人気アイドル、星也せいやその人だった。
次回の投稿は、3月13日(金)の22:30を予定しています。
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