第1話 体で払えって響きは、そこはかとなくいやらしい
西暦2019年、3月30日。午前10時17分。
私こと
なんとか動かそうと躍起になってパソコンを叩いてみたり、キーボードを出鱈目に叩いてみたりしているのだが、回復する兆しは一向にない。
それどころか、なんだかさっきから焦げ臭い匂いが漂い始めた気がする。
「あの~。深山せんぱい?」
後ろから恐る恐る話しかけてきたのは、私の後輩の
でもごめんね紬ちゃん。今は、あなたに構ってあげられる余裕はないの。
私は心の中で愛しの後輩に平謝りしながら、後ろを振り向くことなくパソコンを閉じたり開いたりをくり返していた。
「なにっ? いまちょっと忙しいから、なる早でお願いね」
「なんだか焦げ臭い匂いがするんですけど……」
あ、やっぱり私の気のせいじゃないらしい。
私は鼻をすんすん鳴らして匂いの発生源を辿ると、机の下、パソコンの電源ケーブルが埋まっている辺りからどうやら匂いが発生しているらしかった。
これはまずい。火事にでもなったら大ごとだし、原因が私ですなんて事になったらクビになってしまう。パソコンの電源を引っこ抜くべく、私はケーブルの根元を引っ掴んだ。
「――って、熱っ!!」
ガッと勢いよく掴んだ真っ黒いケーブルは、火傷するんじゃないかってくらい熱かった。
マジで無理。あんなのずっと触ってたら手がどうにかなっちゃうレベル。
パソコンは未だフリーズ中。そして、どんどん焦げ臭い匂いも強くなってきて、一番窓際にいる課長も何事かとパソコンの向こう側から顔を覗かせいている。
どうしようもなく途方に暮れていると、スーツを着こなした若い職員がぱっと私の隣にしゃがみ込み、ハンカチで覆った手で熱くなっているプラグを素早く抜き取った。
「うおっ、本当に熱い。手、大丈夫でしたか?」
「……あ。
助けてくれた男の人は、私の2年先輩で営業部の秋山征也さんその人だった。
まだ25才と若いけれど、営業部で重要な仕事を何件も任されている凄い人だ。そして、私が密かに恋心を抱く相手でもある。
「もう少し遅ければ、火が出てましたよ」
ほら、と言って、秋山先輩はハンカチに包まれたプラグを見せる。
ケーブルの先っぽ、プラグの部分は黒く変色していた。そこから金属の焦げたような匂いも漂っている。
どうやら、本当に不味い状況だったらしい。
「わ、真っ黒。って先輩、手は大丈夫ですか? それ、とっても熱いですよ?」
「大丈夫、と言いたいところだけど。ハンカチ越しでも凄く熱いね。取り敢えず、テーブルの上に置いていいかな?」
「どっ、どうぞ!」
私は書類やらファイルやらノートパソコンやらでごちゃごちゃになっている机をざっくばらんに片付けて、小さなスペースを作る。秋山先輩はハンカチごとケーブルをそこに置くと、掌を冷ますように何度か息を吹きかけた。
……うわ、可愛いかよ。
気付けば、私の周りにちょっとした人だかりができていた。そりゃそうだろう、会社の中で焦げ臭いがしたら、何事だって思うし。
「遥風さん、やっちゃいましたねー。これ弁償ですよ?」
「うえっ!? べべ別に、わざとやった訳じゃないし大丈夫でしょ。……多分」
ニヤニヤと意地の悪い笑顔を張り付けた紬ちゃんが、ここぞとばかりにからかってくる。
私は慌てて弁明するも、会社から借りているパソコン(付属品)を焦がしてしまったのは紛れもない事実。
私のやり取りを遠巻きに見ていた同じ部署の大先輩なんかも、やっちまったな~とか、これは弁償待ったなしですわ、とか勝手なことを思い思いに口にしている。
秋山先輩がフォローしてくれるかと期待してチラッと横を覗き見てみたが、先輩は苦笑するばかりで手を差し伸べる気配すらない。
「……ゴホン」
「!?」
唐突に背後から、非常に大きな咳払いが聞こえた。恐る恐る振り向くと、机に肘を付いて口の前で手を組むという、某有名アニメに出てくる司令官のようなポーズをした課長が、それはもうお怒りの表情でこちらを睨みつけていた。
「気は済んだかね」
「い、いやー。あのそのえっと、これは不慮の事故というか、なんというか――」
「深山くん、会議室に来たまえ」
「」
「それ以外の者は、仕事に戻りたまえ」
課長の言葉で集まっていた野次馬が一斉に散った。ある人は素早く席に着いてパソコンを叩き、ある人は外回りですと言ってフロアから足早に去っていった。
それは紬ちゃんと秋山先輩も例外ではなく、2人ともさっさと自分の仕事に戻ってしまった。その素早さたるや、忍者も真っ青である。
私はその後課長に有難いお説教を食らい、今年度最後にやらかした女性職員という不名誉な称号まで頂く羽目になった。
因みに、パソコンのフリーズは私が会議室でお説教を食らっている間、1年後輩の三間君(趣味・全国のご当地チャーハン巡り)が直してくれていた。結局、使用不能になった電源ケーブルのみ弁償という形で落ち着いたのが、せめてもの救いだった。
その日の夜。
私は紬ちゃんを連れて入った居酒屋で、大いに愚痴を零していた。
「ぁったくよー!! かちょーはろんだけ頭かたいんらよー!」
「ちょっと遥風さん、大声出さないでっ! うちの社員が居たらどうするんですかっ!」
「ああっ? 知ったこっちゃないよそんなのーっ! 紬ちゃんはどっちの味方なんらよー!」
酒の力を借りて罵詈雑言の限りを尽くす私を、紬ちゃんが慌てて制止する。
周りに誰がいるかなんて知った事か。どうせ私の不名誉な称号は会社中に広まっているんだ。明日からは、『昨年度の最後にやらかした女性職員』なんて言われるに決まっている。
課長には怒られるし、紬ちゃんには裏切られたし、秋山先輩は振り向いてもらえないし、今日は散々だ。
「少なくとも、今の遥風さんの味方にはなれませんよっ。ほら、もういい時間ですし、もう出ましょう?」
私は紬ちゃんの一言にムッと来た。これじゃあまるで、私が我儘みたいじゃない。年甲斐もなくダダこねてるって自覚はあるけど、少しくらい愚痴聞いてくれたっていいじゃない。
……ああ、思い出したら腹立ってきた。そもそも、今日の事件だってあのパソコン君がフリーズなんてしなければ、あんな大ごとにならなかったのに。
色々やった結果、ちょっとプラグを焦がしちゃっただけで、別に私が全部悪い訳じゃないもん! 多分!
「じゃあいいもん、1人で飲むから。店員さーん! カシスオレンジと生中追加で」
「まだ飲むんですか!? もう帰った方が良いんじゃ……」
私が追加のお酒を頼むと、紬ちゃんがぎょっとした目で私を見る。
「別に家に帰ったって1人だもん。紬ちゃんはいいよねー、猫ちゃんが居て」
紬ちゃんは、1人暮らしのマンションで猫と一緒に暮らしているのだ。ノルウェージャンフォレストキャットっていう種類で、名前はにゃんたろー。
紬ちゃんのインスタには猫との幸せな日常が度々UPされていて、それを見るたびに私も猫飼いたい! という衝動に悩まされる羽目になるのだ。
「まあ、にゃんたろーは可愛いですから。最近あの子、私が寝ていると胸に乗って来るんですよー。重いんですけど、それがまた幸せっていうか」
むかっ。
誰が誰の胸に乗るだと。私の目の前には、スーツ越しにはっきりとわかる巨乳が机の上に鎮座している。それに比べて、私の胸は小さくも無ければ大きくも無い。普通サイズの乳である。
このやろう、言うに事欠いて私の前で見せびらかすとは。その所業、到底許すことは出来ぬ。体で払ってもらおう。
私は唐揚げを一つ口に放り込むと、しゅばっと紬ちゃんの隣に座って肩を引き寄せ、その凶悪な胸部装甲に手を伸ばした。
……体で払ってもらうって響き、そこはかとなくエロいよね。
「きゃあっ! ちょっと遥風さん、くすぐったいですよっ!?」
「ぐへへ、良いではないか、よいではないかー」
「あーもうっ、遥風さん酔いすぎっ! もう帰りましょうよー!」
酒を運んできた若い店員が、私達の攻防に目を白黒させている。
4月1日が始まるまで、あと数時間。今年度最後の夜は、皆どこか浮かれ気分だった。それはきっと、新年度への期待だけじゃない。終わる年度への、寂寥感も含まれているからだろう。
夜も更けていく中、まだまだ活気を見せる店内に紬ちゃんの可愛らしい悲鳴が響き渡った。
次回の投稿は、12月6日(金)の21:30を予定しています。
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